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第6章
§52‐1 我が身可愛さ有り余る
しおりを挟むどこか張り詰めたような空気が王城を包む、そんな合同訓練が始まってから3週間ほど経過した。
その日の朝は妙な胸騒ぎがして、いつもよりも早く夜明けの薄闇が窓を染める頃起床した。
「ライゼル様、お加減でも悪いのですか」
「ん?」
「いや、なんとなく胸騒ぎがしてさ」
曖昧に答えつつ、肩をすくめる。日課の走り込みに付き合ってくれるティラが心配そうに俺の顔色を確認する。体調が悪いわけではないことを伝えると少し安心したようだ。
秋が深まり、朝方は空気が冷えるようになってきた。吐く息はわずかに白くなる。走りながら息を吸い込むと枯れ葉の匂いと共に肺が軋む。
ティラの肩にはポエリが乗っている。鳥だというのに飛ばないで過ごす姿を見ることの方が多いのではないだろうか。
「ポエリはすっかりティラに懐いているな」
「えぇ。従魔契約を結んでいるわけではないのですが、不思議ですね」
ティラは柔らかな手つきでポエリの頭を撫でた。
「ピピッ」
自分の話をしていると分かるのか、ポエリがつぶらな瞳をこちらに向け首を傾げる。鳥の首を傾げる動きは(とても可愛らしい。
「契約するかどうかはふたりでゆっくり考えたらいいさ」
「はい、そうします」
走り込みを終え私室に戻る。ティラは見回りがてら城下を見てくると言って出かけた。
私室に戻ると、湯気のと共にグレンが洗面所から出てくるところだった。
「ただいま。今日は起きるのが早いな」
「あぁ、自分でも不思議だ」
この時間のグレンはたいてい寝癖をつけたまま眠気まなこを擦っている頃合いだからな。だというのに今朝は風呂も済ませてすっきりとした顔をしている。
「ライゼルも入るだろう?」
「うん、入ってくる」
グレンと軽いキスを交わして洗面所へ向かう。服を脱いで鏡の前に立つと、身体のところどころに昨夜の愛の痕跡である濃い桃色の花が咲いている。誰かさんの歯型に似た形の花もあるな、と鎖骨のあたりを指でなぞる。
特に痛みはなく、人前で肌を晒せないというだけなのだが、秋になってから遠慮がなくなってきたように思う。彼の独占欲の表れだと思うと悪い気はしないが。
俺はひとり、くすっと笑いながら風呂場のドアを開けた。
穏やかな朝食を終えて二人で執務室に入ると、室内に緊張が満ちておりジェイドとミレイが何やら慌ただしい様子だ。書類が山積みになった机の間を、彼らは忙しなく行き来している。
二人はグレンと俺の姿を見止めると、神妙な面持ちで告げる。
「グレン様、ライゼル様。ムージェ侯爵が王都に来ているとの知らせが入りました」
「何だと?」
グレンの声が鋭く尖る。
「無断だろう」
「はい。事前連絡無しです。さして時間が経たぬうちに登城するものと思われます」
……ゴルダが。一体何をしに来るつもりなのだろうか。
時機が時機だけに、再び胸騒ぎが心臓を掴んで揺さぶってくる。
それに、各領の侯爵たちは領の管理監督を任されている身であるので、王城に無断で領を離れることは許されていない。それを破るほどの事態とは何だ?
「何が目的かは分からんが、準備はしておいてくれ」
「御意」
「承知いたしました。……ライゼル様、顔色があまりよろしくないようですが」
ミレイが気遣わしげにこちらを覗き込む。
「あぁ、すまない。どうしてもゴルダの名前を聞くと腸が煮えて……体調は大丈夫だから」
無理はなさらないでくださいね、と心配してくれるミレイに微かに頷いて礼を言う。ジェイドとミレイは係を取りまとめて指示を出すために足早に執務室を出ていく。
収まらぬ胸騒ぎを落ち着けようと執務室のソファに浅く腰掛ける。指先が微かに震えている。
「……東方領からの連絡は来ていないんだよな?」
「あぁ。だが、どうにもきな臭い」
グレンは窓の外に広がる王都の景色を睨みつけた。
まさに、火のない所に煙は立たぬ、ということだ。ゴルダが何の目的も無く王都へやってくることはないはず。必ず裏がある。グレンの表情も一層厳しくなる。空色の瞳が冷たい光を帯びている。
「念のため、戦闘の準備もしておいてくれ」
「分かった」
彼の提案は好都合だ。じっとしている方が思考は悪い方へ向かう。
剣の手入れや魔力をつなぐ回路を意識した瞑想でもなんでも、身体と頭を忙しくしていた方が落ち着きを取り戻せるだろう。
執務机へついたグレンに続いて、俺はローテーブルに剣を置き手入れを始める。とはいえ、毎晩欠かさず行っているのですぐに終わってしまう。次いで身体の筋を伸ばすために柔軟を始める。
柔軟をしながら身体を流れる魔力を辿り深呼吸を繰り返す。吸い込んだ空気が全身を巡り、強張っていた筋肉がゆっくりと解けていく。これが終わってしまえば次は筋肉に負荷をかけた鍛錬だな……と淡々と考えている自分に気付く。
やはり身体を動かすのは精神を統一するのに有意義らしい。
そうして内心の落ち着きを取り戻したところで、自身の足元に落ちた影から魔力の揺らぎと共に気配を感じる。
「何の気配だ」
「ティラだ。俺の影から出てくるから切らないでくれよ」
瞬きをする間に剣を手にしたグレンへ慌てて言う。腑に落ちない顔をしているが、このまま見ていてもらえれば分かるだろう。
ややあって俺の影が水面のように揺らめき、ティラがぬるりと姿を現す。
「すみませんライゼル様、急ぎのご報告でして」
「大丈夫だ。グレンが剣を構えたけど切るなって言ってあるから」
「本当に切られませんかね?」
少々狼狽えたティラが頭を引っ込めて目から上だけ出す格好になる。苦笑しながら否定すると、ゆっくりと全身を現した。
「驚いた……そんな魔法まで使えるのか」
「グレン様、驚かせて申し訳ございません。使用するか迷ったのですが」
ティラは眉を垂らしてグレンに詫びるが、グレンは一向に気にしておらず、むしろ好奇心に輝く瞳で魔法の仕組みを知りたそうな様子だ。
この魔法は術者と対象者の信頼関係に左右される。さらに使用できる距離が限られており、魔力が密接に感知できる相手にしか使えない。
現在ティラが使える相手は、ゼフィロス王国においては俺とブラスだけだ。
「構わん。どうした?」
グレンに促されたティラが緊張した面持ちで頷く。
「王都を巡回しておりましたら宿泊施設が集まる地域で騒ぎが起きていたので確認しに行きました。騒いでいたのはムージェ侯爵の妻とその親戚でして……」
「なに?」
「その集団だけならまだしも、他の宿泊施設でもムージェ家に連なる者たちが急遽部屋を取っているようなのでご報告に上がりました」
ティラの報告を聞き、寸陰の間を置いて――頭の中の点と点が線で繋がる。
最悪の仮説が組み上がり、頭の回転に口が追い付かない感覚に苛立ちながら声を絞り出す。
「グレンッ……ゴルダはもしかしてっ、ユーディア王国からドルゥーガが溢れ出てくる時機が迫っている情報を先に入手して、領民を見捨てて王都へ避難して来たんじゃないのか……!?」
「見下げ果てた奴だ……ッ!!」
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