【完結】雨音にひそむ恋のはじまり

佐倉穂波

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晴れの日のこと

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 その日は、空が澄みわたっていた。

 高い青空に白い雲がゆっくりと流れ、どこまでも遠く、清々しい風が街を吹き抜けていく。街路樹の新緑は太陽の光を受けてきらきらと輝き、木漏れ日がアスファルトの歩道にやわらかな影を落としていた。どこかから風に乗って漂ってくる花の香りが、初夏の訪れをそっと知らせている。

 直樹は、昼ごはんを買いにコンビニへと向かっていた。 いつもなら足早に通り過ぎていた通勤路。けれど今は、空を見上げ、木々を眺め、風の音に耳を澄ませる余裕があった。
 今までだったら、こんな風に景色に目を向ける余裕はなかっただろう。気が付けば季節が移ろいでいるような生活を送っていたのだから。

 こんな風に景色を感じる心のゆとりが出来たのは、間違いなく『雨音書房』で紬と出会ってからだった。
 古い木の扉と、雨の匂いが混じった紙の香り。柔らかな灯りの下で、静かに本を愛するあの人。まだ雨の日に数回しか会ったことのない女性。だけど、確実に直樹の中で紬の存在は大きくなっていた。

(今度は、いつ雨が降るんだろう)
 そんな事を考えてしまうほどだ。

「……藤崎さん?」

 聞き覚えのある、やわらかく響く声が、背中越しにかかった。

 驚いて振り返ると、そこには紬が立っていた。 
 濃い青のワンピースに、ベージュの薄手のカーディガン。柔らかな陽射しがその肩に降りそそぎ、髪は緩やかにまとめられ、風に揺れている。
 いつもの落ち着いた雰囲気ながらも、どこか晴れの日に似合う軽やかさがあった。

「え?佐々木さん? なんで……ここに?」  
 紬のことを考えていたら、その彼女から声を掛けられて、直樹は驚き目を丸くして尋ねた。

 紬は、少し照れたように笑う。

「この近くにある出版社に、用事があって……ちょっとだけ打ち合わせに来てたんです」

「出版社?」

「はい。実は、私……小説を書いていて。それを今度、本にしてもらえることになって」

 ふわっとした笑顔とは裏腹に、その言葉には緊張と小さな誇らしさが混じっていた。

 直樹は驚いて、思わず声を漏らす。

「え、小説家……だったんですか?!」

「本業というほどじゃないんですけど……大学の頃から細々と書いてて。最近ようやく、小さなレーベルで本にしてもらえることになったんです」

「すごいじゃないですか……! 読んでみたいです。どんな話なんですか?」

「……内緒です」

 紬は「知っている人に読まれるのは、まだ恥ずかしいので」と笑って、少しだけ頬を赤らめた。

 その微笑みを見た直樹の胸の奥が、きゅっと締めつけられる。
 それは痛みではなく、まっすぐな線で心の中心に届くような、あたたかい感情だった。



 二人は自然と並んで歩き出した。会社の昼休みが限られていることは分かっていたけれど、不思議と急ぐ気にはなれなかった。

 歩道には、通り過ぎる人々の影と、揺れる緑の木漏れ日が重なっている。どこからか子どもの笑い声が聞こえてきて、遠くでは風鈴の音がかすかに鳴った。

「晴れの日に佐々木さんに会うのは、なんだか新鮮ですね」

「そうですね。私も、こんなところで藤崎さんとあえると思ってなかったので驚きました」
 小さな笑いが二人の間をつなぐ。
 傘はない。
 雨音もない。
 けれど、今日というこの晴れの日にも、ちゃんと“特別”があった。

 信号待ちで足を止めたとき、ふと紬が小さく口を開いた。

「雨じゃなくても、会えたの、うれしいです」

 直樹は一瞬、言葉を失った。
 それから、何かを飲み込むようにゆっくりとうなずく。

「俺もです」
 そして、「会いたいなって思っていたので」という言葉を心の中で付け足した。

 赤信号が青に変わる。歩き出す足取りは、どこか軽かった。
 歩幅を合わせながら進む道の上、やわらかな風がふたりの間を吹き抜ける。



 ビルの角に差しかかると、紬が足を止める。

「ここで……私はこっちなので」

「あ、はい。じゃあ……また、雨の日に?」

 そう言った直樹に、紬はほんの一瞬だけ、なにかを迷うような表情を見せた。

「……もしよかったら、晴れの日でも、また」

 そう言って微笑んだ彼女の横顔に、直樹は言葉を失う。
 陽射しが彼女の頬にやさしく触れて、その笑顔をいっそうやわらかく照らしていた。

 淡く、けれど確かに――胸の奥に、春の陽射しのような温もりが灯っていた。
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