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第二章 黒の主、混沌の街に立つ
38:マスター・オア・ファーザー
しおりを挟む■ヒイノ 兎人族 女
■30歳 セイヤの奴隷 ティナの母親
ご主人様に救って頂いてから数日経ちました。
毎日が驚きの連続で、今までの常識が崩れることにも慣れた感があります。
やはり人は順応する生き物なのだな、と実感しています。
「うん、やっぱり風味が変わるもんだな。ヒイノ家秘伝の酵母を使ったほうが美味い」
「いえ、ご主人様の作られたエキス……酵母でしたか、そちらもとても美味しいです。まさか干し葡萄を使うとは思いませんでした」
「甘めの果物なら何でもいけたと思う。ただ『ペペリの実』というのは知らなかったが」
ご主人様は我が家秘伝の白パンの元となるエキスの作り方を存じていました。
うちのエキスは『ペペリの実』を干してお湯に浸して数日待つのですが、ご主人様の言われた干し葡萄の方がエキスになるまでにかかる日数が早いのです。
味は好みがあると思いますが、干し葡萄もとても美味しく感じられました。
ご主人様は異世界から女神様の手によって【アイロス】の地に降り立ったそうです。
それを疑う余地など、とうにないのですが、改めてその知識の深さに驚かされます。
逆に知らないことも多いようですが、そこは我々がフォローすればいいとエメリーさんたちも仰っていました。
「しかしこれだけ美味いパンが作れるとなると、うちだけで食べるのも少しもったいないな」
「窯が大きいので一度に多く焼けますしね。どこかに御裾分けしますか?」
「ハハハ、恥ずかしながら相手がいない。ヒイノの知り合いの店に売って卸売りしてもらうか? これなら店出すわけじゃないから商業組合通さないでいいだろ?」
「ええ、そうですが、パンの委託販売など聞いたことがないので確認してからのほうがよろしいかと」
それもそうか、とご主人様は焼き上がったパンを美味しそうに口に入れました。
パンを作ることが好きな私に好きなことをさせたい、そう仰るご主人様は本当に優しいお方です。
しかしパン作りが多くなると、家事や迷宮の頻度も下がりそうですし、ただでさえ貢献していない屋敷の警備も全面的にお願いしなければならなくなりそうです。
それは少し心苦しいと思います。
ああ、そうそう、話は変わりますが、迷宮にも入っているのです。
私も、そしてティナも。
ご主人様に「いずれ迷宮に入ってもらう」とは言われていましたが、こんなに早く入ることになるとは思いませんでした。
ティナが剣に対して貪欲な姿勢を見せたのも一因です。
やはり死んだ主人の血が流れているのか、と少し嬉しく、そして恐ろしくなりました。
初めて迷宮に行ったフロロさんが帰ってきた時、項垂れてぐったりしていたので、余計に躊躇してしまいました。
「ご主人様は鬼か……。我の思ってた迷宮探索と違うのだが……」
そう呟くフロロさんの意味を後日になって知ることとなるのですが、どうやら『魔物部屋マラソン』したのはCPが枯渇していた三日間くらいだけだったらしく、私とティナが初めて潜った際は、普通に歩いて魔物部屋に行くだけでした。
しかしどうやら魔物部屋に進んで行くこと自体が組合員にあるまじき行為だそうです。
私とティナは、ご主人様や皆さんが普通に入って普通に殲滅するので、そういうものだと思っていました。
「我とて伊達に十年も組合におったわけではない。それくらいの常識はもっておる」
そう言うフロロさんは何か悟ったような目をしていました。
とは言え、おかげで私とティナも少なからず戦えるようになったのも事実。
戦闘訓練をして下さったイブキさん曰く、誰に絡まれても投げられるレベルだと言うことです。
皆さんよくポンポン投げ飛ばしているのでそこまで実感はないのですが、ティナには力加減を覚えるよう言い聞かせていました。
これであの金貸しの一味が来ても少しは安心できます。
それもこれも救って下さり、守って下さり、<カスタム>して下さったご主人様のおかげです。
本当に頭が上がりません。
「お母さん、ご主人様はお父さんにならないの?」
ティナにそんな事を聞かれました。
ティナは自分と私を救ってくれたご主人様を「頼りがいのあるお父さん」と見ている節があります。
ディウスの事も覚えていないのでしょうから当然かもしれません。
ティナにとって守ってくれる存在はご主人様なのです。
それに対して私はうまく返事を返せませんでした。
ディウスを忘れたわけではありません。しかしご主人様をお慕いしているのも事実だと思います。
「侍女の奉仕とは愛情なくして成り立ちません」
エメリーさんからお聞きしましたが、ご主人様が仰った言葉らしいです。
夜伽をするのは奴隷の役目。そして侍女としての愛情も確かにあると思います。
ティナを産んだ身ではありますが、ご主人様に望まれれば私は……。
しかし、皆さんに聞いた話によると、少し恥ずかしい気もします。
というのも……
♦
ある日の夕食後、「話がある」とご主人様に呼ばれたのはエメリーさん、イブキさん、ミーティアさん、フロロさんでした。
いつもに増して威厳を出したご主人様は、意を決したようにこう言ったそうです。
「準備はほぼ整った。出来る限り揃えるものは揃えた。…………夜伽を頼もうと思う」
「かしこまりました」「は、はイっ!」「まぁ」「おお、やっとか」
四者四様だったようです。
ご主人様は今まで夜伽を命じられなかったそうです。
なぜかと思いましたが、それはご自身と私たちの健康を慮ってのこと。
私もご主人様の知識による衛生管理を最初に教わりましたので、それに付随する内容だそうです。
「俺は強要はしない。嫌がる女を抱く趣味はない。無理強いはしないから部屋から出て行ってくれて構わない。それを咎めはしない」
ご主人様のその言葉に部屋を出る人はいなかったそうです。当然ですね。
しかし本当にご主人様はお優しい。
私が今まで持っていた「主人と奴隷」という関係性の固定概念がいつも崩されてしまいます。
四人の了承を得たご主人様は、お風呂へ連れて行きました。
「夜伽に呼ぶのは一人ずつだが、最初だから全員に教えておく」との事です。
そこで行われたのは本格的な衛生・美容の講習会だったようです。
身体や髪の洗い方、その拭き方と乾かし方、スキンケアという考え、ムダ毛の処理、爪の手入れ、歯の磨き方などなど。
イブキさんなどは恥ずかしがって緊張でガチガチだったそうですが、他の三名は「ご主人様は夜伽相手にこういう事を望まれている」と貪欲に吸収していったそうです。
そうしてその日はエメリーさんと、そして翌日から順々に夜伽をされたそうです。
イブキさんはご自分の番だった翌朝、失敗したと項垂れながらも幸せそうでした。
夜伽の後にエメリーさんがご主人様に聞かれたそうです。
「ティナはともかく、なぜ他の三人を呼ばないのですか?」
「サリュとネネはまだ十五だろ? 俺のいた世界だと十八で成人なんだよな」
「ここでは十五で成人です。二人とも残念がっていると思いますよ?」
「えっ」
確かに背も低く、若く見られがちですが二人とも確かに成人しています。
そしてご主人様に一番好意を向けているのもあの二人かもしれません。
それをご主人様は「お兄さん的に見られている」と思っていたようです。
ますます残念がりそうですね、私は言いませんが。
そして私に関してはこう仰って下さったようです。
「ヒイノの場合はヒイノ次第だな。俺はご主人の代わりにはなれないし、奴隷としての義務を望んでいるわけじゃない。ヒイノの為に店を開いてくれたご主人は立派な人だよ。そんな人への想いを俺が命令して消すわけにはいかない。だからヒイノが望んだ時には主人として応えるつもりだ」
そのお話をエメリーさんからお聞きしました。
私はなんて優しいご主人様に救って頂いたのだろう、改めてそう思いました。
そしてその優しさに付け込んでいるような自分が惨めになったのです。
私は……。
後日、ご主人様の寝室の扉をノックしました。
そして……。
「私、ご主人様のこと、お父さんって呼ぶの? ご主人様って呼ぶの?」
ティナのその問いに私は何も答えられませんでした。
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