8 / 10
止まない雨はないから
しおりを挟む
梅雨の終わりが近づいていた。
降ったり止んだりを繰り返していた空模様が、ようやく安定しはじめていた。
けれど、紬の中にはまだひとつ、雨が残っていた。
人を好きになるのが、怖い——。
自分が誰かの重荷になったらどうしよう、信じた分だけ裏切られたら……そんな小さな不安が、胸のどこかにずっと居座っていた。
古本屋の奥の机に向かいながら、彼女はふと手を止める。
目の前には、書きかけの原稿。
でも、文字はもうしばらく前から進んでいなかった。
思い浮かぶのは、あの夜の直樹のまなざしだった。
真っすぐで、優しくて、何ひとつ急かそうとはしない眼差し。
「……ずるいなあ、藤崎さんって」
ぽつりと、声に出して笑う。
その声音は、どこか柔らかく、そして少しだけ苦かった。
*
数日後、快晴の昼下がり。
紬は、原稿を持って出版社へと足を運んだ。
古本屋を継ぐ夢はある。けれど、自分の物語も、まだ終わらせたくない。
そう思えるようになったのは、きっと、あの人のおかげだ。
ビルを出て、信号待ちをしていたその時だった。
「……佐々木さん?」
耳馴染みのある声に、ふと顔を上げる。
信号の向こう、背広姿の直樹が、こちらを見ていた。
不思議だった。いつも雨の中で会っていた人が、太陽の下に立っていることが、少し照れくさくて、でもすごくうれしかった。
青になり、互いに歩み寄る。
「二回目ですね。晴れの日に偶然出会うの」
「本当ですね。佐々木は、出版社に?」
「はい。原稿を渡しに来たところです。まだ……修正がたくさん入りそうですけど、少しずつ進めてます」
直樹の表情がぱっと明るくなった。
「すごい。頑張ってるんですね」
直樹の顔に浮かんだ安心の色が、まっすぐ彼女の胸に染み込んでいった。
「ええ……本当に少しずつ、ですけど。自分の気持ちに、ちゃんと向き合いたいと思って」
風が吹き抜ける。
街路樹の葉がさらさらと揺れ、まるで空気が洗い流されるようだった。
「ねえ、藤崎さん。今、少しだけ、お話しできますか?」
紬が穏やかな表情で尋ねる。
直樹が少し緊張したような顔で「はい。大丈夫です」と答えた。
止まない雨はない。
そして、雨上がりには虹がかかることもある。
ふたりは並んで歩き出した。
これまでとは違う、晴れの午後。
小さな恋の、第一歩だった。
❊
夏の始まりを感じさせる陽射しの下。
紬と直樹は、並んで歩いていた。
初めて会ったあの日のように雨は降っていない。
けれど、胸の中には同じように、あたたかいものがしとしとと降り積もっていた。
「ここ、知ってますか? 昔ながらの喫茶店なんですけど……珈琲がすごく美味しくて」
紬が指さしたのは、小さな店構えの、レトロな喫茶店。
直樹はうなずき、微笑んだ。
「行ってみたいです。佐々木さんのおすすめなら、間違いなさそうだし」
店内には柔らかなジャズが流れていて、窓際の席に腰を下ろすと、ふたりは同時に小さく笑った。
「こうして晴れた日に会うの、なんだか不思議ですね」
「そうですね。いつも雨の日か、雨が降る前でしたもんね」
紬の笑みは、初めて出会った頃よりもずっと自然で、心を許してくれていることが伝わってくる。
直樹は、そっとカップを置いて、言葉を選びながら話し始めた。
「俺、変わったんですよ。……佐々木さんに会ってから」
「え?」
「仕事だけに追われて、自分のことなんて後回しで。でも……佐々木さんと話してるうちに、ちゃんと立ち止まって、心を休める時間を持ちたいって思えるようになったんです。最近、転職も考えてます。今日も休日出勤でしたからね。もう少しホワイトな職場を探そうかなって思ってます」
紬の目がまるくなる。
「転職……」
「……まだ誰にも言ってないんですけどね。言いたいと思えたの、佐々木さんが初めてで」
その真剣な眼差しに、紬の胸がふわりと温かくなる。
誰かが自分にとって「特別」であること。
そして、誰かにとっての「特別」になれること。
それは、彼女がずっと怖くて逃げていた感情だった。
けれど今、それが少しだけ愛しく思えた。
「……じゃあ、私もひとつ、秘密を打ち明けようかな」
紬はそっと頬を染めながら言った。
「新作小説、テーマは“雨宿り”なんです。初めて恋愛ものに挑戦してて……主人公が、雨の中で出会った人と、少しずつ心を通わせていくお話で」
直樹の表情がふっと和らぎ、彼女の目を見つめた。
「なんだか、どこかで聞いたことのある話ですね」
「そうですね……モデル、いるかもしれません」
ふたりの間に、静かな笑みが広がる。
それはまるで、長い雨のあとに空にかかる虹のようだった。
ゆっくり、ゆっくりと、ふたりは同じ橋を渡りはじめている。
名前もつかない、この関係の先へ。
でも、たしかな気持ちを胸に、少しずつ足を進めていく。
降ったり止んだりを繰り返していた空模様が、ようやく安定しはじめていた。
けれど、紬の中にはまだひとつ、雨が残っていた。
人を好きになるのが、怖い——。
自分が誰かの重荷になったらどうしよう、信じた分だけ裏切られたら……そんな小さな不安が、胸のどこかにずっと居座っていた。
古本屋の奥の机に向かいながら、彼女はふと手を止める。
目の前には、書きかけの原稿。
でも、文字はもうしばらく前から進んでいなかった。
思い浮かぶのは、あの夜の直樹のまなざしだった。
真っすぐで、優しくて、何ひとつ急かそうとはしない眼差し。
「……ずるいなあ、藤崎さんって」
ぽつりと、声に出して笑う。
その声音は、どこか柔らかく、そして少しだけ苦かった。
*
数日後、快晴の昼下がり。
紬は、原稿を持って出版社へと足を運んだ。
古本屋を継ぐ夢はある。けれど、自分の物語も、まだ終わらせたくない。
そう思えるようになったのは、きっと、あの人のおかげだ。
ビルを出て、信号待ちをしていたその時だった。
「……佐々木さん?」
耳馴染みのある声に、ふと顔を上げる。
信号の向こう、背広姿の直樹が、こちらを見ていた。
不思議だった。いつも雨の中で会っていた人が、太陽の下に立っていることが、少し照れくさくて、でもすごくうれしかった。
青になり、互いに歩み寄る。
「二回目ですね。晴れの日に偶然出会うの」
「本当ですね。佐々木は、出版社に?」
「はい。原稿を渡しに来たところです。まだ……修正がたくさん入りそうですけど、少しずつ進めてます」
直樹の表情がぱっと明るくなった。
「すごい。頑張ってるんですね」
直樹の顔に浮かんだ安心の色が、まっすぐ彼女の胸に染み込んでいった。
「ええ……本当に少しずつ、ですけど。自分の気持ちに、ちゃんと向き合いたいと思って」
風が吹き抜ける。
街路樹の葉がさらさらと揺れ、まるで空気が洗い流されるようだった。
「ねえ、藤崎さん。今、少しだけ、お話しできますか?」
紬が穏やかな表情で尋ねる。
直樹が少し緊張したような顔で「はい。大丈夫です」と答えた。
止まない雨はない。
そして、雨上がりには虹がかかることもある。
ふたりは並んで歩き出した。
これまでとは違う、晴れの午後。
小さな恋の、第一歩だった。
❊
夏の始まりを感じさせる陽射しの下。
紬と直樹は、並んで歩いていた。
初めて会ったあの日のように雨は降っていない。
けれど、胸の中には同じように、あたたかいものがしとしとと降り積もっていた。
「ここ、知ってますか? 昔ながらの喫茶店なんですけど……珈琲がすごく美味しくて」
紬が指さしたのは、小さな店構えの、レトロな喫茶店。
直樹はうなずき、微笑んだ。
「行ってみたいです。佐々木さんのおすすめなら、間違いなさそうだし」
店内には柔らかなジャズが流れていて、窓際の席に腰を下ろすと、ふたりは同時に小さく笑った。
「こうして晴れた日に会うの、なんだか不思議ですね」
「そうですね。いつも雨の日か、雨が降る前でしたもんね」
紬の笑みは、初めて出会った頃よりもずっと自然で、心を許してくれていることが伝わってくる。
直樹は、そっとカップを置いて、言葉を選びながら話し始めた。
「俺、変わったんですよ。……佐々木さんに会ってから」
「え?」
「仕事だけに追われて、自分のことなんて後回しで。でも……佐々木さんと話してるうちに、ちゃんと立ち止まって、心を休める時間を持ちたいって思えるようになったんです。最近、転職も考えてます。今日も休日出勤でしたからね。もう少しホワイトな職場を探そうかなって思ってます」
紬の目がまるくなる。
「転職……」
「……まだ誰にも言ってないんですけどね。言いたいと思えたの、佐々木さんが初めてで」
その真剣な眼差しに、紬の胸がふわりと温かくなる。
誰かが自分にとって「特別」であること。
そして、誰かにとっての「特別」になれること。
それは、彼女がずっと怖くて逃げていた感情だった。
けれど今、それが少しだけ愛しく思えた。
「……じゃあ、私もひとつ、秘密を打ち明けようかな」
紬はそっと頬を染めながら言った。
「新作小説、テーマは“雨宿り”なんです。初めて恋愛ものに挑戦してて……主人公が、雨の中で出会った人と、少しずつ心を通わせていくお話で」
直樹の表情がふっと和らぎ、彼女の目を見つめた。
「なんだか、どこかで聞いたことのある話ですね」
「そうですね……モデル、いるかもしれません」
ふたりの間に、静かな笑みが広がる。
それはまるで、長い雨のあとに空にかかる虹のようだった。
ゆっくり、ゆっくりと、ふたりは同じ橋を渡りはじめている。
名前もつかない、この関係の先へ。
でも、たしかな気持ちを胸に、少しずつ足を進めていく。
5
あなたにおすすめの小説
主人公の恋敵として夫に処刑される王妃として転生した私は夫になる男との結婚を阻止します
白雪の雫
ファンタジー
突然ですが質問です。
あなたは【真実の愛】を信じますか?
そう聞かれたら私は『いいえ!』『No!』と答える。
だって・・・そうでしょ?
ジュリアーノ王太子の(名目上の)父親である若かりし頃の陛下曰く「私と彼女は真実の愛で結ばれている」という何が何だか訳の分からない理屈で、婚約者だった大臣の姫ではなく平民の女を妃にしたのよ!?
それだけではない。
何と平民から王妃になった女は庭師と不倫して不義の子を儲け、その不義の子ことジュリアーノは陛下が側室にも成れない身分の低い女が産んだ息子のユーリアを後宮に入れて妃のように扱っているのよーーーっ!!!
私とジュリアーノの結婚は王太子の後見になって欲しいと陛下から土下座をされてまで請われたもの。
それなのに・・・ジュリアーノは私を後宮の片隅に追いやりユーリアと毎晩「アッー!」をしている。
しかも!
ジュリアーノはユーリアと「アッー!」をするにしてもベルフィーネという存在が邪魔という理由だけで、正式な王太子妃である私を車裂きの刑にしやがるのよ!!!
マジかーーーっ!!!
前世は腐女子であるが会社では働く女性向けの商品開発に携わっていた私は【夢色の恋人達】というBLゲームの、悪役と位置づけられている王太子妃のベルフィーネに転生していたのよーーーっ!!!
思い付きで書いたので、ガバガバ設定+矛盾がある+ご都合主義。
世界観、建築物や衣装等は古代ギリシャ・ローマ神話、古代バビロニアをベースにしたファンタジー、ベルフィーネの一人称は『私』と書いて『わたくし』です。
【完結】ジュリアはバツイチ人生を謳歌する
ariya
恋愛
エレン王国の名門貴族・アグリア伯爵家に嫁いだジュリア・アグリア(旧姓ベルティー)。
夫のアベル・アグリア伯爵は、騎士として王妃の護衛任務に没頭し、結婚翌日からほぼ別居状態。
社交界のパーティーでは妻のエスコートを代理人に任せ、父の葬儀にも顔を出さず、事務的な会話と手紙のやり取りだけの日々が続く。
ジュリアは8年間の冷遇に耐え抜いたが、ある朝の食事中、静かに切り出す。
「私たち、離婚しましょう」
アベルは絶句するが、ジュリアは淡々と不満を告げる。
どれも自分のしでかしたことにアベルは頭を抱える。
彼女はすでに離婚届と慰謝料の用意を済ませ、夫の仕事に理解を示さなかった「有責妻」として後腐れなく別れるつもりだった。
アベルは内心で反発しつつも、ジュリアの決意の固さに渋々サイン。
こうしてジュリア・アグリアは、伯爵夫人としての全てを置き去りにし、バツイチ人生を開始する。
次期国王様の寵愛を受けるいじめられっこの私と没落していくいじめっこの貴族令嬢
さら
恋愛
名門公爵家の娘・レティシアは、幼い頃から“地味で鈍くさい”と同級生たちに嘲られ、社交界では笑い者にされてきた。中でも、侯爵令嬢セリーヌによる陰湿ないじめは日常茶飯事。誰も彼女を助けず、婚約の話も破談となり、レティシアは「無能な令嬢」として居場所を失っていく。
しかし、そんな彼女に運命の転機が訪れた。
王立学園での舞踏会の夜、次期国王アレクシス殿下が突然、レティシアの手を取り――「君が、私の隣にふさわしい」と告げたのだ。
戸惑う彼女をよそに、殿下は一途な想いを示し続け、やがてレティシアは“王妃教育”を受けながら、自らの力で未来を切り開いていく。いじめられっこだった少女は、人々の声に耳を傾け、改革を導く“知恵ある王妃”へと成長していくのだった。
一方、他人を見下し続けてきたセリーヌは、過去の行いが明るみに出て家の地位を失い、婚約者にも見放されて没落していく――。
「がっかりです」——その一言で終わる夫婦が、王宮にはある
柴田はつみ
恋愛
妃の席を踏みにじったのは令嬢——けれど妃の心を折ったのは、夫のたった一言だった
王太子妃リディアの唯一の安らぎは、王太子アーヴィンと交わす午後の茶会。だが新しく王宮に出入りする伯爵令嬢ミレーユは、妃の席に先に座り、殿下を私的に呼び、距離感のない振る舞いを重ねる。
リディアは王宮の礼節としてその場で正す——正しいはずだった。けれど夫は「リディア、そこまで言わなくても……」と、妃を止めた。
「わかりました。あなたには、がっかりです」
微笑んで去ったその日から、夫婦の茶会は終わる。沈黙の王宮で、言葉を失った王太子は、初めて“追う”ことを選ぶが——遅すぎた。
「お前を愛する事はない」を信じたので
あんど もあ
ファンタジー
「お前を愛することは無い。お前も私を愛するな。私からの愛を求めるな」
お互いの利益のために三年間の契約結婚をしたアヴェリンとロデリック。楽しく三年を過ごしたアヴェリンは屋敷を出ていこうとするのだが……。
お姫様は死に、魔女様は目覚めた
悠十
恋愛
とある大国に、小さいけれど豊かな国の姫君が側妃として嫁いだ。
しかし、離宮に案内されるも、離宮には侍女も衛兵も居ない。ベルを鳴らしても、人を呼んでも誰も来ず、姫君は長旅の疲れから眠り込んでしまう。
そして、深夜、姫君は目覚め、体の不調を感じた。そのまま気を失い、三度目覚め、三度気を失い、そして……
「あ、あれ? えっ、なんで私、前の体に戻ってるわけ?」
姫君だった少女は、前世の魔女の体に魂が戻ってきていた。
「えっ、まさか、あのまま死んだ⁉」
魔女は慌てて遠見の水晶を覗き込む。自分の――姫君の体は、嫁いだ大国はいったいどうなっているのか知るために……
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる