隣人以上同棲未満

弓チョコ

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第28話 笑顔で見送る関係

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 まだまだ、暑い日が続く。
 蝉時雨は止まない。
 太陽はカンカン照りだ。
 今年の残暑は凄いらしい。

「じゃ、行ってきます」
「あっ。シャツの襟、歪んでますよ」
「おっと」

 だけど俺の夏は。
 もう終わりだ。

「はいお弁当」
「ありがとう」

 『前提』を経たほのかの笑顔は。また一段と可愛いと思う。
 自信を感じられると言うか。余裕があると言うか。

「冷やし中華とか」
「あっ。それ良い。お願いします」
「はーい。楽しみにしててね」

 少しずつ、口調も砕けてきて。

 もうなんか、恋人と言うより。
 お嫁さんと錯覚する瞬間があるな。

 『一夜』を終えた俺達の関係は。また一歩進んだように思う。

 俺の心にも、少し余裕ができた気がする。安心するんだ。『前提』のお陰で。
 心だけでなく。

 身体も繋がって。

——

 あと、1ヶ月無い。まだまだ暑い日は続くけれど。
 まだまだふたりの時間は続くけれど。

 8月はもう終わった。

 今年の夏は、俺の人生で最も充実した夏だったと断言できる。

 どんな、冒険した子供の夏も。
 どんな、必死に練習した部活時代も。

 小中高の30日の夏休みも。
 学生時代の2ヶ月の夏休みも。

 あの5日には敵わないんじゃないだろうか。
 ほのかと過ごした5日には。

 宅呑みして寝落ちして。
 彼女の実家へ挨拶に行って。
 手を繋いでお祭りに行って。
 熱を出すハプニングもあって。
 本音で話して。
 結ばれて。

 否。
 これから過ごす、ふたりの時間は。他の何にも変えられない筈だ。

 基本仕事して。
 合間に寝る。
 そんな生活だったのに。

 基本、ほのか。
 でも仕事も大事。
 帰ってきたら、ほのか。

 一変だ。
 別の世界みたいだ。
 生活が。考え方が。スタンスが。全て一瞬で塗り変わってしまった。

 去年の俺では想像もできないことだ。

——

「お帰りなさい。お風呂沸かしてみました」
「へっ?」
「たまにはお湯張って、入ろうよ」
「…………一緒に?」
「……はい」
「!」

 俺は男兄弟だから。皆無だった。
 誰かに甘えられるなど。人生初だ。あり得ない。

「やっぱり背中広い。良いなあ」
「良いなあってなんだ?」
「あはは」

 あれ以降。

 ちなみにだ。一応、彼女の名誉? の為に補足しておかないと。

 あれ以降、ほのか『から』は無い。甘えてくるが、つまり誘っては来ない。スキンシップは多いが、『そう』なることは少ない。

 別にやらしい訳じゃない。お互い。中学生のカップルじゃないんだから。

 普通に。ただ普通の甘えん坊なんだ。長女で、しっかりしなくちゃいけなくて。ああいったご両親で。
 確かに、妹さんは甘え上手な雰囲気があった気がする。

 対してこの子は。

「よいしょ~っ」
「うおっ。入らないよ。狭い狭い」
「あはははっ。おにーさんおにーさん。ちょっと詰めて詰めて」
「無理無理無理っ」

 ド天然で甘え上手過ぎると俺は思う。
 可愛くて仕方がない。

 あの。2年前の。大人しそうな女の子からは想像つかない。

「…………冷やし中華、自信作です」
「楽しみだ」
「……はい」

 お互い、分かってる。
 そろそろ荷造りしなくちゃいけない。
 もう、向こうの部屋と。引っ越しの日付は決まっている。

 夏も終わるし。

「半年、耐えられないかも」
「毎週……はちょっと難しいかもしれないけど、月イチなら会える」
「……うん」

 『隣人』も終わる。
 2年半、この子の隣人だった。どこまで行っても、『お隣さん』だった。

 それが今や、恋人だ。
 なんならご両親に挨拶までして、プロポーズまがいのこともしてる。

「あっという間、でしたね」
「そうだな。ほのかはまだ夏休みだってな」
「……学校は無くても、就活してますから」
「応援してる」
「もし駄目だったら?」
「俺が養うから安心してくれ」
「やたっ」
「でも一度くらいは、やっぱり就職して欲しいけど」
「頑張る」
「ああ」

 海は、来年に繰り越すことになった。
 いっぱいある。やりたいことは。
 キャンプも良い。
 山も川も良い。
 プラネタリウムも良い。

 夏だけじゃない。

 紅葉狩りも。
 秋釣りも。

 スノボも。

「……大丈夫。お別れじゃ、ないもんね」
「そりゃそうだ。悲しむことは全く無いさ。今度は一緒に住むんだ」
「えっ……」
「あれ、冗談だと思ってた?」

 ずっとふたりで。
 過ごせたらなと思うんだ。

「同棲しよう」
「はいっ」
「あとそろそろ出よう。のぼせる」
「はいっ!」

——

——

 服を、買いに行きたい。彼の趣味を知りたいし、彼に選んで貰いたい。
 私も、選んであげたい。今度こそ。今度は本当に、心から楽しめる。

 秋服や冬服だけじゃない。来年の春服や夏服も。

 だってずっと一緒なんだもの。

「大丈夫かな」
「何が」
「ちゃんと朝起きれますか?」
「起きられるさ。ずっとひとりで起きてたんだから」
「でもギリギリでしょ? 朝ごはん食べないと」
「あーそれは……努力します」
「え——。もう。あははっ」

 駅のホームで見送る。前とは逆。私が見送る。
 お出迎えは、無い。
 半年後に私が追い掛けるんだ。

「栄養が偏りそう」
「まあ半年だから。ほのかが直してくれ」
「無責任っ」
「悪い悪い」

 9月。
 一瞬だった。
 一応。言っておくけど。私はいやらしい子じゃないから。

 今日までに3回しかしてないんだから。

「おっと。時間だ」
「おにーさん」
「ん」

 おにーさん。

 おにーさんおにーさん。
 多分。
 彼は私を好いてくれているけれど。

 恋愛で言うと、『愛』が強いんだと私は感じている。
 私の為に、考えてくれて。言ってくれて。してくれる。
 甘えさせてくれる。色々と、お世話をさせてくれる。子供みたいな私に。やれやれと。頭を撫でてくれて。好きにさせて貰えている。
 私の為に。自分を犠牲にしてくれる人だ。

 私は、反対に『恋』が強いと思う。頭の中がもう、おにーさんおにーさんなんだ。好きで好きで仕方ない。独占したくてたまらない。ずっとひっついて居たい。ずっとキスしていたい。

 悪く言えば、依存だ。でもそれが恋愛だとは思う。

「キスしましょ」
「…………」
「恥ずかしがらずにっ」
「はい」

 最後に、とは言わない。最後じゃないもの。
 キスしたい、とはもう言わない。私のキスでもあるけど、私だけの『表現』じゃない。

 一緒に。
 キスをしましょう。

 あなたと、しばしのお別れの前に。
 またすぐに会うのだけれど。

 それでも。
 キスをしましょう。

 今度は人前でだって、気にしない。
 9月でもまだ暑いんだ。

 たったふたり、もう少し熱くても良いじゃないか。

「もっと」
「!?」

 あなたは、『甘えさせ上手』だと私は思う。長男だからかは分からないけれど。あなたを見ていると、どんどん甘えたくなる。何でもさせてもらえるんだもの。全部、受け止めて。受け入れてくれるんだもの。

 ビックリしながら、赤らめて。でも嫌ではないそんなあなたの顔。
 大好きだから。
 ちょっとだけ、意地悪したくなってしまう。

「あと1回」
「……!!」

 意地悪じゃない意地悪。去年の私に教えてあげたい。
 今私がどれだけ幸せか。

——

「——じゃあ」
「はい。行ってらっしゃい」
「行ってきます」

 いつものように。毎朝のように。同じ口調と、同じトーンで。

 私は笑顔であなたを見送ったの。
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