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雨のにおい
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雨のにおいがした。
駅の構内から外を見ると、濡れた路面は仄かに街灯を反射し、まだ夜の余韻を残す空気に、静かな揺らぎを与えている。遠くで車のタイヤが水を弾く音がして、それがかえって、静けさを際立たせていた。
藤崎直樹は、目の下にくっきりとした隈をつけたまま、疲れたようにため息をついた。
濃紺のスーツは、湿気を含んだ空気にさらに重たく感じられ、ネクタイは首に巻きついた蛇のように、じっとりと肌に絡みついている。
スマートフォンの画面には、「05:03」という無機質な数字が淡々と時を刻んでいた。もうすぐ夜が明けるというのに、雨のため空はまだ深く曇っている。
会議資料の修正に追われて会社を出られたのがさっきだ。昨夜、残業終わりに上司の「やっぱり明日までで」という、一言で修正地獄に突入し、そのまま朝を迎えたのだ。
「……帰って、風呂、入って、寝る……」
頭の中で呪文のように繰り返しながら、直樹は停留所に流れるように止まったバスに乗り込んだ。
早朝のバスは、まるで時の止まった空間のようだった。車内の照明はぼんやりと薄暗く、窓の外は白んだ霧のような雨に包まれている。老人が二人、制服姿の学生が一人。乗客はそれだけだった。
座席はたくさん空いているので、直樹は搭乗口の段差を上がってすぐの席に座った。
座席に深く腰を沈めると、体が一気に重くなり、まぶたが落ちてきた。
微かなエンジンの振動と、静かな空間に徹夜明けの張り詰めた身体と精神が解されていく。
直樹の意識は、そう時間を置かずに途切れた。
カクンとバスが揺れた振動で、直樹はハッ目を覚ました。
キョロキョロと周りを見渡すと、いつの間にか他の乗客は居なくなっており、窓の外には見覚えのない住宅街が流れていた。
——乗り過ごした?
直樹は慌てて吊り革につかまり、次の停留所のボタンを押した。
しばらくすると、キィ、と軽い音を立ててバスが停まったので、直樹は足早に降りた。
傘を持っていないことに気づいたのは、頬に冷たいしずくが落ちたときだった。
見知らぬ通り。
家々は低く、昔ながらの瓦屋根が並んでいる。
ところどころに木造の看板が下がった、小さな商店らしき建物。まるで昭和の映画のワンシーンに紛れ込んだような、懐かしくも心細い空間。
「……参ったな」
知らない場所で、しかも雨が降っている。
ネクタイを緩めながら歩き出した直樹の視界の端に、古びた木製の看板が映った。
——『雨音書房』。
手書きのようなやわらかい文字で刻まれたその名。軒先に吊るされた風鈴が、濡れた風に揺れて、儚げにちりん、と鳴った。
店内から、ふんわりとあたたかな灯りが漏れていた。
(こんな早朝から店が空いているのか?)
不思議に思ったが、まるで誘われるように、その店に直樹は足を向けた。
扉には【定休日・営業時間:不定期】と書かれており、そのしたの札は【営業中】となっていた。
(定休日も営業時間も不定期なんだ……)
そういう店もあるんだなと直樹は思いながら、ドアに手を伸ばした。
チリンという鈴の音と共に、ドアがきぃ、と小さく軋む。
湿った木の香りと、古い紙のにおい。
背の低い本棚がぎっしりと壁を埋め、ところどころに古いポスターや、懐かしいしおりが差し込まれている。床は板張りで、歩けばぎし、と控えめに鳴く。まるで時間がゆっくりと流れているような、不思議な空間だった。
「いらっしゃいませ……」
奥から、やわらかな声がした。
現れたのは、一人の女性だった。
白いブラウスに紺のカーディガン。淡い栗色の髪は首の後ろでゆるく結ばれている。静かな目元は、長い夜の終わりに差し込んだ朝の光のように、どこかほっとさせるものを帯びていた。
「……雨、強くなってきたみたいですね。良かったら、拭いてください」
差し出されたのは、小さなタオル。干したてのようなやわらかい匂いがした。
「すみません、あの……雨宿り、してもいいですか?」
「もちろん。どうぞ。ここ、ちょっとだけ古いので、隙間風ありますけど」
彼女は、くすっと笑った。
その笑顔に、直樹は少しだけ、目の隈が和らぐような気がした。
駅の構内から外を見ると、濡れた路面は仄かに街灯を反射し、まだ夜の余韻を残す空気に、静かな揺らぎを与えている。遠くで車のタイヤが水を弾く音がして、それがかえって、静けさを際立たせていた。
藤崎直樹は、目の下にくっきりとした隈をつけたまま、疲れたようにため息をついた。
濃紺のスーツは、湿気を含んだ空気にさらに重たく感じられ、ネクタイは首に巻きついた蛇のように、じっとりと肌に絡みついている。
スマートフォンの画面には、「05:03」という無機質な数字が淡々と時を刻んでいた。もうすぐ夜が明けるというのに、雨のため空はまだ深く曇っている。
会議資料の修正に追われて会社を出られたのがさっきだ。昨夜、残業終わりに上司の「やっぱり明日までで」という、一言で修正地獄に突入し、そのまま朝を迎えたのだ。
「……帰って、風呂、入って、寝る……」
頭の中で呪文のように繰り返しながら、直樹は停留所に流れるように止まったバスに乗り込んだ。
早朝のバスは、まるで時の止まった空間のようだった。車内の照明はぼんやりと薄暗く、窓の外は白んだ霧のような雨に包まれている。老人が二人、制服姿の学生が一人。乗客はそれだけだった。
座席はたくさん空いているので、直樹は搭乗口の段差を上がってすぐの席に座った。
座席に深く腰を沈めると、体が一気に重くなり、まぶたが落ちてきた。
微かなエンジンの振動と、静かな空間に徹夜明けの張り詰めた身体と精神が解されていく。
直樹の意識は、そう時間を置かずに途切れた。
カクンとバスが揺れた振動で、直樹はハッ目を覚ました。
キョロキョロと周りを見渡すと、いつの間にか他の乗客は居なくなっており、窓の外には見覚えのない住宅街が流れていた。
——乗り過ごした?
直樹は慌てて吊り革につかまり、次の停留所のボタンを押した。
しばらくすると、キィ、と軽い音を立ててバスが停まったので、直樹は足早に降りた。
傘を持っていないことに気づいたのは、頬に冷たいしずくが落ちたときだった。
見知らぬ通り。
家々は低く、昔ながらの瓦屋根が並んでいる。
ところどころに木造の看板が下がった、小さな商店らしき建物。まるで昭和の映画のワンシーンに紛れ込んだような、懐かしくも心細い空間。
「……参ったな」
知らない場所で、しかも雨が降っている。
ネクタイを緩めながら歩き出した直樹の視界の端に、古びた木製の看板が映った。
——『雨音書房』。
手書きのようなやわらかい文字で刻まれたその名。軒先に吊るされた風鈴が、濡れた風に揺れて、儚げにちりん、と鳴った。
店内から、ふんわりとあたたかな灯りが漏れていた。
(こんな早朝から店が空いているのか?)
不思議に思ったが、まるで誘われるように、その店に直樹は足を向けた。
扉には【定休日・営業時間:不定期】と書かれており、そのしたの札は【営業中】となっていた。
(定休日も営業時間も不定期なんだ……)
そういう店もあるんだなと直樹は思いながら、ドアに手を伸ばした。
チリンという鈴の音と共に、ドアがきぃ、と小さく軋む。
湿った木の香りと、古い紙のにおい。
背の低い本棚がぎっしりと壁を埋め、ところどころに古いポスターや、懐かしいしおりが差し込まれている。床は板張りで、歩けばぎし、と控えめに鳴く。まるで時間がゆっくりと流れているような、不思議な空間だった。
「いらっしゃいませ……」
奥から、やわらかな声がした。
現れたのは、一人の女性だった。
白いブラウスに紺のカーディガン。淡い栗色の髪は首の後ろでゆるく結ばれている。静かな目元は、長い夜の終わりに差し込んだ朝の光のように、どこかほっとさせるものを帯びていた。
「……雨、強くなってきたみたいですね。良かったら、拭いてください」
差し出されたのは、小さなタオル。干したてのようなやわらかい匂いがした。
「すみません、あの……雨宿り、してもいいですか?」
「もちろん。どうぞ。ここ、ちょっとだけ古いので、隙間風ありますけど」
彼女は、くすっと笑った。
その笑顔に、直樹は少しだけ、目の隈が和らぐような気がした。
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