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夏:第1便~第3便
第5話:【第1便】特選ハンバーグ_5
しおりを挟む皿を洗い終えるころには、外の雨がやんでいた。窓枠の近くに、ひんやりとした湿り気のある匂いが留まっている。
換気扇を止めると、部屋が急に静かになった。水滴が落ちる音と、スポンジの擦れる音だけが残る。流しのステンレスが光を反射して、白く光っていた。
「あー、美味しかったなあ。何度でも言っちゃう」
思わず独り言が溢れる。ちゃんと料理して、最後まで食べ切った。それだけで一日が報われた気がする。
手を拭き、冷蔵庫のドアを開ける。何か冷たいものでも飲もうと思った。あの美味しい脂を、喉の奥の奥へと流し込みたい。
一番上の棚に、ソースを入れた小さなタッパーを置く。その奥から、微かにまた甘い匂いがした。
「ソースかな……強いね」
自分に言い聞かせるように言って、すぐにドアを閉めた。
テーブルの上には、まだアンケートの紙が残っている。夕食前に封筒から出しておいたままだ。
座って、ボールペンを手に取る。美味しいものを食べられたのだ、これくらい協力したい。ライトを少し明るくして、悩みながら書き始めた。
テーブルの上に広げたアンケート用紙を、私はペン先を軽くトントンと叩く。
「えっと……まずは『味はいかがでしたか?』」
声に出して読んでみる。
「……『とても良い』」
丸をつけながら、小さく笑う。
「ほんとに、美味しかったもんね。びっくりするくらい」
次の欄を指でなぞる。
「ええっと……『香り・見た目はいかがでしたか?』……ふふっ、香りね。香りは……『上品』。あ、でも懐かしかったから、『懐かしい』って書いとこ。……あのときの匂いと似てた。あの、焦げ目のときの」
少し手が止まる。視線が空中を彷徨い、とりあえず頷いてみる。
「……まあ、気のせいか」
またペンを動かす。
「『調理方法』……『焼く』っと。煮込みにしても美味しそうだけど、やっぱりハンバーグは焼くよね。あ、でも、ソースは彼……じゃなくて、えっと……昔作ったやつを思い出して作っちゃった、と」
自分で苦笑して、首を振る。
「変な話。懸賞のモニターに私情入れちゃだめだよね」
そういえば、アンケートの類は苦手かもしれない。
「次、『その他お気づきの点』か。……うーん」
少し考えて、ぽつりと呟く。
「『脂の香りと歯ごたえに、噛むたびに幸せな気持ちになりました』……これでいいか」
ペンの先で句点を打つ。
「ほんとにそうだったし」
書き終えてから、用紙を少し離して眺める。
「字、まっすぐ書けてるかな……うん、悪くない」
軽く息を吐いて笑う。
「『毎月お届け』って書いてあったもんね。ほんとなら、来月も……来るんだよね」
その声が小さくなっていく。
アンケートはポストへ入れるつもりだったが、そういえば住所がわからない。この紙は自分の備忘録にするとして、QRコードを読み込んだ先のフォームから、同じように回答する。
静かな空気の中、私は満足だなと思った。まるで宿題を提出した学生のような、すっきりした気分だった。
書き終えてから、読み返す。文末の「幸せな気持ち」という言葉が、少し照れくさい。けれど、嘘ではない。心の底からそう思っていた。
ペンを置き、軽くストレッチをして背伸びをする。窓の外は夜の色。雨上がりの空気が窓をつたいひんやりして、街灯の光が白く滲んでいた。遠くで電車の音が聞こえる。その音が、不思議と落ち着く。
封筒にアンケートを入れて、テープで軽く留めた。出さないと決めたのに、この状態についしてしまう。
「アンケート、参考になると良いなぁ」
呟いて、ペンをペン立てに戻す。そのとき、ペン立ての底から鉛筆が一本転がり出た。大学時代に彼とお揃いで使っていたものだ。芯が折れたまま、短くなっている。指で拾い上げ、しばらく見つめた。
彼のことを思い出そうとした瞬間、胸の奥が少しだけ温かくなる。
「……まだ残ってたんだ」
泣きそうになりながら、引き出しの中に戻す。
リビングの照明を落とすと、部屋に静けさが戻った。
換気扇も止まっているのに、どこかで小さな音がした気がした。続いて、冷蔵庫のモーターが鳴る。すぐに止まり、また静かになる。
まるで呼吸をしているようなリズム。
ソファに座ってスマホを開く。昨日のハンバーグの投稿に『いいね』が増えていた。タグは『#おうちごはん』『#懸賞当選』『#モニター生活』。
コメント欄に『美味しそう』『レシピ教えてください』『どのお店のお肉ですか?』と書かれているのを見て、思わず口角が上がった。
「ほんとにありがたいな」
ふと、視界の端に何かが映った。冷蔵庫の扉だ。少しだけ光が反射している。照明の角度のせいかもしれない。それでも、一瞬だけ扉が動いたように見えた、風もないのに。
「……気のせい」
そう言って、スマホをテーブルに置く。
お湯を沸かしてハーブティーを淹れる。マグカップから立つ湯気が、ほんのり甘い香りを運んでくる。ラベンダーの香りと、どこかで混ざる肉の香り。
少しだけ喉が詰まったが、落ち着いた気持ちで椅子に座る。
「幸せって、こういうのだよね」
独り言がぽつりと落ちた。声に出すと、部屋の空気が少し柔らかくなった気がした。
マグカップを持ち上げ、カーテン越しに外を見る。街灯の下、雨上がりの道がしっとり濡れている。
その真ん中を、宅配トラックが一台ゆっくり走っていった。白い車体に小さく「モニター便」と書かれていた。
「へぇ……そんな会社もあるんだ」
部屋の電気を消す。窓の外の光が薄く差し込む中、テーブルの上の封筒がわずかに光を返した。その白さが、冷蔵庫の銀色と同じ色をしている。
冷蔵庫の中で、何かが小さくコトリと鳴った。まるで誰かが「ごちそうさま」と言ったみたいな小さな音。
私は気にせず、寝室のドアを閉めた。
静かな部屋に、ハンバーグの香りがほんの少しだけ残っていた。
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