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第63話 記憶と現実
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四年前のある日、白ウサギがこう言った。
「ねえ、エース……もう一つ私のわがままを聞いてくれないかしら?」
それは内容次第だと返して首を振れば、白ウサギは「そうよね、ごめんなさい」と困ったように笑い、もう一度「ごめんなさい」と呟いた。
その背中がひどく悲しげだったことを、今でもはっきりと覚えている。
(……なんだ?)
白ウサギは“昔から”自分本位なわがままを言うような女性ではなかった。
いつでも他者の意思を尊重し、自身のことは後回し。そんな彼女が自分からあのようなことを言い出すなど少し気がかりではあったが、当時の私はそれ以上深く追求しなかった。
しかし、それから一年後。
「エース、お願い……私のわがままを聞いて」
今にも泣きだしそうな顔で私にすがりつく白ウサギを見て、冷酷に突き放すことなどできなかった。
「なんだ……? どうしたんだ?」
「この国にアリスが立ち入るのを許可して、お願い……私が連れて来ることを、許して……」
「アリス……? 誰だ?」
はらはらと涙を流しながら、白ウサギは風に揺れる風鈴のような声で語る。
「私、こっそり『あちら』の世界に行っていたの、ごめんなさい……そこで、ある女の子を……ずっとずっと、見ていたの……」
はじめはただ、「お人形のように可愛い女の子だわ」と目を惹かれただけだったそうだ。
しかし、なんという皮肉か……少女は母親から虐待を受けており、日に日に衰弱していく姿を目の当たりにしてしまったらしい。
そう――……この一年間、白ウサギは見ていることしかできなかったのだ。
手を伸ばせば、簡単に抱きしめられる距離に居たというのに。
「このままじゃきっと、あの子の心は壊れてしまうわ……花屋に似て、とても優しくて、心が綺麗で、脆い子だから……放っておけないの……」
「……相変わらず、弟のことが心配らしいな」
「茶化さないで。今の私はもう、あの子の姉じゃない……その資格は無いわ……でも、」
白ウサギは――彼女はどんな姿になっても相変わらず愚かなほどに優しすぎて、哀れに思えた。
「もう、あの時の悲しみを繰り返したくないの。間に合う内に、あの子を……アリスを、救ってあげたい。お願い、エース……手を貸して」
「……わかった、良いだろう」
***
三年前。話に聞いていた『アリス』に初めて出会った日、
「こんにちは、はじめまして。アリスです」
「……っ!?」
興味本位で覗いた少女の記憶はあまりにも凄惨で、胃の中にあるものを全て吐き出しそうになった。
(……この子はまだ、五歳だぞ……?)
この齢でここまでの経験をしなければならないなど、『神』と呼ばれる存在はひどく残酷で醜い。
(せめて……せめて、年相応の平穏な人生を送らせることはできないだろうか……)
今思い返すと、当時の私は『神』よりも醜悪で傲慢だった。
(……ああ、そうだ。良い方法がある)
自分の行いで『アリス』の人生を全てぶち壊しにしてしまうなど、想像すらしていなかったのだから。
***
「……エース、連れて来たわ」
「ああ……ありがとう、白ウサギ」
「……」
三年ぶりに再会したアリスはひどくやつれていて、眩しいほどにきらきらと輝いていたはずの空色の瞳は絶望に染まり、希望の光を失っていた。
「アリス……」
「……」
私は――……ただ君に、謝りたかった。
(……すまない、アリス)
私は結局なんの力にもなれず……君から、全てを奪ってしまった。
(私は……)
あんなことになるとは思わなかった、そんなつもりではなかった。そんな言葉は、言い訳にもならない。
アリスがこの国に来るというのは、君が今現在『不幸』な現実から逃避していることを意味する。
だから私は、アリスにはもう二度とこの国へ来てほしくなかったのだ。
それがどうだ?結局、この子を底の見えない不幸へ突き落としたのは他でもない……私じゃないか。
けれど、
「……なあ、アリス?」
君はこの国にいれば、必ず幸せになれる。平穏な日々を送る“普通の女の子”になれるんだ。
なんせワンダーランドは、『アリス』にとっての楽園なのだから。
(不幸中の幸い、と言ったところか……)
偽善者のくせにそんな甘い考えを抱いたから、神は私を罰したのだろう。
「……ねえ、エース? アリスね、この国のみんなとゲームがしたいの」
「ゲーム? ああ、もちろん構わないが……どんなゲームなんだ?」
少女は氷のように冷たい瞳で弧を描き、
「みんなで、アリスをころすゲームだよ」
歌うような声が、私に絶望を突きつける。
「……な……どう、して……そんな、ゲームを……」
「……ごめんね、エース。つかれちゃった」
もう、手遅れだったのだ。
私は……私たちは、この子の心を救えなかった。
「アリスはね……アリスのことを好きでいてくれる人に、ころされたいの」
――……何度君に謝れば、許してもらえただろうか。
「アリスは、死にたいよ……みんなみたいに、死んじゃいたい」
どうやって贖罪すれば、その希死念慮を捨ててくれたのだろうか。
「みんなアリスのせいで死んじゃったのに、なんでアリスだけ生きてるのかわからないの……」
(違う)
そんなことはない、どうか「お前のせいだ」と蔑んでくれ。
そして、
(アリス、アリス……)
生きたいと、願ってほしい。
「……エース、ルールはもうきめたでしょう? だから、おねがい。ゲームをはじめて?」
「……ああ、わかった」
なあ、アリス。私は醜い愚か者だから、ゲーム中に何度でも君に“余計なこと”をするだろう。
(……すまない、アリス)
過去の記憶を消したのも、その内の一つだ。
何も覚えていないアリスにとって、命を狙ってくる『知らない人』は恐怖でしかないだろう?
そうすれば、きっと「死にたくない」「元の世界へ帰りたい」と強く願うはずだ。
ワンダーランドでこんな馬鹿げたゲームを続けるくらいなら、アリスには元の世界で平穏に暮らしてほしい。
(……すまない、許してくれとは言わない。ただ、)
私はただ君に、笑って生きていてほしいのだ。
「ねえ、エース……もう一つ私のわがままを聞いてくれないかしら?」
それは内容次第だと返して首を振れば、白ウサギは「そうよね、ごめんなさい」と困ったように笑い、もう一度「ごめんなさい」と呟いた。
その背中がひどく悲しげだったことを、今でもはっきりと覚えている。
(……なんだ?)
白ウサギは“昔から”自分本位なわがままを言うような女性ではなかった。
いつでも他者の意思を尊重し、自身のことは後回し。そんな彼女が自分からあのようなことを言い出すなど少し気がかりではあったが、当時の私はそれ以上深く追求しなかった。
しかし、それから一年後。
「エース、お願い……私のわがままを聞いて」
今にも泣きだしそうな顔で私にすがりつく白ウサギを見て、冷酷に突き放すことなどできなかった。
「なんだ……? どうしたんだ?」
「この国にアリスが立ち入るのを許可して、お願い……私が連れて来ることを、許して……」
「アリス……? 誰だ?」
はらはらと涙を流しながら、白ウサギは風に揺れる風鈴のような声で語る。
「私、こっそり『あちら』の世界に行っていたの、ごめんなさい……そこで、ある女の子を……ずっとずっと、見ていたの……」
はじめはただ、「お人形のように可愛い女の子だわ」と目を惹かれただけだったそうだ。
しかし、なんという皮肉か……少女は母親から虐待を受けており、日に日に衰弱していく姿を目の当たりにしてしまったらしい。
そう――……この一年間、白ウサギは見ていることしかできなかったのだ。
手を伸ばせば、簡単に抱きしめられる距離に居たというのに。
「このままじゃきっと、あの子の心は壊れてしまうわ……花屋に似て、とても優しくて、心が綺麗で、脆い子だから……放っておけないの……」
「……相変わらず、弟のことが心配らしいな」
「茶化さないで。今の私はもう、あの子の姉じゃない……その資格は無いわ……でも、」
白ウサギは――彼女はどんな姿になっても相変わらず愚かなほどに優しすぎて、哀れに思えた。
「もう、あの時の悲しみを繰り返したくないの。間に合う内に、あの子を……アリスを、救ってあげたい。お願い、エース……手を貸して」
「……わかった、良いだろう」
***
三年前。話に聞いていた『アリス』に初めて出会った日、
「こんにちは、はじめまして。アリスです」
「……っ!?」
興味本位で覗いた少女の記憶はあまりにも凄惨で、胃の中にあるものを全て吐き出しそうになった。
(……この子はまだ、五歳だぞ……?)
この齢でここまでの経験をしなければならないなど、『神』と呼ばれる存在はひどく残酷で醜い。
(せめて……せめて、年相応の平穏な人生を送らせることはできないだろうか……)
今思い返すと、当時の私は『神』よりも醜悪で傲慢だった。
(……ああ、そうだ。良い方法がある)
自分の行いで『アリス』の人生を全てぶち壊しにしてしまうなど、想像すらしていなかったのだから。
***
「……エース、連れて来たわ」
「ああ……ありがとう、白ウサギ」
「……」
三年ぶりに再会したアリスはひどくやつれていて、眩しいほどにきらきらと輝いていたはずの空色の瞳は絶望に染まり、希望の光を失っていた。
「アリス……」
「……」
私は――……ただ君に、謝りたかった。
(……すまない、アリス)
私は結局なんの力にもなれず……君から、全てを奪ってしまった。
(私は……)
あんなことになるとは思わなかった、そんなつもりではなかった。そんな言葉は、言い訳にもならない。
アリスがこの国に来るというのは、君が今現在『不幸』な現実から逃避していることを意味する。
だから私は、アリスにはもう二度とこの国へ来てほしくなかったのだ。
それがどうだ?結局、この子を底の見えない不幸へ突き落としたのは他でもない……私じゃないか。
けれど、
「……なあ、アリス?」
君はこの国にいれば、必ず幸せになれる。平穏な日々を送る“普通の女の子”になれるんだ。
なんせワンダーランドは、『アリス』にとっての楽園なのだから。
(不幸中の幸い、と言ったところか……)
偽善者のくせにそんな甘い考えを抱いたから、神は私を罰したのだろう。
「……ねえ、エース? アリスね、この国のみんなとゲームがしたいの」
「ゲーム? ああ、もちろん構わないが……どんなゲームなんだ?」
少女は氷のように冷たい瞳で弧を描き、
「みんなで、アリスをころすゲームだよ」
歌うような声が、私に絶望を突きつける。
「……な……どう、して……そんな、ゲームを……」
「……ごめんね、エース。つかれちゃった」
もう、手遅れだったのだ。
私は……私たちは、この子の心を救えなかった。
「アリスはね……アリスのことを好きでいてくれる人に、ころされたいの」
――……何度君に謝れば、許してもらえただろうか。
「アリスは、死にたいよ……みんなみたいに、死んじゃいたい」
どうやって贖罪すれば、その希死念慮を捨ててくれたのだろうか。
「みんなアリスのせいで死んじゃったのに、なんでアリスだけ生きてるのかわからないの……」
(違う)
そんなことはない、どうか「お前のせいだ」と蔑んでくれ。
そして、
(アリス、アリス……)
生きたいと、願ってほしい。
「……エース、ルールはもうきめたでしょう? だから、おねがい。ゲームをはじめて?」
「……ああ、わかった」
なあ、アリス。私は醜い愚か者だから、ゲーム中に何度でも君に“余計なこと”をするだろう。
(……すまない、アリス)
過去の記憶を消したのも、その内の一つだ。
何も覚えていないアリスにとって、命を狙ってくる『知らない人』は恐怖でしかないだろう?
そうすれば、きっと「死にたくない」「元の世界へ帰りたい」と強く願うはずだ。
ワンダーランドでこんな馬鹿げたゲームを続けるくらいなら、アリスには元の世界で平穏に暮らしてほしい。
(……すまない、許してくれとは言わない。ただ、)
私はただ君に、笑って生きていてほしいのだ。
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