あの人、勇者の物語にはいない。

ゼリオニック

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1-6 女神に祈りを 2

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 リースは聖職者に連れられ、教会の地下にある儀式用の部屋にたどり着いた。

 部屋は光を欠き暗闇に包まれていたが、湿気はなく、清潔な香りが漂い、風の通り道がないにもかかわらず丁寧に手入れされているようだった。

 魔法のランプが点々と吊るされ、ほのかな光を放つだけだった。目の前には、マリーナ女神の彫像が立っていた。古代の衣装をまとった女性の姿で、人間の二倍ほどの高さがあった。

 その女神像の前に、木製の拷問椅子が一つ置かれていた。

「えっ」

 リースは二人の下級聖職者に捕まり、椅子に縛り付けられた。口には布が詰められ、声を上げられないようにされた。

 彼を連れてきた聖職者は、濃い赤のインクを準備し始めた。それは確かにインクだった。血の臭いがしないことに、リースは少し安心した。

「知っているかい? 元々、人間が使える癒しの魔法はごくわずかだった。『癒し手』の祝福や、『賢者』の知識の祝福、ルセリア神女王の『聖者』として奇跡を起こす選ばれし者でもない限りね」

「うー、うー」

 リースは頷き、声を漏らしながら彼の話を聞いた。聖職者は赤いインクにさまざまな粉を混ぜ、かき混ぜると、その色は炎のように輝きを増した。

「それでも、古代の賢者たちは魔法回路を創り出し、それを体に刻むことで、祝福の代わりに癒しの魔法を使えるようにしたんだ。この方法は、かつて滅んだ魔法帝国で広く行われていた。彼らの遺産が、今の我々癒し手の基盤になっている」

「うー、うー、うー」

 リースは再び声を上げたが、怖さからではない。好奇心から多くの質問をしたかったが、聖職者は全く耳を貸さなかった。

「マリーナ女神よ、どうか我々にご慈悲を」

 彼が祈りを捧げると、インクの色が変わった。炎のような赤から、沼のホタルの光のような輝く緑へと変化した。

 彼は傍の鉄柱に吊るされた魔法のランプに呪文をかけ、点灯させ、刺青用の針を取り出して光にかざした。

「この工程は少し痛いかもしれない。でも、拷問じゃないって保証するよ。だから、頑張って耐えてくれ」

 狡猾な狐のような声で言い終えると、刺青の針がリースの左胸、心臓の周囲に突き刺さった。痛みが肌を走ったが、リースは耐えられた。黒い森でモンスターと戦った時の痛みに比べれば、ずっと軽いものだった。

 呪文と祈祷の声が途切れず響き、少年の体にインクの模様が刻まれていった。

 聖職者は長い時間をかけてリースの体に魔法回路を刻んだ。彼の顔には疲労が浮かんでいたが、助手の聖職者が汗を拭う布を差し出した。

 最後の針が終わり、彼は大きく息を吐き、言った。

「君、痛みに耐えるのが本当にすごいね」

「うー、うー」

 リースは感謝したが、聖職者がそれに気づいてくれることを願うしかなかった。

「さて、次はもっと難しく、もっと痛い工程だ」

「う……」

 聖職者は狡猾に目を細め、合図を送ると、助手の二人が所定の位置についた。

「魔法回路を肌に刻んだだけじゃ、傷ついたり歪んだりして効果が落ち、魔力を多く消費する。でも、それを君の『魂』にまで刻めば、死ぬまで壊れることはない」

 三人の聖職者が互いに頷き合い、長い呪文を唱えた後、最後の言葉を口にした。

「マリーナ女神よ、この少年にご慈悲を」

 頭のてっぺんからつま先まで、激しい痛みが走った。

 胸に刻まれた緑の輝きは青に変わり、赤と交互に点滅した。熱い何かが体に染み込み、魂の奥深くまで沈んでいった。

 光が肌の下に消えても、リースの痛みは少しも和らがなかった。

「うっ……あぐっ……」

 リースの体は痛みで震え、痙攣した。

「これから、君は自分で巡礼の旅を続けるんだ。癒しの魔法をどれだけ使えるかは、君の体がこの魔法回路にどれだけ適応できるかにかかっている。奇跡を起こせるか、ただの打ち身を癒すだけか、それはマリーナ女神の祝福次第だ。また会おう」

 三人の聖職者はリースの目を布で覆い、口の布もそのままに、部屋を去った。少年は拷問椅子に縛られ、目と口を塞がれたまま、苦痛に耐え続けた。
 痛みの中では、時間がひどくゆっくり流れる。リースは全ての力で布を噛み、痛みに抗った。涙と鼻水が抑えきれず流れ、口には血の味がした。歯茎の全てから血が滲み出ていた。
 痛みゆえに眠ることもできず、ただ耐えるしかなかった。

 痛みゆえに時計の針の音を想像することもできず、いつ終わるのか分からなかった。

 初めて、リースは死への恐怖を感じた。これまで数々の冒険をくぐり抜けてきたが、恐れはなかった。

 今、少年は気づいた。今回は独りだった。パーティーで誰かに助けられる時とは違った。
 死ぬのが怖い。この痛みを生き延びられないかもしれない。

 そして、解放されたとしても、この痛みが一生続くのではないかと恐れた。
 だが、それ以上に恐ろしかったのは、この「巡礼」を終えても、癒し手になれなかったらどうなるかということだった。
「我が神聖なる意志よ、子に慈悲を与え、痛みを鎮めたまえ……ヒール……」
 女性の声が響き、痛みを和らげる温もりが広がった。

「うー、うー」

 口を塞がれたリースは感謝の声を上げようとしたが、できなかった。

「久しぶりね、リース」

 温かい声が響いた。それは少年が決して忘れない声だった。マリッサ、孤児院でリースとアンジェリカを赤ん坊の頃から育ててくれた聖女の声だ。

 今、感謝の気持ちで胸が張り裂けそうだったが、少年にはそれが伝えられなかった。

「リース、私の力は微々たるもので、この痛みを長く抑えることはできない。でも、痛みを鎮める方法を教えてあげる」

 マリッサは温かい手でリースの顔に触れた。

「うー、うー」

「リース……『祝福』とは、上なる者たちが人間に与えるもの。
 生まれながらに持つ者、血を通じて受け継ぐ者、そして……強い願いによって得る者もいる。
 今、君の前にいるマリーナ女神は、心からの願いを叶える祝福を授けてくれる。
 だから、リース。マリーナ女神に祈りを捧げなさい。心から求めるものを、愛するものを、すべてを賭けてでも欲しいものを願いなさい。
 マリーナ女神がその祈りを受け入れた時、この巡礼の旅は……終わるよ」

 育ての母とも言えるマリッサが優しく語ると、リースは小さく頷いた。

「さて、リース。私はもう行かなくちゃ。このことは私たちの秘密よ。あの主任聖職者に知られたら、面倒なことになるからね」

 彼女の手が顔から離れ、足音が遠ざかった。大きな扉が閉まる音が響いた。
 再び痛みが少年を襲った。しかし、今、リースは自分が何をすべきか知っていた。

 どれだけの時間が過ぎたのか分からない。激痛の中、リースは意識を集中し、考えることに努めた。耐え難い痛みの中で考えるのは難しかった。

 だが、ついにリースはそれに成功した。

 彼は自分に問いかけた。

 なぜここに来た? 冒険者を辞めると決めたはずなのに?

 癒しの魔法使いになりたかったのか? ……違う。

 アンジェリカに会いたい……そう、でも、なぜ?

 考えている間、刺すような痛みが変化した。顔を覆う涙と鼻水は、今、血の味と匂いを帯びていた。時間がもうすぐ尽きると、リースは感じた。

 なぜ今なんだ……。

 幼い日の記憶が浮かんだ。街の外の丘、大きな木の下でアンジェリカと座っていた。

「マリッサさんが言ってた。私の父は偉大な冒険者『ワイレリアス』だったんだ。いつか私も父のようになるよ」

「アンジェが冒険に出たら、俺、寂しくなるよ」

「じゃあ、リースも一緒に来なよ」

 アンジェリカは迷いなく、力強く言った。少女の声なのに、強さと勇気に満ちていた。その声に、少年は彼女に心を奪われた。

 アンジェリカは立ち上がり、リースの腕をつかんで笑った。

「どこへ行くにも一緒に。冒険も一緒にね」

「うん、アンジェがそう言うなら、俺も行くよ」

「うん、ずっと一緒に行くって約束して」

 そう約束したのに、リースは追い出された……。

 全ては、リースが十分に強くなかったからだ。だから、強くなる祝福を願おう……アンジェリカに会うために……でも、ただ強くなるだけでいいのか?

 強くなれば、すべてが花びらを散らした美しい道のように進むのか?
 いや、そんな簡単じゃない。

 その瞬間、少年は気づいた。彼が求める「祝福」は、決して強さではない。リースの心は、それ以上のものを求めていた。
 それ以上のもの。
 ……

 リースは最後の力を振り絞り、顔を振って口の布を外し、叫んだ。

「マリーナ女神に願います! アンジェリカの『守護者』となる祝福をください! もし私が彼女の『守護者』になれないなら、彼女を癒す『癒し手』にしてください!」

「我が名、マリーナ、水と癒しの女神の名において、愛すべき我が子よ、願いを叶えよう」

 清らかで純粋な女性の声が響いた。全ての痛みが消え、苦痛でボロボロだった体が新品のように癒された。

 その瞬間、リースはこれまで知っていた魔力とは全く異なる力を感じた。神秘的で遠いその力は、部屋を満たしていた。

 刻まれた模様の部分がその力を全て吸収し、微塵も残さなかった。
 全てが終わった。部屋の扉が再び開かれた。

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