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6.目覚め
しおりを挟む「……レ…ノ」
明け方近く、昨夜から吹いていた強い風はいつしか止み、辺りは静寂に包まれていた。薄暗い部屋の中、窓辺に置かれているベッドから弱々しい子供の声だけが微かに聞こえる。まだ気温の低いこの時期、冷たく張った空気の中でレノが心から渇望していた声が届いた。だが、初めはなにか分らず、何年振りかに眠りについていたレノは瞼を閉じたまま注意して聞いていなければ聞き逃してしまうその"音"の振動を感じているだけだった。
「……レノ」
再びシンと静まり返る部屋の中で、その音が先ほどよりも僅かに強く、そして幾分はっきりとした"音"が響いた。その二度目の"音"でレノは眠りに落ちていた意識を浮上させた。
「……リン?」
「レノ…」
向き合うような形で寝ていた二人の視線が合った。黒い瞳は確かに正面にいるレノに向けられている。これまで一度も焦点を合わせることのなかった大きな黒い瞳がしっかりと意思を持っていた。乾いた唇がしきりにレノという名を形作る。その光景に驚きを隠せないレノの表情が揺らぎ、淡い水色の瞳は驚愕していた。
「リン! 私が分るのか? 戻ったのか? ……戻ってきてくれた…リン!」
「…レ、ノ」
ひどく掠れた声で自身の名を呼ぶリンの身体を強く抱きしめるとレノは動揺しながらも、嬉しさと愛しさの混ざる声をあげた。信じられなかった、いや、いつか戻ってきてくれると信じていた。目の前にいるリンが、こちらに視線を合わせて必死で唇を動かしながらレノの名を呼んでいる。もう、どう考えていいのか分らなかった、とにかく嬉しかった。少しでも強く抱きしめれば壊れてしまいそうなほど細く、小さなリンの身体を慎重に抱きしめながらも、レノの両手は力強くリンを抱いていた。
「ごめ…んね。レノ、ごめん…なさい。ぼくずっと…め…わくかけて…ごめんなさい…」
レノの腕の中にしっかりと抱きしめられていたリンは途切れ途切れになりながらも、まだきちんと出せない声を出して謝ってきた。なぜ謝るのか、謝るのはこちらのほうであって、リンは謝る必要などない。疑問を抱いたレノはそう思いながらも、まだ離すことの出来ない自分よりもずっと小さなリンの身体を抱きしめる。
「ごめんなさい……迷惑、かけて」
「どうして謝る? 迷惑なんて感じたことなど一度もない。リンが謝るようなことなど、なにもない」
「…で、も」
リンが腕の中で苦しそうに再び話し出すと、それまで強く抱きしめていた腕を緩めて右手をリンの長く伸びてしまった黒髪にのせた。
「でも…レノは、ぼくのために…軍をはな…れたでしょ? そ、れにずっと話せなくて…、か、らだもうごかせ、なくて…。いっ、ぱい…かなし…顔、させたよ…ごめ、なさい…」
リンは久しぶりに発する言葉を上手く伝えることができず、時折苦しそうに呼吸をしながらもレノに今まで感じていた思いを伝えた。
「…リン、これまでの事は全て分っていたんだな…。ただ今まではずっと反応できずにいただけで。すまない、私はリンの前で何度もそういう表情を浮かべてしまった。だけれど、それはリンのせいではない。全て、私自身に対するものなんだ。リン、本当にすまなかった」
「あ、やまら…ないで、レノは、わるく…ない」
微熱のある身体がつらいのか、それとも自分の為に全てを投げうったレノに対する贖罪の気持ちからなのか、リンは辛そうな顔を浮かべると視線を逸らした。
「いや……私がいけなかったんだ。リン、これからは何があっても私が守る、必ず守るよ。もう軍人ではない、普通の民間人になったんだ。だから…、この先ずっと私と一緒にここで暮らしていこう」
一緒に暮らそう、その言葉でリンは再びすぐ目の前でやさしく語りかけてくる人間ではない、アンドロイドの綺麗な水色の瞳を見た。これまでに出会った人達の中で、一番綺麗でやさしい色。リンはそう思った。でもその色がリンの心を安心させるとともに、こんな自分にどうしてここまで、という気持ちも同時に起こさせる。
「…で…も、そうなったら、レノが、たいへ…んになる」
「大変なんかじゃない。そのようなことを思ったことなどないし、これからも思わない。リン、もう誰にも絶対に、何もさせたりはしない。この先、二度とそんなことはさせない」
レノは右手でやさしくリンの頭を撫でながら、不安の入り混じる顔をこちらに向けてくる黒い瞳を見つめながら言った。
「…レノ、で、も…」
「久しぶりに話して疲れただろう? とりあえず、この話はリンがちゃんと回復してからまたしよう。今はもう休んだほうがいい。まだ明け方で起きる時間には少し早い」
まだ回復しきっていないリンを心配したレノはこの話を一度中断させようと説明すると、リンの額に軽くキスを落とした。リンは開きかけた口を閉じると、レノの言葉に従った。けれども、ゼムリア軍のエリートであったレノをゼムリア連邦から自身の意思とは別に、結果的に引き離してしまったことに対して罪悪感を感じずには入られなかった。そしてリンは不安そうにレノを見つめると、自分のせいでレノに負担をかけたくない、そんな思いが無意識に表情に浮かんだ。けれども、嬉しそうに見つめてくるレノを見て、リンはそれ以上この話をするのを諦めると、少しだけ周囲を見回しながらレノに質問をした。
「…いま、なんじ?」
「まだ四時半だ、もう少し寝たほうがいい」
「きょ…なん、にち?」
「今日は、三月の二十日だ。この家に住み始めてから三ヶ月近く経つ」
「こ、こはイオって、まち…だよ、ね?」
「あぁ、そうだ。惑星リースのイオというところだよ」
「…そっ…か」
「さぁ、リンもう寝なさい。私は下に降りているから」
リンに気を使ったレノはベッドからゆっくりと起き上がると、乱れていたシーツを整えてリンに掛けなおした。
「…ん、…すこしだけ、そばに……いて」
いなくなったら、またずっと会えなくなるかもしれない。ふと、そんな不安がリンの中で首をもたげた。いなくならないで欲しい。そう思った瞬間、リンは離れようとするレノにまだ掠れる声で、そばにいてほしいとお願いした。レノは怯えたような目つきで、訴えてくるリンに対して少し驚きながらも、自身を必要としてくれるリンに一層やさしげな表情を浮かべると、静かに頷いた。
言いようのない喜びがレノを包んで離さなかった。やっと目覚めてくれた、惑星ゼムリアの労働者階級の住む区画内の地下で変わり果てたリンを姿を見つけ出し、惑星リースに逃れるまでずっとリンは眠り続けていた。そして、惑星リースでリンは目覚めた。けれどもその日から今日までの間、ずっと意識はあっても感情は消え去り、人形のようであった。まるでアンドロイドであるレノと人間であるリンが入れ替わってしまったのかのような状態であった。もっとも、レノはアンドロイドでありながら人の心を持つ機械であったが。人形のようになっていたそのリンが本当の意味で目覚めたのだ。そのことはレノの心にこれまでに感じたことのない喜びをもたらしていた。
再び眠りについたリンを起こさぬようそっと手を離すと、二階の部屋を後にしたレノは階下に降り、感情を現せるようになったリンの為に、今まで一度も作ったことのなかった料理にとりかかっていた。初めは感情を取り戻し、話せるようになったリンであれば栄養剤の入った味気のない食事でも大丈夫だと考えたのだが、リンが突然回復したのはもしかしたら、昨日テスの作ってくれたスープが一因にあるのではないかと考えたうえでのことだった。ただ設定された通りに作り出される食事とは違い、人が自身の手と味覚を用いて作られた料理、その料理の匂いや目には見えない"心"というものにリンは揺り動かされたのかもしれないと感じていた。
キッチンで冷蔵庫の中を調べて、今ある調味料などを正確に把握しているレノは流動食などや栄養剤などがぎっしりと詰った冷蔵庫を開けると、その中から僅かにあった食材を取り出した。それらは昨日、テスが料理を作るために持参してきたトマトとタマネギ、セロリといった野菜類とベーコンの余りであり、それ以外にレノ自身が買った食材はなかった。野菜などをキッチンテーブルの上に置くとレノはしばし考え込んだ。電子脳の中に記憶されているレシピを正確に作り出す自信はある。けれどもレノはこれまで一度も料理をしたことがなく、レシピなどは全て頭の中に入っていたが、初めて行う作業にほんの僅かだが戸惑った。人間と同じ味覚を持っているレノであるが、人間の味覚とは多少なりとも違うのではないか、まして病人食となると余計に気をつかう。だが、リンにはどうしても食べて欲しいと思うと行動に移した。
銀色のキッチンナイフを手に持つと、レノは初めてとは思えないほどの手さばきで料理をしている。野菜を細かく刻み、小さめの鍋に入れて調味料を加えて炒めているといい匂いが立ち上った。鍋に全ての食材を入れて、水を入れて煮込み始めた頃キッチンの壁に取り付けられたアンティークのアナログ式の掛け時計はちょうど七時を指していた。レノはこの時代では珍しいガスによるコンロの火を弱火にすると、リンの様子を看る為、二階へと上がった。二階の奥にある書斎のような部屋の奥に置かれたベッドのうえで、既に起きていたリンは部屋に入ってきたレノに気がつくと安堵の色を浮かべた。
「リン、起きてたのか。身体の調子はどうだ? どこかつらいところはないか?」
「…だい、じょうぶ」
自ら起き上がろうとするが、自分の力では起き上がれない様子のリンに近寄ると、レノは静かにリンの上体を起こした。
「痛いところはないか?」
「ん…」
これまでの三ヶ月、話しかけても一切反応のなかった事を思い出すと、今こうして返事をしてくれるリンを見て、レノは改めて心から喜びを感じていた。
「初めて料理を作ってみたんだ。昨日、テスが作ってくれたものと同じものになったが。そうだ、テスは分るか?」
これまでに何度かリンと会ったことのあるテスの名前を確認する。感情はなかったとしても、視界に入るものや耳から聞こえてきた情報は感情がないながらも分っていたリンだったので、多分知っているだろうとは思っていた。
「うん…分るよ。きのう、食べれなくて、……ごめんなさい」
「謝らなくていいんだ、テスはまた作りに来てくれると言っていた。リン、少し待っててくれ。今スープを持ってくる」
レノはそう言うと、リンをそのままにすぐキッチンへと向うと小さな白い器にスープを半分ほど注ぐと、トレイに載せてまたリンのいる二階へと向った。
「リン、スプーン持てるかい?」
リンの肩から切断されてしまった両腕はしっかりと元通りになっていたが、これまでリンは腕を動かすことはほとんどなく、ちゃんと動かせることができるのか心配していたレノはさりげなくスプーンを渡した。
「……うん」
小さな声で一言だけ言うと、リンは右肘を少し上げてレノが手渡してきた銀色のスプーンを手に取ろうとした。けれども指は思うように動かず、スプーンはするりとリンの手を離れて床に落としそうになった。
「まだ、あまりちゃんと動かないようだな。リン、私が口に運ぶけどいいか?」
「…うん」
落ちそうになったスプーンを素早く取ったレノは、スプーンを持つことができず自身の手を見つめているリンを見ながら少し間をおいた後、やさしい口調で言った。まだ湯気の立つスープを掬うと、レノは冷ますために何度か息をかけてからゆっくりとリンの口元に運んだ。目の前に持ってこられたトマトスープを見ると、おもむろに口を小さく開いた。そして何ヶ月振りかの食べ物を口に入れた。
「……」
リンは口に入れたスープが飲み込めず、そのまま固まってしまっていた。ほんの少しのスープが口内の手前側で留まり、スープの味は舌を通して伝わってきたがリンは飲み込めなかった。リンはどうしてそれを飲み込めないのか自分でも理解できず、ただ口の中に何かがある、ということにどうしてか理由は分らないが異常なほど嫌悪感を抱いていた。飲み込むことも吐き出すこともできないリンは眉を寄せて辛そうな顔を浮かべている。
「リン? 大丈夫か? つらいなら無理に飲まなくていい、ここに吐き出して」
スープを口に含んだまま俯いているリンの様子を見て、レノは背中に手を当てながらベッドの脇に置かれているサイドテーブルの上にあったタオルを差し出した。
僅かなスープが喉を通らない、リンは自身の異変に動揺しどうして飲めないのか戸惑っていた。口の中に入れたまではいいが、それを胃に流すことができなかった。吐き出さずに、しばらくそうしていたリンはとうとう飲み込むことができないもどかしさで目に涙が溜まっていく。
「リン、吐き出して。無理するな」
背中を擦られながら、心配そうに見つめてくるレノに視線を向けるとリンの瞳に溜まっていた涙が溢れ出た。自分の目から涙が出たことに驚いたリンは、ギュッと目を強く閉じると上体を丸める。レノはタオルをリンの閉じられている口元にそっと当てた。
「リン、ゆっくりここに吐き出すんだ。ゆっくり落ち着いて、大丈夫だから」
「……」
口に当てられたタオルにリンは泣きながら一度口に含んだスープを吐き出してしまった。レノは赤茶色の染みがついたタオルをリンの口から離すと、泣き出してしまったリンをそっと抱きしめた。
「ごっ、めなさ…、ごめ…なさいっ…」
「謝らなくていいんだ、謝らなくて。大丈夫…。リンが戻ってくれて嬉しさのあまりすぐに食事を取らせようとした私が悪かった。リン、大丈夫だよ、口に入れることはできたんだ。食べれるようになるまで、ゆっくりやっていこう? リン、泣かないで…」
「……ごめ、なさっ…」
なおも謝り続けるリンはしゃくりあげながら泣いていた。レノは堪らなくなりただひたすらに抱きしめていた。そして腕を緩めると、何度も何度もリンの小さな背中をしばらくの間擦っていた。ただスープが飲めないだけで、これほどまでに感情が揺れてしまうのはまだ完全に戻れてないせいなのか、それともゼムリアで受けた傷はこれほどまでに深いのか、もしくはその両方なのか、とレノは再び湧上ったあの男に対する怒りの感情と、自分がゼムリアに連れて来てしまった罪悪感に堪えながら、リンが落ち着くまでひたすらに背中を擦り続けていた。
リンの受けた傷はどこまで深いんだ…。私は元気だった頃のリンに戻すことができるだろうか。
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