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風の丘に眠るもの
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朝のアルドレアは、深い祈りのように静かだった。
〈カフェ・クローバー〉の看板に朝日が差し込み、石畳の道が淡い金色に染まっていく。
リアムは店の扉を開け、冷たい空気を肺に吸い込んだ。
――今日も、世界は静かだ。
その静けさは、ただの平穏ではなかった。
百年の時を越えて、いまだこの街が抱き締め続けている“記憶”の重みだ。
開店前の散歩は、リアムの日課だった。
街の外れに足を向けると、すぐに視界が一気に開ける。
そこは、アルドレア郊外――大陸屈指の“静寂の草原”。
どこまでも続く緩やかな丘と、風に揺れる草の海。
「……いつ来ても、変わらないな。」
リアムは小さくつぶやいた。
草原はまるで時間の外側にあるようだった。
鳥の声も、虫の音も、かすかな草の擦れる音さえ、すべてが遠く感じる。
風だけがゆっくりと通り過ぎ、足跡も、昨日の影さえもあっさりと消してしまう。
だが――。
この静けさこそが、かつてこの地を焼いた“戦火”の裏返しだと、街の誰もが知っていた。
百年前、アルドレアは大陸を二分した「百年戦争」の最終決戦の地。
その激しさは歴史書に語り尽くされ、なお伝わりきらないと言われるほどだった。
草原の一角に、古い石碑がぽつりと立っている。
表面は風雨に磨かれ、文字は半分以上読み取れない。
だがリアムは、手を触れずに立ち止まった。
「……ここで、何万人もの人が倒れたのか。」
そのつぶやきには、敬意と、ほんの少しの哀しみが混ざっていた。
――死者を怖がっても、誰も救えない。
そう言い切れるリアムも、この草原に眠る膨大な数の魂に対してだけは、自然と背筋が伸びる。
下草の間に、錆びた鎧の欠片が埋まっていた。
剣の柄のような木片が、風化に耐えるようにひっそりと姿を残している。
誰も手を触れないのは、この地が“遺跡”以上のものだからだ。
守るべき墓標。
静かに語り続ける歴史そのもの。
リアムは足を止め、膝をついた。
「……この街は、俺の知ってる戦場に似てるよ。」
アフガニスタンの、焼け付くような砂。
脆い山肌。
爆風の後に残る、異様な静けさ。
それらを思い出すと、アルドレアの景色は奇妙に重なった。
違う世界なのに――同じ“余韻”を持っている。
だが一つだけ、決定的な違いがある。
「あの世界とは違って……ここでは、もう誰も死なない。」
百年戦争以降、アルドレアでは本格的な争いは一度も起きていない。
隣国同士がにらみ合うことさえなくなり、商人は安心して出入りできる。
戦争の傷跡が大地に残っているにもかかわらず、人々は穏やかに暮らしているのだ。
リアムは草原の向こうに広がる青空を見上げた。
雲がゆっくりと流れ、日の光が丘の線に沿って柔らかく落ちていく。
“何も起きない”という静けさではなく、
“すべてが終わった”あとの静けさ――。
そこには、痛みと赦しが同居していた。
草原を歩きながら、リアムはふと、足元の小さな花に気づいた。
戦場を覆ったはずのこの地に、いまはほとんど季節を問わず花が咲いている。
紫の小さな花弁が、朝露でゆらめいていた。
「戦争が終わったあとにだけ、咲くようになったんだってさ。」
そう教えてくれたのは、先代の店主だった。
リアムが初めてこの世界に来て、路地裏で力なく座っていた頃。
“この草原を見ろ。
戦争で焦土になったけど……時間が経てば、花は咲く。”
その言葉は、リアムの心を生き返らせた。
彼は店主の墓の方向へ軽く頭を下げた。
この草原のすべてが恩人の思い出と繋がっている。
陽がすっかり高くなった頃、リアムは立ち上がった。
風が少し強くなり、草原一面が波打つように揺れ始める。
その光景は、戦場の喧騒とはまったく似ていない。
むしろ、対極にある。
「ああ……美しいな。」
誰もいない草原なのに、そう言葉が漏れた。
ただ風と光だけが、ゆっくりと世界を撫でている。
この静けさは、誰かが戦った証であり、誰もが生きられる未来だった。
リアムは草原の向こうに見えるアルドレアの街を振り返った。
古びた石造りの建物、矢じりの跡が残る塔、けれど確かに息づく人々の暮らし。
時が止まったようでいて、確かに前に進んでいる街。
「……帰るか。コーヒー豆が焼けすぎる。」
くすっと笑い、リアムは歩き出した。
風が背中を押す。
この静かな古戦場で、今日も〈カフェ・クローバー〉は扉を開ける。
傷ついた心を癒すために。
かつての戦場の上で、平和の香りを立てるために。
――戦争の記憶を抱えた青年と、時を越えて静かに眠る草原の物語は、今日も続いていく。
〈カフェ・クローバー〉の看板に朝日が差し込み、石畳の道が淡い金色に染まっていく。
リアムは店の扉を開け、冷たい空気を肺に吸い込んだ。
――今日も、世界は静かだ。
その静けさは、ただの平穏ではなかった。
百年の時を越えて、いまだこの街が抱き締め続けている“記憶”の重みだ。
開店前の散歩は、リアムの日課だった。
街の外れに足を向けると、すぐに視界が一気に開ける。
そこは、アルドレア郊外――大陸屈指の“静寂の草原”。
どこまでも続く緩やかな丘と、風に揺れる草の海。
「……いつ来ても、変わらないな。」
リアムは小さくつぶやいた。
草原はまるで時間の外側にあるようだった。
鳥の声も、虫の音も、かすかな草の擦れる音さえ、すべてが遠く感じる。
風だけがゆっくりと通り過ぎ、足跡も、昨日の影さえもあっさりと消してしまう。
だが――。
この静けさこそが、かつてこの地を焼いた“戦火”の裏返しだと、街の誰もが知っていた。
百年前、アルドレアは大陸を二分した「百年戦争」の最終決戦の地。
その激しさは歴史書に語り尽くされ、なお伝わりきらないと言われるほどだった。
草原の一角に、古い石碑がぽつりと立っている。
表面は風雨に磨かれ、文字は半分以上読み取れない。
だがリアムは、手を触れずに立ち止まった。
「……ここで、何万人もの人が倒れたのか。」
そのつぶやきには、敬意と、ほんの少しの哀しみが混ざっていた。
――死者を怖がっても、誰も救えない。
そう言い切れるリアムも、この草原に眠る膨大な数の魂に対してだけは、自然と背筋が伸びる。
下草の間に、錆びた鎧の欠片が埋まっていた。
剣の柄のような木片が、風化に耐えるようにひっそりと姿を残している。
誰も手を触れないのは、この地が“遺跡”以上のものだからだ。
守るべき墓標。
静かに語り続ける歴史そのもの。
リアムは足を止め、膝をついた。
「……この街は、俺の知ってる戦場に似てるよ。」
アフガニスタンの、焼け付くような砂。
脆い山肌。
爆風の後に残る、異様な静けさ。
それらを思い出すと、アルドレアの景色は奇妙に重なった。
違う世界なのに――同じ“余韻”を持っている。
だが一つだけ、決定的な違いがある。
「あの世界とは違って……ここでは、もう誰も死なない。」
百年戦争以降、アルドレアでは本格的な争いは一度も起きていない。
隣国同士がにらみ合うことさえなくなり、商人は安心して出入りできる。
戦争の傷跡が大地に残っているにもかかわらず、人々は穏やかに暮らしているのだ。
リアムは草原の向こうに広がる青空を見上げた。
雲がゆっくりと流れ、日の光が丘の線に沿って柔らかく落ちていく。
“何も起きない”という静けさではなく、
“すべてが終わった”あとの静けさ――。
そこには、痛みと赦しが同居していた。
草原を歩きながら、リアムはふと、足元の小さな花に気づいた。
戦場を覆ったはずのこの地に、いまはほとんど季節を問わず花が咲いている。
紫の小さな花弁が、朝露でゆらめいていた。
「戦争が終わったあとにだけ、咲くようになったんだってさ。」
そう教えてくれたのは、先代の店主だった。
リアムが初めてこの世界に来て、路地裏で力なく座っていた頃。
“この草原を見ろ。
戦争で焦土になったけど……時間が経てば、花は咲く。”
その言葉は、リアムの心を生き返らせた。
彼は店主の墓の方向へ軽く頭を下げた。
この草原のすべてが恩人の思い出と繋がっている。
陽がすっかり高くなった頃、リアムは立ち上がった。
風が少し強くなり、草原一面が波打つように揺れ始める。
その光景は、戦場の喧騒とはまったく似ていない。
むしろ、対極にある。
「ああ……美しいな。」
誰もいない草原なのに、そう言葉が漏れた。
ただ風と光だけが、ゆっくりと世界を撫でている。
この静けさは、誰かが戦った証であり、誰もが生きられる未来だった。
リアムは草原の向こうに見えるアルドレアの街を振り返った。
古びた石造りの建物、矢じりの跡が残る塔、けれど確かに息づく人々の暮らし。
時が止まったようでいて、確かに前に進んでいる街。
「……帰るか。コーヒー豆が焼けすぎる。」
くすっと笑い、リアムは歩き出した。
風が背中を押す。
この静かな古戦場で、今日も〈カフェ・クローバー〉は扉を開ける。
傷ついた心を癒すために。
かつての戦場の上で、平和の香りを立てるために。
――戦争の記憶を抱えた青年と、時を越えて静かに眠る草原の物語は、今日も続いていく。
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