【完結】雨音にひそむ恋のはじまり

佐倉穂波

文字の大きさ
2 / 10

雨宿りの時間

しおりを挟む
 古本屋の中は、どこか時間の流れが外と違っていた。
 外では絶え間なく雨粒が屋根を叩いているはずなのに、この店の中では、それすらも柔らかな音楽のように耳に届いてくる。天井の木材や古びた窓枠が、雨音をまるく和らげていた。

 タオルで濡れた髪を拭きながら、直樹はゆっくりと店内を見渡した。
 木製の本棚はすべて腰ほどの高さで、どれも年季が入っている。薄く塗られたニスは所々剥がれ、角は丸く削れて滑らかになっていた。棚の木目には小さな傷やくぼみが無数に刻まれており、それが長い時の流れと、たくさんの手の温もりを感じさせる。

 背表紙の色褪せた文庫本がぎゅうぎゅうに並ぶ隣には、分厚い辞書のような文学全集、少し焼けた漫画本、そして童話の絵本までが混ざって置かれていた。まるでジャンルの壁を越えて、そこに“好きなもの”だけが集まっているようだった。

「……なんだか、懐かしいですね」

 直樹がぽつりとつぶやくと、カウンターの近くで文庫本を並べていた女性が顔を上げ、優しく微笑んだ。

「そう言ってもらえると嬉しいです。祖母がずっとやっている店なんです。私は、雨の日だけのお手伝いで」

 彼女の声は、雨音と同じくらい穏やかだった。
 “雨の日だけ”という言葉に、直樹が首を傾げると、女性は少し照れたように頬を指先で掻いた。

「不思議に思いますよね? でも、理由は単純なんです」
「おばあちゃん、晴れてると元気なんですよ。だから『晴れの日は私がやるから、お前は自分の事をしてなさい』って。でも、雨の日は足腰が冷えて動けなくなっちゃうから、代わりに私が来てるんです」

「なるほど」

 小さな疑問が解けて、直樹は自然に頷いた。
 ふと彼女の手元に目をやると、見覚えのある文庫本があった。表紙のイラストはすっかり擦り切れ、角も丸まっているが、それがかえって味わいを深めている。少し湿った紙の匂いが鼻先をくすぐり、過去の記憶をそっと呼び起こした。

「これ、昔読んだことあります。中学の頃、国語の先生が勧めてくれて」

「あ、それ……いいですよね。あの静かで優しい文章。私も大好きなんです」

 会話が途切れた後、店内に満ちたのは雨音と、ページをめくる小さな音だけだった。
 静かで、けれど決して寂しくない沈黙。まるでこの空間だけが雨の中に浮かぶ小さな島のように、別世界に感じられた。

 直樹は腕時計をちらりと確認する。午前六時半。会社から解放されてまだ二時間も経っていないというのに、まるで一日が終わったかのような心地だった。
 外ではまだ雨が静かに降り続けている。ガラス窓に伝うしずくが街灯の光を受けて揺れ、店の中に淡い影を落としていた。

「お名前、聞いてもいいですか?」

 直樹は、自然と口にしていた。唐突な問いかけだったが、不思議と彼女のことがもっと知りたくなった。
 この出会いに、何か意味があるのかもしれない。そう思ったのは、疲れきった頭のせいだけではなかった。

 その心配は杞憂だったようで、女性は穏やかにうなずいてくれる。

「私は佐々木紬って言います」

「綺麗な名前ですね。僕は藤崎直樹です」

 名乗ると、紬はふわりと小さく会釈した。
 彼女の所作は静かで、まるでこの古本屋に寄り添うような優しさがあった。雨の日の空気をまとったような、どこか儚げで、それでいて芯のある雰囲気。

「藤崎さんは、すごくお疲れみたいですね」

 その一言に、直樹は思わず苦笑いした。

「バレますか」

「ええ、なんとなく。目の下の隈が、少しだけ叫んでる気がして」

「それ、よく言われます……会社がちょっと、忙しくて」

「……忙しいのって、ずっと続くと、心が置いてきぼりになりますよね」

 ぽつりと告げられた言葉は、静かに、しかし確かに直樹の心の奥に触れた。

 紬が手を伸ばし、棚の一角から小さなティーセットを取り出す。
 白地に青い花模様のポットと、同じ柄のマグカップが二つ。注がれた紅茶から立ち上る湯気は、ほのかに甘い香りを含んでいた。紅茶の香りが、古紙の匂いと溶け合い、どこか懐かしい匂いになって店内を包む。

「お茶、飲みます? 雨の日は、体が冷えるので」

 差し出されたマグカップは、陶器の厚みがやさしく、手のひらに心地よいぬくもりを伝えてくる。

「ありがとうございます。いただきます」

 直樹は紅茶を一口含んだ。
 あたたかい液体が喉を通り、じんわりと体の芯まで染み渡っていく。思わず目を細める。
 温かさと、雨の音と、本の匂い。そして、隣にいる紬という不思議な女性――

 なんでもない、けれど確かに心がほどける瞬間だった。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

主人公の恋敵として夫に処刑される王妃として転生した私は夫になる男との結婚を阻止します

白雪の雫
ファンタジー
突然ですが質問です。 あなたは【真実の愛】を信じますか? そう聞かれたら私は『いいえ!』『No!』と答える。 だって・・・そうでしょ? ジュリアーノ王太子の(名目上の)父親である若かりし頃の陛下曰く「私と彼女は真実の愛で結ばれている」という何が何だか訳の分からない理屈で、婚約者だった大臣の姫ではなく平民の女を妃にしたのよ!? それだけではない。 何と平民から王妃になった女は庭師と不倫して不義の子を儲け、その不義の子ことジュリアーノは陛下が側室にも成れない身分の低い女が産んだ息子のユーリアを後宮に入れて妃のように扱っているのよーーーっ!!! 私とジュリアーノの結婚は王太子の後見になって欲しいと陛下から土下座をされてまで請われたもの。 それなのに・・・ジュリアーノは私を後宮の片隅に追いやりユーリアと毎晩「アッー!」をしている。 しかも! ジュリアーノはユーリアと「アッー!」をするにしてもベルフィーネという存在が邪魔という理由だけで、正式な王太子妃である私を車裂きの刑にしやがるのよ!!! マジかーーーっ!!! 前世は腐女子であるが会社では働く女性向けの商品開発に携わっていた私は【夢色の恋人達】というBLゲームの、悪役と位置づけられている王太子妃のベルフィーネに転生していたのよーーーっ!!! 思い付きで書いたので、ガバガバ設定+矛盾がある+ご都合主義。 世界観、建築物や衣装等は古代ギリシャ・ローマ神話、古代バビロニアをベースにしたファンタジー、ベルフィーネの一人称は『私』と書いて『わたくし』です。

【完結短編】ある公爵令嬢の結婚前日

のま
ファンタジー
クラリスはもうすぐ結婚式を控えた公爵令嬢。 ある日から人生が変わっていったことを思い出しながら自宅での最後のお茶会を楽しむ。

【完結】ジュリアはバツイチ人生を謳歌する

ariya
恋愛
エレン王国の名門貴族・アグリア伯爵家に嫁いだジュリア・アグリア(旧姓ベルティー)。 夫のアベル・アグリア伯爵は、騎士として王妃の護衛任務に没頭し、結婚翌日からほぼ別居状態。 社交界のパーティーでは妻のエスコートを代理人に任せ、父の葬儀にも顔を出さず、事務的な会話と手紙のやり取りだけの日々が続く。 ジュリアは8年間の冷遇に耐え抜いたが、ある朝の食事中、静かに切り出す。 「私たち、離婚しましょう」 アベルは絶句するが、ジュリアは淡々と不満を告げる。 どれも自分のしでかしたことにアベルは頭を抱える。 彼女はすでに離婚届と慰謝料の用意を済ませ、夫の仕事に理解を示さなかった「有責妻」として後腐れなく別れるつもりだった。 アベルは内心で反発しつつも、ジュリアの決意の固さに渋々サイン。 こうしてジュリア・アグリアは、伯爵夫人としての全てを置き去りにし、バツイチ人生を開始する。

次期国王様の寵愛を受けるいじめられっこの私と没落していくいじめっこの貴族令嬢

さら
恋愛
 名門公爵家の娘・レティシアは、幼い頃から“地味で鈍くさい”と同級生たちに嘲られ、社交界では笑い者にされてきた。中でも、侯爵令嬢セリーヌによる陰湿ないじめは日常茶飯事。誰も彼女を助けず、婚約の話も破談となり、レティシアは「無能な令嬢」として居場所を失っていく。  しかし、そんな彼女に運命の転機が訪れた。  王立学園での舞踏会の夜、次期国王アレクシス殿下が突然、レティシアの手を取り――「君が、私の隣にふさわしい」と告げたのだ。  戸惑う彼女をよそに、殿下は一途な想いを示し続け、やがてレティシアは“王妃教育”を受けながら、自らの力で未来を切り開いていく。いじめられっこだった少女は、人々の声に耳を傾け、改革を導く“知恵ある王妃”へと成長していくのだった。  一方、他人を見下し続けてきたセリーヌは、過去の行いが明るみに出て家の地位を失い、婚約者にも見放されて没落していく――。

「がっかりです」——その一言で終わる夫婦が、王宮にはある

柴田はつみ
恋愛
妃の席を踏みにじったのは令嬢——けれど妃の心を折ったのは、夫のたった一言だった 王太子妃リディアの唯一の安らぎは、王太子アーヴィンと交わす午後の茶会。だが新しく王宮に出入りする伯爵令嬢ミレーユは、妃の席に先に座り、殿下を私的に呼び、距離感のない振る舞いを重ねる。 リディアは王宮の礼節としてその場で正す——正しいはずだった。けれど夫は「リディア、そこまで言わなくても……」と、妃を止めた。 「わかりました。あなたには、がっかりです」 微笑んで去ったその日から、夫婦の茶会は終わる。沈黙の王宮で、言葉を失った王太子は、初めて“追う”ことを選ぶが——遅すぎた。

「お前を愛する事はない」を信じたので

あんど もあ
ファンタジー
「お前を愛することは無い。お前も私を愛するな。私からの愛を求めるな」 お互いの利益のために三年間の契約結婚をしたアヴェリンとロデリック。楽しく三年を過ごしたアヴェリンは屋敷を出ていこうとするのだが……。

お姫様は死に、魔女様は目覚めた

悠十
恋愛
 とある大国に、小さいけれど豊かな国の姫君が側妃として嫁いだ。  しかし、離宮に案内されるも、離宮には侍女も衛兵も居ない。ベルを鳴らしても、人を呼んでも誰も来ず、姫君は長旅の疲れから眠り込んでしまう。  そして、深夜、姫君は目覚め、体の不調を感じた。そのまま気を失い、三度目覚め、三度気を失い、そして…… 「あ、あれ? えっ、なんで私、前の体に戻ってるわけ?」  姫君だった少女は、前世の魔女の体に魂が戻ってきていた。 「えっ、まさか、あのまま死んだ⁉」  魔女は慌てて遠見の水晶を覗き込む。自分の――姫君の体は、嫁いだ大国はいったいどうなっているのか知るために……

令嬢失格な私なので

あんど もあ
ファンタジー
貴族の令息令嬢が学ぶ王都学園。 そこのカースト最下位と思われている寮生の中でも、最も令嬢らしからぬディアナ。 しかしその正体は……。

処理中です...