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夏:第1便~第3便
第11話:【第3便】濃厚ブラウンシチュー_1
しおりを挟む――金曜日は、どうしてこうも長く感じるのだろう。特に、十四時から十七時の間。パソコンの時計が十八時を回ったのを確認して、私はそっとマウスを置いた。
「お先に失礼します」
同僚に軽く頭を下げると「いいなぁ、早く帰れて」と誰かが笑った。「また来週ね」と返して、バッグを肩にかける。
オフィスを出た瞬間、少し重たかった空気がゆるむ。ビル風に乗って、街のざわめきが一気に押し寄せてくる。
近くの居酒屋からは生ビールのポスターが並び、スーツ姿の人たちが笑いながら暖簾をくぐっていく。
「うん、週末のニオイだ」
独り言のように呟いて、小さく笑った。
駅へ向かう途中、花屋の前を通る。店先にはヒマワリとトルコキキョウ、それからオキシペタルムがお勧めとして飾られている。夏真っ盛りの今、元気な色をたたえる花は、疲れた心と身体に明かりを灯してくれだろう。
「部屋に飾ったら明るくなるかな」
立ち止まりかけたとき、スマートフォンが震えた。画面には、あのSMSメールの通知。
『お届け予定:本日18:00~21:00(冷蔵)』
「これこれ! これを待ってたのよ!」
喜びの声が漏れる。花よりもそちらが気になって、足を速めた。
電車の車内は混んでいた。座席の端に座り、スマートフォンの画面を指でなぞる。タイムラインには『当たりました!』の投稿が並んでいた。
自分もその中の一人だと思うと、少し誇らしい。
窓の外の街の灯りが流れていく。そのリズムに合わせて、心の中でメニューを組み立てた。
「塊肉なら豪快に焼いて、あー、それかシチューみたいに煮込む? 角煮食べたくなってきちゃったや……」
心の中で呟くと、隣の席の人が一瞬こちらを見た。もしかして、口に出ていたのか……と、恥ずかしくなって、マスクの中で笑って誤魔化した。
改札を抜けると、夜風が少し冷たく感じた。駅前のスーパーには寄らずに、まっすぐ帰る。
「最近、休みに色々買うようにしてるもんね」
マンションのエントランスで、管理人がテレビを見ていた。「こんばんは」と声をかけると「今日はもう来てたよ」と笑われる。
「ありがとうございます! ラッキーですよね」
と、そう答えてエレベーターに乗った。鏡に映る自分の顔が、少しだけ上気している。
「今日もよく頑張った」
小声で言って、自分を褒める。
階に到着し、廊下の突き当たり、玄関の前に白い箱が置かれていた。照明の明かりが反射して、金色の文字が光る。
『濃厚ブラウンシチューセット』
「やった! シチューだ!」
声が自然に漏れた。その一言で、一日の疲れがふっと軽くなる。
靴を脱ぎながら、箱を両手で持ち上げた。思っていたよりも重たい。
「シチューなら、何だろう。タンとかテールとか? スネもそう?」
わからないまま、キッチンへ運ぶ。
箱を置いた瞬間、照明の下で段ボールの表面がほのかに光った。ほんの一瞬、甘いような香ばしいような匂いが鼻をかすめた。
「まだ開けてないもんね。気のせいか」
首を傾げて、エプロンを取り出す。
冷蔵庫を開けて、前回のソーセージの残りを確認する。一本だけ、ラップ越しに少し色が変わりかけている気がした。
「明日食べきっちゃおう」
扉を閉めて、部屋着に着替える。窓の外では雨が上がったばかりで、街灯の下が濡れて光っていた。
タオルで髪を拭きながら、ポットに水を入れる。
しばらくして、ポットのスイッチが鳴り、ふつふつと小さな泡の音が部屋に広がる。
「この音、好きなんだよね」
誰に言うでもなく呟く。
お湯が湧く音、換気扇の低い唸り、冷蔵庫のモーター音。全部が『家に帰ってきた』という証みたいに思える。
ソファの上には、引っ張り出してきて、読んでいたレシピ雑誌が開いたままになっていた。
ページの端には、冬の特集――「心まで温まる煮込み料理」。シチューの写真にペンで丸がつけてある。
「あのときは、寒かったなぁ」
私はページを指でなぞった。その年の冬、彼と食べた手作りのシチュー。湯気の向こうで笑っていた顔が、ぼんやりと浮かんだ。
「……懐かしい」
そう呟いて、すぐに首を振る。もう過去のこと。今夜は、新しい味を楽しめばいい。
時計を見ると十九時を少し過ぎていた。
お湯の音が止まり、静けさが戻る。
「さて、開けよっか」
箱の前に立ち、深呼吸をする。『濃厚ブラウンシチュー』。その響きだけで、胸の奥が温かくなる。
「……早く食べたいな」
小さく笑いながら、手を止めた。……まだ開けない。この一瞬のあえて待つ時間が一番好きだった。
私は段ボールの前にしゃがみ込み、指先で軽く叩いてみた。
――こん、こん。
返ってくる音は、何だかいつもより低い気がした。
「詰まってるのかな」
箱の角を指先で撫でる。僅かに温度が伝わってきた気がして、思わず動きを止めた。
キッチンの照明のせいだろう。段ボールの表面が、まるで内側から光を受けているみたいに見える。
湯気の立つポットの横では、時計の秒針が規則正しく音を刻んでいた。冷蔵庫のモーターが一瞬だけ唸り、また静かになる。私はその音を聞きながら、膝を抱えるように座り込んだ。
「こんなに楽しみなの、久しぶりだな」
自分でも驚くほど柔らかい声だった。
スマートフォンを取り出して、カメラを起動する。『#懸賞当選』『#当選報告』。そうタグを打とうとして、ふと指を止めた。……箱のロゴが、写真越しに見るといつもより濃い茶色に見える。
「光の加減かな」
首を傾げてもう一枚撮る。結局、投稿はせずに保存だけしておいた。
ふと部屋の温度が少し下がって、床の冷たさが素足に伝わった。
「……よし」
立ち上がって、深呼吸をひとつ。手を伸ばして、箱のテープに指をかける。その瞬間、遠くの部屋で何かがカタンと鳴った。冷蔵庫の中の瓶が揺れただけかもしれない。
けれど、私はほんの数秒だけ動きを止めた。
「びっくりした」
いやいやと首を振る。そして、そっとテープを引いた。
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