雨の日は坂の上のカフェで

桜坂詠恋

文字の大きさ
2 / 4

2: 雨の日は軒下を借りて

しおりを挟む
「クソッ」
 菊川政宗は、毒づいた。こんなに雨が酷くなるとは思いもしなかった。
 しかし、走り続けるしかこの雨から逃れる手はない。なぜあの時部屋に戻って傘を持って来なかったのか。後悔してもし切れない。
 必死に走っても、急な坂が急ぐ政宗を阻む。ブリーフケースを傘代わりにしているせいで、腕を振り切れない。そもそもスーツで、革靴だからと言うのもあるのだろう。
「はあっ、はあっ」
 自分の呼吸音と、バラバラと雨がブリーフケースを叩く音、革靴が濡れた地面を蹴る、バシャバシャと言う音がやたらと大きく聞こえる。
 やっとの思いで坂の頂上に差し掛かった時、菊川の胸で携帯の着信音が鳴った。
 こんな時にと舌打ちする。
 歩を緩め、濡れた手で胸ポケットに手を入れた政宗の目にメニューボードが留まった。
 坂の頂上、進行方向の左手である。どうやらカフェのようだが、こんなところにあっただろうか。
「とにかく助かった」
 菊川は急ぎ足でそこへと向かい、軒下を借りた。
「もしもし、菊川課長?」
 電話の相手は部下の筧だった。
「ああ、うん。ちょっと待って」
 言って、ハンカチで携帯を拭う。濡れた携帯が耳に当たって気持ち悪かった。
「ごめんごめん。どうした?」
「実は、今日の会議なんですけど、先方のご家族に感染症が出たらしくて。急遽ZOOMで頼めないかと」
「ああ、そうなんだ」
 一度は収束に向かったかと思われた感染症だったが、ここ最近またチラホラと感染者が出ている。
 家族に感染者が出たとあっては、彼方も取引先へ易々と向かう訳にも行かないだろう。
 それに──。
 菊川は自分のスーツを見た。ブリーフケースを傘代わりにしたところで、見事に濡れている。これは渡りに船かもしれない。
「それじゃあ、筧、ZOOM会議の段取りつけておいてもらえる? 俺はこのまま出先から参加するよ。アジェンダや資料だけ、悪いんだけどクラウドに上げてリンクを送っておいてくれるかな」
「了解しました」
 筧は有能な部下だ。直ぐに段取りをつけるだろう。
「あの……」
 鈴のような声に、菊川は振り返った。
 そこには小柄な女性が立っていた。
 緩いウエーブのかかったロングヘア。色白の丸顔に、小さな鼻と、対照的な大きな瞳。そしてそれを縁取る長いまつ毛はくるりと上を向いている。
「どうぞ、お店を開けますのでお入りになりませんか?」
「え……、あっ、でも……」
 短くメールの着信音が鳴った。筧からだ。もう段取りを付けたのだろう。これから自宅に戻っていては間に合わない。
「あの、僕濡れてて……」
「だからです。お風邪を召しますよ?」
 そう言うと、彼女は眉尻を下げ、少しだけ唇を窄めた。
 それを見て、菊川はぼんやりと、ああ、唇も小さくてかわいいな。などと考えていた。
「どうぞ」
「あ、はい」
 スーツの袖を引かれ、大人しく従う。
「うわ……」
 店内はコーヒーの香りで満ちていた。そして──
「飴色……」
 店内は飴色をしていた。
 昨今のコーヒーチェーン店のような洗練された店内とは違う、どこか昔の「喫茶店」の雰囲気を残したような、それでいてイギリスの古いカフェのような、独特の温かみと落ち着きがそこにはあった。
「今タオルをお持ちします。お好きな席にお座りになって」
「あ、いや、あの……」
「急がないと。会議なんでしょう?」
 そうだった。
 バタバタとブリーフケースからパソコンを出す。ケータイでデザリング出来るようにしてあるから、WI-Fiは不要だ。
 WEBに接続して資料を確認する。パソコンからメールにアクセス。
 筧から開始時間の連絡とZOOMのアドレスをチェック。
 そして時計を確認。開始まで30分あった。
 簡単にデモンストレーションをしておくべきかもしれない。相手に有無を言わさぬ勢いで契約を──
「どうぞ」
 目の前に温かいコーヒーと、柔らかそうなタオルがさしだされ、菊川は我に返った。
 芳しいコーヒーの香り。こんな芳醇な香りのコーヒーはこれまで出会ったことがなかったように思う。
 高ぶった神経が緩んでいくのが分かる。
「有難うございます」
 早速口をつける。
「ん! 美味い!」
「良かった。あ、それからこれ。亡くなった祖父のものなんですけど、濡れたスーツよりは……」
 そう言って彼女が持ってきたのは、仕立ての良い茶系のツイードの三揃いだった。
「いやしかし……」
「でも、ピンチですよね? とっても大事な会議なんでしょう?」
「えっ、何故それを?」
 菊川は驚いて彼女を見た。
 彼女はもじもじと視線を泳がせると、おずおずと口を開いた。
「その……、とっても怖い顔をなさってたから……」
 なるほど。それで顔がピクつき、肩が上がって痛かったのだ。何としてでも契約を取るという意気込みと緊張から、力み過ぎていた。
 菊川は、パンパンと頬を軽く叩くと、にっこりと笑った。
「どうかな? もう怖くない?」
「はい!」
「それじゃあ、お言葉に甘えて、お借りしようかな。あ……っと」
 ここにきて菊川は、親切な女性の名前をいまだ知らないことに気が付いた。
「名前を聞いても失礼にならないだろうか」
「希与です。希望の希に、与えると書きます」
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~

さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」 あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。 弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。 弟とは凄く仲が良いの! それはそれはものすごく‥‥‥ 「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」 そんな関係のあたしたち。 でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥ 「うそっ! お腹が出て来てる!?」 お姉ちゃんの秘密の悩みです。

ちょっと大人な物語はこちらです

神崎 未緒里
恋愛
本当にあった!?かもしれない ちょっと大人な短編物語集です。 日常に突然訪れる刺激的な体験。 少し非日常を覗いてみませんか? あなたにもこんな瞬間が訪れるかもしれませんよ? ※本作品ではGemini PRO、Pixai.artで作成した生成AI画像ならびに  Pixabay並びにUnsplshのロイヤリティフリーの画像を使用しています。 ※不定期更新です。 ※文章中の人物名・地名・年代・建物名・商品名・設定などはすべて架空のものです。

夫婦交換

山田森湖
恋愛
好奇心から始まった一週間の“夫婦交換”。そこで出会った新鮮なときめき

極上イケメン先生が秘密の溺愛教育に熱心です

朝陽七彩
恋愛
 私は。 「夕鶴、こっちにおいで」  現役の高校生だけど。 「ずっと夕鶴とこうしていたい」  担任の先生と。 「夕鶴を誰にも渡したくない」  付き合っています。  ♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡  神城夕鶴(かみしろ ゆづる)  軽音楽部の絶対的エース  飛鷹隼理(ひだか しゅんり)  アイドル的存在の超イケメン先生  ♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡  彼の名前は飛鷹隼理くん。  隼理くんは。 「夕鶴にこうしていいのは俺だけ」  そう言って……。 「そんなにも可愛い声を出されたら……俺、止められないよ」  そして隼理くんは……。  ……‼  しゅっ……隼理くん……っ。  そんなことをされたら……。  隼理くんと過ごす日々はドキドキとわくわくの連続。  ……だけど……。  え……。  誰……?  誰なの……?  その人はいったい誰なの、隼理くん。  ドキドキとわくわくの連続だった私に突如現れた隼理くんへの疑惑。  その疑惑は次第に大きくなり、私の心の中を不安でいっぱいにさせる。  でも。  でも訊けない。  隼理くんに直接訊くことなんて。  私にはできない。  私は。  私は、これから先、一体どうすればいいの……?

【完結】退職を伝えたら、無愛想な上司に囲われました〜逃げられると思ったのが間違いでした〜

来栖れいな
恋愛
逃げたかったのは、 疲れきった日々と、叶うはずのない憧れ――のはずだった。 無愛想で冷静な上司・東條崇雅。 その背中に、ただ静かに憧れを抱きながら、 仕事の重圧と、自分の想いの行き場に限界を感じて、私は退職を申し出た。 けれど―― そこから、彼の態度は変わり始めた。 苦手な仕事から外され、 負担を減らされ、 静かに、けれど確実に囲い込まれていく私。 「辞めるのは認めない」 そんな言葉すらないのに、 無言の圧力と、不器用な優しさが、私を縛りつけていく。 これは愛? それともただの執着? じれじれと、甘く、不器用に。 二人の距離は、静かに、でも確かに近づいていく――。 無愛想な上司に、心ごと囲い込まれる、じれじれ溺愛・執着オフィスラブ。 ※この物語はフィクションです。 登場する人物・団体・名称・出来事などはすべて架空であり、実在のものとは一切関係ありません。

彼の言いなりになってしまう私

守 秀斗
恋愛
マンションで同棲している山野井恭子(26才)と辻村弘(26才)。でも、最近、恭子は弘がやたら過激な行為をしてくると感じているのだが……。

極悪家庭教師の溺愛レッスン~悪魔な彼はお隣さん~

恵喜 どうこ
恋愛
「高校合格のお礼をくれない?」 そう言っておねだりしてきたのはお隣の家庭教師のお兄ちゃん。 私よりも10歳上のお兄ちゃんはずっと憧れの人だったんだけど、好きだという告白もないままに男女の関係に発展してしまった私は苦しくて、どうしようもなくて、彼の一挙手一投足にただ振り回されてしまっていた。 葵は私のことを本当はどう思ってるの? 私は葵のことをどう思ってるの? 意地悪なカテキョに翻弄されっぱなし。 こうなったら確かめなくちゃ! 葵の気持ちも、自分の気持ちも! だけど甘い誘惑が多すぎて―― ちょっぴりスパイスをきかせた大人の男と女子高生のラブストーリーです。

淫らな蜜に狂わされ

歌龍吟伶
恋愛
普段と変わらない日々は思わぬ形で終わりを迎える…突然の出会い、そして体も心も開かれた少女の人生録。 全体的に性的表現・性行為あり。 他所で知人限定公開していましたが、こちらに移しました。 全3話完結済みです。

処理中です...