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1 はじまり

3日目 ぼくの仕事 その2

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17時


 ぼくとアナちゃんがやってきたのは、小さな路地に面したビストロだった。
 店内はこじんまりとしており、テーブル席が3つ。
 路地には、テラス席が9。
 テーブルは、1つを除いて、すべて埋まっていた。
 少し観察をしてみたところ、お客さんはみんな現地の人のようだ。
 アナちゃんが腰を下ろしたのは、予約の札が置かれたテラス席。
 ギャルソンさんがやってきて、予約の札をテーブルから取り、代わりに、アナちゃんとぼくにメニューを渡した。
 ぼくはメニューを開いて、ついでに目も見開いた。
 値段がどれもこれもバカ高い。
「アナちゃんこれ」
「わたしは子羊のローストにする」
 ぼくは、財布の中身を頭に思い浮かべて、肩をすくめた。まあ、良いさ。バターだけを絡めたパスタもそれほど悪いものじゃないし。最近外食をしすぎたかもしれない。ここでの食事を最後に、外食はしばらく控えよう。少なくとも今月だけは。「それ美味しい?」
「最高」
 ぼくは頷いた。「ぼくもそれにしよう。前菜とかは?」
 アナちゃんは、ニッコリと微笑んだ。「デザート食べたいな」
「好きなの頼んで良いよ。一個だけね」
「奢ってくれるの?」
「サンドウィッチのお礼。誘ったのぼくだしね」
「ありがと」アナちゃんは、水さしに入ったただの水を飲んだ。「今日は、誘ってくれてありがと」
 ぼくも水を飲んだ。「来てくれると思わなかった」
「そう? 時間があれば断る理由もないよ」
「最近チャレンジ中でさ。生活習慣の改善と、あとは毎日チャレンジをいくつかしようかなって思ってんの」
「良いね」
「歩いたことのない道を歩いたり、やったことないことをやったり」
「それでわたしを誘ったの?」
 ぼくは頷いた。「自分から誰かを誘ったことってあまりなくて」
「そうなの? 末っ子?」
「一人っ子」
 アナちゃんは頷いた。「わたしも。物心ついた頃から、興味があることだけやってきた。今は男に興味があるからデートしまくってるけど、しばらくしたら女に興味が出るかも。他人に興味がなくなるのがなんとなく怖い。興味がなくなったら関わらなくなるから」
 ぼくは、うなずきながら話を聞いた。
 テーブルにパンが運ばれてきた。ぼくは、ギャルソンさんを見上げた。
「そのパンは無料よ。メインを頼むと付いてくるの」と、アナちゃん。
 ぼくはよほど金に困っているように見えるのかもしれない。
 立ち振舞に気をつけないと。ぼくは、テーブルに備え付けられていたオリーブオイルを小皿に垂らした。ちぎったバゲットにオリーブオイルをつけて口に運べば、芳醇なオリーブの香りが口の中に広がった。こうしている時が、割と一番幸せかもしれない。「1人でいることは、それほど辛いものじゃないよ」
「そう?」アナちゃんは、バゲットをちぎり、オリーブオイルをつけて口に運んだ。
「うん。慣れればね。1人の時間が確保出来るし、ストレスも減る。ただ、たまに、気軽に話せる誰かがいればそれで良い」
「今1人なんだっけ」
「そうだよ。15に一人旅をして、それから癖になってる。誰かと旅をした時期もあって、それも悪くないって思えたけど、ぼくはそれほど人間関係を求めるタイプじゃないんだ」
「どこ行ったの? 15の頃」
「魔法族の世界」
「1人で行けるのは16からじゃなかった? 日本校は違うのかしら」
「一緒だよ。ただ、ぼくは成績が良かったからね。担任からは学園の先輩の付き添いでならオッケーって言われた。それで、先輩と一緒にあっちに行って、あっちで別れたの」
「3年前?」
 ぼくは頷いた。
 アナちゃんは、バゲットを手につまみながら、口をもぐもぐと動かし、考えるように宙を見た。「あの年って、確か、あっちで戦争が起こってたんじゃない? 確か世界大戦みたいなのがあったって聞いたけど」
 ぼくは、口元をほころばせた。「そうなんだよ」
「でも、1年間旅をしてたの?」
 ぼくは頷いた。
「戦ったの?」
 ぼくは、首を横に振った。「まさか。怖かったから終戦までカナドゥアで引きこもってたよ。あそこは平和だったから」
 アナちゃんは、そのセクシーなまぶたを瞬かせた。「嘘は言わなくて良いわ」
 ぼくは首を傾げた。
 その時、ぼくは肩を叩かれた。
 後ろを振り返れば、そこにいたのは、見覚えのある女性。
 174cmのすらりとした身長に、ほっそりとしたスタイル。
 チョコレートブラウンのショートヘア。
 脂肪のない薄いまぶた、豊かなまつ毛、その下で輝く瞳の色は琥珀色。
 彼女は、この肌寒い冬の夜長にも限らず、Tシャツにデニムにスニーカーと、シンプルな装いをしていた。
 この世界にいるはずのない人。
 3年前に、魔法族の世界で出会った名探偵。
 なんで、この人がここに? そんな疑問は、彼女の豊かな胸元を見た瞬間に消え去った。
 ぼくは舌打ちをした。
「3年ぶりなのに、ずいぶんな挨拶じゃないか」彼女は、爽やかな笑顔を浮かべて、空いていた席に座った。
「いや、違うんです。ジェナさんに舌打ちしたわけじゃなくて、その、ジェナさんの一部にというか」
「大丈夫、貧乳にも需要はある」
「いや、需要は求めてないんですよ」
 ジェナさんは、声を上げて笑った。
「ジェナって?」アナちゃんは、ジェナさんに訊いた。妙に親しげな口調。すでに知り合いのようだ。
「3年前の名前だ」ジェナさんは、アナちゃんの頬を撫でた。「というか、あちらでの名前と言ったほうが正しい。こちらの世界ではヨハンナと呼んでくれ」ジェナさんは、財布を取り出し、免許証を見せてきた。リヒテンシュタインに住所を持っているらしい。お金持ちなのだろうか。「元気だったかい? ソラ」
 ぼくは頷いた。というか、「え、座るんですか?」
「だめかい?」
 ぼくは、アナちゃんを見た。「アナちゃんは、その、ヨハンナさんと知り合いなの?」
 アナちゃんはこくりと頷いた。「半年前から。突然パン屋にやってきて、ソラを知ってるかって。ちょっとお話して色々探ってみたら、どうやらソラの知り合いっぽいし、変な人だけど悪い人じゃなさそうだし、なによりインターポールの国際魔法犯罪課で働いてるみたいだから」
 ということは、なんだろう。アナちゃんは、ヨハンナさんの指示で、ぼくと仲良くしていたのだろうか。「今夜のこれは、じゃあ、どういうことなんですか?」
「それなんだよ。あぁ、ありがとう」ヨハンナさんは、ギャルソンさんからメニューを受け取った。
 ギャルソンさんの目はキラキラ輝いていて、まるで、うひょー、美女が1人増えてやがる! っていう心の声が聞こえてきそうだった。
「君たちはなににしたんだ?」
「子羊のロースト」
「わたしもそれをもらおう。あとは、400グラムのステーキを3つと、ワインボトルも追加で頼むよ。このメルローだ。グラスは3つ。わたしのグラスは冷やしてくれ」
「お客様、当店では、未成年の方へのお酒の販売は行っておりません」ギャルソンさんは、堂々と、しかし申し訳無さそうな感じで、ぼくを見ながら言った。
 これがフランスに来たばかりなら、ぼくは、額に浮き出た血管を破裂させないように気をつけながら、パスポートを見せたものだけれど、今となっては、またか、という感じで、わざわざ腹を立てることでもなかった。ぼくは、財布を取り出し、ギャルソンに国際免許証を見せた。
「あ……、失礼しました」ギャルソンは、ぼくに言って、店の奥へ引っ込んでいった。
 魔法族は、身体の成長が早く、12歳のあたりで成人の身体になる。
 そして、300年を越える寿命をそのまま過ごすことになる。
 つまり、ぼくは、ヨーロッパでお酒を買おうと思う度に、同じような遣り取りをする必要があるということだ。
「わたしはかっこいいと思うよ。ソラのこと」アナちゃんは言った。
「ありがと」ぼくは、目尻に浮かんだ屈辱の涙を拭いながら言った。
「気にするな。今回はインターポールの奢りだ」ヨハンナさんは、メニューを見ながら言った。
「奢りって、良いんですか?」リヒテンシュタインに家を持っているくらいだし、お金は持っているんだろうけれど、良いのだろうか。
 ヨハンナさんは、顔を上げ、ぼくとアナちゃんを見た。「わたしは捜査官で、ここにはインターンが2人いる」
 ぼくは、アナちゃんを見た。
 アナちゃんは、頬杖をつきながら、ぼくを見て、にっこりと微笑んだ。
「そして、今から、わたしたちは仕事について話すんだ」ヨハンナさんは、日本語でそう言った。


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