来世にご期待下さい!〜前世の許嫁が今世ではエリート社長になっていて私に対して冷たい……と思っていたのに、実は溺愛されていました!?〜

百崎千鶴

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第57編「一緒に居られることが当たり前じゃないから」

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 込み上げた涙が視界をゆがませ、恋幸の思考を阻害そがいする。
 鼻の奥がつんと痛むのを自覚した時には、すでにしたたり落ちたしずくがエプロンに染みを作った後だった。


「……小日向さん」
「っす、すみませ、」


 早く泣き止まないと、彼を困らせてしまう。
 焦燥感しょうそうかんに駆られうつむいたまま服の袖で何度顔をぬぐっても、すぐに目尻が熱くなりころりと水の玉が落ちた。

 そうこうする内に恋幸の脇の下に裕一郎の手が滑り込み、軽々と持ち上げられたかと思えば彼の足の上から降ろされる。


(あ、だめ。こんな風にすぐに泣いたら、裕一郎様の負担になっちゃう)


 肺の奥が寒くなり心臓が嫌な音を立て始めた瞬間、恋幸の体をたくましい二本の腕が包み込んだ。


「!!」


 ワンテンポ遅れて肌にじわりと体温が伝わり、そこではじめて裕一郎に抱き締められたのだと気付く。
 決して彼のことを心の狭い人間だと思っていたわけではないが、てっきり「付き合っていられない」という意味で体を離されたのだと彼女にとって、不意に与えられた『優しさ』はただ涙を加速させるだけのものだった。

 ありがとうございます、ごめんなさい、大好きです。
 どれか一つでも伝えたくて開いた口からは繰り返し嗚咽おえつが漏れるばかりで、自分の意思では横隔膜おうかくまく痙攣けいれんを抑える事もできなかった。


「ひ、っう……く、くらっ、もっ、う……っ」
「よしよし。大丈夫、大丈夫」
「~~っ、うう、っふ……」
「小日向さん。泣き止むのは後回しで構いませんから、まずはゆっくり息をしてください」


 裕一郎は片腕で恋幸の体を強く抱き締めたまま、小刻みに跳ねる彼女の薄い肩を空いている方の手で優しく撫で続ける。

 そして、今だしゃくり上げながらも言われた通りに深呼吸を始めた恋幸に対して、幼子おさなごをあやすかのように「いい子、いい子」とひどく優しい声音こわねで囁いた。





「……貴女に初めて出会った、あの日」


 しばらくの静寂を経てから、恋幸の呼吸が落ち着いてきた頃。裕一郎はおもむろに口を開く。
 それを聞いた恋幸は片手で目元を擦りつつ少し体を離し、涙にうるんだ瞳で彼の顔を仰ぎ見た。すると、裕一郎はその手をそっと掴んで「擦ったら駄目ですよ」とたしなめ、自身のポケットからハンカチを取り出す。

 大丈夫ですと言って遠慮するのを見越してか、彼は恋幸が何か言うより先にで涙にまみれた頬や鼻水を拭き取り、ハンカチをポケットにしまってから長い指の背で目尻の雫をついとぬぐった。
 それから、大きな両手で王子様さながらに彼女の両手をすくい取り、上半身を少し屈めて額同士をくっつける。


「貴女と……小日向さんと、あの喫茶店で出会った瞬間。夢の中にしか存在しないのだと諦めていた想い人が、現実に現れた。あの時の喜びを、そっくりそのまま貴女に伝えられる方法は無いだろうか? そんな風に考える時があります」


 青い双眸そうぼうは眼鏡越しに恋幸の瞳を覗き込んでゆるやかな半月型を描き、金木犀きんもくせいのあたたかい香りが彼女を包み込んで息継ぎの仕方を忘れさせた。

 つい先ほどまで様々な感情に支配され、色の違うクレヨンでぐちゃぐちゃに塗り潰されたかのように散らかりきっていた心が、裕一郎の落ち着いた声を聞いている内にいでいく。


「一番最初に、夢の中で貴女に出会い恋に落ちた日以降。昔から、私の夢に現れる小日向さんはいつも……いつも、暗い顔で黙り込んだまま私を見ているか、泣いてばかりいたんです」
(……えっ?)
「ですから……初めて貴女の笑う顔を見た時、どうすればこの笑顔を守れるのだろうかと思いました。些細ささいな事で表情をコロコロ変えて楽しそうにする貴女を見た時、許されるのならこれから先いつまでも貴女の隣にりたいと感じました」


 淡々と落とされる独白を聞く内に、愛おしさに似た熱が恋幸の心をじわじわと侵食していった。

 ほんの少し顔を動かして上目遣いでそろりと彼を見やれば、文字通り目と鼻の先にある裕一郎の青い瞳がすぐ視線に気づいて恋幸を映し、「ふ」と小さな息を吐いて笑う。


「……小日向さんの泣く顔は“もう”見たくないというのが本音です。ですが、この先……長い人生の中で、貴女を一度も泣かせないと誓う事は私にはできません。なので、『貴女を泣かせない方法』ではなく、『貴女を泣き止ませる方法』を考える事にしたんです」


 チェロの音に似た低音が穏やかに想いを語り、ひたすらにまっすぐ向けられる裕一郎からの愛情と優しさは恋幸の目尻を再び熱くさせた。


「わた、し、私は……っ、」
「はい」
「ゆっ、いちろさま、に……愛想、尽かされて、さよならされるのが怖いです」
「……うん」


 一つ、二つ。抱えていたものを言葉にして唇からこぼすたび、止まっていたはずの涙が勝手に頬を伝い落ちていく。

 俯いて声を震わせながらも一生懸命に気持ちを伝えようとする恋幸の手を握り締めて、裕一郎は彼女の話に耳を傾けていた。


「ずっと、ひ、っう、今度こそ、ずっと一緒にいたいです。もっ、もう、離れたくない。でも私っ、そんな価値無いから、だから、っう……『好き』だけで、ずっと一緒に居たいって、図々しいこと考えてます。ごめんなさい……っ」
「考えている事を教えてくれてありがとうございます、いい子ですね」


 いよいよ子供のようにわんわんと泣き始めてしまった恋幸を裕一郎は両腕でそっと抱き寄せ、しゃくりあげるたびに跳ねる背中を一定のリズムで優しく叩く。


「大丈夫ですよ。私が恋幸さんに愛想を尽かしたり、貴女から離れる可能性は万に一つもありませんから」
「……っ、でも」
「何十年も待ってようやく会えた想い人を簡単に手放せるほど、私は物分かりの良い人間ではないのでね。……『好き』だけで“一緒に居たい”と願っている私を、貴女は“図々しい”と思いますか?」
「……! おっ、思うわけないです!!」
「そうです。思うわけがないんですよ」


 恋幸が勢いよく顔を上げた先にあったのは、青い瞳にひどく優しい色を浮かべて微笑む裕一郎の姿だった。

 彼は親指の先で恋幸の目元を拭ってから、乱れていた長い黒髪を手櫛てぐしいて頭を撫でる。
 こうして垣間見せる優しさの一つ一つが、いつでも恋幸の胸を締め付けて頭の中を『好き』でいっぱいにさせるのだ。


「~~っ、ゆ、いちろ、さま」
「はい。私も好きですよ、恋幸さん」
「うう……っ、うえ~ん……!」
「よしよし。貴女が泣き止むまでいつまででも待ちますから、大丈夫ですよ」


 聞きたかった事、話したかった事。
 お互いに頭の隅で浮かんでは沈むものがあれど、今だけは気づかないふりをする。

 目の前にる愛しい人が、この先いつまでも手の届く場所に居ますように。
 抱きしめ合う二人が強く願ったのは、同じ未来だった。
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