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40.

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 王太子一行が四十階に到達した頃、マーシャはまだ三十八階を走っていた。
 五人の護衛は順番にアンナを背負いながら併走していたが、マーシャが息を乱して遅れだした。
「お嬢様、俺達が背負って走ります」
「ありがとう、でも大丈夫よ」
 三十五階まではそんな風に言っていられたが、三十八階に至るともはや言葉を喋ることすら不可能になり、呼吸が乱れ、肩で息をしながらよろよろと歩いていた。
 サラへの怒りで頑張っていたが、いつの間にか王太子一行の背中は見えず、敵のいなくなった進路だけが前方にあった。
 苦しい。
 息ができない。
 ぜいぜいと必死に酸素を取り込みながら、時折つまずきそうになると護衛に支えられ、それでもマーシャは歩いていた。
 三十八階に入ったばかりであり、冒険者が走れば五分で抜けられる階層も、ゆっくり歩いていれば二十分以上はかかる場所だ。
 待たせてやればいいじゃないか、と、マーシャは思う。
 知ったことか。
 こちらは追いつく為に頑張っているのだから、とやかく言われる筋合いはない。
 護衛の励ましを受けながら、少しずつ前へと進む。
 足を止めていないのだから、文句を言われることもない。
 そうだろう、と、半ば開き直る。
 だがあまりにも差が開きすぎた為か、掃除されたはずの道にうろうろと歩み寄っている魔獣が見えた。
 紫色の、豹のような魔獣であった。
 一頭現れると、二頭三頭と現れた。
 中心に一際大きな銀色の豹がおり、やばい、と思った時には気づかれていた。
「お、お嬢様、逃げて下さい!」
「い、いや、…ど、どうするの、どうすればいいのよ…!!」
「お嬢様!!」
 護衛がマーシャを守るように立ち塞がり、降ろされたアンナが駆け寄って来る。
 後ろに下がろうと引っ張られ、マーシャの足がもつれてアンナと共に地面に倒れ込む。
 三十一階から四十階は森林を模した作りになっており、木の根や倒木、斜面、生い茂った葉がそこら中にあって視界が悪く、薄暗い。
 苔蒸した土を掴んで後ろに下がろうとするが、一度力が抜けてしまってはもう立ち上がれなかった。
 ここは、マーシャが敵わない強敵がいる場所だった。
 護衛も、勝てるわけがない。
 にも関わらずマーシャを守ろうとしてくれて、襲いかかる二頭の豹に食いちぎられていた。
「いやぁあああああ!!!!!」
「きゃぁああああ!!!!」
 マーシャとアンナは声を限りに叫んだ。
 前に立っていた護衛二人の身体が千々に裂けて、肉片が飛んだ。
 三名の護衛が悲鳴を上げながらも、マーシャとアンナの身体を引き起こそうと引っ張っている。
 引きずられるように地面を滑ったが起き上がれず、豹は血塗れの口元を舐めながらゆっくりと近づいて来る。
 死を覚悟する程の余裕もなく、ただただ何故自分がこんな目に合わなければならないのか、という理不尽だけを噛みしめていた。
「お嬢様!!」
 アンナが叫んで、マーシャの身体に覆い被さる。
 マーシャは目を閉じた。
 豹の叫びが聞こえ、木々を倒す音が聞こえた。
 アンナの身体を抱きしめて震えていたが、やがて「お嬢様」と護衛に声をかけられ目を開けた。
「……なに…」
 アンナと共に身を起こした先には夥しい血と、豹の死骸。
 助かった、と思うと同時に、アンナが彼らに向かって叫んでいた。
「もっと早く助けに来なさい!!何をしていたの!!」
「…はあ…マジありえねぇわ」
 アンナの叫びは、ため息で返された。
 助けに来てくれたのは、忌々しいAランク冒険者三名だった。
 豹の死骸を回収し、後衛男が歩み寄る。
「怪我はないな。死んだのは護衛二名か。さっさとついて来ないから」
 全く感情を見せない言葉に、アンナがさらに声を荒らげる。
「何を言っているのです!?お嬢様を置いて行ったのはおまえ達でしょう!」
「…おまえにおまえって言われる筋合いないんだが?何様だおまえ。助けに来てやった俺達に礼もなく、何だおまえ?遅れたのはおまえらの都合であって俺らに関係ないだろう。証人のおまえらがいないと話にならないから仕方なく来てやったのに、何だおまえら?揃いも揃ってクズ揃いだなおまえら」
 一気に言葉を吐き出して、後衛男はもう用はないとばかりに離れていった。
 リーダー格の男と、後衛女に肩を叩かれ、照れくさそうに頭をかいているのが印象的だった。
「さっさと立てや。腐っても冒険者名乗ってんだろ。十階層走る体力もないくせにCランク名乗ってたのか。ああ、今はDランクだったな。走れないなら護衛にお姫様だっこでもしてもらえや。走れ。時間の無駄だ。王太子殿下を待たせるな」
 リーダー格の男はその場で言い捨て、先へ進もうとする。
 マーシャは慌てて男を呼び止めた。
「ま、待ちなさい!死んでしまった彼らの遺体を、連れて帰りたいの!どうすればいいかしら!?」
「…はあ?馬鹿か。…ああ、クズだったな。クズが。護衛が死んだのはてめぇがちんたらしてっからだ。てめぇのせいだ。なんとかしてぇならてめぇが担いで行けばいいんじゃねぇ?」
「な…?」
 あまりの暴言に、頭が理解を拒否していた。
 この男はなんて言ったのか。
「無礼な!お嬢様になんて口をきくのです!?」
 アンナが吼えるが、男は面倒くさそうに頭をかいていた。
「なぁ、王太子殿下を待たせるなって、俺は言った。それを聞いてなお、遺体を連れて帰りたいって、言うんだな?」
「…このまま放ってなんておけないわ。家族の元に帰してあげなければ」
「ちぎれ飛んだ肉片を回収して、連れて行きたいって、言うんだな?」
「…そ、そうよ」
「そうか。なら好きにしろ。俺達は戻る。証人は必要だが、別に俺達がいるからもういいだろ。王太子殿下にはきちんと伝えておいてやる。存分に回収しろ」
 三人はそう言って、歩いて行ってしまった。
 残された五人は、鬱蒼とした周囲の木々の揺れに、身体を震わせた。
「お、お嬢様。また魔獣が現れたら、我々ではお嬢様を守り切れません」
 護衛の一人がそう言うと、別の護衛も頷いた。
「先程の冒険者について行くのが得策かと」
「そんな、じゃぁ死んだ彼らをどうすればいいの?」
 マーシャが嘆くと、護衛達は口を噤む。
「…首だけでも連れて帰ってあげられないかしら…?」
 呟けば、護衛は互いに顔を見合わせた。
「お嬢様、首を二つ抱えて行くには、ここは危険です。せめてタグを」
「…タグ?」
「冒険者登録の際にもらえるタグのように、我々も名前や生年月日を刻んだタグを持っております。有事の際には、それを遺体の代わりに家族へと渡すのです」
「そんなものがあったのね」
「はい。遺体を連れて帰ってやるのが一番ですが、今回は難しいかと」
「…そう…そうね…」
「お嬢様、立てますか?」
 アンナが促し、マーシャは立ち上がるが、足が震えてすぐにしゃがみ込んでしまう。
「ごめんなさい、立てそうにないわ…」
「では我々が、背負って参ります。アンナ殿も」
「お願いするわね」
 遺体からタグを回収し、マーシャとアンナを背負った護衛が走り出す。
 直後に魔獣の声が聞こえ、振り返ると遺体に群がって貪り食っていた。
「…かわいそうに…」
 マーシャが呟き、アンナが黙祷する。
 三十八階を抜けると、通路に冒険者二名が立っていた。
「なんだ、回収は諦めたのか」
 男が声をかけてくるが、マーシャは睨みつけるだけで答えなかった。
「賢明だな。回収してたら今頃おまえら全員死んでたぜ」
 知っている。
 魔獣が遺体に群がっていた姿を思い出し、気分が悪くなった。
 答えないマーシャ達を気にすることなく、リーダー格の男と後衛女は通路を進み始めた。
 後衛男の姿がないことに気づいたが、気にすることでもない。
 駆け足で進んでいく彼らの後ろを、護衛が走ってついて行き、三十九階は何事もなく通過できた。
 四十階の広間前に到着したマーシャ達が見たものは、イスに腰掛け優雅にティータイムを楽しむ、王太子とクリス、そしてサラの姿だった。
 姿が見えなかった後衛男もそこにおり、共に座って茶を飲んでいた。
 王太子の護衛騎士は王太子の背後に立って控えていたが、あまりの光景にマーシャは冷静ではいられなかった。
 護衛の背中から降ろしてもらう時間ももどかしく、飛び降りるようにして、マーシャはサラの元へと足早に近づいた。
 王太子の護衛騎士が行く手を遮るように立ち塞がり、それ以上進めなくなったマーシャはたたらを踏んだが、サラを睨みつけることはやめなかった。
「サラ!!あなた何様のつもりなの!?」
「…何のことでしょうか」
 意味がわからないと言いたげに眉を寄せ、小首を傾げる。
 王太子に向け可愛く見えるように計算され尽くした仕草だとマーシャは思い、ますます苛立ちが募る。掴みかかろうと一歩前に出るが、護衛騎士の身体に阻まれ進めない。
「どきなさいよ!!」
 だが護衛騎士は両手を後ろで組み、無言のまま、己の身体でマーシャを阻む。
「邪魔よ!!」
 叫ぶが、壁はどかなかった。
「…見苦しい。遅れてやって来て謝罪もなく、何を騒ぐのか」
 王太子の声に、マーシャは一瞬冷静になる。
 護衛騎士を押しのけようとしていた手を取め、並ぶ護衛騎士の隙間から王太子を見るが、彼はティーカップを優雅に傾けていた。
 どう返すべきか迷っている間に、リーダー格の男と後衛女がテーブルへと歩み寄り、「お待たせして申し訳ありません」と頭を下げて謝罪をしていた。
「いや、こちらこそ手間をかけてしまった。どうもありがとう」
 カップをソーサーに戻し、王太子は礼を言った。
「役者は揃ったな。では始めようか、サラ嬢」
 王太子が立ち上がり、サラとクリスもまた立ち上がった。
「はい、殿下」
 涼しげな顔で殊勝に答えるサラが、憎かった。
 同じテーブルに着いて、茶を飲むことを許されている。
 何故、わたくしが許されなかったのに、不正の疑惑をかけられているおまえが座っているのか。
 怒りで目の前が真っ赤になるような感覚に囚われたが、かろうじて両拳を力一杯握り込むことで叫ぶのを耐えた。
「Aランク冒険者の三名には余計な仕事をさせてしまった。ボスを討伐するまで、イスに座って休憩していて欲しい」
「ご配慮感謝します」
 王太子達が退いた場所に、Aランク冒険者三名が恐縮したように腰掛ける。
 サラが、すかさず三人の前にカップを置いて、茶を淹れていた。
「どうもありがとう、お嬢さん」
 リーダー格の男が笑顔で礼を言い、サラもにこりと笑顔を返して頷いた。
 王太子はその場でサラを手招いて、歩み寄るサラを隣に立たせて場を見渡した。
「これからサラ嬢はソロでボスを討伐する。入るのは彼女一人。我々はここで待つ。…サラ嬢、討伐後、出口側の扉を開けてから、こちらの扉を開けて欲しい。何か準備は必要かい?」
 サラに問う王太子の声音は、穏やかで優しい。
 何故、わたくしに向けてくれないの。
 マーシャは再び怒りに震えた。
 サラは首を振り、「大丈夫です」と笑顔で返していた。
 忌々しい。
 王太子に媚びている。
 気に入られようとして、うっとうしい。
「そうか。ないとは思うが、もし危険になったら逃げるように」
「はい。では行って参ります」
 場を見渡してサラは一礼し、扉を開いて中へと入っていった。
 王太子とクリスは扉の前に立ち、護衛騎士は少し距離を開けて控えた。
 Aランク冒険者達はのんびりと腰掛け、余裕の表情で楽しげに会話をしている。
 こちらは護衛を二人も失って、満身創痍でここにいるのだった。
 
 誰も、気にかけてくれない。
 誰も、声をかけようとしない。
 
 テーブルもイスも、マーシャ一行は持っていなかった。
 ティーセットだって、持っていない。
 誰かが、マーシャにあのテーブルとイスを勧めるべきではないのか。
 自分の口からなど言えないし、言いたくなかった。
 侯爵令嬢としてのプライドがある。
 疲労はとうに限界を超えていた。
 今すぐベッドに飛び込んで寝てしまいたいくらいであった。
 だがここは家じゃない。
 他人もいる。
 筆頭侯爵家の者として、決して情けない姿は見せられないのだった。
「お嬢様、御髪を直してもよろしいですか?」
 横からそっと話しかけられ、はっとする。
 アンナが辛そうに眉を顰め、マーシャを見ていた。
「…乱れているかしら」
「少し。…ですがわたくしの手も汚れております。浄化魔法をかけて頂くことは可能でしょうか?」
 申し訳なさそうなその言葉に、マーシャは知らず己の姿を見下ろした。
 悲鳴を上げそうになるところを、寸でで飲み込み、我慢した。
 ひどい有様であった。
 侯爵令嬢としてあってはならない惨めな姿になっていた。
 身体中が葉っぱの緑と土、そしておそらく庇ってくれた護衛の血が至る所に飛んでいた。
 豹のような魔獣に襲われた時、地面を引きずられ、土を掻き、眼前で護衛を喪ったのだから当然といえば当然だったが、今の今まで気づくことすらなかった己の失態を恥じた。
「…ええ。すぐに」
 マーシャ自身とアンナに浄化魔法をかけ、汚れは綺麗に消え去った。
 この世界の魔法は素晴らしいと、思うのだった。
 綺麗になったアンナは礼を言い、「少しお待ち下さいませ」と言ってAランク冒険者達の元へと歩いて行った。
 様子を見ていると、どうやらマーシャが座れるように交渉してくれているようだった。
 アンナはなんて気がきいて、優しい人なのだろうと思う。
 いつもわたくしのことを第一に考えて、行動してくれるのだった。
 しばらく話していた様子だったが、アンナが声を荒らげた。
「まったく、あなた方には貴族家の令嬢を遇しようという気持ちがないのですか!?」
 交渉は上手くいかなかったのだと悟る。途端、足から力が抜けて、床に座り込んでしまった。
 侯爵令嬢としては、地べたに直接座るなどありえないことであったが、もう立っていられなかった。
「お嬢様…」
 護衛がすかさず跪き、心配そうに見てくるのが申し訳ない気持ちになった。
「ごめんなさい。はしたないとわかっているのだけれど、もう体力が限界なの」
「おいたわしい。せめてハンカチをお使いください。…あまり綺麗でなくて申し訳ないのですが」
「ありがとう。気持ちがとても嬉しいわ」
 ハンカチを敷いてもらった上に座り直してため息をつき、アンナを見る。
 アンナはこちらを見て目を見開き、彼らへと向き直って「侯爵令嬢でいらっしゃるお嬢様が、地面に直接お座りになるなんて、おいたわしいとは思わないのですか!?」と訴えているが、冒険者達は聞こえているのかいないのか、こちらを見ることもせず三人で会話をしている。
 あんな連中に慈悲を乞うだけ無駄なのだ。
 初めて会った時からずっと、失礼極まりない連中だったではないか。
 広間の方を見れば、王太子とクリスは扉の前で何かを話しており、こちらを気にする様子もない。
 わたくしが何をしたというのか。
 呼び出しを受けたから来ただけだ。
 十階層分走るのなら、最初から教えておいてくれれば良かったのだ。
 そうすればメイドを連れて来ることはなかったし、体力のある護衛に荷物を持たせて走らせることだってできたのだ。
 テーブルやイスを運んでくれていれば、わたくしは今座れていたはずだ。
 どうして誰も教えてくれないの。
 そもそも、何故走る必要があるのか理解ができなかった。
 野営するつもりはないと王太子は言ったけれども、まだ夕方にもなっていない。
 もっとゆっくりでも良かったはずだ。
 …これはわたくしが脱落するのを狙っていたのではないか。
 この様を見て、嘲笑う為に。
 そう考えると、サラはとんでもない腹黒だということだった。
 何も知らないという顔をして、裏でとんでもないことを企んでいるのだった。
 ひどい。
 ひどい。
 わたくしはヒロインを虐めたりしない、と誓っているのに。
 ヒロインが、わたくしを陥れようとするのだった。
 許せない。
 許せない。
 絶対に、なんとかしなければならない。
 最後に勝つのは、わたくしなのだから。
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