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鷹司くんと古書店
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「やっと終わったー!自由だー!!」
最後の補講を終え、私は校門の前で思わず声を上げていた。
これでついに、待ちに待った夏休みが始まる。
今年の夏は何しようかな。
プールは絶対行きたいし、花火大会もお祭りも外せないよね。
あとは、あとは――!
そんなことをあれこれ考えながらルンルン気分で歩いていると、前方に見覚えのある後ろ姿を発見した。
「あれ? 鷹司くん?」
教室か図書室でしか会わない彼を、学校の外で見るのはなんだか新鮮。
声をかけようかと迷ったけど、ちょっといたずら心が湧いてきて、こっそり後をつけてみることにした。
鷹司くんは何の迷いもなく、まっすぐどこかへと歩いていく。
途中で細い路地を何度か曲がったその先――
「あれ、見失っちゃった……?」
ついさっきまで目の前にいたはずなのに、姿が見えなくなってしまった。
周辺を少しうろうろしていると、目に留まったのは古びた看板のかかった小さな本屋。
「――たかつか古書店?」
看板に書かれていたのは、鷹司くんの苗字と同じ「たかつか」という文字。
もしかして……?
気になった私は、好奇心に抗えずその店の扉をそっと押した。
扉を開けた瞬間、ふわっと漂ってきたのは紙とインクの混ざった懐かしい香り。
でも、図書室のそれとはどこか違って、もっと深くて、時間が染み込んだような匂いがした。
中には小説に画集、外国の古い本までぎっしりと並んでいて、私は思わず足を止める。
背表紙の色褪せた文字や、聞いたことのない作者名、独特な装丁。まるで時間が止まった空間に迷い込んだみたいで、目を奪われてしまう。
「いろいろあるんだなあ……」
思わずつぶやきながら、私は棚の間をゆっくり歩いていた。
そのとき――
「――天木っ!?」
不意に鋭い声が響いて、私はびくっと肩を跳ねさせた。
「わっ!? 鷹司くん!」
声のする方を見ると、店の奥からエプロンを着けた鷹司くんが現れた。
「何してんだよ、こんなとこで」
驚いた様子の鷹司くんが、少し眉をひそめながらこちらに歩いてくる。
「えっと……さっき、鷹司くんが前を歩いてるの見えて……つい、気になっちゃって……」
私は気まずそうに笑いながら答えた。
鷹司くんは、ちょっとだけ困ったように眉間にしわを寄せる。
「ここ、もしかして……?」
店内をぐるりと見回しながら尋ねると、鷹司くんは短く頷いた。
「……ああ、俺のじいちゃんの店。昔からある古書店だ」
「へえ、そうだったんだ! すごいたくさんの本……知らないタイトルばっかり!」
棚を見回しながら目を輝かせる私に、鷹司くんは少し得意げなような声で言った。
「そりゃ古書だからな。ふつうじゃなかなか見ねぇもんばっかだろ」
「古書って、古い本ってことだよね?」
「……ああ。絶版本とか、古い資料とか……中にはちょっと変なもんもあるけどな」
「へえ~、おもしろそう!」
本の香りと古びた紙の手触りが妙に落ち着く気がして、私はますます興味が湧いてくる。
「……鷹司くんが本好きなのって、おじいちゃんの影響だったりする?」
ふと思って聞いてみると、鷹司くんは「ま、そんなとこだな」と静かに答えた。
その視線が自然と棚の一角に向かう。
ほんの一瞬だったけれど、その横顔がどこか懐かしさに包まれていて、いつもより少しだけ優しく見えた。
「さて、俺は手伝いあるから。ま、ゆっくり見てけ――」
そう言って私の方を振り返ったそのとき、奥から聞き慣れない声がした。
「……おや、成の友達かい?」
驚いて振り向くと、カウンターの向こうからゆっくりと歩いてきたのは、白髪交じりの小柄な男性だった。
「じいちゃん!!」
鷹司くんが少し照れたように声を上げる。
「こ、こんにちは!」
私は慌てて頭を下げる。
「成が友達と話しているのを見るなんて、いつぶりかねぇ」
おじいさんは目尻に深い笑い皺を浮かべながら、どこか嬉しそうに鷹司くんを見ている。
「べ、べつに天木はそういうんじゃ……!」
慌てて否定する鷹司くんを見て、思わずくすりと笑ってしまった。
「成、手伝いはいいから、お友達とゆっくりしていなさい」
そう言っておじいさんは「お茶を入れてくるからね」と私たちに言い残し、ゆっくりと店の奥へと戻っていった。
「……鷹司くん、お店の手伝いしてるんだ」
「まあな。……じいちゃん腰悪くて重いもん持てねーからかわりに運んだりしてる」
「そっか!偉いねえ」
鷹司くんは「別に」とだけ言ってそっぽを向いてしまった。
「……さ、どうぞ」
「ありがとうございます」
私は店の奥で鷹司くんのおじいさんに出してもらった麦茶を飲む。
「にしても、成に女の子の友達がおるとはなあ」
おじいさんが笑いながらそう言うと、鷹司くんはみるみる顔を赤くして慌てて言い返した。
「べ、別にそういうんじゃねぇって……!こいつが勝手についてきただけだし」
「ふふ、ひどーい」
私がわざとむくれると、鷹司くんはそっぽを向いたまま口をへの字に曲げる。
「――嬉しいよ。小さい頃は、こんなふうに笑ってる顔、なかなか見られなかったからねぇ」
「え……?」
おじいちゃんは懐かしそうに麦茶のグラスを手に取りながら、ゆっくりと語り始めた。
「成の両親は共働きでね。忙しくて、特に夏休みなんかは仕事で家を空けがちだったんだ。だから、小学校に上がる前くらいから、うちで預かることが多くてねぇ」
「へえ……!」
「最初はまったく本に興味なんてなかったよ。じっとしていられない子でね。ひたすら店の中を走り回ってた。けど、ある日、表紙に恐竜が描いてある図鑑を手に取って、それから少しずつ変わっていったんだ」
「……恐竜?」
「そう。そこから動物の図鑑、昆虫の本、冒険小説……と興味が広がってね。こっちはその都度、あの子が好きそうな本をあれこれ見繕ってやったんだよ。『これは秘密の地図が出てくる話だぞ』とか『この本には、世界一まずい料理が出てくる』とか言ってな」
「……なんか、それ聞いただけで読みたくなるね」
思わず笑ってしまう私に、おじいちゃんも目を細めてうなずいた。
「気づけば、本が好きになっていてね。もう親の都合なんて関係なく、学校が終わるとまっすぐここに来るようになった。今じゃもう、わしより本の扱いが上手いくらいだよ」
「へええ……」
私は横目で鷹司くんを見る。彼は気恥ずかしそうに少しだけ顔を背けながら、グラスの麦茶をくるくると回していた。
「……なるほど。本の紹介が上手いのは、おじいちゃん譲りだったんだ」
私がそう言うと、鷹司くんはふいにこちらを見て「は?」と眉をひそめる。
「鷹司くんから紹介してもらうと全部読みたくなっちゃうの、前から不思議だったんだよね。でもそれって、きっと子どもの頃に“読みたくなる紹介”されてたからなんだ。納得だよ」
「……うっせ。いちいち分析すんな」
ぼそっと呟いてまた視線を逸らす鷹司くんに、私はクスッと笑った。
照れ隠しが下手で、でもちょっと優しくて、なんだかんだ言いながら放っておけない。
図書室だけじゃ見えなかった一面が、今日少しだけ見えた気がした。
入り口の方から、チリン――と小さな鈴の音とともに、誰かの足音が聞こえてきた。
「……?」
私は思わずそっと本棚の隙間から顔を出す。
すると、入り口に立っていたのは――
ぴしっとしたスーツに身を包んだ、背の高い男性だった。
髪はオールバックで、あごには品よく剃られた髭。整った顔立ちに穏やかな微笑みをたたえていて、思わず見とれてしまいそうになる。
「おや、こんにちは」
私が思わず目を見開いていると、その男性はやさしい声でそう言ってきた。
「こ、こんにちは……」
反射的に挨拶を返したあと、私はふっと頬が熱くなるのを感じた。
(なんだろう……すごく素敵な人……)
男性は軽く会釈をしたあと、ゆっくりと店の奥へと進み、おじいさんのいる会計の台の前に立った。
「……例の資料の件ですが」
「執筆は順調で……」
「……新作の構想が――」
二人は何やら落ち着いた声で話し始めた。
内容まではよく聞き取れなかったけれど、「資料」や「執筆」、「新作」といった単語が耳に届く。
作家さん……なのかな?
ただの本好きって雰囲気ではないし、どこか特別な雰囲気がある。
しばらく話をしていたその男性が、ふと顔を上げた。
「――成! 来ていたんだね」
え……?
にこやかに声をかけたその人に、私は思わず隣の鷹司くんを見上げる。
彼は目を細め、なにか言いたげにその男性をじっと見つめていた。
まるで……相手の言葉を慎重に待っているような、そんな目。
「君は成の――」
男性がこちらに向き直って、そう言いかけたその瞬間だった。
「……行くぞ、天木」
「へ? わっ、ちょ、ちょっと!」
唐突に鷹司くんが私の腕を、がしっと掴んだかと思うと、私を引っ張って古書店の外へと飛び出した。
木製の引き戸が勢いよく閉まり、再びチリン……と鈴の音が鳴る。
急すぎる展開に頭がついていかなくて、私はただ、彼の背中を見つめることしかできなかった。
「鷹司くん……今の人、知り合い……だよね?」
そう問いかけようとしたけれど、私の声は喉の奥で溶けて消えた。
店を飛び出してからしばらく、鷹司くんは何も言わずに歩き続けた。
私は引っ張られるままついてきたけど、気づけば古書店の角を何度か曲がり、元の通学路まで戻って来ていた。
「……っ」
ようやく立ち止まった鷹司くんの手が、そっと私の腕から離れる。
私は顔を上げる。
彼の横顔は硬くて、眉間には深い皺が寄っていた。
(……あの人、誰だったんだろう)
そう聞きたい気持ちは山ほどあった。
けれど――
その表情を見てしまったら、言葉が喉で止まってしまった。
……踏み込んじゃいけない。
そんな空気が、はっきりと漂っていた。
鷹司くんはしばらく黙ったまま、何かを押し殺すように小さくため息をついた。
「……今日はもう、帰れ」
その声は静かで、でも拒絶の色がはっきりと含まれていた。
「……うん」
私は、それ以上なにも言えなかった。
胸の中に引っかかったままの疑問も、不安も、全部飲み込んで、私はただ小さく頷く。
いつもは無愛想でも、気づけば優しくて、ちゃんと話をしてくれる鷹司くん。
でも今の彼は、私の知っている“鷹司くん”じゃない気がした。
わけもわからないまま、私はひとり帰り道を歩く。
蝉の声がやけに大きくて、夕方の熱気が肌に重たくのしかかる。
でも、心の中に広がっていたのは、それよりずっと冷たい――
もやもやとした、不安のような、寂しさのような――そんな気持ちだった。
最後の補講を終え、私は校門の前で思わず声を上げていた。
これでついに、待ちに待った夏休みが始まる。
今年の夏は何しようかな。
プールは絶対行きたいし、花火大会もお祭りも外せないよね。
あとは、あとは――!
そんなことをあれこれ考えながらルンルン気分で歩いていると、前方に見覚えのある後ろ姿を発見した。
「あれ? 鷹司くん?」
教室か図書室でしか会わない彼を、学校の外で見るのはなんだか新鮮。
声をかけようかと迷ったけど、ちょっといたずら心が湧いてきて、こっそり後をつけてみることにした。
鷹司くんは何の迷いもなく、まっすぐどこかへと歩いていく。
途中で細い路地を何度か曲がったその先――
「あれ、見失っちゃった……?」
ついさっきまで目の前にいたはずなのに、姿が見えなくなってしまった。
周辺を少しうろうろしていると、目に留まったのは古びた看板のかかった小さな本屋。
「――たかつか古書店?」
看板に書かれていたのは、鷹司くんの苗字と同じ「たかつか」という文字。
もしかして……?
気になった私は、好奇心に抗えずその店の扉をそっと押した。
扉を開けた瞬間、ふわっと漂ってきたのは紙とインクの混ざった懐かしい香り。
でも、図書室のそれとはどこか違って、もっと深くて、時間が染み込んだような匂いがした。
中には小説に画集、外国の古い本までぎっしりと並んでいて、私は思わず足を止める。
背表紙の色褪せた文字や、聞いたことのない作者名、独特な装丁。まるで時間が止まった空間に迷い込んだみたいで、目を奪われてしまう。
「いろいろあるんだなあ……」
思わずつぶやきながら、私は棚の間をゆっくり歩いていた。
そのとき――
「――天木っ!?」
不意に鋭い声が響いて、私はびくっと肩を跳ねさせた。
「わっ!? 鷹司くん!」
声のする方を見ると、店の奥からエプロンを着けた鷹司くんが現れた。
「何してんだよ、こんなとこで」
驚いた様子の鷹司くんが、少し眉をひそめながらこちらに歩いてくる。
「えっと……さっき、鷹司くんが前を歩いてるの見えて……つい、気になっちゃって……」
私は気まずそうに笑いながら答えた。
鷹司くんは、ちょっとだけ困ったように眉間にしわを寄せる。
「ここ、もしかして……?」
店内をぐるりと見回しながら尋ねると、鷹司くんは短く頷いた。
「……ああ、俺のじいちゃんの店。昔からある古書店だ」
「へえ、そうだったんだ! すごいたくさんの本……知らないタイトルばっかり!」
棚を見回しながら目を輝かせる私に、鷹司くんは少し得意げなような声で言った。
「そりゃ古書だからな。ふつうじゃなかなか見ねぇもんばっかだろ」
「古書って、古い本ってことだよね?」
「……ああ。絶版本とか、古い資料とか……中にはちょっと変なもんもあるけどな」
「へえ~、おもしろそう!」
本の香りと古びた紙の手触りが妙に落ち着く気がして、私はますます興味が湧いてくる。
「……鷹司くんが本好きなのって、おじいちゃんの影響だったりする?」
ふと思って聞いてみると、鷹司くんは「ま、そんなとこだな」と静かに答えた。
その視線が自然と棚の一角に向かう。
ほんの一瞬だったけれど、その横顔がどこか懐かしさに包まれていて、いつもより少しだけ優しく見えた。
「さて、俺は手伝いあるから。ま、ゆっくり見てけ――」
そう言って私の方を振り返ったそのとき、奥から聞き慣れない声がした。
「……おや、成の友達かい?」
驚いて振り向くと、カウンターの向こうからゆっくりと歩いてきたのは、白髪交じりの小柄な男性だった。
「じいちゃん!!」
鷹司くんが少し照れたように声を上げる。
「こ、こんにちは!」
私は慌てて頭を下げる。
「成が友達と話しているのを見るなんて、いつぶりかねぇ」
おじいさんは目尻に深い笑い皺を浮かべながら、どこか嬉しそうに鷹司くんを見ている。
「べ、べつに天木はそういうんじゃ……!」
慌てて否定する鷹司くんを見て、思わずくすりと笑ってしまった。
「成、手伝いはいいから、お友達とゆっくりしていなさい」
そう言っておじいさんは「お茶を入れてくるからね」と私たちに言い残し、ゆっくりと店の奥へと戻っていった。
「……鷹司くん、お店の手伝いしてるんだ」
「まあな。……じいちゃん腰悪くて重いもん持てねーからかわりに運んだりしてる」
「そっか!偉いねえ」
鷹司くんは「別に」とだけ言ってそっぽを向いてしまった。
「……さ、どうぞ」
「ありがとうございます」
私は店の奥で鷹司くんのおじいさんに出してもらった麦茶を飲む。
「にしても、成に女の子の友達がおるとはなあ」
おじいさんが笑いながらそう言うと、鷹司くんはみるみる顔を赤くして慌てて言い返した。
「べ、別にそういうんじゃねぇって……!こいつが勝手についてきただけだし」
「ふふ、ひどーい」
私がわざとむくれると、鷹司くんはそっぽを向いたまま口をへの字に曲げる。
「――嬉しいよ。小さい頃は、こんなふうに笑ってる顔、なかなか見られなかったからねぇ」
「え……?」
おじいちゃんは懐かしそうに麦茶のグラスを手に取りながら、ゆっくりと語り始めた。
「成の両親は共働きでね。忙しくて、特に夏休みなんかは仕事で家を空けがちだったんだ。だから、小学校に上がる前くらいから、うちで預かることが多くてねぇ」
「へえ……!」
「最初はまったく本に興味なんてなかったよ。じっとしていられない子でね。ひたすら店の中を走り回ってた。けど、ある日、表紙に恐竜が描いてある図鑑を手に取って、それから少しずつ変わっていったんだ」
「……恐竜?」
「そう。そこから動物の図鑑、昆虫の本、冒険小説……と興味が広がってね。こっちはその都度、あの子が好きそうな本をあれこれ見繕ってやったんだよ。『これは秘密の地図が出てくる話だぞ』とか『この本には、世界一まずい料理が出てくる』とか言ってな」
「……なんか、それ聞いただけで読みたくなるね」
思わず笑ってしまう私に、おじいちゃんも目を細めてうなずいた。
「気づけば、本が好きになっていてね。もう親の都合なんて関係なく、学校が終わるとまっすぐここに来るようになった。今じゃもう、わしより本の扱いが上手いくらいだよ」
「へええ……」
私は横目で鷹司くんを見る。彼は気恥ずかしそうに少しだけ顔を背けながら、グラスの麦茶をくるくると回していた。
「……なるほど。本の紹介が上手いのは、おじいちゃん譲りだったんだ」
私がそう言うと、鷹司くんはふいにこちらを見て「は?」と眉をひそめる。
「鷹司くんから紹介してもらうと全部読みたくなっちゃうの、前から不思議だったんだよね。でもそれって、きっと子どもの頃に“読みたくなる紹介”されてたからなんだ。納得だよ」
「……うっせ。いちいち分析すんな」
ぼそっと呟いてまた視線を逸らす鷹司くんに、私はクスッと笑った。
照れ隠しが下手で、でもちょっと優しくて、なんだかんだ言いながら放っておけない。
図書室だけじゃ見えなかった一面が、今日少しだけ見えた気がした。
入り口の方から、チリン――と小さな鈴の音とともに、誰かの足音が聞こえてきた。
「……?」
私は思わずそっと本棚の隙間から顔を出す。
すると、入り口に立っていたのは――
ぴしっとしたスーツに身を包んだ、背の高い男性だった。
髪はオールバックで、あごには品よく剃られた髭。整った顔立ちに穏やかな微笑みをたたえていて、思わず見とれてしまいそうになる。
「おや、こんにちは」
私が思わず目を見開いていると、その男性はやさしい声でそう言ってきた。
「こ、こんにちは……」
反射的に挨拶を返したあと、私はふっと頬が熱くなるのを感じた。
(なんだろう……すごく素敵な人……)
男性は軽く会釈をしたあと、ゆっくりと店の奥へと進み、おじいさんのいる会計の台の前に立った。
「……例の資料の件ですが」
「執筆は順調で……」
「……新作の構想が――」
二人は何やら落ち着いた声で話し始めた。
内容まではよく聞き取れなかったけれど、「資料」や「執筆」、「新作」といった単語が耳に届く。
作家さん……なのかな?
ただの本好きって雰囲気ではないし、どこか特別な雰囲気がある。
しばらく話をしていたその男性が、ふと顔を上げた。
「――成! 来ていたんだね」
え……?
にこやかに声をかけたその人に、私は思わず隣の鷹司くんを見上げる。
彼は目を細め、なにか言いたげにその男性をじっと見つめていた。
まるで……相手の言葉を慎重に待っているような、そんな目。
「君は成の――」
男性がこちらに向き直って、そう言いかけたその瞬間だった。
「……行くぞ、天木」
「へ? わっ、ちょ、ちょっと!」
唐突に鷹司くんが私の腕を、がしっと掴んだかと思うと、私を引っ張って古書店の外へと飛び出した。
木製の引き戸が勢いよく閉まり、再びチリン……と鈴の音が鳴る。
急すぎる展開に頭がついていかなくて、私はただ、彼の背中を見つめることしかできなかった。
「鷹司くん……今の人、知り合い……だよね?」
そう問いかけようとしたけれど、私の声は喉の奥で溶けて消えた。
店を飛び出してからしばらく、鷹司くんは何も言わずに歩き続けた。
私は引っ張られるままついてきたけど、気づけば古書店の角を何度か曲がり、元の通学路まで戻って来ていた。
「……っ」
ようやく立ち止まった鷹司くんの手が、そっと私の腕から離れる。
私は顔を上げる。
彼の横顔は硬くて、眉間には深い皺が寄っていた。
(……あの人、誰だったんだろう)
そう聞きたい気持ちは山ほどあった。
けれど――
その表情を見てしまったら、言葉が喉で止まってしまった。
……踏み込んじゃいけない。
そんな空気が、はっきりと漂っていた。
鷹司くんはしばらく黙ったまま、何かを押し殺すように小さくため息をついた。
「……今日はもう、帰れ」
その声は静かで、でも拒絶の色がはっきりと含まれていた。
「……うん」
私は、それ以上なにも言えなかった。
胸の中に引っかかったままの疑問も、不安も、全部飲み込んで、私はただ小さく頷く。
いつもは無愛想でも、気づけば優しくて、ちゃんと話をしてくれる鷹司くん。
でも今の彼は、私の知っている“鷹司くん”じゃない気がした。
わけもわからないまま、私はひとり帰り道を歩く。
蝉の声がやけに大きくて、夕方の熱気が肌に重たくのしかかる。
でも、心の中に広がっていたのは、それよりずっと冷たい――
もやもやとした、不安のような、寂しさのような――そんな気持ちだった。
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