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日常の終わり
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「幸せ不感症」
「今日も私は幸せ不感症」
私は呟いた。
恵まれてる、満たされてる、不幸ではない、そう言い聞かされ、そう思い込まされ、そう考えてきた。
布団から自分は重苦しいと感じるいたって健康的な体を起き上がらせる。
造作もない行動に億劫になるのは怠惰でいけないことと思う。
そう思えば思うほど体は重くなる、だが正常に動く肉体は意識から離れ、自動の様にルーチンワークをこなす。
あらかじめ枕の辺りに置いておいた服をいつもと同じ動作で着て、次に洗面台に向かう。
洗面所に同じ歩数同じ体重移動で入り、顔を洗い、歯を磨き、軽く髪を整える。
鏡を見ずともほとんどが整えられる、いつも同じところに髪が跳ね、そこを押さえつけるように整える。
一応最後に鏡を見る、いつもと同じである。
朝ごはんを用意する、これもルーチンに過ぎない。
食べるのはご飯に何か一品かトースト、寒ければ熱いコーヒーを飲む、そうでなければ牛乳かペットボトルのお茶を飲む、毎日繰り返された動作はどんな事であれ淀みなく進むものだ。
朝ごはんに一喜一憂する、いや出来る人はいるのだろうか。
食事に感動を求める人の事は理解できるが朝ごはんに感動する人はいるのだろうか。
正直私はただただルーチンに組み込まれるに過ぎないものだから朝ごはんを取っているに過ぎない、もう少しマシな理由としてはエネルギーを補給する為にという理由、その程度の価値しか朝ごはんに感じない。
とてもどうでもいいことを考えていると思う。
私はいつも通りの時間にリモコンに手を伸ばしテレビをつける。
チャンネルを少しまわし、音量を少し上げ、いつも通りのニュースを見る。
スポーツの不祥事、芸能人の不倫、痛ましい事件、じっくり聞けば心が辛くなる様な内容を、イライラする様な内容を次々と読み上げていく、時折コメントや概要を挟みながら番組は進み、私が出る時間が迫っていた。
私はやはりいつも通りの時間にテレビを消し、軽く部屋を整えて、荷物を持ち、外へ出た。
いつも通りのバスに乗り込み、スマホを取り出しニュースを見る。
私より不幸な人はたくさんいる。
様々な不幸がある、お金や物に始まり、出で立ちや環境、事件事故や病気に死。
私は確かにそれらと無縁だった。
もちろん私も手に入らないものはあるし、美貌や良い家柄は無い、事件は当然ながら事故も無い、病気はほどほどあるが大病なんて以ての外、死は悲劇的なものなんてあったことが無い。
ともかく、私は不幸では無い。
一般の尺度では、少なくとも。
だが私はこう思ってしまう「私に悲劇あれ」と。
このバスがバスジャックされれば、あるいは横から他の車に突っ込まれれば、そんな恐ろしいたらればを考えてしまう。
酷いものである、この世は悲劇であふれている、そんな中ある意味幸運である私、不幸で無いという一つの奇跡、本来ならば感謝すべきこと、良きことと思える事をいわば否定してるのだ。
しかし、私は常に思う。
「交通事故にあえばいいのに」
「親が私が幼い頃に死んでいれば良かった」
親は嫌いでは無い、むしろ好きであるのにだ。
「暴漢に襲われたり、通り魔にあえばいいのに」
「奇病大病にかかればいいのに、大怪我すればいいのに」
「死ねたらいいのに」
ようするに私は悲劇のヒロインにでもなりたいのだろうと思う。
なんと低俗で下劣、稚拙で傲慢、浅はかで無思慮な発想であるか。
しかし、そんなことは重々承知である。
ミュンヒハウゼン症候群と言うものがこの世にはあるがもしも私が実際に行動に移したならば、確実に診断されるだろうと思う。
スマホを適当に維持ながら私は感じている。
なんなのだろうかこの虚無感は。
流石にそんな私でもテレビやスマホのニュースを見て、被害者を羨ましがることはしない。
だが、代わってやりたいといつも思っている、通り魔にあったならば積極的に前に出て他の人の盾になろうと思うぐらいには。
なぜこんな悲劇が彼らに、彼女らにと赤の他人であるのに勝手にさめざめと思ってしまうのだ。
もしも世界から悲劇が消えたのなら私も心の底から幸せは感じられるだろう。
だが、悲劇がある限り私はこの緩慢な幸せを享受することはできない。
傲慢である、傲慢である。
自分勝手で身勝手で独りよがりで上から目線のエゴイストに過ぎない。
そう思うとますます私のこの腕が、身体が、心が重苦しくなるのだ。
バスから降りて電車へと乗り換える、定期を使って滞りなく世の中の流れに合わせて改札を通る。
しかし、今日はお婆さんが列の前でもたついていた、後ろや周りの人は特に何も言わない、良くネット上やテレビで見る早くしろと急かす人もいない、ただ少しだけ流れが遅くなるだけだ。
それでも、多分周りの人は遅いと感じたり早くしろと思ってると思う、私も思う。
それは威圧や苛立ちでは無い、悪意では無い、ただそう思ってるだけなんだ、なのに私の心は少しだけ落ち込んでしまう。
当事者では無いのに、ただ周りにいるだけなのに、何も問題はないのに、私は落ち込む。
何に落ち込んでいるかは分からない。
お婆さんがやっと通り抜け、またいつも通り流れが進む、私もまたその流れに同化する。
電車に乗り込み端に向かう、人と人の間に居たくないからだ、それに壁に寄りかかっていれば少なくても寄りかかることによって迷惑をかける事は無くなる。
私は迷惑をかけたくない、迷惑を予見してそうならない様な行動を取る。
電車では端に向かい、バスでは通る人が困らない様にある程度開けておく、人が多くてぶつかりそうならば行かない、体を捩って当たらない様に避ける。
そんなことばかり考えている。
だから、そういうことを考えていなそうな人が迷惑になりそうな行動を取っているのを見ると心底イライラしてしまうのだ、たとえ自分自身に害がなくてもだ。
そこに、実際に考えているのかいないのか判断する基準はない、自分が勝手に思ってるだけだ。
それでも他人に迷惑をかけない様にしてる人がかける迷惑とそうでないただの迷惑ぐらいは分かってると思う。
私は他人に迷惑をかけるのが嫌だ。
朝の電車は満員電車である、端によっても容赦なく圧迫される、また私も圧迫してると自覚している。
なるべく体重をかけない様に、体を預けない様に足を使って体重を移動する。
無理な体勢でも他人に体重をかける方がよっぽど私には苦痛なのだ。
きつい体勢を取りながら頭の中であと何駅かを数える、半分を超えたあたり、あと五駅、三駅、二駅、次で降りる。
降りる駅に到着すると同時に雪崩の様に人の流れが出て行く、私が降りる駅は最も人が降りる街の中心部の駅だ。
密集していた車内から開放された体に駅の涼しい風が当たる、それを満喫する間も無くまた流れに身を任せ、更に乗り換えをする。
乗り換えた電車は先の電車よりは空いている、朝であっても満員にはなる事はない。
適当に空いている席に座る、もちろん端の席である。
思うに、幸福とはバネの反発のようなものなのだろう。
ある程度不幸があり、そこから幸せな出来事があって初めて幸せだと感じることができるのだろう、今も満員のキツイ電車に乗るという不幸から座れるという幸福を感じている。
しかし、緩慢な幸福はバネの溜めが無いのでそこまで幸せと感じることができないのだろう、ましてルーチンである一連の乗車行動は普通の事であり、座れても座れなくても特に何も感じないだろう。
また、他人の不幸は基本的に不幸で終わってしまう、バネがはち切れてしまったまんまのような状態である、なのでただ悲しくなったり苦しくなったり、心が重くなるのだろう。
故に私は、小説や漫画など創作が好きである。
悲劇があってもある意味では都合のいい展開による喜びや幸せ、そこにカタルシスを感じることはできる。
私はスマホに指を走らせる、ネット上に散見する漫画を見る、これもルーチンの一つだ、何回も読み直しているいつもの作品を読んでいる、展開も内容も完全に覚えているが暇つぶしならこれでいい。
しかし、カタルシスを感じるような作品さえ近頃ではなくなってしまっている。
緩慢な幸せ、不幸や苦労なくしての幸せ、そもそも絶望しかない作品。
それらには辟易してしまう。
空想であっても現実であっても私は満たされる事が少なくなってしまった。
私はなんなのだろう。
幸せ不感症である私はなぜ生まれてきたのだろうか。
なぜ私はシンプルに生きることができないのだろうか。
他者の苦しみがわかるからといって手を差し伸べられるほど勇気は無い。
手を差し伸べられるとしても半ば必然的なものだったり、あるいは流されたり、場の空気によってでしか無い。
死んでしまいたい、死んでしまいたい。
でも自殺はいけない、理由がない、私には苦しんで良い理由なんてない、死んで良い理由なんてない。
苦しみがあるはずがない、幸せに生きていけるはずだ。
そう言われてる気がする。
苦しむべき理由を、私が苦しんでいるという理由を、理由を。
そんなものは無い。
哲学的ゾンビと呼ばれる思考実験がある、表面上は普通の人と変わらないが心が存在しない、意識がない状態の様なものを指す言葉だ。
専門的にはクオリアがどうだとか色々定義はあるのだろうがとりあえず私は哲学的ゾンビになりたい。
誰の迷惑にもならず、私が私であるという意識だけがなくなれば良い。
そんなことばかり思う。
座って乗っている電車は早く感じたり長く感じたりする。
多分余裕がある分、今がどうなっているかを考えたり考えなかったりするからだろう。
スマホをいじっていれば早く感じるし、窓から外の風景を見てると時間を相応の長さ感じる。
乗り換える前と後の電車に乗ってる時間はどちらも変わらず三十分くらい乗っているのだが、こちらの空いてる電車はとても長く感じる、他者に迷惑をかけない分考えを巡らしているのだ。
楽しくない、楽しくない楽しくない楽しくない楽しくないないないない。
みんな死んでしまえ。
苦しめ、もっと苦しめよ、なんでなんでお前らはそんなに楽観的に生きられるんだ。
悩め、苦しめ、考えろよ、もっと深く深く深く。
お前の感じる幸せは所詮錯覚に過ぎない、不幸に目をつぶり、無知に目をつぶり、失敗に目をつぶり、不和に目をつぶり。
全員が不幸不感症に過ぎない。
不幸に目を向けないことでしか幸福になれないと言うのか、違う違う違う。
人は幸せになるべくして幸せになれる。
もっと苦しみ、努力し、足掻き、前に進んでこそ幸せが手に入る、そうでなければからないはずなんだ。
諦めに幸せなんてない、不幸ではないだけで幸せには到底及ぶ物ではないはずなんだ。
もっともっともっと苦しめよ。
苦しみのない幸せなんてないんだ、ちゃんと知覚しろ、ちゃんとその苦しみを考えろ、なんでなのか考えろ、他人にどう影響してるか考えろ、他人を考えろ、考えろ、どうなってしまうのかどうすればいいのか常に考えろ。
私は考える時間があるとすぐに無駄で自分しか辛くならないことを考える。
やがて自分の降りる駅に到着する。
人の流れに乗り、大学へと向かう道でこの考えは雲散した。
忘れる事もルーチンワークなのだ。
大学に着くと私は教室に向かいいつもの席に座る。
何と無くだが前から三、四列後ろの右側の席によく座っている。
隣には友達やいつも通りの人が座り、いつも通り他愛の無い会話を交わしている。
やれスマホのゲームの話だ、やれこの課題はどんな風に書けばいいのか、学祭では何するか。
そりゃ中身は変わっているが代わり映えしない話をいつも通りさらっと流している。
別に蔑ろにしている訳ではないが逐一覚えている訳でもない、それぐらいのスタンスで普段の会話は良いのだ。
講義はいつも通り平凡な内容だ。
比較的私は真面目な学生であると思っている。
事実、周りの学生は居眠りしたりスマホをこっそり弄ったりもしている、居眠りをしている友達の中にはお前単位やばいだろって奴もいるがそう心に思うだけで起こさなかったりする。
しかし、私自身も程々にしかノートは取らないし、私以上にしっかりやってる友達、テストの点数の高い友達もいる。
私は身勝手だ。
みんな身勝手だ。
そう思いたい。
私だけが自分のことしか考えてない屑なのだろうか、ゴミなのだろうか。
これほど他者に思いを馳せた所でそれ自体が自分自身の為なのだから結局私は私のことしか考えていないのだろうか。
他人のためなんて言葉自体が身勝手で傲慢なエゴイズムなのではないのか。
どうすれば良いのだろう。
他者のことを考えると言う考えは他人に押し付けるべきでは無いのだろうか。
押し付けずに他者に共感、否そう思って貰うためにはどうすれば良いのだろう。
いや不可能だろう。
他人のことを考えるなんてそもそも人には不可能なんだ。
自分本位で、自分を基準にして、損得でしか動かないのが人だ、私だ。
それに罪を感じるのも傲慢なのだろうか。
自分本位で生きられないのならそう生きるのが正しいのでは無いのだろうか。
そもそもなぜ他者のことを考えなければならないと私は思っているのだろう。
妄執のように、強迫観念のように。
中途半端に真面目である私はそんな事を無意識に思いながら毎日講義を受けている。
いっそ本当に真面目になれば良いと思う、むしろそれこそが私の望む姿なのだろう。
しかし私は中途半端なのだ、真面目という殻は私にとっては苦痛なのだ。
それは受けるべき苦痛である事も理解している、その苦痛の先にあるべき姿がある、端的に言うならば講義の先に単位があり、卒業がある。
だが、その程度の事を理解せず、堕落する人もいる。
もちろん上手くやっている人もいる、講義を少し適当に受けて、教科書や参考書で上手く補完して単位を取得するもの。
それは良いのだ、それは自分の能力と必要な条件とを把握した上で緩んでるだけなのだ。
能力があるならばそれでも良い。
だが無い人もいる、なればそれ相応に他人よりも努力するべきでは無いのだろうか。
出来ないなら出来ないなりのやり方がある、だが少なくても私よりも堕落するのは違うと思う。
これは私の傲慢なのだろうか、勝手に他人の事を考えて、期待をして、落胆をする。
上から目線でしか無い、価値観の押し付けでしか無い、いや実際には外には出してないから押し付けでは無いかもしれないがとにかく傲慢ではある。
彼らなりに考えがあるのだろうか、単位を落とすなどの悪い方向に進むのは何か理由があるのだろうか。
理由があったとしてそれに妥当性があるのか、そもそも単位を落とすことが悪いということが価値観の押し付けなのか。
少なくてもそれは違う、何故なら単位発表の時は必ず落胆をしているからだ。
なればこそ悪い方向に進まない様に私が何かしてあげるべきなんだろうか、それとも他者のことなど何も考えず自分の事だけを考えているべきなのだろうか。
いや、他者のことは考えるべきだ、他者から自分のことを考えて貰えると期待してはいけない、だがそれはそれとして人は他人に影響されて生きている、手助けを受けて生きている。
と言うことは裏を返せば他人の総体は私を形作る環境ということになり、自分を高めるためには、もっと端的に言うなら幸せになるためには他者が良いもので無ければならない。
他者が良いものであるためには、他者の他者である私も良いものでなければならない。
他者の良いものであるためには他者の良いものが何であるかを考えなければならない。
だから他者のことは考えるべきなのだ。
これは究極の利己的な発想なのだろうか。
自分が良いものであるためには他者が良くなければならない、だから他者を良くする為に他者のことを考える。
講義を終える。
いつも通り食堂で友達と昼ごはんを食べる。
朝ごはんに感動を覚えるのは難しいが、時間にゆとりがあり頭もハッキリしている。
昼ごはんは美味しいものを食べたいと思う。
午後の講義を受けて、また私は帰りの電車へと向かう。
帰りは帰宅時間の関係上かなり空いている。
私はいつも通り端っこへと座った。
たとえガラガラな車両の中でも。
結局自分の為なのだろうか。
利己的はダメなのか。
そこから私は間違ってしまったのか。
生命の本懐は自己保存、と言うことは利己的な方が生命体としては正解、正解とは何だろうか、私は劣っているのだろうか、間違っているのだろうか。
利己的でありたくないための考えすら利己的であると理解して、その考えも否定したがる、裏を返せばどこまでも利己的な考えを、エゴイズムを否定したいだけなのだ。
それもエゴなのか、否定したいと言う自分自身の考えを守るための考え方。
私は理解した。
私は一生幸せにはなれない、自己矛盾を抱えて、それを知覚してしまった。
私が幸せになる為には私が死ぬか、世界中の人が利他的になるか、世界中の人が死ぬかしなければならない。
どれも不可能だ、正確に言えば死ぬことは出来るが死んだらおしまいだ。
他者の不幸をなぜ私は悲しむのか、それは所詮自分を良くするはずである環境が悪いものだと分かってしまう、つまり自分もそうなるのだろうと恐怖してるだけだ、他者のことなんてこれっぽっちも思ってない、もしくは思ってる様に錯覚してるだけなんだ。
私はゲンナリした考えを振り払う様にスマホに指を滑らした。
美しいまでのデウスエクスマキナ、純粋な悪意は滅ぼされ、悲劇には救いがあり、良い事には賞賛がある。
結末がわかるから暗い道筋も臆する事なく前へ進めるのだ。
いつも通りの時間に乗り換えの駅へと着く。
いつも通りの流れに身を任せて乗り換え先のホームへと向かう。
そして私はそこで見た。
あれは、あれはいつも通りじゃない。
何が違うのかは分からない、違うという事が何故わかるのかも分からない。
直感なのか、直観なのか、それともこれが運命なのか。
彼女は自殺をしようとしている。
見た目は普通の女子高生、何も変な様子ではない、こんな事を考えてるのも失礼だと思える程普通だ。
電車がやってくる。
いつも通りの時間に。
杞憂であってくれ、杞憂であってくれと何度も何度も思う。
しかし、彼女はやはり、進み出した。
確実に死へと向かう足取り。
虚ろな目であるがその足取りには黒い意思がある。
間違い無くあのままでは投身してしまう。
周りで気付いている人はいない。
私しかいない、私しか、私が。
あれだ、私は綺麗でいたいんだ。
他者を思える、自分を顧みない、ヒーローの様な人になりたいんだ。
ただの憧れ、それも自分自身の為、利己的な願いに過ぎない。
私は走り出した。
周りの人達のざわめきは聞こえず、なりふりを構わず。
私は一直線に彼女の元へ走っている。
彼女はすでにホームの端に足をかけている。
その速度は止まる事が出来る速度では無い。
電車は止まらない。
彼女の腕を掴み、思いっきり引っ張った。
彼女は驚いたような表情をしながらホームへと倒れ込んだ。
私はその体重移動ともともと持っていた加速度によって線路の上へと投げ出された。
そして、一瞬の閃光と彼女の蒼白の顔を見ながら私は。
消えた。
「今日も私は幸せ不感症」
私は呟いた。
恵まれてる、満たされてる、不幸ではない、そう言い聞かされ、そう思い込まされ、そう考えてきた。
布団から自分は重苦しいと感じるいたって健康的な体を起き上がらせる。
造作もない行動に億劫になるのは怠惰でいけないことと思う。
そう思えば思うほど体は重くなる、だが正常に動く肉体は意識から離れ、自動の様にルーチンワークをこなす。
あらかじめ枕の辺りに置いておいた服をいつもと同じ動作で着て、次に洗面台に向かう。
洗面所に同じ歩数同じ体重移動で入り、顔を洗い、歯を磨き、軽く髪を整える。
鏡を見ずともほとんどが整えられる、いつも同じところに髪が跳ね、そこを押さえつけるように整える。
一応最後に鏡を見る、いつもと同じである。
朝ごはんを用意する、これもルーチンに過ぎない。
食べるのはご飯に何か一品かトースト、寒ければ熱いコーヒーを飲む、そうでなければ牛乳かペットボトルのお茶を飲む、毎日繰り返された動作はどんな事であれ淀みなく進むものだ。
朝ごはんに一喜一憂する、いや出来る人はいるのだろうか。
食事に感動を求める人の事は理解できるが朝ごはんに感動する人はいるのだろうか。
正直私はただただルーチンに組み込まれるに過ぎないものだから朝ごはんを取っているに過ぎない、もう少しマシな理由としてはエネルギーを補給する為にという理由、その程度の価値しか朝ごはんに感じない。
とてもどうでもいいことを考えていると思う。
私はいつも通りの時間にリモコンに手を伸ばしテレビをつける。
チャンネルを少しまわし、音量を少し上げ、いつも通りのニュースを見る。
スポーツの不祥事、芸能人の不倫、痛ましい事件、じっくり聞けば心が辛くなる様な内容を、イライラする様な内容を次々と読み上げていく、時折コメントや概要を挟みながら番組は進み、私が出る時間が迫っていた。
私はやはりいつも通りの時間にテレビを消し、軽く部屋を整えて、荷物を持ち、外へ出た。
いつも通りのバスに乗り込み、スマホを取り出しニュースを見る。
私より不幸な人はたくさんいる。
様々な不幸がある、お金や物に始まり、出で立ちや環境、事件事故や病気に死。
私は確かにそれらと無縁だった。
もちろん私も手に入らないものはあるし、美貌や良い家柄は無い、事件は当然ながら事故も無い、病気はほどほどあるが大病なんて以ての外、死は悲劇的なものなんてあったことが無い。
ともかく、私は不幸では無い。
一般の尺度では、少なくとも。
だが私はこう思ってしまう「私に悲劇あれ」と。
このバスがバスジャックされれば、あるいは横から他の車に突っ込まれれば、そんな恐ろしいたらればを考えてしまう。
酷いものである、この世は悲劇であふれている、そんな中ある意味幸運である私、不幸で無いという一つの奇跡、本来ならば感謝すべきこと、良きことと思える事をいわば否定してるのだ。
しかし、私は常に思う。
「交通事故にあえばいいのに」
「親が私が幼い頃に死んでいれば良かった」
親は嫌いでは無い、むしろ好きであるのにだ。
「暴漢に襲われたり、通り魔にあえばいいのに」
「奇病大病にかかればいいのに、大怪我すればいいのに」
「死ねたらいいのに」
ようするに私は悲劇のヒロインにでもなりたいのだろうと思う。
なんと低俗で下劣、稚拙で傲慢、浅はかで無思慮な発想であるか。
しかし、そんなことは重々承知である。
ミュンヒハウゼン症候群と言うものがこの世にはあるがもしも私が実際に行動に移したならば、確実に診断されるだろうと思う。
スマホを適当に維持ながら私は感じている。
なんなのだろうかこの虚無感は。
流石にそんな私でもテレビやスマホのニュースを見て、被害者を羨ましがることはしない。
だが、代わってやりたいといつも思っている、通り魔にあったならば積極的に前に出て他の人の盾になろうと思うぐらいには。
なぜこんな悲劇が彼らに、彼女らにと赤の他人であるのに勝手にさめざめと思ってしまうのだ。
もしも世界から悲劇が消えたのなら私も心の底から幸せは感じられるだろう。
だが、悲劇がある限り私はこの緩慢な幸せを享受することはできない。
傲慢である、傲慢である。
自分勝手で身勝手で独りよがりで上から目線のエゴイストに過ぎない。
そう思うとますます私のこの腕が、身体が、心が重苦しくなるのだ。
バスから降りて電車へと乗り換える、定期を使って滞りなく世の中の流れに合わせて改札を通る。
しかし、今日はお婆さんが列の前でもたついていた、後ろや周りの人は特に何も言わない、良くネット上やテレビで見る早くしろと急かす人もいない、ただ少しだけ流れが遅くなるだけだ。
それでも、多分周りの人は遅いと感じたり早くしろと思ってると思う、私も思う。
それは威圧や苛立ちでは無い、悪意では無い、ただそう思ってるだけなんだ、なのに私の心は少しだけ落ち込んでしまう。
当事者では無いのに、ただ周りにいるだけなのに、何も問題はないのに、私は落ち込む。
何に落ち込んでいるかは分からない。
お婆さんがやっと通り抜け、またいつも通り流れが進む、私もまたその流れに同化する。
電車に乗り込み端に向かう、人と人の間に居たくないからだ、それに壁に寄りかかっていれば少なくても寄りかかることによって迷惑をかける事は無くなる。
私は迷惑をかけたくない、迷惑を予見してそうならない様な行動を取る。
電車では端に向かい、バスでは通る人が困らない様にある程度開けておく、人が多くてぶつかりそうならば行かない、体を捩って当たらない様に避ける。
そんなことばかり考えている。
だから、そういうことを考えていなそうな人が迷惑になりそうな行動を取っているのを見ると心底イライラしてしまうのだ、たとえ自分自身に害がなくてもだ。
そこに、実際に考えているのかいないのか判断する基準はない、自分が勝手に思ってるだけだ。
それでも他人に迷惑をかけない様にしてる人がかける迷惑とそうでないただの迷惑ぐらいは分かってると思う。
私は他人に迷惑をかけるのが嫌だ。
朝の電車は満員電車である、端によっても容赦なく圧迫される、また私も圧迫してると自覚している。
なるべく体重をかけない様に、体を預けない様に足を使って体重を移動する。
無理な体勢でも他人に体重をかける方がよっぽど私には苦痛なのだ。
きつい体勢を取りながら頭の中であと何駅かを数える、半分を超えたあたり、あと五駅、三駅、二駅、次で降りる。
降りる駅に到着すると同時に雪崩の様に人の流れが出て行く、私が降りる駅は最も人が降りる街の中心部の駅だ。
密集していた車内から開放された体に駅の涼しい風が当たる、それを満喫する間も無くまた流れに身を任せ、更に乗り換えをする。
乗り換えた電車は先の電車よりは空いている、朝であっても満員にはなる事はない。
適当に空いている席に座る、もちろん端の席である。
思うに、幸福とはバネの反発のようなものなのだろう。
ある程度不幸があり、そこから幸せな出来事があって初めて幸せだと感じることができるのだろう、今も満員のキツイ電車に乗るという不幸から座れるという幸福を感じている。
しかし、緩慢な幸福はバネの溜めが無いのでそこまで幸せと感じることができないのだろう、ましてルーチンである一連の乗車行動は普通の事であり、座れても座れなくても特に何も感じないだろう。
また、他人の不幸は基本的に不幸で終わってしまう、バネがはち切れてしまったまんまのような状態である、なのでただ悲しくなったり苦しくなったり、心が重くなるのだろう。
故に私は、小説や漫画など創作が好きである。
悲劇があってもある意味では都合のいい展開による喜びや幸せ、そこにカタルシスを感じることはできる。
私はスマホに指を走らせる、ネット上に散見する漫画を見る、これもルーチンの一つだ、何回も読み直しているいつもの作品を読んでいる、展開も内容も完全に覚えているが暇つぶしならこれでいい。
しかし、カタルシスを感じるような作品さえ近頃ではなくなってしまっている。
緩慢な幸せ、不幸や苦労なくしての幸せ、そもそも絶望しかない作品。
それらには辟易してしまう。
空想であっても現実であっても私は満たされる事が少なくなってしまった。
私はなんなのだろう。
幸せ不感症である私はなぜ生まれてきたのだろうか。
なぜ私はシンプルに生きることができないのだろうか。
他者の苦しみがわかるからといって手を差し伸べられるほど勇気は無い。
手を差し伸べられるとしても半ば必然的なものだったり、あるいは流されたり、場の空気によってでしか無い。
死んでしまいたい、死んでしまいたい。
でも自殺はいけない、理由がない、私には苦しんで良い理由なんてない、死んで良い理由なんてない。
苦しみがあるはずがない、幸せに生きていけるはずだ。
そう言われてる気がする。
苦しむべき理由を、私が苦しんでいるという理由を、理由を。
そんなものは無い。
哲学的ゾンビと呼ばれる思考実験がある、表面上は普通の人と変わらないが心が存在しない、意識がない状態の様なものを指す言葉だ。
専門的にはクオリアがどうだとか色々定義はあるのだろうがとりあえず私は哲学的ゾンビになりたい。
誰の迷惑にもならず、私が私であるという意識だけがなくなれば良い。
そんなことばかり思う。
座って乗っている電車は早く感じたり長く感じたりする。
多分余裕がある分、今がどうなっているかを考えたり考えなかったりするからだろう。
スマホをいじっていれば早く感じるし、窓から外の風景を見てると時間を相応の長さ感じる。
乗り換える前と後の電車に乗ってる時間はどちらも変わらず三十分くらい乗っているのだが、こちらの空いてる電車はとても長く感じる、他者に迷惑をかけない分考えを巡らしているのだ。
楽しくない、楽しくない楽しくない楽しくない楽しくないないないない。
みんな死んでしまえ。
苦しめ、もっと苦しめよ、なんでなんでお前らはそんなに楽観的に生きられるんだ。
悩め、苦しめ、考えろよ、もっと深く深く深く。
お前の感じる幸せは所詮錯覚に過ぎない、不幸に目をつぶり、無知に目をつぶり、失敗に目をつぶり、不和に目をつぶり。
全員が不幸不感症に過ぎない。
不幸に目を向けないことでしか幸福になれないと言うのか、違う違う違う。
人は幸せになるべくして幸せになれる。
もっと苦しみ、努力し、足掻き、前に進んでこそ幸せが手に入る、そうでなければからないはずなんだ。
諦めに幸せなんてない、不幸ではないだけで幸せには到底及ぶ物ではないはずなんだ。
もっともっともっと苦しめよ。
苦しみのない幸せなんてないんだ、ちゃんと知覚しろ、ちゃんとその苦しみを考えろ、なんでなのか考えろ、他人にどう影響してるか考えろ、他人を考えろ、考えろ、どうなってしまうのかどうすればいいのか常に考えろ。
私は考える時間があるとすぐに無駄で自分しか辛くならないことを考える。
やがて自分の降りる駅に到着する。
人の流れに乗り、大学へと向かう道でこの考えは雲散した。
忘れる事もルーチンワークなのだ。
大学に着くと私は教室に向かいいつもの席に座る。
何と無くだが前から三、四列後ろの右側の席によく座っている。
隣には友達やいつも通りの人が座り、いつも通り他愛の無い会話を交わしている。
やれスマホのゲームの話だ、やれこの課題はどんな風に書けばいいのか、学祭では何するか。
そりゃ中身は変わっているが代わり映えしない話をいつも通りさらっと流している。
別に蔑ろにしている訳ではないが逐一覚えている訳でもない、それぐらいのスタンスで普段の会話は良いのだ。
講義はいつも通り平凡な内容だ。
比較的私は真面目な学生であると思っている。
事実、周りの学生は居眠りしたりスマホをこっそり弄ったりもしている、居眠りをしている友達の中にはお前単位やばいだろって奴もいるがそう心に思うだけで起こさなかったりする。
しかし、私自身も程々にしかノートは取らないし、私以上にしっかりやってる友達、テストの点数の高い友達もいる。
私は身勝手だ。
みんな身勝手だ。
そう思いたい。
私だけが自分のことしか考えてない屑なのだろうか、ゴミなのだろうか。
これほど他者に思いを馳せた所でそれ自体が自分自身の為なのだから結局私は私のことしか考えていないのだろうか。
他人のためなんて言葉自体が身勝手で傲慢なエゴイズムなのではないのか。
どうすれば良いのだろう。
他者のことを考えると言う考えは他人に押し付けるべきでは無いのだろうか。
押し付けずに他者に共感、否そう思って貰うためにはどうすれば良いのだろう。
いや不可能だろう。
他人のことを考えるなんてそもそも人には不可能なんだ。
自分本位で、自分を基準にして、損得でしか動かないのが人だ、私だ。
それに罪を感じるのも傲慢なのだろうか。
自分本位で生きられないのならそう生きるのが正しいのでは無いのだろうか。
そもそもなぜ他者のことを考えなければならないと私は思っているのだろう。
妄執のように、強迫観念のように。
中途半端に真面目である私はそんな事を無意識に思いながら毎日講義を受けている。
いっそ本当に真面目になれば良いと思う、むしろそれこそが私の望む姿なのだろう。
しかし私は中途半端なのだ、真面目という殻は私にとっては苦痛なのだ。
それは受けるべき苦痛である事も理解している、その苦痛の先にあるべき姿がある、端的に言うならば講義の先に単位があり、卒業がある。
だが、その程度の事を理解せず、堕落する人もいる。
もちろん上手くやっている人もいる、講義を少し適当に受けて、教科書や参考書で上手く補完して単位を取得するもの。
それは良いのだ、それは自分の能力と必要な条件とを把握した上で緩んでるだけなのだ。
能力があるならばそれでも良い。
だが無い人もいる、なればそれ相応に他人よりも努力するべきでは無いのだろうか。
出来ないなら出来ないなりのやり方がある、だが少なくても私よりも堕落するのは違うと思う。
これは私の傲慢なのだろうか、勝手に他人の事を考えて、期待をして、落胆をする。
上から目線でしか無い、価値観の押し付けでしか無い、いや実際には外には出してないから押し付けでは無いかもしれないがとにかく傲慢ではある。
彼らなりに考えがあるのだろうか、単位を落とすなどの悪い方向に進むのは何か理由があるのだろうか。
理由があったとしてそれに妥当性があるのか、そもそも単位を落とすことが悪いということが価値観の押し付けなのか。
少なくてもそれは違う、何故なら単位発表の時は必ず落胆をしているからだ。
なればこそ悪い方向に進まない様に私が何かしてあげるべきなんだろうか、それとも他者のことなど何も考えず自分の事だけを考えているべきなのだろうか。
いや、他者のことは考えるべきだ、他者から自分のことを考えて貰えると期待してはいけない、だがそれはそれとして人は他人に影響されて生きている、手助けを受けて生きている。
と言うことは裏を返せば他人の総体は私を形作る環境ということになり、自分を高めるためには、もっと端的に言うなら幸せになるためには他者が良いもので無ければならない。
他者が良いものであるためには、他者の他者である私も良いものでなければならない。
他者の良いものであるためには他者の良いものが何であるかを考えなければならない。
だから他者のことは考えるべきなのだ。
これは究極の利己的な発想なのだろうか。
自分が良いものであるためには他者が良くなければならない、だから他者を良くする為に他者のことを考える。
講義を終える。
いつも通り食堂で友達と昼ごはんを食べる。
朝ごはんに感動を覚えるのは難しいが、時間にゆとりがあり頭もハッキリしている。
昼ごはんは美味しいものを食べたいと思う。
午後の講義を受けて、また私は帰りの電車へと向かう。
帰りは帰宅時間の関係上かなり空いている。
私はいつも通り端っこへと座った。
たとえガラガラな車両の中でも。
結局自分の為なのだろうか。
利己的はダメなのか。
そこから私は間違ってしまったのか。
生命の本懐は自己保存、と言うことは利己的な方が生命体としては正解、正解とは何だろうか、私は劣っているのだろうか、間違っているのだろうか。
利己的でありたくないための考えすら利己的であると理解して、その考えも否定したがる、裏を返せばどこまでも利己的な考えを、エゴイズムを否定したいだけなのだ。
それもエゴなのか、否定したいと言う自分自身の考えを守るための考え方。
私は理解した。
私は一生幸せにはなれない、自己矛盾を抱えて、それを知覚してしまった。
私が幸せになる為には私が死ぬか、世界中の人が利他的になるか、世界中の人が死ぬかしなければならない。
どれも不可能だ、正確に言えば死ぬことは出来るが死んだらおしまいだ。
他者の不幸をなぜ私は悲しむのか、それは所詮自分を良くするはずである環境が悪いものだと分かってしまう、つまり自分もそうなるのだろうと恐怖してるだけだ、他者のことなんてこれっぽっちも思ってない、もしくは思ってる様に錯覚してるだけなんだ。
私はゲンナリした考えを振り払う様にスマホに指を滑らした。
美しいまでのデウスエクスマキナ、純粋な悪意は滅ぼされ、悲劇には救いがあり、良い事には賞賛がある。
結末がわかるから暗い道筋も臆する事なく前へ進めるのだ。
いつも通りの時間に乗り換えの駅へと着く。
いつも通りの流れに身を任せて乗り換え先のホームへと向かう。
そして私はそこで見た。
あれは、あれはいつも通りじゃない。
何が違うのかは分からない、違うという事が何故わかるのかも分からない。
直感なのか、直観なのか、それともこれが運命なのか。
彼女は自殺をしようとしている。
見た目は普通の女子高生、何も変な様子ではない、こんな事を考えてるのも失礼だと思える程普通だ。
電車がやってくる。
いつも通りの時間に。
杞憂であってくれ、杞憂であってくれと何度も何度も思う。
しかし、彼女はやはり、進み出した。
確実に死へと向かう足取り。
虚ろな目であるがその足取りには黒い意思がある。
間違い無くあのままでは投身してしまう。
周りで気付いている人はいない。
私しかいない、私しか、私が。
あれだ、私は綺麗でいたいんだ。
他者を思える、自分を顧みない、ヒーローの様な人になりたいんだ。
ただの憧れ、それも自分自身の為、利己的な願いに過ぎない。
私は走り出した。
周りの人達のざわめきは聞こえず、なりふりを構わず。
私は一直線に彼女の元へ走っている。
彼女はすでにホームの端に足をかけている。
その速度は止まる事が出来る速度では無い。
電車は止まらない。
彼女の腕を掴み、思いっきり引っ張った。
彼女は驚いたような表情をしながらホームへと倒れ込んだ。
私はその体重移動ともともと持っていた加速度によって線路の上へと投げ出された。
そして、一瞬の閃光と彼女の蒼白の顔を見ながら私は。
消えた。
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