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雨のたびに
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それから、直樹は雨の日になると、「雨音書房」のことを思い出すようになった。
初めて訪れたあの日から数週間。仕事の忙しさに変わりはなかったが、不思議と気持ちは前より軽くなっていた。
朝、目覚めてカーテンを開けると、灰色の空が広がり、窓ガラスを静かに叩く雨粒が目に入る。かつてならため息をついていた光景が、今では胸の奥にそっと灯りをともすような、あたたかさをくれる。
そんな感覚は、もう何年も忘れていたものだった。
偶然だったはずの雨宿りが、直樹にとって「救い」に近い意味を持ち始めていた。
*
「こんにちは、藤崎さん」
「こんにちは、佐々木さん。今日も、雨ですね」
チリンと小さな鈴がドアの上で揺れる音が、木造の店内に優しく響く。
店の中はほんのりと紅茶の香りが漂い、柔らかな電球の灯りが古い本の背表紙を照らしている。時間が少しだけ遅れて流れているような、そんな空気があった。
少し照れくさく、けれど自然に交わされる挨拶。
もう三度目の訪問だった。
実は、いつも降りるバス停から30分くらい離れた場所であり、見知らぬ場所だと思っていた場所はそこまで遠くではなかったのだ。
紬はあいかわらず静かに微笑み、直樹の入ってきたドアの音を聞いて、カウンターから顔を上げた。窓辺の外は相変わらずの雨。粒の大きな雨が軒先のトタンを打ち、まるで静かな音楽のように流れている。
「お仕事、大丈夫ですか?」
「まあ、なんとか……ギリギリで人間やってます」
「ふふ、ギリギリでも立派ですよ」
やりとりの端々に滲む、彼女のやさしさが、直樹の心に静かに沁みていく。
この店では、不思議と会話に力を入れなくてもよかった。
無理に笑う必要も、空気を読んで気を遣う必要もなかった。
木の床は少し軋むけれど、その音さえも居心地の良さを感じさせた。
紬は、必要以上に踏み込まず、でもいつも寄り添うような距離感でいてくれる。
まるで、そっと差し出された毛布のように、寒さに震える心にぬくもりを与えてくれる存在だった。
そんな彼女に、直樹は少しずつ自分のことを話すようになっていた。
大学を出て、初めて入社した会社が思っていたよりも過酷だったこと。
「若いうちは根性」と言われ、休日もろくに取れずに働いてきたこと。
気がつけば、夢も趣味も置き去りになっていたこと。
「気づいたら、笑うのが下手になってました。誰かと話してても、反射で笑ってるだけで」
「……分かる気がします」
紬は、ぽつりと言った。
「私も……ちょっとだけ、そうだったかもしれません。大学を出て、しばらく別の仕事をしていたんです。でも、いろいろあって辞めて。戻ってきたら、おばあちゃんが言ってくれました。『本に囲まれて、好きにしてなさい』って」
彼女の目が、少しだけ遠くを見るような表情になる。
窓の外に揺れる街路樹の影が、ほんのりとカウンターに映り、静けさを一層深めていた。
「だから、ここにいると……息ができるんです。私にとって、ここが居場所になったから」
「居場所、か……」
直樹は、ゆっくりと視線を本棚に移した。
古びた木製の本棚には、背の色あせた文庫本や、子どもの頃に読んだ童話のハードカバー、どこかの誰かの思い出が詰まっているような本たちが、静かに並んでいる。
読んだことのある本も、初めて見る本も、不思議とこの店の中ではすべてが馴染んでいた。
雨音が、店の奥までやさしく届く。
その音に包まれながら、直樹は心の奥に積もっていた疲れが、少しずつ溶けていくのを感じていた。
「……また来てもいいですか?」
「もちろんです」
紬はそう言って、ティーポットから湯気を立てて紅茶を注いでくれた。
陶器のカップに広がる淡い琥珀色。
小さな蒸気の向こう、彼女の笑顔は雨の中の光のように柔らかかった。
初めて訪れたあの日から数週間。仕事の忙しさに変わりはなかったが、不思議と気持ちは前より軽くなっていた。
朝、目覚めてカーテンを開けると、灰色の空が広がり、窓ガラスを静かに叩く雨粒が目に入る。かつてならため息をついていた光景が、今では胸の奥にそっと灯りをともすような、あたたかさをくれる。
そんな感覚は、もう何年も忘れていたものだった。
偶然だったはずの雨宿りが、直樹にとって「救い」に近い意味を持ち始めていた。
*
「こんにちは、藤崎さん」
「こんにちは、佐々木さん。今日も、雨ですね」
チリンと小さな鈴がドアの上で揺れる音が、木造の店内に優しく響く。
店の中はほんのりと紅茶の香りが漂い、柔らかな電球の灯りが古い本の背表紙を照らしている。時間が少しだけ遅れて流れているような、そんな空気があった。
少し照れくさく、けれど自然に交わされる挨拶。
もう三度目の訪問だった。
実は、いつも降りるバス停から30分くらい離れた場所であり、見知らぬ場所だと思っていた場所はそこまで遠くではなかったのだ。
紬はあいかわらず静かに微笑み、直樹の入ってきたドアの音を聞いて、カウンターから顔を上げた。窓辺の外は相変わらずの雨。粒の大きな雨が軒先のトタンを打ち、まるで静かな音楽のように流れている。
「お仕事、大丈夫ですか?」
「まあ、なんとか……ギリギリで人間やってます」
「ふふ、ギリギリでも立派ですよ」
やりとりの端々に滲む、彼女のやさしさが、直樹の心に静かに沁みていく。
この店では、不思議と会話に力を入れなくてもよかった。
無理に笑う必要も、空気を読んで気を遣う必要もなかった。
木の床は少し軋むけれど、その音さえも居心地の良さを感じさせた。
紬は、必要以上に踏み込まず、でもいつも寄り添うような距離感でいてくれる。
まるで、そっと差し出された毛布のように、寒さに震える心にぬくもりを与えてくれる存在だった。
そんな彼女に、直樹は少しずつ自分のことを話すようになっていた。
大学を出て、初めて入社した会社が思っていたよりも過酷だったこと。
「若いうちは根性」と言われ、休日もろくに取れずに働いてきたこと。
気がつけば、夢も趣味も置き去りになっていたこと。
「気づいたら、笑うのが下手になってました。誰かと話してても、反射で笑ってるだけで」
「……分かる気がします」
紬は、ぽつりと言った。
「私も……ちょっとだけ、そうだったかもしれません。大学を出て、しばらく別の仕事をしていたんです。でも、いろいろあって辞めて。戻ってきたら、おばあちゃんが言ってくれました。『本に囲まれて、好きにしてなさい』って」
彼女の目が、少しだけ遠くを見るような表情になる。
窓の外に揺れる街路樹の影が、ほんのりとカウンターに映り、静けさを一層深めていた。
「だから、ここにいると……息ができるんです。私にとって、ここが居場所になったから」
「居場所、か……」
直樹は、ゆっくりと視線を本棚に移した。
古びた木製の本棚には、背の色あせた文庫本や、子どもの頃に読んだ童話のハードカバー、どこかの誰かの思い出が詰まっているような本たちが、静かに並んでいる。
読んだことのある本も、初めて見る本も、不思議とこの店の中ではすべてが馴染んでいた。
雨音が、店の奥までやさしく届く。
その音に包まれながら、直樹は心の奥に積もっていた疲れが、少しずつ溶けていくのを感じていた。
「……また来てもいいですか?」
「もちろんです」
紬はそう言って、ティーポットから湯気を立てて紅茶を注いでくれた。
陶器のカップに広がる淡い琥珀色。
小さな蒸気の向こう、彼女の笑顔は雨の中の光のように柔らかかった。
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