スキン・ヘッド・イレブン

右京之介

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スキン・ヘッド・イレブン ~前編~

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   「スキン・ヘッド・イレブン」  ~前編~

                                  右京之介

一人の坊主がいた。
名前を町田と言った。彼は仏師であった。
紺色の作務衣を着て、白い足袋を履き、胡坐を組みながら、背中を丸めて、一心不乱に大きな手で小さな仏を包み込むように彫っている。
仏師には木像の彫刻を行う木仏師と、仏画を描く絵仏師に分かれる。彼は木仏師であった。また、石仏を彫ることはなく、ずっと木を相手に仕事をしていた。
木の中から仏を掘り起こすといった表現をする者もいるが、町田にはそんな感覚はなかった。まだそんな境地にまで達していないのか、己の感覚が鈍いのか分からない。しかし、仏によって衆生が救われるようにとの思いを、一刀一刀にしっかりと込めて彫っている。
そんな熱い思いだけが創作意欲を突き動かしている。町田はそれでもいいと思っている。いつか高い境地にたどり着ければ、それでも構わない。たどり着けなくても構わない。
一つの木くずが思いがけず、遠くにまで飛んだ。
こういうことがときどき起きる。
ほとんどの木くずは手の届く範囲に落ちるのだが、一つだけ遠くに跳ねることがある。きっと、その木くずを通して、仏が自分に何かを訴えかけているのだろうが、さっぱり分からない。遠くまで飛んだ木くずを拾ってみても、それはただの小さな木の破片でしかないからだ。木くずから声が聞こえることもなければ、何かが直接脳へ訴えかけて来ることもない。
いつか悟りが開けて、この飛び跳ねた木くずの意味が分かるときが来るのかもしれないし、来ないのかもしれない。
やはり、町田はそれでもいいと思っている。一人の名も無き木仏師でいい。
一人の木仏師として、ただ、ひたすら仏を彫る。すべては罪滅ぼしのために。
見かけは僧のようだが、自分は僧ではない。修行をしたこともないし、お経の一つも覚えていない。何となく仏道の意味が分かる日は来るのかもしれないが、大悟徹底といった大げさなことは、永遠に来ないに違いない。
自分はただの木仏師という職人に過ぎないからだ。
町田は腰を上げて、遠くに飛んだヒノキの木片を拾い上げると、他の木くずと一緒に混ぜて、ちり取りで、ササッとすくい取った。自分のこんな雑な行動にふと疑問を覚えた。
だが、彫っていた仏像から飛び出した木くずだからといっても、元はと言えば、ただの木くずだ。バチなんか当たらないだろう。――そう思うことにした。

地方の古民家を買取り、ほとんど改装することもなく、そのまま住宅兼仕事場として使っている。昔は古民家などと呼ばれてなかった。言葉としてはあったのだろうが、普及はしておらず、そのまま中古物件と呼ばれていた。田舎の誰も住まなくなった中古物件として、格安で売り出されていたのだ。もしかしたら買い手は付かないのではないか、買ってくれればありがたいというくらいの気持ちで大家さんは売り出していたらしい。
古民家というとオシャレに聞こえてくる。古民家をリノベーションして、さて、何を始めようか、などと考えると、ロマンすら感じてくるようになる。
だが、町田はロマンなどというものは捨て、ただ一人、田舎の村で静かに仏を彫ることを選んだ。そうせざるを得なかったのである。
天井から下がっている電灯には、この古びた家には相応しくないLED電球が使われている。細かい木っ端が多数発生するため、引火して火事にならないように、熱を持たないこの電球に取り換えて使っているのである。リノベーションしたといえば、この電球くらいである。
そして、この部屋にそぐわないものがもう一つあった。木棚に置かれているグラスの中で、オレンジ色のプラスチック片が太陽の光を反射して、輝いていたのだ。光を放つことのない木材に溢れたこの部屋の中で、窓から差し込む太陽の光を受けて、プラスチック片は異様に輝いていた。
 十畳という大きめの板張りの部屋の中には、座って仕事をする町田を囲むように、たくさんの仏像が立っていた。柔らかな日差しを浴びて、ゆったりとたたずんでいるように見える。
ほとんどの仏像は四十センチくらいで、大きなものでは一メートルを越えていた。
すでに注文を受けて作製し終え、先方が取りに来るのを待っているものや、展示即売会のための仏像などである。
しかし、普通の民家と違い、古い造りの家独特の高い天井のため、仏に囲まれていても、威圧感はない。
この天井の高さもこの家を選んだ理由の一つである。部屋が広いため、冬は少し寒いが、夏は涼しく快適に過ごせる。夏が苦手な町田にとっては、住み心地の良い物件であった。
キッチン兼リビング兼応接間である十畳の部屋の他には、寝室として使っている六畳の部屋、及び小さなトイレと狭い風呂があるだけである。
この変わった造りの家が気に入り、町田は去年から一匹の白ネコとともに住み続けている。
 それにしても、今、町田が彫っている仏像は他の仏像に比べると、極端に小さく、高さはわずか十二センチほどしかない。なぜこんな小さな仏像を彫っているのかというと、このサイズの注文が入ったからである。
常に懐に入れて持ち歩ける大きさの仏像を彫ってほしいという奇妙な注文であった。
 注文主である男は村のはずれにあるこの古民家までわざわざやって来た。事前に連絡はなく、突然の訪問であった。

“仏像工房村中”
町田が営んでいる、住宅を兼ねた工房の名前である。入口に墨で屋号が書かれた縦型の木製看板が取り付けられている。彼の苗字は町田であり、村の名前は奥山川村である。村中というのは、工房のある場所が村の中という意味である。屋号には特にこだわりはない。村人たちに、ここでは仏像を作ってますということが分かればいいと思っているため、こんな単純な屋号にしていた。
 ある日の午後。玄関先に一人の男が立っていた。一度声をかけたが、町田は仏像に向き合っていて、気づいてくれない。集中しているため、声が聞こえないようだ。男は先ほどよりも少し大きめの声で呼び掛けると、町田の手が止まった。
「ああ、これは失礼いたしました。気づきませんで」
 おそらく町田は、男の声の大きさから、何度か声をかけられたと推測したようで、すぐに謝った上で、ゆっくりと立ち上がった。膝の上から木くずがパラパラと落ちた。
「どうも、いらっしゃいませ」町田は客人に歩み寄ると、坊主頭を下げた。
 男は町田の脇に目をやると、後ろを向いて、開けっ放しにしていたドアをすばやく閉めた。
 白ネコが見えたからだろう。外へ出て行かないように気を配ってくれたらしい。
「連絡をしてなくて申し訳ないが、仏像を一体彫ってもらいたい」
 男は低い声でそう言った。年齢は四十代だろう。彼も坊主頭をしている。訛りはなく、どこか洗練された雰囲気からして、どこかの大きな街からこの村までやって来たのだろう。
 ――工房の中に坊主が二人。

男の格好は目立っていた。紺色のスーツを着て、灰色のネクタイを締めていたからだ。農業を主にしているこの村でスーツは見かけない。村役場の人間でさえ、ジャンパーだ。スーツ姿はステテコで歩いているよりも珍しい。
 町田は男を板場に上げて、隅にある応接スペースに案内すると、すぐにお茶を運んで来た。応接といっても、低い木のテーブルを囲んで、座布団が四枚敷いてあるだけの場所で、来客用のお茶は、ヒマな村人が遊びに来てもいいようにいつも用意してあった。実際、ヒマな村人が用もないのに立ち寄り、どうでもいい世間話をして帰って行く。田舎にありがちな光景だ。
 男はお茶を飲みながら、作業スペースを囲むように並べてある仏像に目をやっている。
「よくこの場所が分かりましたね」町田もお茶を手にしながら尋ねる。
 工房は村のはずれにある。つまり、中心地と違って、土地の値段が安い。この古民家を格安で手に入れられたのも、そのためだ。仏像を作るのに場所はどこでもよかった。販売は百貨店の即売会やネットで行っているからだ。店舗を構えているわけではない。だから、ここまでの道順が書かれた看板などは設置していない。こうして直接訪ねて来る客人は珍しい。ましてや、高級そうなスーツを着ている人は初めてだ。
「村の入口にある大きな家で聞いて来ました」
 村長の家だろう。この村に引越して来たとき、村を一軒ずつ回って、村人たちに木仏師である町田を紹介してくれた親切な村長だ。この村では代々この家の人間が村長を務めるという世襲制を採用しているらしい。
 秘湯やおいしい名物などない村にわざわざ来ていただくとはありがたいことだ。
「どのような仏像をご希望でしょうか?」湯呑を置いて訊いてみる。
 並んでいる仏像の大きさから、この工房ではどのような作品を取り扱うのか、サイズ的には分かったはずだ。身の丈ほどもある大きな仏像を彫ることはないし、ポケットに入るような小さな仏像を彫ることもない。
「ここに」男は自分の左胸を指差した。「入れておけるくらいのものがほしい」
 奇妙な注文をしてくる。
「胸に……ですか。では、常に携帯できるくらいの大きさということですか?」
「そうです。見たところ、そこまで小さな仏像は取り扱っておられないようだが」
 男はふたたび工房内を見渡す。
「いえ。十二センチほどの仏像なら、ときどき彫ることがあります」
「では、お願いできるということですか?」
「はい。ただ、注文が込み合っておりますので、お時間をいただきたいのですが」
 もうすぐ展示即売会だ。
「どのくらいでしょうか?」
「半月くらい見ていただければと思います。はっきりした日にちは申し上げられません。といいますのは、私が彫った後、仕上げとして、仏の眼を入れます。玉眼を顔に埋め込むわけです」
「ほう、そうですか」男は感心する。「そこまで手間をかけますか」
「玉眼だけを担当する仏師がいるのです」
「仏の眼専門の職人がいらっしゃるのですか」男はまた感心する。
「そうです。ですので、その者の都合もあります」
「それは構いません。半月なら待ちましょう」
 男はそう言うと、仏像の送付先の住所を指定して来た。
 約半月後、完成しだい連絡をして、代金の振り込みが確認できればすぐに仏像を郵便で送るという約束を取り付けた。つまり、代金は前払いである。
「それともう一つ訊きたいのだが、手首に巻く数珠は作ってませんか?」
 男は自分の左手首を触りながら訊いてきた。
「数珠ブレスレットですか。うちは仏像彫刻専門で仏具は扱っておりません。しかし、職人を紹介することはできます。もちろん、紹介料などはかかりませんので」
 男は仏具職人の店を聞くと、丁重にお礼を言って帰って行った。
 町田は歩いて去って行く男の広い背中を見て思った。
あの男は反社の人間ではないのか?
 見た目は坊主頭の中年男性だが、動作にまったく隙がなく、会話をしているときには、決して視線を外そうとしない。
途中で背中がぞくっとした。
客じゃなければ会いたくないタイプの人間だ。名刺をくれなかったのは、ここに来たという証拠を残したくなかったのではないか。そして、左胸に携帯する十二センチの仏像はお守りであり、弾除けの役目を果たすのではないかと推測した。ただし、小さな木製の仏像で、飛んで来る弾丸から身を守れるのか、素人の町田には分からなかった。
 だが、あの男は白ネコに気を使ってくれた。反社の人間がネコの行動まで気にするのか?
 いや、礼儀正しく、言葉遣いも丁寧で、動物好きの反社もいるだろう。
 そう考えると、人相は怖いが、身なりのきちんとした、ただの動物好きの中年男性にも思えてきた。
もしかしたら、自分の思い込みなのか? 
 弾除けのための仏像といった考えは穿ち過ぎなのか?
 いずれにせよ、仕事は引き受けた。半月という納入期限も伝えた。
 工房の隅に積んである木材を見渡す。
携帯できる十二センチの仏像か……。
町田は頭の中で出来上がるまでの日数を計算し、段取りを再構築し、これからの製作スケジュールを組み立てた。これを後でノートに書き写す。いつもの作業だった。
 棚に置いてあるグラスの中で、オレンジ色のプラスチック片がキラキラ光っていた。
  
 昨年、町田がここに工房を構えたとき、最初の仕事は村にある小さな寺に奉納する仏像であった。移住にあたって何かと面倒を見てくれた村長が世話をしてくれた仕事だった。それまでの仏像は修復が不可能なほど老朽化してしまっていたため、新たな仏像を探していたという。有り難いことに、寺の住職と相談して、仏像工房村中に決めてくれたと聞いた。
その仏像の出来がよかったのか、口コミで周辺の村から町から市へと評判が広がり、ついには百貨店で展示即売会を開けるようになったのである。
もっとも、腕があり、いくつもの賞を取っているような木仏師の作品は、外商部で取り扱われている。町田はまだまだ新人であり、その域に達していないため、即売会止まりであった。
 通常、木仏師になるには、仏師の工房に弟子入りをし、修行をしてから独立をする。だが、
町田は何の修行もすることなく、見よう見まねで仏像の彫刻を始めた。幼少期より、手先が
器用だったこともあるが、才能があったのだろう。
また、こういった職人が苦手とする営業力も備えていた。普段は一人で黙々と作業を続け
ているが、元来、人と話すことは何ら苦にならない。巧みな話術を駆使して、どんどん仕事を取ってくる。それは前職の影響によるものだった。
この木仏師、元はというと接客を常とするスーパーの店員だった。
 去年まではスーパーのお総菜売り場に勤務していたのである。
そして当時、町田は人を殺していた。

 その月はお総菜担当のパート女性が次々と風邪にかかり、毎日、数人が休んでいるという状態が続いていた。そのシワ寄せは正社員にも来ていた。月の下旬になっても休みは取れない。何とかスケジュールをやり繰りして、町田は半日だけの休暇を取った。午前中は休んで、午後から夜遅くまで勤務という変則シフトだった。しかし、午前中だけの休みで、疲れは完全に抜け切れてなかった。
 夜十時。勤務を終え、気怠さが残る体で車を運転していた。ラジオからはニュースが聞こえてくる。カナダで二人の日本人留学生が行方不明になっているという。一緒の時期に留学した仲のいい女子学生だったらしい。近々、日本から捜査員が派遣されると言っている。 
 相変わらず、物騒な世の中だな。わざわざ捜査員を派遣するとは大きな事件になりそうだ。女子大生か。まだ若いのになあ。親御さんも大変だ。どうか、生きていてほしいな。
カナダといえば、メープルが思い浮かぶな。国旗の真ん中に描かれている赤い葉っぱがメープルリーフだったはずだ。そういえば、うちのスーパーにもメープル&マーガリンというおいしそうなパンがあったな。新発売で売れ行きも好調だ。いつか買って食べようと思っているのだが、すぐに売り切れてしまう。勢いが治まったら買えるようになるだろう。それまでの辛抱だな。
 町田の発想はカナダで行方不明になっている女子大生から、カナダのメープルを使った菓子パンへと飛んでいた。
 ベーカリーコーナーの棚を思い浮かべながらハンドルを握っていたとき、横断歩道を渡っていた老人にぶつかった。信号はない場所だったが、先方は横断歩道をゆっくりと歩いていたのだから、車を一旦停止させなかったこちら側に非がある。よくあるような、アクセルとブレーキの踏み間違えではない。
深夜といっても、あたりは真っ暗ではなく、街灯もあった。老人の姿は視認できる明るさだ。しかし、なぜぶつかったのか、自分でもよく分からない。
そもそも、ぶつかるまで老人の存在に気付かなかったのだから、言い訳のしようもない。だが、メープル&マーガリンパンのことを考えていたから事故を起こしてしまったとは言えない。
前をよく見ずに、ボケッとして運転していたとしか言いようがなかった。
 老人は四メートルくらい飛ばされてから、地面に叩きつけられて、動かなくなっていた。車から下りて、すぐに近寄ってみたが、息をしてないことがすぐに分かった。右足が、逆方向に折れ曲がり、目を見開いたままだったからだ。
即死というのは、こういう状態を言うのか。人生で初めて見たな。
 いや、感心しているヒマはない。
 このまま正直に通報するか? 
「何かにぶつかったが、人とは思いませんでした」
 こんな言い訳が思い浮かぶ。人を轢いた容疑者がよく使う言い訳であり、新聞の記事でよく見かける。しかし、もちろん言い訳として通用するはずはない。
 だが、今から救急車を呼んでも、もう死んでいるのだから、助かるわけない。
 あるいは、しらばっくれてこのまま逃げるか?
 こんなとき、大抵の人は保身を図ろうとするだろう。
家族を思い浮かべ、会社を思い浮かべ、実際に見たことはないが、裁判所の法廷や刑務所内を思い浮かべる。家族に知られたくない。会社の地位も失いたくない。法廷で検事に吊し上げを喰らいたくない。牢屋になんか閉じ込められたくない。
町田もそうだった。
 周りを見渡すが、誰も歩いていない。つまり、目撃者はいない。
 あたりには防犯カメラは設置されてない。つまり、録画はされてない。
 行き交う車もない。つまり、ドライブレコーダーにも映ってない。
――逃げ切れる。
 そう判断した。判断するまで三分とかからなかった。
 判断したなら、目撃者が現れる前にすぐ行動しよう。
 車の後部トランクを開けたままにして、老人を担いで来て、中に押し込んだ。幸いなことに、小柄だった老人は軽々と抱え上げることができたし、トランクの中は簡単な掃除用具しか入ってなかったため、遺体の収納スペースは十分に取れた。
車のフロントを見るが、激突した衝撃の割に破損は小さい。老人はボンネットに乗り上げることなく、前方に飛ばされたようで、フロントガラスには傷一つ付いてない。ヒビでも入っていたら、ごまかすのに苦労するところだった。
運がいい。いや、事故ったのだから運は悪いのか。
トランクの中からホウキとチリトリを取り出して、道路に散らばっている車の破片をさっと片付ける。元来、キレイ好きのため、掃除用具は常備していたのだが、こんなときに役に立つとは思わなかった。
チリトリですくったゴミの中からウィンカーの破片をつまみ上げた。それは街灯の光を受けて、オレンジ色に輝いていた。異様に輝いているその破片だけをポケットにしまった。
証拠隠滅なのか、事故った記念なのか、お守りに使おうとしているのか、自分でもよく分からない、とっさの行動であった。
おそらく、事故後で気が動転して、思いもよらぬ行動を取ったのだろう。後になって、自分自身をそう分析した。
その破片は仕事場の隅でずっと自分を見つめてくれることになった。

 車を自宅の駐車場に入れて、シャッターを下ろした。帰る途中、車のフロント部分をわざと電信柱にぶつけておいた。電信柱は防犯カメラがなさそうな細い道に立っているものを選んだ。壊れた箇所が多少広がったが、目立つほどではない。その後、何台かの車とすれ違ったが、フロントが大きく壊れているわけではないので、おそらく気づかれてないはずだ。
 トランクを覗き込んで、老人の様子を見る。もしかしたら、生き返っているのではという期待は外れた。白髪で短髪の老人の目は見開いたままだ。一応、脈を取って、心臓に手を当ててみる。やはり、動いていない。確実に死んでしまっている。だが、茶色のズボンにも、白いシャツにも血の跡は付いてない。
死因はなんだろうか? 
全身を強く打ったことによるショック死か?
 おそらく七十歳は越えている。だから、ショック死の可能性が高いのではないか。
今まで、人を殺めたことはないが、殺人者の心理として、殺してしまった後、ふと正気に戻り、死体が生き返ってくれないかと思うのではないか。
人生初の殺しを経験して感じたことだ。しかし、当然ながら、その希望は叶わなかった。
 老人は杖をつくこともせず、手ぶらで歩いていたようで、バッグのような物は何も持ってなかった。事故現場をくまなく探したが、車の破片以外に遺留品はなかった。手から離れて飛んで行ったということはないはずだ。
 ならばと、ズボンとシャツのポケットの中を探る。
――何も出てこない。
 身分を示すものが何もないのだから、どこの誰だか分からない。
あんな深夜に、なぜ一人で歩いていたのかも分からない。
 家を抜け出し、徘徊をしていて、事故に遭ったのかもしれない。
 ならば、家族が探しているはずだ。
 老人をトランクに入れたまま、駐車場内で念入りに洗車をする。そして、洗車をしながら、これからどうするか、落ち着いて考えることにする。
このままどこかに運ぶか、いったん、家の中に入れるかを考えながら、隅々まできれいにして、証拠隠滅を図る。特にフロント部分は、洗剤を擦り付けては水で洗い流すという作業を何度も繰り返し、仕上げにワックスを塗りたくって、磨き上げた。もし、少量でも血痕が残っていたら、鑑識が行うルミノール反応とかいうヤツでバレてしまうだろう。破損したウィンカー部分などは明日、修理に出す予定だ。もちろん、運転を誤り、電信柱にぶつけたと言って。
電信柱にぶつけたのは事実だ。その前に人へぶつけていたのだが。
 さて、肝心の老人の遺体をどうするかだが、しばらく、このまま自宅に置いておくことにする。行方不明の老人の情報が流れる可能性があるからだ。どう処理するかは、どこの誰だかが、分かってからでも遅くない。身元が分かれば、深夜、そっと家の前に放置しておくこともできる。遺体が歩いて帰って来たと勘違いするかもしれない。世の中、何が起きるか分からない。
とりあえず、焦ってはボロが出る。遺体が腐敗して、悪臭を放つまでに、善後策を講じよう。
 遺体を車から家の中へ、抱きかかえて移動する。家の中に安置することにきめたからだ。玄関で靴を脱がせた。やはり、家に上がるときは靴を脱ぐべきだろう。
そして、普段使ってない洋間に寝かせた。押し入れから布団を引っ張り出そうとしてやめた。
 ダメだ。布団なんか掛けてはいけない。今は腐敗を防ぐべきだ。
エアコンの温度を最低の十六度に設定し、朝まで稼働させておくことにした。
 そして、遺体から何かしらの体液が流れ出すのではないかと思い、床に古新聞を敷いて、服を全部脱がせてみた。
 家具類は何もない六畳のフローリングの上に、全裸の小さな老人の遺体。
 あまりにもシュールな光景だ。
 できるなら目にしたくないので、上からバスタオルを掛けておく。
 やってることが自分でもトンチンカンに思えるが仕方がない。何といっても、家に遺体を泊めるのは初めての経験だからだ。気が動転していて当然だ。
 部屋のドアを閉めると、廊下からそっと手を合わせた。
「どうか恨まないで、さっさと成仏してください。ナンマイダ」
 これでいいだろう。あいにくと一人暮らしだし、訪問してくる人物もいない。
 脱がせた服と靴はハサミで細かく切ってから、燃えるゴミの日に出しておけばいいだろう。

 早朝、出勤前に車で遺体を遺棄するための山に向かった。遺体は積んでない。冷房をガンガン効かせた部屋に寝かせてある。今は下見に行くだけで、決行は明日の夜明けとする。
 遺体をいつまでも寝かせていてもしょうがない。生き返りそうにないからだ。結局、さっさと処理することに決めたのである。
 山に捨てられた遺体が見つかることがある。それは、ただそこに放置しているだけで、ちゃんと埋めてないから、見つかってしまうのだろう。埋めるのに手間がかかるためやらないのか、途中で怖くなって逃げ帰って来たのか分からない。いずれも、山の中だから、そう簡単に見つからないだろうと思っているのだろう。山の中に用事がある人もいる。
 細い山道を行ける所まで車で入り込んだ。遺体を担いで運ぶ距離をできるだけ短くするためだ。小柄な老人を担ぐといっても夜明けは薄暗く、足元も不安定で危険だ。力尽きたからといって、その辺に放って帰るわけにはいかない。それなら並みの犯罪者と同じだ。完全犯罪を成し遂げなければ、自分の人生が終わってしまう。
 うまい具合にいい場所を見つけた。獣道らしき道から、さらに奥へ入ったところだ。木と木の間で日当たりも悪く、あたりに葉っぱや小枝が散乱している。人が入って来ている感じはない。地面の土を手で掘り起こしてみる。土は柔らかかった。これなら短時間で埋められるだろう。
道の具合や周りの樹木を覚えて帰る。暗い時刻でも迷わずに行って帰れそうだ。
 出勤途中で車を修理に出し、夕方、仕事を抜けて引き取りに行った。割れたブレーキランプと曲がったパンパーの交換だけだから、一日で済んだ。有り難いことに、修理屋さんは車を電信柱にぶつけたという話を疑うことなく聞いてくれて、気を付けて乗ってくださいと笑顔で領収書をくれた。

 そして、さらに一日待ってみた。何らかの情報が入るかもしれないため、待ってみたのである。現場にも行ってみた。よくある“死亡事故現場、情報求む”といった看板は立ってない。いつもと何ら変わらない風景だ。
周辺を歩いてみて、電信柱や町内の掲示板をチェックしてみた。行方不明者の貼り紙が貼ってないかと思ったからである。ネット社会になってからは、尋ね人の写真なんか貼ってないのかもしれない。それでもときどき、尋ね犬や尋ね猫の貼り紙は見かけるが。
 翌日、仕事を終えて、帰宅すると、遺体の腐敗具合を確認して、朝まで仮眠を取った。仕事に行って不在だった間も、全裸にして、冷房をかけ続けていたためか、腐敗は進んでいないようだ。まだ、二日しか経っていないから、冷房をかけてなくても腐敗しないのだろう。
昨日より少し軽くなった感じがする遺体を、バスタオルを掛けたまま抱えて、トランクに積み込み、早朝、下見をしておいた山へ向かう。パトカーに止められないように、安全運転を心がける。うっすらと夜が明けてくる。
 車を下りると、LEDヘッドランプを頭に装着した。これで両手が使える。薄暗い中、遺体をかつぎ、大型スコップを持って、獣道を行く。
一日が過ぎたが、老人のことはニュースにもなっておらず、いまだに身元は分からない。その間、警察がやって来るのではないかと仕事も手に付かず、ビクビクして過ごしていた。だが、埋めてしまえば、こっちのものだ。昨日、車の修理も終わっている。
 小動物に掘り起こされないように深く穴を掘り、全裸の遺体を寝かせた。念のため、包んでいたバスタオルは持って帰る。これも燃えるゴミの日に処分するとしよう。
手を合わせて、一分間黙とうして、土をかぶせ、目印に大き目の石を乗せておいた。
 一段落した頃、完全に夜が明けた。計算通りだ。
山の中とはいえ、昼間なら誰かに見られる可能性も高い。今なら、真っ暗闇と違って作業がしやすいため、夜明けという時間帯を選んだのだ。
車に戻る途中、持参したビニール袋へ、適当に摘んだ山菜を詰める。地元の人間に見られても、早朝から山菜取りをしている健康的な男だと思われるように小細工をしたのだ。もちろん、草花の知識などない。家に持って帰って捨てるつもりだった。
 
 そして、老人の身元が分からないまま一か月が過ぎた。
昨日、久しぶりに老人を埋めた場所へ行ってみた。目印の石はそのままで、さらに多くの落ち葉や小枝が堆積して、その場を覆い隠してくれていた。小動物に掘り起こされた形跡はない。
また、この一か月間、この地域で老人が行方不明になっているというニュースが流れることもなく、家や職場に警察からの問い合わせなどもなかった。
完全犯罪を成し遂げたと思った。
しかし、老人一人がいなくなったというのに、誰も気づかないというのか?
家族はどうしたのか? 住んでいた家はどうなっているのか?
あの老人が身元不明のホームレスだったとしたら?
ホームレス仲間とも付き合いのない老人だったとしたら、探す人もいないだろう。
だが、あの老人の身なりはきちっとしていた。
身に付けていた茶色のズボンと白いシャツは、汚れもなく、きれいなものだった。おそらくアイロンも掛けてあったのだろう。靴は運動靴だったが、くたびれてもいなかった。すでに燃えるゴミとして出してしまったから分からないが。
ならば、ホームレスではないのか?
何も分からなかった。
そして、何も分からないまま、この街を出ることに決めた。
 事故を起こした車も、遺体を寝かせていた家も売却し、実家の母の具合いが悪いとウソをついてスーパーを辞めた。上司は引き留めてくれたが、丁重に断った。警察の捜査も及んで来てないので、このままスーパーに勤務することもできたが、辞めることにした。
あの老人のことが頭から離れなかったからだ。
見開いた目、折れ曲がった足、遺体をかついだときの軽さ。
殺人犯というのは、いつまでも被害者のことが頭から離れないものなのだろう。
 実際に人を殺してみて、そう思った。
 ある日、ふと仏像を彫ることを思いついた。
老人の供養の意味もあった。罪滅ぼしの意味もあった。
そして、売り出されていた村のはずれの古民家を買い、“仏像工房村中”の看板を掲げた。
事故現場で拾って来た、オレンジ色のランプカバーの破片を忘れずに持って来た。
そして、町田は髪を切って坊主頭になった。

一人の坊主がいた。
名前をタクジと言った。金髪だった頭はバリカンで無理やり坊主にされた。刑務所に収容されたからである。彼は囚人であった。
「タクジ、カレンちゃんは引越した」
 タクジはそれを聞いて動揺したようだった。
 アクリル板越しにも、それが伝わってきた。
 返事をしないことからも明らかだった。
しかし、面会に来た男は、すぐに言葉を足した。
「引越し先は教えてくれた。だから、心配するな。お前のことは待っていてくれる」
「よかった」小さく呟くと、まだ若いタクジは、心底ホッとしたような顔をして、
「アニキ、いつもすいません」両手をついて、深々と坊主頭を下げた。
 アニキと呼ばれた男も坊主頭だった。
 ――面会室に坊主が二人。
「やはり、思い出すそうだ」アニキ分の男が引越しの理由を語り出す。
「部屋の前はデッキブラシまで買って来て、念入りに掃除をしたらしい」
 タクジはあの部屋の前を思い出す。蛍光灯が切れかかっていた暗い廊下を。
「大丈夫だと思っていたようだが、先日、天井に小さな血痕を見つけたそうだ。それを見て、
あのときのフラッシュバックが起きて、気持ちが折れてしまったらしい」
「それで引っ越しを?」アクリル板の向こうから訊いてくる。
「ああ、そうだ。いろいろな思い出が詰まった部屋だったから、今まで我慢して住んでいたのだが、限界に来たらしい。だが、同じ市内だから安心しろ。以前のマンションからはそんなに離れてないし、仕事にも時間の余裕を持って通える所だと言っていた」
「分かりました」タクジはアニキにもう一度、頭を下げる。
 タクジが付き合っているカレンのマンションの部屋の前である事件が起きた。廊下に大量の血が流れるような凄惨な事件だった。その事件の当事者であるタクジは刑務所に入ることになった。
「出所まで残り一年半だろ。そんなもの、すぐだ。待ってる人がいるんだ。しっかり耐えろ」
「ありがとうございます」また深々と頭を下げた。
「それにな」アニキはタクジの目をグッと見つめた。「カレンちゃんは長かった髪を切った」
大切なことを告げられると思ったので、タクジは少し気が抜けた。
「ああ、ショートカットになったのですか」
「いや。お前と同じ坊主頭になった。お前のために願を掛けたらしい」
「そんな……」タクジは愕然とし、自分の坊主頭を両手で抱え、カレンの長い髪を思い出す。「女なのに……坊主頭ですか?」
 俺のために、なんてことを。早く出所できるように願を掛けて髪を切ったというのか。
キレイで長い髪を染めることもせず、仕事にも生かしていたカレン。
 断髪といった、昔の人がやりそうなことを、今の若い女がやってのけたのか。
 以前、アイドルが不祥事の責任を取って、坊主頭になったことがあった。
 カレンは同じことをやってのけたというのか。
だが、坊主頭のカレンなんて、どうしてもタクジには想像ができない。
「タクジ、待っていてくれる人がいるというのはいいものだぞ」
 アニキはタクジのショックを和らげようと、そんなことを言った。
 タクジもアニキのやさしい気持ちを汲み取った。
「そうですね、アニキの言う通りだと思います!」タクジの顔がパッと明るくなる。
「それとな、タクジ」アニキがタクジの最大の不安を打ち消すことを話す。「お前の首にかかっていた懸賞金は無しになった。安心して戻って来い」
 当時、事件を起こして逃亡していたタクジの首には、敵対する暴力団胡蝶蘭組により、一千万円の懸賞金がかけられていた。生け捕りにすれば一千万円。半殺しで五百万円。殺せば三百万円だった。
生け捕りの方が喜ばれる。リンチにかけながら、恐怖を味合わせて、じわじわと殺していけるからだ。
 しかし、懸賞金目当てに全国から、腕に覚えのある殺し屋たちが集まり、街中をうろつき始めたため、タクジが所属している暴力団有墓組も防ぎ切れなくなり、自首を勧めることになった。
タクジは自分のせいで、組のみんなに迷惑がかかったので、刑務所に入る前に指を詰めるとまで言い出したのだが、逆に相手をコテンパンにしたのだからと、褒められることになり、出所後は何らかの形で優遇すると約束されていた。
タクジはすべてをウソ偽りなく供述して、実刑を喰らい、収容された。
自首して収容されたことにより、懸賞金の話はなくなり、殺し屋たちはまた全国に散って行った。集まった殺し屋のほとんどがフリーであり、胡蝶蘭組とは利害関係がなかったため、さっさとどこかへ消えたようだった。血に飢えた奴らは、今も日本のどこかを彷徨っていることだろう。
懸賞金が消えたことでタクジも安心した。これからカレンと生きて行くにしても、いつ暗殺されるか分からないような生活は送りたくなかったからだ。
これが最大の不安だった。
不安がなくなったことで、出所までの日々を真面目に送ることに専念できることとなった。

 一月、夜の十時。
事務所のソファーでウトウトしていたタクジは電話の音で叩き起こされた。
「タクジさん、お世話さまです。ヘブンアクアの森林です。遅くにすいません」うちの有墓組が面倒を見てやってるクラブの店長だ。「ちょっと、お客が騒いでますので、今からお願いできませんか?」
事務所で留守番をしていたタクジは眠い目を擦りながら、アニキに電話を一本入れてから、クラブへ向かった。留守電だったので、今からヘブンアクアへ行きますとだけ入れておいた。仕事に行くときは、上の人間にいちいち報告する決まりになっている。
うちのような小さな組が黒塗りのベンツなんか持ってるわけない。――金がない。
たとえ、中古で手に入れたとしても、運転手役なんかいない。――人もいない。
つまり、今から錆だらけの自転車を一人で漕いで出動というわけだ。
月十万円という格安の料金で用心棒を引き受けている。市内にある、十ほどのクラブと業務提携をしている。ケツ持ちではなく業務提携と呼んでいる。警察に感付かれても、業務提携なら正当な商行為だとして言い逃れができると上層部は思っているらしい。
ヘブンアクアはそのうちの一つだ。
つまり、用心棒代だけで月商百万円になる。
一か月に十万円払えば、何度でも出動するという良心的なシステムだ。一度も顔を出さなくても十万円。毎日行っても十万円。だから、クラブの連中は元を取ろうと、しょうもないことでも俺たちを呼ぶ。たとえ、深夜の時間帯であってもだ。
そして、俺たちはそれを断らない。サボると信用をなくしてしまう。敵対する組に鞍替えされてはいけない。月百万円は貴重な収入源だからだ。
といっても、今は俺しかいない。以前はもう一人同期がいた。裏の世界で同期という言い方はおかしいかもしれないが、同じ頃、組に入って来たのだ。
だが、そいつはたった二日で逃げ出した。ベンツの後部座席で踏ん反り返ろうと思って組に入ったが、待っていたのは面倒な雑用と錆びたチャリンコだったからだ。
――まさか下積み生活があるとは思わなかった。
そう言って去って行った。
組に入ったその日から、ベンツの後部座席で踏ん反り返れるのなら、日本中からたくさんのガラの悪い若者がヤクザになりたいと押しかけてくるだろう。整理券を配らないと処理できないくらいに。そもそもベンツなんて、俺はいまだに乗ったこともない。
あまりにも根性無しのアホな奴だったから、組としても連れ戻すことをせずにそのまま放っておいた。今頃、どこで何をやっているか分からないが、あんな奴はヤクザ業界以外のどんな堅気の業界に行っても使えないだろう。もちろん戻って来たとしても門前払いだ。
ヘブンアクアに到着すると、ドアの前で店長の森林がデカい体をソワソワさせながら、派手な赤いネオンサインに全身を照らされて立っていた。
「これは、これは、タクジさん。すいません、急にお呼び立ていたしまして――こちらです。お願いいたします」体を小さくして挨拶をしてくる。
森林みたいな年上の人間でも、俺みたいな若造に腰を低くして接して来る。バックに組が付いているだけなのだが、なんだか偉くなった気分になる。だから、ヤクザは辞められない。乗って来たのは黒ベンツじゃなくて、チャリだけど。しかも、用心棒としてやって来たのは下っ端の俺一人だけ。
店が何らかのトラブルに遭ったとき、警察に通報すると、現場検証や事情聴取などで数時間も取られる。その間、客を帰らせて、店は閉めなくてはならない。商売上がったりだ。しかも、警察が来たとなると店の信用にもかかわる。根も葉もない変なウワサも立つかもしれない。
一方、暴力団に頼めばすぐに終わる。そんなときのために毎月十万円も支払っているのだ。警察に追及されたら、脅されて毎月、暴力団に徴収されてましたと、適当なことを言って、被害者のフリをすればいい。
――そう思っている。どっちもどっちだ。キツネとタヌキの化かし合いだ。
だが、森林店長には勝算があった。
つまり、健全なクラブと暴力団のどちらの言い分を、警察は信用するかということである。当然、警察は善良な市民の味方だ。店としても、こんなときのために、たくさんの税金を納めている。だから、些細なことでも、遠慮なく用心棒を呼び付ける。もちろん、そんなそぶりは見せず、タクジに対しては毎回丁重に接している。

 俺はチャリを入り口付近に置いて入店した。森林店長の後をついて行く。
「あのお客さんです」
店長が指を差した先では、サラリーマン風の男がホステスに大声で何かを喚いていて、他の客が遠巻きに眺めている。
「ずっと、ああいう調子なんですよ。私が注意しても、聞いてくれません。他のお客さんも迷惑してます。タクジさん、何とかしてもらえませんか」
「知ってる客か?」
「いいえ、初めて見るお客です」
「分かった。常連じゃないなら遠慮なくいくぞ」
俺にとって、喚いている内容なんかどうでもいい。客と従業員のどっちが悪いかなんてどうでもいい。仲裁して双方から話を聞いて、和解させるつもりなど最初からあるわけない。俺は店側の人間だ。一秒でも早く、邪魔な客を店から追い出すだけだ。それが俺の役目だ。
「ちょっと、お客さん」
 俺はゆっくり近づくと、丁寧に話し掛けた。もちろん、凶器など持ってない。
最近では、俺みたいな下っ端がヘタを打つと、上のお偉いさんまで責任を取らされる。それだけは避けなくてはならない。逃げたところで、警察と組の両方から追われることになるからだ。そうなると海外にでも逃亡するしかない。俺にそんな金があるわけない。
「うるせえな!」そう吠えた男は「何だ、お前は……」俺の姿を見て、途中で黙り込む。
俺は金髪でガラが悪い。どう見ても反社だからだ。目付きも悪く、しかも、背が高い。逆にこの客は背が低いため、見下ろすことになる。小さいくせに威勢だけはいい。
「他のお客さんの迷惑になるから、静かに遊んでくれないかな」
 男から視線を外さず、少しかがんで、耳元で囁くように低い声で言う。
 俺よりも、頭一つ小さいその男は、目玉だけを俺の顔がある左上に向けて、「いや、あっ、はい…」と言ったまま、うつむいて黙り込む。周りはすっかり静かになっていて、みんなの視線は俺と男に集中している。男はヤバいことになったと思ったのだろう。一気に酔いも醒めたようで、オロオロし出した。おそれく、俺がこの店のケツ持ちをしている暴力団の一員だと気づいたのだろう。ケツ持ちじゃなくて、業務提携なんだけどな。
さて、このあたりで勘弁してやろう。客の誰かが警察に通報するかもしれないからな。そうなると大変だ。警察沙汰にしてしまうと、アニキにも怒られる。
俺はそばで立つ黒服に言った。「お客様がお帰りだ。会計を頼む」
 そして、俺は、会計を済ませた男の顔面、約三十センチのところに顔を寄せて、もう一度、低い声で囁いた。
「お客さん、また遊びに来てくださいよ」
「はい、はい……」酒臭い息を吐きながら、逃げるように店を出て行った。
 残念ながら、二度と来店することはないだろうが、あんな奴は常連でもなく、たいして売り上げに貢献していないから問題はない。もう来なくても構わない。
店の中にふたたび活気が戻った。
 わずか数分で仕事を終えた俺の元に、森林店長が小走りでやって来た。
「どうも、すいませんでした」深々と頭を下げる。「いつもながらの、お見事なお仕事ぶりです。助かりました」
「また何かあったら電話をくれ。遠慮はいらないから」
「分かりました。タクジさん、一件落着ということで、ちょっと一杯どうですか?」
「いや、いい。すぐ事務所に戻るから」
 この店長は俺が一仕事終えるたびに誘ってくる。有り難いことだが、仕事中に飲むわけにはいかない。今日は朝まで事務所で待機だ。まだまだ下っ端のヤクザだから仕方がない。俺が出世したら貸し切りで遊んでやるといってある。いつになるか分からないが。
 アニキの留守電に、ヘブンアクアの仕事が終わりましたとだけ入れておいた。

 店を出ると、俺の愛車のチャリが倒れていて、すぐそばで、一人の若い女が、酔っぱらった中年男性に文句を言っていた。どうやらこのオヤジが酔いに任せて、俺の自転車を倒し、それを見ていた、この女が注意をしてくれているらしい。なかなか勇気のある女だ。
当然、俺はその勇気に答えなくてはならない。二人の間に割って入る。
「あーあ、俺の大切な自転車が倒されてる。オヤジの形見なんだよなあ。これはきっと壊れてるに違いない。高かったんだよなあ、これ。確かフランス製で三百万円したんだよな」
 錆びた普通の国産チャリンコがそんなにするわけない。わざとデカい声を出しながら自転車を起こす。中年オヤジは俺のガラの悪さを見て、慌てている。今まで若いネエちゃんを相手にして、偉そうに話していたというのに、後ろから金髪で目付きの悪い兄ちゃんが出てきて、焦っているようだ。しかも、自転車が壊れたと言って、イチャモンを付けてきたのだから内心穏やかではないだろう。
俺とこの女がグルだと思われたかもしれない。勘違いは勝手にすればいい。悪いのはこの酔っぱらいだ。
 中年オヤジはスーツの胸ポケットから財布を取り出すと、適当に札を掴み、俺の手に押し付けて、すいませんでしたと言って走って逃げてしまった。かなりのスピードだ。
酔っぱらってるのに、ちゃんと走れるじゃないか。
 俺の手の中に、二つ折りにされた四万円が残された。
「じゃあ、山分けな」
 俺はまだそこに立っていた若い女に二万円を差し出した。
当然、断られるだろうと思って。
だが、女はどうもありがとうございますと言って、当然のように、さっさとバッグに仕舞い込んでしまった。
 今のは、ヘタすりゃ、脅迫になるんだけどな。
 あんたは共犯になるかもしれないのにな。
実は俺も酔っぱらいがいきなり金をくれるとは思わなかったので驚いた。つまり、男から四万円をもらって驚いたし、女に二万円を受け取られて驚いたというわけだ。
だが、これでもヤクザの端くれだ。そんなことは、おくびにも出さない。見えを張るのはヤクザの基本だ。舐められたらヤクザは終わりだ。用心棒なんかに使ってくれない。
 酔っ払い男の姿はもう見えない。逃げ足の早い奴だった。
まあ、俺の自転車を倒した奴が悪いということで、良しとするか。
不法駐輪だったけど、二万円儲かった。臨時収入だからアニキに届ける必要はない。全部俺の物だ。後でタバコをカートンで買うとするか。
「このお店の方ですか?」帰ろうとすると、さっきの女が訊いてくる。
よく見るとキレイだ。俺の好きなロングで黒髪のストレートでポニーテールだ。
「まあ、ちょっとした関係者だ」俺は用心棒とは言わず、適当に誤魔化す。「店に何か用か?」
「私、ダンサーなんですけど、このお店で雇ってもらえないかなと思って」
「じゃあ、待っててくれ」
 俺は女を残して、店に戻った。
ホステスに何かの指示をしている森林店長を見つけた。
「店長、若い女のダンサーが雇ってくれと来てるのだが」入口に目をやる。
「えっ? 聞いてませんけど」
「当然、雇うわな」店長の目を睨みつける。
「――えっ? ああ、はい。もちろん、タクジさんの知り合いの方でしたら、即採用でございます。ちょうどダンサーを募集しようと思っていたのですよ。これはタイミングがいい。大いに助かります」
 さっき出会ったばかりなので、どこの誰だか分からない。名前も知らないが、知り合いは知り合いだ。ウソではない。俺のチャリを助けてくれたお礼だ。
「そうか、悪いな。今から呼んでくるから」
「はい、もう今日からでもバリバリ働いてもらいますよ!」
 俺は店の外に出て、チャリのそばで立っている女に言った。
「即採用だそうだ」
「――えっ? えっ? どういうことですか?」
「今日から働いてくれって」
 驚いた女の目がまん丸になった。
 女はカレンと名乗った。
カタカナでカレンと書きます。本名です。でも純日本人ですと言った。

 カレンは流しのダンサーだと言った。そんな商売があるのかと思ったが、ここ五年ほどは、それで稼いでいるらしい。市内にあるクラブやキャバレーを、一か月ごと回っているという。 
俺が面倒を見ているこのクラブは比較的新しい店だ。だから、初めてやって来たらしい。 客がどんどん入って行くので、繁盛していると踏んだようだ。ちょうど店の前に止めてあった俺の自転車を蹴飛ばしてる酔っ払いがいたので注意してくれたらしい。
 そのお礼に口を利いてやったのだが、恩に着せたからといって、俺は面倒を見ている店のスタッフに手を出すようなことはしない。今のところは……。明日のことは分からない。明日のことまで考えて生きてない。明日は明日の風が吹く。それがヤクザだ。
カレンはこの店で仕事を始めてすぐに、俺の仕事が分かったようだ。店にトラブルが起きたときだけ現れて、揉めている客を怖い顔で睨み付けて追い出すと、さっさと帰って行く。森林店長もペコペコしているのだから、反社に属する用心棒だということはバレバレであった。
それでなくても、俺の風貌はガラが悪い。電車に乗っていても、俺の周りだけ誰も立たない。普通に歩いているだけなのに、みんな道を空けてくれる。子供と目が合うと、必ず泣いてしまう。笑う子も泣く俺様だ。だが、おっかない容姿のお陰で、実は小心者の俺もこの業界でやっていけている。まだ新米ヤクザだが、ベテランのように振る舞っていれば、それなりに接してくれる。若くても実力次第で上にあがれる業界だ。俺は上の人間だと勘違いさせておく。
カレンが得意とするのはポールダンスだった。ステージにステンレス製のポールを立てて、それにしがみつき、回ったり、逆さまになったりと忙しいし、見ている側がヒヤヒヤするダンスだ。もちろん、俺が連れて来たことになっているダンサーだから待遇はいい。森林店長も一目置いている。置かざるを得ないのだろうけど。
翌日にはどこから調達したのか、さっそく新品のポールが立てられ、音楽や照明が整えられた。カレンはしきりに恐縮していたが、客受けは良かった。カレン目当てにやって来る客も増え、森林店長はホクホク顔だった。
「いやあ、さすがタクジさんがスカウトしてきたダンサーさんですね。体が柔らかくて、クネクネしてますよ。連日、お客も大入りで、売り上げもどんどんアップしてますよ」
 俺がどこからかスカウトしてきたと思い込んでいるが、そのまま放っておく。店の前で偶然会ったとは言わない。勘違いする方が悪い。
俺が見つけたことにしておいた方が、カレンのことも大切に扱ってくれるだろう。売り上げに貢献しているのだから、追い出すようなことはしないはずだ。何と言っても、森林店長の給料は歩合給だ。売り上げが上がると給料も上がるという仕組みだ。ホクホク顔になるのも無理はない。
 一か月後、店から出てくるカレンに会った。手に大きなバッグを持っている。
「タクジさん、お世話になりました」頭を下げてくる。
「何だ、何かあったのか?」当然、俺は訊いた。
「もともと一か月の契約で、今日でちょうど一か月経ちましたから、また違う店に移ります」
「アテはあるのか?」
「まだ、これから探します」
「これからも、この店で働くというのはどうだ?」
「それは、そうしていただけるとうれしいですが」
「じゃあ、待っててくれ」
 俺はカレンを残して、店に入った。
 店長がビールジョッキを両手に持って、セカセカと歩いていた。
 デカい体なのによく動く店長だ。
「よお、森林店長!」
「これは、これは、タクジさん。今日は何か?」
「カレンさんが今日までだそうだな」
「はい。契約が今日まででしたので」
「延長できるな」
「延長!? ――あっ、はい。もちろんです! タクジさんのおっしゃる通りにいたします。カレンさんなら、あと何年でも構いません。おばあさんになっても構いません。永久にここで働いてもらっても構いません。何でしたら、ポールも二本立てます」
 流しのダンサーのカレンはおよそ一か月ごとに店を替えていた。だから、このクラブでもそういう契約をしていた。森林店長も一か月しか働いてくれないと、最初から思い込んでいたようだ。お互いの思い込みで、カレンは辞めていくところだった。
 俺は外で待っていたカレンに言った。
「店長が死ぬまでここで働いてくれと、涙を流して懇願しているが、どうだ?」
「えっ? えっ? どういうことですか?」
 驚いたカレンの目がまん丸になった。採用が決まったときと同じ光景だ。俺は店長の承諾を得たと説明した。そして、ポールを二本立ててくれることも。
「タクジさん、ありがとうございます! 明日からもがんばります!」頭を下げてくる。
「あんたが目当ての客もたくさんいるからな。これからも頼むわ」
 店の売り上げが上がると、カレンを連れて来た俺の株も上がるというものだ。
「でも、死ぬまで働くと言われましたけど、年を取ると、握力もなくなって、ポールに掴まったとたん、ズルズルと落ちていくと思いますけど、そんな私の姿をタクジさんは見たいですか?」
「いや、どうだろうな」真面目に質問されたタクジは困る。「そのときはそのときだな」
「あっ、そうだ!」仕事の継続が決まったためか、カレンの口は軽い。「タクジさんもポールダンサーをやりませんか? 男性のポールダンサーもいるんですよ」
「ポールダンサーとヤクザを兼業している奴はいないだろ。この顔でどう踊ればいいんだよ。まあ、そういうことだから、明日からも頼むわ。――そのデカいバッグは何だ?」
「ロッカーに入れてた私物を持って帰ろうと思って」
「また働くことになったのだから、戻して来いよ。ロッカーは足りてるのか? 何ならあと五台ほど用意してやるぞ」
「いえ、一台で十分です。そんなにたくさん入れる物はありませんので」
 カレンは足取り軽く、店に戻って行った。
 その後、店長によって、本当にポールは二本立てられ、まるでムササビのようにポールからポールへと飛び移る華麗な技も披露され、カレンの人気と店長の給料はさらに上昇した。その反面、俺の仕事は増えた。新規客の数が増えるとトラブルの数も増えるのは当然だった。これからも、そんなトラブルを一つ一つ片付けて、店をきれいにしてやる。
アニキの力は借りない。俺の力だけで。
 
 カレンからストーカー被害に遭っていると相談を受けたのは、それから四か月ほど経った頃だ。店のトラブルととも、スタッフを守るのも俺たちの仕事だ。何といっても彼女たちは大事な金づるだからだ。
クラブの看板娘に成り上がったカレンのファンは多いが、中には勘違い客もいる。
 待ち伏せするなど、行動がエスカレートして来た数人を出禁にしていた。俺がちょっと睨み付けて、耳元で囁いてやっただけだけど、普通はそれで二度と来なくなる。そいつらの分、売り上げは減るが、大した額ではない。出禁にした連中以上に、毎日新規客がやって来るからだ。森林店長はいつも常連客に新しい客の紹介を頼んでいる。そんな地道な努力がカレンの人気も借りて、報われつつある。
 だが、新たに現れた奴はしつこかった。店長が叱ると、店には来なくなったが、カレンのマンションの部屋の前まで来た形跡があった。おそらく仕事が終わってから、後を付けて、部屋を確かめたのだろう。
カレンが言うには、ある日、ドアの郵便受けに手紙が入っていたという。内容はラブレターらしかったが、気味が悪いのでちょっと読んだだけで捨てたらしい。――差出人の名前は大刃人。
ダイハード? マジか? なんという親だ。キラキラネームにしても程がある。
 平成生まれのキラキラネームの奴が、手書きのラブレターという昭和の手法でアプローチをしてくる。まさか、そのギャップを狙ったのか? 大刃人はそこまで頭がいいのか?
その頃、俺とカレンは付き合いを始めていた。店のスタッフに手を出すようなことはしないはずが、自然にこうなってしまっていた。人生なんて、いい加減なものだ。明日吹く風は微風なのか、強風なのか、明日にならないと分からない。
 付き合っているといっても、ずっと一緒にいるわけではない。そもそもアニキには内緒だし、しょっちゅう会っていられない。見つかったら街から追放されるかもしれない。
俺と真逆でアニキは昔ながらのヤクザでたいへん律儀だ。スタッフに手を出すなんて死んでもやらないだろう。
俺の仕事は夜がメインだから、カレンが夜中に帰宅する時間は何かと忙しい。面倒を見ているクラブはここだけではなく、市内で十軒を越える。何かあったときのために、事務所で常に待機をしていなくてはならない。ヘブンアクアに常駐するわけにはいかない。だから、俺がカレンと一緒にいる時間は少ない。
けっこうデカいが古びたマンションの五階。蛍光灯が切れかかっている暗い廊下の一番奥がカレンの部屋だ。
俺は廊下に少し窪んだ場所を見つけた。ビルの構造の関係なのか、体がちょうどスッポリと入るくらいのスペースがある。
俺はジグソーパズルのピースのような形で、ここに隠れることにした。
深夜、カレンの部屋の電気は点いている。だが、中は無人だ。わざとそうしている。街灯に集まる虫を退治するごとく、大刃人の野郎を引き寄せるための罠で、カレンには近くのビジネスホテルにしばらく滞在してもらっている。在宅しているように見せかけているが、呼び鈴の電源は切ってある。夜中にピンポンピンポンと連打されたら近所迷惑だからだ。
気味が悪いことに、ドアの前に手紙付きの花束が置いてあることも数回あったらしい。だが、大刃人は毎日ここに来るわけではないようだ。奴がのこのこ現れるまで、どれくらいかかるのか。一週間くらいは覚悟をしておくか。
そう考えてみると、アンパンを喰いながら一晩中張り込みをしている刑事は偉い。俺たちヤクザの天敵で、大嫌いな警察だが、その点だけは尊敬できる。
この暇な時間、何をして過ごそうか。スマホでゲームなんかやってると、光が漏れるし、小声で歌でも歌おうかと思っていると、大刃人らしき奴がやって来た。すごいタイミングだ。
蛍光灯が今にも切れそうに点滅を繰り返している廊下に、小太りの男がのそっと現れたのだ。
ラッキーだ。俺の悪運が強いのか? 奴の悪運が尽きたのか? それとも俺は刑事よりも日頃の行いがいいのか? きっとそうだ。こんなに遅くまでアンパンも喰わずに仕事をしてるのだからな。店のスタッフをストーカーから守るのも用心棒としての仕事の一環だ。
 大刃人はキョロキョロして周りを見渡しているが、奴から窪みに入り込んだ俺は見えないはずだ。
カレンの部屋の前に来るとショルダーバッグから手紙らしき物を取り出して、ドアの郵便受けに押し込んだ。ガチャンと音がしたが、もちろん、カレンは出て来ない。呼び鈴を押してるようだが、中では鳴ってないはずだ。
 大刃人はしばらく突っ立ったまま様子を見ていたが、電気が点いているのに気配がしな
い部屋を不思議に思ったのか、ドアスコープに目を当てて、覗きだした。
遠くから見ていても、実に気持ち悪い奴だ。ヤクザの俺がゾクッとするくらい不気味だ。
俺はそっと窪みから出た。足音を立てずに近寄る。こんなときのために、足元はスニーカーだ。いつもの革靴では足音がするし、靴底は滑るし、すぐ脱げるし、全力で走れない。
「おい、大刃人!」
 大刃人は背中をビクッとさせて振り向いた。
「な、なんだよ、お前は!? なんで俺の名前を知ってるんだ?」
 廊下は薄暗くて、お互いの顔はあまり見えない。
「俺だよ。小学校で同じクラスだった田中だ」からかってやる。
「田中なんか知らないぞ」そりゃそうだろう。
「オカンが再婚して、苗字が変わったから知らないんだろ。高橋から鈴木になったんだ」
「今、田中と言っただろ」
「細かいことは気にするな。人間、名前がすべてじゃない。そうだろ、キラキラネームの大刃人くん。――ところで、大刃人はここで何をやってるんだ?」
「いや、いろいろとな」大刃人があわてる。
「ここは大刃人の部屋か?」
「まあ、知り合いの部屋でな」
「ドアスコープから中を覗いて、見えるわけないだろ」
 大刃人がまたビクッとする。覗いていたことがバレて、焦っているようだ。
「お前は右目で覗いてただろ。両目で見ると見えるぞ。穴を眉間のあたりに持って来て、目玉を中心に寄せて覗くんだ」
「ホントかよ」
「ウソだと思うのなら、やってみろよ。この佐藤を信じろ」
「お前、田中じゃないのかよ」
「だから、人間は名前がすべてじゃない」
 大刃人はドアにデカい顔を近づけた。
 俺は思い切り背中を蹴ってやった。
――ゴツン!
「ウソに決まってるだろ、バーカ」
 顔面をドアで強打した大刃人が鼻を押さえて、振り返る。
「な、何すんだよ!」鼻血がタラッと流れる。
 そのとき、なぜか点滅していた天井の蛍光灯が直り、廊下が明るくなった。
 大刃人の顔がはっきり見えた。
「お前、胡蝶蘭組の組長の息子じゃねえか!」
「なんだ、田中は俺のことを知らないのか!?」
 息子の情けない顔は知っていたのだが、ヘンテコリンな名前までは知らなかったのだ。
「いや、実はうすうす気づいていたんだがな。まあ、俺も最近は何かと多忙で……」
「うるさい! 俺がこの界隈をシメてる胡蝶蘭大刃人だ!」
 何がシメてるだ。お前はカタギで、シメてるのはお前のオヤジじゃないか。
 そう思ったとたん、大刃人は隠し持っていたナイフを振り回して来た。
 これはさすがの俺も想定外だった。とっさに身をかわして、ナイフを奪い取る。組長の息子といってもカタギだ。俺が素人に負けるはずはない。だが、武器を取られた大刃人は怯むことなく、小太りの体で体当たりをしてきた。いきなり、頭から突っ込んで来たのだ。さすがに組長の息子だけあって根性はある。捨て身の攻撃だったのだろう。
これも想定外だった。
俺は避けきれないと判断し、奴の体を受け止めようとしたとき、運が悪いことに奪い取ったナイフが奴の首に当たってしまった。軽く当たったと思ったが、けっこう深く傷つけたようで、血しぶきが上がり、それは天井にまで到達した。
ドサッと倒れた大刃人の首の周りにも、血が広がって行く。鼻からの血と首からの血のチャンポンだ。
――こりゃ、ヤバいな。殺しちまったか。
たまたま当たったとはいえ、簡単に死んでしまう大刃人はないだろ。本物のダイ・ハードはこんなことで死なないぞ。何度もピンチを乗り越えてこそ、ダイ・ハードだぞ。完全に名前負けしてるだろ。
やっぱり、奴の悪運は尽きていたか。
 俺はすぐに通報して、救急車を依頼し、カレンにも電話をかけて、簡単に事情を説明した。大刃人を殺したので、もう会えないと告げて、俺はその場を後にした。
だが、このまま逃げるつもりはない。まずは、アニキに直接会って事情を説明しようと思っていたのだ。どう行動するかはその後だ。なんといっても、大刃人はカタギとは言え、敵対する胡蝶蘭組の組長の一人息子だ。バカだけど目に入れてもいたくないはずだ。
現場には救急車よりもカレンが先にやって来た。
自分の部屋の前に横たわる大刃人と広がる血の海を見て、卒倒しそうになり、しばらくその光景がトラウマとなって脳裏に残った。そして、タクジを探しているうちに、救急車とパトカーがやって来た。

 しかし、大刃人は大量の出血にもかかわらず、死ななかった。
連絡を受けた父親である胡蝶蘭組の組長が、血液型の合う組員を総動員して、マイクロバスに詰め込んで、病院に送り込み、輸血に協力したからだ。
こんなとき多数の組員を抱えている組は便利だ。
結局、大刃人は恐ろしいほどの悪運を持っていたことになる。
 胡蝶蘭組の組員たちは、現場近くの民家に設置されている防犯カメラの映像を、半ば脅しながら、警察よりも早く見て回り、敵対する有墓組の若手組員タクジを割り出し、その首に一千万円の懸賞金をかけた。
生け捕りで一千万円。半殺しで五百万円。殺して死体を持参すれば三百万円だと、裏稼業界のSNSで全国に拡散した。このときから全国の殺し屋が街に集結したのである。
 タクジはアニキに連絡を取ると、直接会い、カレンと付き合っていることを説明し、彼女のストーカーをやっつけてみると、胡蝶蘭組の組長の息子だったことを白状した。
 アニキはしばらくタクジをかくまっていたが、お前はしょうがない奴だと言いながら、カレンの面倒は俺が見てやるから、安心して勤めて来いと言って、証拠品のナイフを持たせて出頭させた。ナイフは大刃人のものだったのだが。
すでに殺し屋の集団が街で暗躍していたのだから、このままかくまったり、逃げたりするのは得策ではないとする、アニキの判断だった。
お前の居場所を聞き出そうとカレンちゃんの元にも、奴らは行くかもしれんと言われて、タクジも従うことにした。たとえ女子供であろうと容赦をしない集団だったからだ。
「タクジが塀の向こうにいる間、カレンちゃんの気持ちが変わったらどうするんだ?」出頭する前に、アニキが訊いてきた。「面倒は見てやるが、俺はあの子の気持ちまでは変えられんぞ」
「そのときは、そのときで諦めます」俺はきっぱりと答えた。「これでもヤクザの端くれです。男の端くれです。女に未練なんか残しません。それに、端くれには端くれのプライドがあります。バームクーヘンでも巻き寿司でも端くれがおいしいですから」
 俺はアニキの目をしっかり見ながら言った。
「カレンをよろしくお願いします」

 アニキがアクリル板越しに言って来た。
「良い話と悪い話がある。どっちから聞きたい?」
「では、良い話からお願いします」タクジは答える。
「ダンスをするためのポールが三本に増えた。新しい技ができるといって、カレンちゃんはますます張り切っているし、店の売り上げも上がり放題だ」
「ああ、それはよかったです。――悪い話というのは?」
「森林店長がポールダンスの練習を始めた」
「……」
「今や稼ぎ頭となったカレンちゃんを紹介してくれたお礼として、出所して来たタクジに見せたいらしい」
「お礼が中年デブオヤジのポールダンスですか?」
 百キロ越えの体で、どうやってポールダンスをやるんだ? ポールがクネッと曲がるだろ。教えるカレンも大変だろう。
まあ、店長の善意として受け止めるしかないのか。
できれば、気持ちだけでいいのだがな。
タクジはポールダンスから話題を変えようと、アクリル板に目一杯顔を近づけた。
「アニキ。その数珠ブレス、カッコイイですね」手首を見つめる。
「ああ、これか。数珠に細かく般若心経が彫ってあるんだ」
 アニキは左手首を返して、黒オニキスでできたブレスレットを見せてくれた。
「へえ、すごいですね! 職人はいい仕事をしてますね」
「タクジ、早くこっちへ出て来て、同じ物を買えよ」
 仏像を依頼した木仏師町田に聞いた仏具店へ行って買ってきたものだ。
「そうします。アニキとお揃いにします」
「それと、こんな物も手に入れたんだ」
 アニキはスーツをまさぐって、左胸から小さな仏像を取り出した。
「特注のお守りだ」
「わあ、それもすごいですね!」
「年を取ると、こういうものに目が行くものだな」
「いえ、俺は若造ですけど、仏像には興味がありますよ」
「そうか。作ってくれたのは、小さな村の外れにある“仏像工房村中”という店なんだ。木仏師が一人でやってる小さな店だ。タクジが娑婆に出て来たら紹介してやるよ。仏像に興味があるのなら、一緒に行こうや」
「ありがとうございます! ぜったい行きます! 残り一年半も模範囚でがんばります!」
「お前が瀕死の重傷を負わせた大刃人はカタギとはいえ、胡蝶蘭組の関係者だったからな、うちの組でもよくやったと、お前を褒めてる連中がたくさんいる。出所後は、それなりの待遇が受けられるから、今から楽しみにしておけよ」
「分かりました!」タクジの顔が興奮して赤くなる。「出世を楽しみにしておきます。オヤジにも、タクジはムショでがんばってると言っておいてください」
「ああ。そのことだがな」アニキの顔が曇る。「ここのところ、オヤジと連絡が取れないんだ」

一人の坊主がいた。
 名前は赤根浩志郎と言った。指定暴力団有墓組の幹部をしていた。組では組長、若頭に次ナンバー3の地位にいた。来年、五十歳になる。
何かと目をかけてやっていた舎弟のタクジが、敵対する胡蝶蘭組組長の息子大刃人にケガを負わせて捕まった。付き合っていた彼女はカレンと言い、うちの組が面倒を見ているクラブでダンサーをしている。カレンはタクジが娑婆に出てくるまで待つというので、世話をしてやることにした。
 胡蝶蘭組は敵対するといっても、有墓組よりもかなり大きく、近頃はさらに勢力を拡大してきていて、うちがケツ持ちをしている店を奪い取ろうと、あちこちでトラブルを起こしている。最近では、その後始末に赤根浩志郎は日夜、振り回されていた。
 組長はそんな状況を見て焦り出している。何とか一発逆転を狙おうとしているのだが、そんなにうまく行く秘策などあるはずない。いつか誰かが鉄砲玉として呼ばれるんじゃないかと、組員の間でウワサになっていた。その場合、経験の少ない若造ではなく、中年の組員じゃないかと言われている。
 俺はお守りとして、左胸に入る仏像を手に入れた。心臓を守ってくれる仏像だ。肉体的にも精神的にも守ってもらおうというわけだ。ヤクザが神仏頼みかと言われるかもしれないが、命あっての物種だ。手首には数珠ブレスレットを付けることにした。これもお守りだ。死んでしまったらおしまいだからな。
組内でナンバー3というのは、何もうれしくない中途半端な地位だが、鉄砲玉の候補ナンバー1になっていた。一般企業で言うと、風当たりの強い中間管理職みたいなものだ。

その日、有墓組の中央事務所には若頭の竜汽と俺の二人がいた。他の組員は出払っている。
オヤジ、つまり組長と連絡が取れなくなって、四日間が経過していた。
オヤジは組が所有するビルの最上階に一人で住んでいた。下の階には若い者が住んでいるのだが、ときどき誰にも声をかけることなく、一人でふらっと出かけることがあった。特に目的はなく、ただの散歩である。今回も気まぐれな散歩だと思っていたのだが、四日経っても帰って来ない。
ビルの入口の防犯カメラには、夜の十時前に茶色のズボンと白いシャツで出て行くオヤジの姿が映っていたが、戻って来る姿は映ってなかった。
困ったことに、オヤジはボディガードもつけず、いつも手ぶらででかける。携帯電話は持ってないし、免許証などの身分証も所持してない。近所を散策して、すぐに戻るのだから、そんな大げさな物は必要ないという理由であった。
年齢は七十を越えている。万が一のときのために、連絡先を書いた紙を持つようにと言っていたのだが、年寄りみたいで嫌だと拒否されていた。確かに持病もなく、健康であったため、心配することはないのだが、頑固者で言い出したら聞かないオヤジに組員たちは逆らえなかった。
 誘拐されたのなら、犯人から何らかの連絡が入るはずである。もし、事故に遭っていても、警察から連絡が入るはずだ。身分証は持ってないが、警察官が顔を見れば有墓組の組長だと、たちまち分かるからだ。小さな組といっても指定暴力団には変わりない。管内でオヤジの顔を知らない警察官はいないだろう。たとえ女性警官であってもだ。街ではそれだけの有名人だった。
警察に届けようかという案も出た。
 だが、暴力団の組長が行方不明になって、警察に駆け込んだとなると、業界の恥である。これ幸いと、ケツ持ちをしている店の奪い合いが加速するだろう。決して弱みと隙を見せてはいけない。これは業界の鉄則だ。弱みと隙を見せないために、平気でウソを吐くし、見栄も張る。
 この四日間は組員総出でオヤジの行方を探している。今も組員は市内を這いずり回っている。だが、大っぴらにできないため、少人数でこそこそと行動をしている。敵対する胡蝶蘭組に知られたら大変だからだ。最も弱みを見せてはいけない連中だ。
今のところ、手掛かりは何一つない。
しかし、このまま放置しておくわけにもいかない。
「警察に行方不明者届を出すのはもう少し待とうや」
若頭の竜汽がボソッと言って、オールバックにしている白髪交じりの髪を櫛で解き始める。余裕を見せたいのだろう。見栄っ張りの性格がこんな所にも出ている。
 待ってどうするのか? アテなんかないだろと俺は思ったが、相手はナンバー2の若頭だ。ナンバー3の俺は口に出せない。
行方不明者届か……。昔は捜索願と呼んでいたのだがなと、関係ないことが頭をよぎる。
 竜汽はしつこく髪に櫛を入れている。ポマードの臭いが、俺の鼻先にまで漂って来る。
 心配しなくても髪は乱れてないぜ。あんたの心の中と違ってな。――俺は心の中で毒づく。
「なあ、赤根よ」竜汽がニタリとする。「オヤジの不在を胡蝶蘭組に知られちゃいけねえ。組員たちには箝口令を敷いているが、どこかで察知されるかもしれん。蟻の穴から何かが壊れるとかいうことわざがあるだろ」
「蟻の穴から堤も崩れる、ですか?」
「おお、それだ。さすが大卒は物知りだな。高校を三日でクビになった俺とは違うな。つま
りは油断しちゃいけねえということだ。――そこでだ。我々は、オヤジが消えて意気消沈な
んかしちゃいない。いつもの通り、やる気満々だというところを、胡蝶蘭組に見せ付けてや
ろうと思うんだ。見せ付けることで、オヤジが行方不明になっていることを悟られずに、う
まく隠蔽するという作戦よ」
 若頭は何を言い出したんだ? こいつは何かと面倒くさい。だから嫌いだ。
「何をやるのですか?」嫌いだけど訊くしかない。何を言ってるのか、さっぱり分からないからだ。
「まあ、落ち着いて、これを見てくれ」いや、俺はさっきから落ち着いている。
 竜汽は普段使っている若頭専用の事務机に行くと、鍵のかかった引き出しを開けて、小さな黒い箱をうやうやしく持って来た。
 芝居がかったことをしやがってと、俺はまたもや心の中で毒づく。
竜汽がゆっくりとフタを開けた。
「M67破片手榴弾。通称アップルだ」
 本物の手榴弾が一個入っていた。白いクッションの上に乗せてある。その名の通り、丸い形をしている殺人凶器だ。
「当然、未使用だ。ネットの闇市で見つけて、二十万円を十五万円に値切って買ったんだ。これを胡蝶蘭組の組長宅に投げつけてやろうと思う」
「誰が?」
「お前が」
「でしょうね」
 竜汽は当たり前のように、俺を指名してきた。
「お前、野球で甲子園に行っただろ。投げつけるのは得意だろ」
「確かに、高校二年の夏に甲子園へ行きましたが、俺はピッチャーじゃなくて、サードですよ。しかも、肩を壊して、野球を辞めたのですよ」
「そんなに謙遜するな。これはパイナップル型と違って、丸い手榴弾だ。投げやすいぞ」
「投げていたのはボールであり、手榴弾ではありませんよ」
 投げやすいと言っても、お前は手榴弾なんか投げたことないだろ。俺もない。
そもそも長い間、暴力団に所属しているが、手榴弾の実物を見るのは初めてだ。おそらく竜汽もそうだろう。お互い、いい加減なものだ。いい加減なことでもデカい声で言ってりゃ、もっともらしく聞こえる。
「まあまあ、赤根よ。細かいことはいいじゃないか。昔取った何とかということわざもあるだろ」
「昔取った杵柄ですか」
「おお、そうだ。さすが大卒だな。俺は高校を……」
「三日で退学処分を喰らった」
「おお、そうだ。覚えてくれたか。――自転車を貸すから、ピューンと行って、ポーンと投げて、ドカーンと爆発させて、またピューンと帰ってくればいい。――だろ?」
 簡単に言いやがる。
「それで、オヤジは喜びますかね?」
「そりゃ、諸手を挙げて大喜びよ。腋毛ボーボーが丸見えよ」
竜汽は本当に両手を挙げて、オヤジが喜ぶモノマネをする。
 全然似てない。そして、それはありえない。
 うちのオヤジは穏健派だ。穏健なヤクザというのはおかしいが、こちらから仕掛けて行くことはない。やられたら、仕方なく、やり返すというタイプだ。
見た目もそうだ。どう見ても、その辺にいる孫と遊んでいるような小柄な老人だ。眼光が鋭いわけでもない。五十年近くこの業界にいるというのに、体には傷も入れ墨もないし、指も全部揃っている。ついでに歯も揃っている。
 俺が断言してやる。手榴弾を投げ込んで、オヤジが喜ぶはずはない。だが、こいつは腐っても若頭だ。なんで俺の上にいるのか分からんが、歴代の組長にすり寄って、今の地位に上り詰めやがった。――そして、こいつの企みは分かっている。
 オヤジが今さら、この稼業が嫌になって旅に出たにしても、手ぶらはおかしい。
竜汽はオヤジが死んだと思っているのだ。どこかで野垂れ死んだか、事故に遭ってどこかに埋められたか。まさか、あの年で家出はないだろうが、自ら死を選ぶ理由もない。
だが、四日間、音信不通だったことは今までない。神隠しという表現が一番合っている。
オヤジはもう帰って来ることはないと、竜汽は思っている。
 となると、若頭の竜汽が組長の座を狙うのは当然だ。オヤジがこのまま帰って来ないとして、組内で邪魔になるのは、すぐ下の地位にいる俺だけだ。
俺は竜汽と違って、組員の間では信用がある。自分で言うのはずうずうしいが、慕ってくれている組員は、竜汽の野郎の十倍くらいいる。つまり、俺を蹴落とせば、竜汽にとっては何の不安も抱くことなく、組長の椅子に座れる。いったん組長になってしまえば、下の組員は文句を言うことはできない。そのために俺を鉄砲玉に指定してきたのだ。若い者を差し置いて、地位のある中年ヤクザのこの俺を。
ムショに入れられるか、返り討ちに遭うか、どちらでも大歓迎だろう。
いずれにせよ、オヤジと俺の両方がいなくなると、この組は竜汽のものだからだ。
 何が、ピューンと行って、ピューンと帰ってくればいいだ。
 だったら、お前が行けと言いたくなるが、こんな奴でも若頭だ。ナンバー2だ。
 俺は目の前に置いてある黒い箱を見た。M67破片手榴弾が鎮座している。
 ネットの闇市で値切って買ったと言いやがったな。
 手榴弾の安全ピンを抜いたとたんに爆発するんじゃないだろうな。
竜汽ならやりかねない。
だが、こいつはバカだ。そんな小細工ができる頭脳はないし、手先は不器用だ。手先は鼻クソをほじることと、オールバックの髪型をセットすることに忙しいだけだ。
だが、闇で買ったものだ。もともと手榴弾の性能が悪いという可能性がある。
製造メーカーも製造年月日も分からない。ましてや、保証書は付いてない。
こんな物を信じろと言うのか?
俺は自分の右手首が吹っ飛ぶシーンを想像したが、あわてて脳裏から消し去った。

 俺は仕方なく錆び付いた自転車でターゲットである組長宅の下見に出かけた。俺とタクジはこのチャリを共有で使っている。そのタクジは塀の向こうだ。出てくるまでは、俺が専従で使っている。
竜汽は自転車に乗らない。何と言っても組のナンバー2である若頭だ。世間への見栄もある。移動するときは、若い衆が運転する車に乗っている。毎年車検が必要な中古の国産車だが調子良く走ってくれるらしい。
俺は帽子をかぶって坊主頭を隠した。胡蝶蘭組の組長宅はかなり大きな邸宅なのだが、セキュリティは甘い。組長の人としての甘さがこんな所に現れている。塀も高くなく、通りから大きな庭が丸見えだ。しかし、庭木の手入れだけはちゃんとされている。いい加減なのか律儀なのか分からない。
この庭に放り込んでやるか。庭に面している一階と二階のガラスが全部割れて、けっこうな被害になるだろう。中に人がいたとしても、ガラスでケガをする程度だろうから、俺としては重罪を背負うことはない。敷いてある芝生も全部剥がれて、すっ飛んで行くだろう。見たところ、家庭菜園で野菜を細々と作っているようだが、悪いけど全滅だ。庭が元に戻るまで、野菜は八百屋で買ってもらうしかないな。
 俺は家の前をゆっくりと自転車で素通りして、戻って来た。その後、日を改めて素通りを繰り返し、防犯カメラの位置を確認して、見張りの組員や警官がいないことも確認できた。
 本番当日は素通りすることなく、いったん自転車を止めて、手榴弾を投げることにする。自転車に乗ったまま、不安定な状態で投げて、手元が狂ったら大変だ。奴の家に当たればいいが、俺の目の前で爆発したら、手首が吹き飛ぶか、最悪の場合、死んでしまうからな。なんといっても竜汽が用意した手榴弾だ。値切って買っただけに性能は信用できない。威力が弱い可能性もあるが、逆に強すぎる可能性もある。
 竜汽という人間も手榴弾という物体も信用はできないということだ。

 シャドーピッチングで手榴弾を投げる練習を繰り返し、俺は本番に臨んだ。まるで高校野球のようだ。練習でできないことは本番でもできない。そして、練習は裏切らない。野球部の監督からさんざん言われたことだ。
「赤根よ、頼んだぞ」竜汽がニヤッとして、いつものように胸ポケットから櫛を取り出すと、オールバックの髪に櫛を入れ始めた。「俺もこんな危険なことをナンバー3のお前に任せたくないんだ」
 ウソ吐け。どの口が言ってるんだと毒づく。こいつの前では毒づいてばかりだ。
「だがな、数いる組員の中でこの大役を果たせるのは、元高校球児のお前だけなんだ。有墓組の未来はお前にかかっているぞ。全組員がお前に期待してるぞ。お前はヤクザの鑑だ」
 また、くだらないことを言ってやがる。これで俺をおだてているつもりらしい。
だが、ここで俺が失敗して捕まったら、こいつの思うままだ。しっかり投げて、さっさと帰って来てやる。俺は自分を信じて、俺のピッチングをするだけだ。
手榴弾の入った箱を受け取ると、俺は帽子をかぶり、その上からパーカーのフードをかぶせ、サングラスとマスクと手袋をして、事務所を出た。
格好は完璧だが、移動手段は古くて錆びた自転車だ。
キーコ。キーコ。キーコ。
 クソッ、デカい音がしやがる。油を差して来ればよかった。タクジはよくこんな自転車に乗ってやがったな。
ケチの竜汽は車を貸してくれない。レンタカーだとアシがつくからと却下された。だから自転車だ。弱小の暴力団なんかこんなもんだ。
 俺は自転車の速度を緩めて、あたりを伺った。怪しい奴は俺以外にいない。ふたたび速度を上げて、組長の家の前に来た。
自転車を止めると、ポケットから箱を出して、M67破片手榴弾、通称アップルをそっと取り出した。確かに丸くて持ちやすい。ボールだと思って投げればいい。竜汽が言っていた通りだ。あいつの発言の中で、このことだけが正確だ。
もう一度、左右を確認する。人影は見当たらない。
――よしっ、行くか。
 気合を入れて、安全ピンを抜き、庭に向けて投げようとしたとき、一匹の黒い犬が走り回っているのが見えた。
――庭で犬を飼ってやがったのか!
 何度も下見をしたが、犬はいなかった。普段は室内で飼っていて、今日は天気が良いため、庭で遊ばせているのだろう。
 庭はダメだ。あの犬が吹っ飛んでしまう。
 手榴弾を持ったまま、とっさに投げる方向を探した。
 玄関には段ボールが一つ置いてあるだけで人影は見えない。
俺はすばやくターゲットを庭先から玄関先に変えて、思いっきり投げつけた。
「頼んだぞ、アップル!」
三十三年ぶりに投げる渾身のストレートだった。
この間、わずか三秒。爆発まであと二秒。
高校野球の経験が手榴弾を投げつけるときに生かされるとは思わなかった。全国の高校球児も将来手榴弾を投げることになると思いながら、練習はしてないだろう。
しかし、未来は何が起きるか分からないぞ。
 玄関先に手榴弾が転がったちょうどそのとき、ドアが開いて、息子の大刃人がのそっと出てきた。足元を見て、ギョッとした瞬間、手榴弾が破裂して、大刃人はデカいドアとともに吹き飛ばされた。
 爆発音とともに、あたり一面が真っ白になった。
 手榴弾というものは爆発するとあたりが白くなるのかと思いながら、赤根は自転車のペダルに足をかけて漕ぎ出した。
――キーコ。キーコ。キーコ。
 玄関先に置いてあった段ボールの中身は、スイーツが大好きな組長が箱買いしたホットケーキミックスだった。玄関に置き配されていて、箱も一緒に吹き飛ばされたのだ。
あたりに漂っているホットケーキミックスのおかげで、防犯カメラのモニター画面も真っ白で何も見えない。
――キーコ! キコ! キコ!
そうとも知らずに自転車を全力で立ち漕ぎしていた赤根の姿はまったく映ってなかった。今流行りの置き配とスイーツ大好きヤクザのおかげで命拾いした赤根であった。
だが、こんなやり方でうちの組がやる気満々だと分からしめることができるのか?
こんなことでオヤジの不在を誤魔化せるのか?
疑問に感じながらも、赤根は錆びた自転車を立ち漕ぎする。
窓ガラスを全部割ってやるという目標は達成できなかったが、庭を走っていた黒い犬を傷つけなくてよかったと思った。とっさに投げる方向を変えることができたのは高校時代の練習の賜物だった。二塁でゲッツーを取れないので、すばやく一塁に投げたようなものだ。
手榴弾で飛ばされた組長の息子大刃人のことなんか、気にかけてはいなかった。つまり、あいつは犬以下の存在ということだった。

近所の家の窓から数人の人たちが覗いている。大きな音がして何事かと思ったのだろう。
この大きな邸宅が暴力団の組長宅だと、周りに住んでいる人はみんな知っている。過去に何度か暴力団同士の抗争で拳銃を撃ち込まれたこともあったし、今でもときどきパトカーがゆっくり走りながらパトロールをしていることがある。
今度は何が起きたのか、恐る恐る外を眺めてみると、あたり一面が真っ白になっている。きっとこれは非合法の怪しい薬の粉末に違いないと思い込んだ人々が、吸い込んだら中毒を起こすのではないかと危惧し、あわてて窓を閉めた。
古びた自転車で去って行く赤根の姿はもう見えない。
 一方、組長の息子の大刃人は全身をホットケーキミックスまみれにして、甘い香りを漂わせながら、玄関脇に破壊されたドアと一緒にだらしなく伸びていた。タクジに刺された首の傷にやっとカサブタができて治りかけていたというのに、また同じ箇所に傷を負い、血が吹き出していた。
組長は一階に在宅だったが、爆発の衝撃で倒れてきたキャットタワーの下敷きになっただけで、ケガはしなかったらしい。
庭の黒い犬も動物好きの赤根のとっさの判断のお陰でケガをすることもなく、あたりに漂う甘い匂いに興奮して走り回っている。この犬は組長が作るホットケーキが大好物だった。

 その後、赤根は舎弟からの電話を受けて、息子の大刃人がまた生き延びたことを知った。
タクジに刺されたときと同じく、大量の出血をしていたが、またもや組長が、同じ血液型の組員をマイクロバスに押し込んで、病院に送り込み、輸血に協力した結果、頭と首の傷と腕の骨折だけで済んだという。運が悪いのか良いのか分からないバカ息子だった。
ただ、二度に渡って九死に一生を得るというのは本家のダイ・ハードに似ていた。
 胡蝶蘭組の組長は無事だったが、白昼堂々と組長宅に手榴弾を投げ込んだ奴がいるとして、有墓組の株は上がった。といっても、ホットケーキミックスのおかげで組長宅の前は煙幕のように真っ白になり、投げ込んだのが、ナンバー3の赤根浩志郎だとはバレてなかったし、有墓組がやったという確たる証拠はなかった。
ただ、敵対している有墓組の仕業じゃないかというウワサだけが業界内を駆け巡った。

胡蝶蘭組の組長としては、二度に渡って、息子を血祭りにされ、脳の血管がブチブチと音を立てて切れるくらいに怒り狂っていた。おまけに吹き飛ばされたドアは両袖両開きで百万円以上する高級なもので、修理代は大刃人の治療費よりも高かった。
また、箱買いしたホットケーキミックスは爆破の衝撃ですべて宙に舞ったため、使い物にならず、そちらの恨みも加算されていた。
食べ物の恨みは怖い。たとえ粉末であっても。
組長は緊急に組員を邸宅の大広間に集めて、窓ガラスが割れそうなくらいの大声で怒鳴っている。予定では赤根が手榴弾で割ろうとしていた窓ガラスだ。
隣には首を包帯でグルグル巻きにして、右腕を吊った大刃人が情けない顔をして座っていた。もともと情けない顔をしているのだが、このケガにより、情けなさは倍増していた。
「誰か、うちの組にわしの息子と高級ドアとホットケーキミックスのカタキを討てる奴はおらんのか!?」
 まるで制服のようにお揃いの黒いスーツを着た男たちは、正座をしたまま口を開かない。
 なんで、あんなバカ息子と玄関のドアとホットケーキミックスのために命を賭けなければならないのか? ――みんなはそう思っている。
 そもそもあのバカ息子はカタギじゃないか。
ドアとホットケーキミックスは物じゃないか。
カタギと物のカタキを討ったところで、組には何の利益ももたらさない。それどころか、ヘタをすれば、バカ息子のために懲役へ行かなければならない。ホットケーキミックスのために臭い飯を喰わなければならない。
懲役から戻って来たとしても、出世できる保証はしてくれないだろう。
今の地位を維持できる保証もしてくれない。
どう考えても割に合わないではないか。
これは組織のためでなく、組長の個人的なわがままに過ぎないからだ。
バカ息子を溺愛する親バカなバカ親のバカな思いつきだ。
バカ×4だ。
 ――集まった組員の誰もがそう思っている。
「どうなんだ!」また胴間声が大広間に響く。「これだけの人数が揃っていながら、根性のある奴は一人もおらんのか!?」
 根性の問題じゃないだろと誰もが思ったが、何度目かの組長の悲痛な叫びに呼応して、ついに一人の坊主頭が手を上げた。
「オヤジ、俺が行きます!」
「おお、高北。行ってくれるか!」
 組員たちは信じられないという顔をして、組長のすぐそばに座っている高北を見つめた。
 目の前で組長が仁王立ちしているにもかかわらず、大広間がざわついた。
なぜなら、高北は胡蝶蘭組の幹部だったからだ。
なんで、高北さんが?
こんな無意味な仕事を?
誰もがそう思って、顔を見合わせた。
みんな、このときだけは正座で痺れている足の痛みを忘れた。
 しかし、高北には志願せざるを得ない事情があった。
幹部クラスも鉄砲玉にならなければならないときがある。
この業界の非情な掟である。
大柄な高北がのそりと立ち上がった。
「オヤジ、俺に行かせてください!」
情けない顔をした大刃人も不思議そうに高北を見上げた。
 大刃人は、俺のために一肌脱いでくれるのか。素晴らしい組員じゃないかなどと殊勝なことは思わない。こいつバカなんじゃないかとマジで思って、高北のデカい体の上に乗っかってる坊主頭をしげしげと見つめた。
 バカ息子にバカ呼ばわりされてるとも知らず、決意を固めた高北幹部は顔を恐ろしいほどに赤くして、口を真一文字に結んでいた。

一人の坊主がいた。
神丘仏具店という店を経営していた。名を住柿利喜男といった。主に仏壇を扱っている。仏壇を作るには、木地師、彫師、塗師、箔押師など多数の職人の腕が必要で、店主の住柿は経営者であるとともに、仕組師あるいは組立師などと呼ばれている最終工程を担う職人でもあった。
 店内には所狭しと仏壇が展示してあるのだが、ちょうど隣で大掛かりな工事をやっていて、騒音がうるさい。ときどき店全体が大きく揺れることもある。まさか大型の仏壇が倒れることはないだろうが、高額な商品に傷が付かないかと、住柿は連日、心配をしていた。
もちろん、仏壇だけを取り扱っているわけではない。ここのところ、数珠ブレスレットの売れ行きがいい。木仏師の町田さんから紹介された赤根さんという客が、黒オニキス製の般若心経が彫ってあるブレスレットを買ってくれたのだが、その後、その仲間らしき人たちの来店が相次ぎ、たちまち品切れ状態となってしまったのだ。今は職人にハッパをかけて、増産を促している。早くしないと儲けるタイミングを逃してしまう。
最初に買ってくれた赤根さんも含めて、目付きの悪い連中だったため、反社ではないかと思っているのだが、支払いは気持ちよく現金でしてくれるし、中にはいくつも買ってくれる人もいて、反社であろうと大歓迎である。
要するに、売れればいいのだ。仏様の関連グッズを扱っているからといって、あまり儲けなくてもいいということはない。どんどん儲けてやる。
こちとら、商売よ。ゼニを儲けてナンボの世界よ。煩悩がナンボのもんじゃい!
住柿利喜男は毎日そう思っている。
仏に携わる仕事だが、そんな不届きな考えを持っていても、今までバチなんぞ当たったことはない。今年七十歳になるがピンピンしている。だから、生き様としては、間違ってはいないはずだ。
今日も金儲けに邁進してやるわ。儲けることは悪いことではない。金銭欲が、わしの生きて行くための気力となっておる。
仏罰がなんじゃい。仏に会ったら仏を殺してやるわ。
これくらいの意気込みを持ってないと、この経済大国では生き抜いて行けんわ。これが仏さんも真っ青のジャパニーズビジネスマンの心意気よ。ガハハハ。
住柿は銀歯を見せながら、デカい口で大笑いする。

数珠というと、他にも奇妙な注文が入っていた。
大きな数珠がほしいという男が来店したのだ。どれくらいの大きさでしょうかと訊くと、首からぶら下げたいという。見た感じは、赤根さんのような反社っぽい人でなく、プロレスラーのような体型の男だった。眉間に古傷が数本付いている。着ているTシャツは鍛えられた筋肉ではち切れそうだ。応接室に案内し、ソファーに座ってもらったのだが、かつてないほどに沈み込んだ。
住柿はそれを見て、眉を顰める。
このソファーは高いんだよなあ。大丈夫かなあ、スプリング。壊れてほしくないなあ。壊されたら、仏さんに祈願して、この人にバチを当ててやろう。怖そうなので、自分では直接文句が言えないからな。こういう時のための仏さんだ。困ったときの仏頼みだ。
「失礼ですが、お客様はプロレスラーの方ですか?」こわごわ訊いてみる。
「いいえ。プロレスではありませんが、そっち方面の仕事をしてます」
しゃがれた声だが、丁寧に答えてくれる。さすが体育会系だ。
プロレスでなければ、何か他の格闘技ではないかと思ったのだが、客の職業も、数珠の使い道もどうだっていい。商品が売れて、金が入ればいいのだ。できれば、現金で入ってくれればいい。クレジットでは金が入るのが先になるし、手数料を支払わなければいけないからだ。
これ以上の詮索はやめた。根掘り葉掘り尋ねて、気分を害されてはいけない。他にも仏具屋はあるのだから、そっちに行かれたら困る。大きなカモがネギを背負って来たんだ。逃してなるものか。
有り難いことに、この大きな体の男は現金で支払うと言ってくれた。
初来店の大男はたちまち上客に早変わりした。
こちらもえびす顔に早変わりだ。
何に使うのか分からないが、首にかける特注の大きな数珠として、引き受けることにした。
そして、この数珠にも般若心経を彫り込むことになった。これはベテラン職人による手作業だから高く付くと言って、値段をさらに釣り上げてやった。般若心経は大人気だった。
お経の意味が分かって使っているのかどうかは怪しいが、この格闘家のために、仏のご加
護を願ってあげよう。こういう時のための仏さんだ。ご加護が実感できたら、また買いに来てくれるからだ。買う方だって、何の御利益もなければ、二度と買うことはないだろう。

そして、奇妙な注文は続いた。
翌日、仏壇が欲しいと、一風変わった女性がやって来たのだ。若い女性が一人で来店とは珍しいが、反社らしき赤根さんの関係でも、前日の格闘技系の大男とも関係はないようだった。
三人とも変わっているからといって、お友達同士とは限らない。
 その女性は、茶色や黒色や金色に彩られた仏壇仏具が並んだ店内ではあまり見られない、真っ赤な色の帽子をかぶり、赤い服を着て、一人で店に入って来た。
赤系統の原色は店内にはあまりない。せいぜい数珠などを入れる小物入れか、バーゲンのときに従業員が着る真っ赤なハッピくらいのものだ。だから、この女性はひときわ目立った。
三人いる女性店員の手がみんな塞がっていたので、店主の住柿が自ら接客をすることになった。女性が来ている洋服は赤い色で細身の体にぴったりと張り付いているのだが、何という種類の服なのかは、住柿のような年配者には分からない。肩から小さくて赤いカバンをかけている。
確か、ポシェットと言ったはずだ。名前だけは思い出したが、当然、仏壇仏具の店では取り扱ってない。黒い礼服に赤いポシェットは似合わない。
赤い服に赤い帽子に赤いポシェット。そのセンスがよく分からないまま、店主の住柿は黒色の作務衣を着て、応接間で向かい合った。スリムな女性は昨日の大男と正反対でソファーはほとんど沈んでない。壊れる心配がなく、住柿は安心した。これなら、バチを当てる必要もない。
全身を赤でまとめた女性は、見かけからして二十代だろう。
エラスと名乗った。
――エラスさん?
「失礼ですが、エラスさんというのは芸名ですか? 源氏名ですか? ご苗字ですか? 親御さんが付けたキラキラネームですか?」
 顔を見ると日本人なのだが、アジア系の国の血が入っているのかもしれない。
「本当の苗字です。漢字で江良須と書きます」
「ああ、江良須さんですか。こりゃ、すんません」住柿はポリポリと坊主頭を掻く。
「ちなみに日本人です」
 ハーフじゃないかと疑った住柿の胸中を見透かすように言われた。
「そうですか。こりゃ、またすんません。――お仏壇を探しておられるとお聞き……」
 先ほど、女性店員から簡単な要件を聞いておいた。
 しかし、尋ねたとたん、外から工事の音が聞こえてきて、言葉が遮られた。
 エラスは訊き返そうとするが、あわてて住柿は言い直す。
「騒々しくてすんません。隣でビルの工事をやっておりまして。――お仏壇をお探しとか?」
「はい。このお店で一番高い仏壇はどれくらいですか?」
「高いといいますのは、高さでしょうか? 格式でしょうか? お値段でしょうか? 」
「あっ、失礼しました。高さの方です」
「ほうほう、高さですか。あそこにあるお仏壇ですと」店の隅に置いてある大きな仏壇を指差す。「約160センチです。あれが一番高いものです」
「あれですか」女性は座ったまま、首を伸ばして見ているが「高さ二メートルの仏壇をいただきたいのです」
 エラスさんは、そんなおかしな注文をしてきた。
「二メートルですか!? そんな注文は初めてです」
「――できませんか?」
「いや、できます!」またもや、カモが大きなネギを背負って来たんだ。逃がしてなるものか。「三メートルでも四メートルでも大きいものは作れます。しかし、お仏壇は大きければいいというものではございませんで」
からかわれたのかと不安になったので、少しだけけん制してみる。
「無理でしたら他に……」
「いやいや!」他に行かれてなるものか。「私どもはそれくらいの腕を持った職人を多数抱えておりますから、その点はご安心くださいませ」
とんでもない注文のため、おもわず顔がひきつる。
長年この店をやってるが、こんな大きな仏壇の注文は初めてだ。
 二メートルの仏壇となると、かなりの値段になる。こんな機会は滅多にない。巨大な数珠の注文に続いてのカモ客を、いや、上客を取り逃がしてたまるか。
作り笑顔全開で接客する。
「二つ、いただきたいのです」エラスさんは平然と言ってくる。
「な、なんと! 二メートルの仏壇を二つもですか!?」
 ああ、思わず声が裏返ってしまった。欲望丸出しだということがバレてしまう。
 全身赤い格好をしたこの若い女性は、いったい何を言い出すのか?
 冗談で言っているのではないか?
 ご機嫌を損なわない程度に訊いてみる。
「大人物がお二人、お亡くなりになられたのでしょうか?」
「いいえ、ライブパフォーマンスに使います」
「はあ。ライブ……ですか」
 それが何を意味するのか分からないが、少し不安になる。
 お仏壇を何に使おうとしているのか?
 そもそも亡くなった人の供養以外に使い道はあるのか?
「ステージに設置します」
「はあ。ステージにお仏壇ですか!?」まだこの娘が何を言ってるのか分からない。「ダンボールか何かで作られたらいかがですか?」またもや、けん制してみる。
 儲けるためには、欲丸出しで突き進めばいいというものではない。時に商売には慎重さも必要だ。
「いえ、本物の仏壇じゃないと、意味がないのです」
「はあ。意味……ですか」
 エラスさんから何を言われてるのか、さっぱり分からない。しかし、格好は奇抜だが、話し方は丁寧だし、穏やかだ。ちゃんとこちらの目を見て話してくる。からかってるとは思えない。仏具店のオヤジをからかっても、何の意味もないのだが。
まさかのドッキリ? ――なわけない。素人のジジイを騙しても面白くないだろう。
 高さ二メートルの仏壇が二台となると高額だ。果たして、この若い女性に高額なローンは組めるのか? 信販会社の審査は通るのか? 担保や保証人はどうなのか? 
 住柿の顔が少し曇る。
 いや、待て待て。エラスさんがお金を持ってないことを前提に考えてはいけない。人は見かけによらないものだ。もしかしたら、いいところのお嬢様かもしれないじゃないか。あるいは、どこかの社長令嬢かもしれない。親が死んで莫大な遺産が転がり込んだのかもしれない。宝くじが当たったのかもしれない。
「あのう、そのう、お値段の方ですけど」最も肝心なことを恐る恐る言ってみる。「だいたいですが、一台百三十万円ほどになりますので、二台で二百六十万円ほどになりますが」
 ここでキャンセルでもされたら大変だ。
銀歯を隠しながら、少し引き攣った笑顔で答えを待つ。
「それはご心配なく。ちゃんと現金でお支払いさせていただきます」エラスはニコッと笑う。
「そうですか!」こちらも百万ドルの笑顔に戻る。積まれた札束の映像が脳裏に浮かぶ。「高さ二メートルのお仏壇を二台。私が全力で何とかいたしましょう! 職人たちを急かせて、一日でも早く納入できるように、精一杯努力をいたします。いや、お若いのにしっかりなさってますな。とても感心いたしました。失礼ですが、エラス様はどんなお仕事をされているのですか?」たちまち口が軽くなる。
「アーティストです」
「アーテストですか」
「アーティストです」
「はあ、そうですか」
エラス嬢は断ったにもかかわらず、前金ですといって、現金五十万円を置いていった。
住柿は五十万円の札束を手にして、笑いが止まらない。
この分だと、きっと残金もちゃんと払ってくれるだろう。金さえ払ってもらったらこっちものだ。アーテストは何をするものか分からないが知ったこっちゃない。仏壇を何に使おうと知ったこっちゃない。バチが当たろうが何しようが、こっちの責任ではない。要は売れればいいのだ。現金がドカンと入ればいいのだ。
あの世から降りて来るご先祖もびっくりするだろう。まさか仏壇がステージ上にあるとは。しかも高さが二メートルもある。見たこともない仏壇だろう。腰を抜かして驚くに違いない。腰痛であの世に帰れなくなるかもしれない。
従業員がせっせと働いているというのに、住柿はソファーに座ったまま、妄想が止まらず、ずっとニヤけている。
それにしても、アーテストって何だ? ステージで何をやるんだ? そんなに儲かるものなのか? わしにはできないのか? 儲けるためなら、全身赤い服を着て、首からポシェットを下げるぞ。五個でも十個でもぶら下げるぞ。金のためなら、恥も外聞も捨ててやるぞ。
エラス嬢は店を出て行くとき、よろしくお願いしますと言って、赤い帽子を取った。
きれいな坊主頭だった。
――仏具店内に坊主が二人。

 神丘仏具店の隣には広大な駐車場がある。多数のお客さんが一度に来店することはなく、同時に来られたとしても、せいぜい二、三家族であり、営業車用の駐車スペースを除いて、ほとんどがいつも空いた状態にある。
 しかも、店舗より駐車場の方が広い。郊外のコンビニみたいなものであある。
これではもったいないと店主の住柿は考えた。
 この空きスペースが何とか金にならないものか?
 先祖代々譲り受けてきたこの土地を有効活用せずに遊ばせているというのは、ご先祖様に申し訳ないではないか、バチでも当てられたらどうするのかと、都合のいい解釈をした。
 街でよく見かけるコイン駐車場でもいいが、儲けは少なそうだ。小銭ではなく、大銭がほしい。硬貨ではなく札束だ。一歩譲って小切手でもいい。
 二号店を隣に建てても意味はない。ラーメン屋でも始めるかと思ったが、今から異業種参入は難しい。今まで仏具関連の仕事しかして来なかったから、ノウハウも経験もない。経営コンサルタントに依頼したところで金がかかるし、成功するとは限らない。金だけが出て行く可能性もある。
いったい、どうしたものか。
 仕事の合間にそんなことを考えていると、ある日不動産会社の営業マンがやって来た。
 彼は羽田不動産の成田才二と名乗った。以前は関空のそばで仕事をしていたらしい。おそらく二十代後半で、不動産屋には見えない、肩までの長髪だった。
 彼は今の駐車場に七階建てのビルを建てて、一階を店舗と駐車場にして、二階より上をマンションとして貸し出し、最上階にご自身が住めばどうか。今営業中の店舗は解体して、更地として売り出せばどうかと提案してきた。更地は責任を持って売りますと約束をしてくれた。
更地を売ったお金は新築マンション建築の資金に足せばいいとして、銀行から借り入れした際の返済計画表と、パソコンで簡単に作成したという完成予想図まで持って来ていた。
そして、一緒に儲けましょうと力強く言って、握手を求めてきた。
その提案はとても魅力的に見えた。
 長髪の若者だが、見かけによらず、熱い男だった。
すばらしいタイミングだった。
もちろん、私はすぐに乗った。儲かる話には目がないからだ。
そして今、隣の駐車場でビル建設工事は始まり、店内にまで騒音と振動を響かせている。
 店内がヒマになったところで、住柿は建築会社に電話を入れて、工事を急がせた。
完成が早ければ早いほど、金が入ってくるのも早くなる。一日で数十万円も変わってくるのだから、一日でも早く完成させたい。今回の計画のために銀行から借り入れもしていて、そちらの支払いもある。また、工事の振動で商品が傷まないかと、住柿はずっと心配している。早く完成すれば、その心配もなくなる。
七十歳という年齢からすると、大きな仕事はこれが最後になるだろう。
住柿は少しだけ焦りを感じていた。
 急かされた建築会社にとっては迷惑な話だった。あらかじめ細かいスケジュールを立てて、工事を行っている。一日たりとも、短縮なんて無理だ。職人や材料やダンプの手配もある。
毎日のように電話をかけてくる、施工主のわがままにも困ったものだと、今日も本社の担当者である宇木山と川田は頭をかかえていた。
「あの神丘仏具店のオヤジから、また電話がかかって来たわ」
「オヤジが何だって?」
「そりゃ、催促さ。一日でも早くやれって。また偉そうに言われたわ」
「あいつは」顧客だが“あいつ”呼ばわりだ。「店に出ているときは、愛想のいい好々爺なんだが、電話では言いたい放題だな」
「ああ、二面性がある。まるでジギルとハイドみたいだ」
「名前からするとジギルの方が悪そうだが、実はハイドの方が悪者だと知ってたか?」
「知らん。――そんなことより、あのタヌキオヤジだ」
「川田さんよ」宇木山係長が川田課長に話しかける。役職は違うが二人は同期だ。「鉄筋をちょっくら抜いてやったらどうだ。工期がかなり短縮されるだろ」
「――お前なあ」課長は渋い顔を見せる。
「すまん、冗談だ」係長は謝る。
「いや、俺も同じことを考えてたんだ」課長はニコリと笑う。
「マジかよ!」提案した係長が驚く。
「工期は短縮できるし、経費も浮く。一石二鳥だ。設計図は何も変更せずに、勝手に行う。それに、鉄筋をチョロまかしたなんて、外から建物を見ても、絶対に分からない。ましてや、ド素人のタヌキオヤジにバレるはずはない」
「耐性はどうなるんだ?」
「震度五の地震が来たらマズいが、あの地域に来るのはせいぜい震度二か三で、過去に大きな地震は来たことがないし、あそこは活断層の上でもなんでもないから、今後も起きることはないはずだ。何も心配することはないというわけだ。そもそも鉄筋を数本抜いたところで、地盤はしっかりしてるんだ。あんな大きな建物が倒れることはないだろ」
「じゃあ、やろうや。タヌキオヤジも喜ぶだろうよ」
「宇木山係長も賛成ということで、極秘に進めるか。これで催促の電話も止むだろう」
「テレフォンノイローゼとおさらばだ。よかったな、課長」
「今から係長は共犯者だからな」川田課長はニヤリと笑って、周りの社員を見渡した。「おい、お前たちも今の話を聞いてたな。みんなも共犯だからな」
 部屋にいた他の六人の社員は、先ほどから仕事をしながらも、課長と係長の会話に耳を傾けていた。良からぬ打ち合わせをしていることが分かったからである。
もっとも、二人の声はいつも大きいので、自然と耳に入って来る。
 そして、手抜き工事はいつものことだった。
だから、共犯と言われても苦笑するしかなかった。共犯を断ったら、地方に左遷されるか、最悪はクビになる。パワハラだといって騒いでも聞いてもらえない。クビになると退職金ももらえない。けっこういい給料なのでみんなはできるだけ長くこの会社に勤務したいと思っている。
課長はゆっくり窓際に歩いて行くと、地上三十五階から下界を見下ろした。係長も隣に立って、同じように見下ろす。
「下界の人間の運転する車が今日もたくさん走ってますね」係長が言う。
「下々の人間どもよ」課長が語りかける。「しっかりと働いてくれたまえ。しっかり働いて、しっかり出世して、ここ三十五階まで上がってきたまえ。天上界からの眺めは絶景だぞ」
 課長は下界の人間をあざ笑う。係長も笑いながら見下ろしている。
 鉄筋を数本抜いたところで、こっちは大手ゼネコンで向こうは孫請け会社だ。力関係は歴然としているだろう。あいつらが口を割るわけない。割ればこの業界ではやっていけなくなるからな。
 課長はいつも強気で仕事を進めて行く。
万が一、バレたとしても、下請けが勝手にやりました、うちも迷惑してますと言って、被
害者ぶっておけばいい。あいつらが元請けからの指示でやりましたとは白状しないだろう。これからの仕事に影響するからな。こんなときのために、政治家の皆さんには莫大な献金をしているんだ。大手ゼネコンと名も無き中小企業のどっちの言い分を聞くかだ。
「手抜き物件をさっさとタヌキに引き渡すだけのことだ」
 課長と係長の思惑を受けて、タヌキオヤジを喜ばすために各社員が動き出した。

陰でタヌキオヤジと呼ばれていることも知らずに住柿は、机の引き出しから一枚のチラシ見本を取り出した。若いてかわいい女の子が露出の多い服を着て、微笑んでいる。書かれている電話番号にかけると、女性が派遣されて行くシステムだ。もちろんチラシの女の子はダミーのモデルであり、実際には働いてない。訊かれたら、人気があって常連客でもなかなか予約が取れないと説明するらしい。
このチラシをアルバイトが市内の郵便受けに配布して回る。間違っても電話ボックスにベタベタと貼ってはいけない。今どき、電話ボックスなど、爺さん婆さんしか使わないから、チラシの無駄になるという。また、おせっかいな通行人が警察に通報することもあるという。
この小さなチラシが大きな利益を生むのだから、一枚でも貴重だと説明された。
もちろん、今どきの若者が利用するネットでの宣伝もバッチリ整ったという。ホームページを作ってもらって、そこから申し込みができるらしい。便利な世の中になった。
また、スカウト業者の仕事も順調だと言ってきている。若くて、いい子がたくさん揃ったという。最近は不景気だから、かわいい子がすぐに集まるらしい。また、送迎をしてくれる男性スタッフも確保できたという連絡も入っていた。
チラシを手に持ったままの住柿は笑いが止まらない。ここ数日、笑いが止まらない。こんな楽しいことが続くなんて、もしかしたら近いうちに死んでしまうのかと思ったが、バカな妄想として、瞬時に打ち消す。
まだまだ儲けてやる。平均寿命まであと十年以上あるではないか。
あの世に金は持って行けないと説教してくる連中もいるが、構うものか。
札束に埋もれて死にたいものだ。夢の続きはあの世で見ればいい。あの世でまた儲け倒してやる。今は現実界のことだけを考える。
またもや、積まれた札束の映像が脳裏に浮かんできた。

新築中の七階建てマンション部分の二階の一室を仏具店とは別の水商売に使う。
羽田不動産の成田も承知している。そもそも彼から提案を受けたのだ。
まさか成田がこんな裏稼業をやっているとは思わなかった。
チラシの作成配布も、ホームページの作成も、働く女性の募集も、送迎の男性も、なじみの業者があるというので任せた。水商売が始まったら、出入りする金の管理さえも向こうがやってくれるらしい。つまり、うちは場所を貸すだけだ。
「住柿さんは寝ていても、勝手に金が入って来るというわけです。もうこれ以上は必要ありませんというほどの大金が日銭で入って来ますよ。札束に埋もれて窒息死しますよ」
成田はうれしそうに言う。
なぜ、私の夢が札束に埋もれることだと知っているのか?
金のニオイに敏感な者同志は言葉に出さなくても分かり合えるというのか?
だが、さすがに札束で窒息死は言い過ぎだろう。成田には行き過ぎた部分がある。熱い男の共通点だ。もちろん、彼にもリベートが入る。売り上げが上がれば上がるほど、少なくない金額が入るという仕組みだ。本業の不動産会社には内緒の、いわば副業の収入だから、使い放題だそうだ。もちろん確定申告なんかしてませんよと言う。熱くなって当然なのかもしれない。
マンションの二階は、闇の水商売をやるには絶好の場所だ。
なんといっても一階が仏具店だ。店内には仏壇が厳かにずらりと並んでいる。店主はスケベ面だとしても、店員は真面目を絵に描いたような地味な女性ばかりだ。
まさか、仏具店の社長がオーナーをしているビルの、しかも仏具店のすぐ上の部屋で派遣型フーゾク店を経営しているとは、警察も思わないだろう。仏具とはいえ、仏に仕える者が金儲けに奔走しているとは思わないだろうから、最初から疑うこともしないはずだ。
ここが盲点というやつだ。
巧妙に法の目を掻い潜らないと、大儲けはできんわ。古今東西、どこでもそうだろう。
この商売のいいところは、毎日、現金が入ってくるところだ。これに尽きる。たくさん仏壇仏具を取り揃えているが、お盆やお彼岸にはよく売れるとしても、季節にかかわらず、毎日コンスタントに売れるとは限らないからだ。新鮮な魚や生鮮野菜とは違う。
デカい金庫を買おうかな。
それとも毎日、銀行に預けに行くとするかな。
夜間金庫の利用手続きも取っておくかな。
ボディガードでも雇おうかなあ。
あまり儲けると節税対策に頭を悩ますことになるなあ。
日本国はわしの税金で潤うのだから感謝をしてほしいものだ。
そろそろ、国から勲章でもくれないかのう。
――ああ、夢は膨らむばかりじゃのう。
住柿のニヤニヤは止まらない。エビス顔は崩れっぱなしだ。
 それに今日、建築会社からうれしい知らせが届いた。マンションは予定より二週間も早く完成するらしい。
担当の川田課長には、ずいぶん頑張りましたよと言われたが、毎日督促の電話をかけていた甲斐があったというものだ。随分と電話代も使ってしまった。
毎日電話が来るのだから、逆の立場ならノイローゼになってるだろう。ここまで時間がかかるとは、さすがに大手のゼネコンは手ごわかった。
デカい数珠と、大きな仏壇二台の注文も受けたし、黒オニキス製の数珠ブレスも売れまくってるし、本業の方も順調この上ない。
それに加えて、派遣型フーゾク店だもんなあ。
「おお、そうだ、そうだ。忘れておったわ。これは大切な見本だったわ」
妄想している間、ずっと握り締めていたため、汗まみれになってしまった大切なチラシ見本を机の奥にしまった。ダミーのモデルの顔はシワくちゃになっていた。
住柿は銀歯を見せて満足そうにガハハと笑い、膨れ上がった腹をポンポンと叩いた。
まるで本物のタヌキのように。

一人の坊主がいた。
彼女の名前はカレンといった。年齢は二十七歳。職業はダンサーだった。付き合っていたタクジが事件を起こして服役したため、一日でも早く出られるようにと願を掛けて、長い黒髪を切り、坊主頭になった。
そもそも事件の被害者は私のストーカーであり、タクジの組と敵対している組長の息子で、大刃人という変な名前の小太り男だった。
ナイフで刺したというが、そのナイフは大刃人が持っていたもので、タクジが奪い取って、揉み合っているうち、首に当たっただけだ。ただ、当たった箇所が悪かったらしい。
大刃人の出血量が多くて、事件現場である部屋の前の廊下に大きく広がっていた。警察が簡単に掃除をしてくれていたのだが、まだ残っていそうで、泣きそうになりながら、デッキブラシでゴシゴシこすってキレイにしたのだけど、ある日、天井にまで飛び散っていた血痕を見つけたとたん、心が折れて、引っ越しをすることに決めた。
死亡事故現場ではないのだけど、気味が悪い。大刃人の血の跡なんか見たくもない。仕事は夜遅く終わる。帰って来るのは深夜だ。人気がなく、血の跡が残っている薄暗い廊下を歩きたくない。もはや、ここ住む気力はなくなっていた。
引越す前、大家さんに頼んで切れかかっていた蛍光灯だけは新しくしてもらった。毎月共益費は払っていたのだから、それくらいはしてもらわないと、同じ階の住民と次にこの部屋へ入居する人のためでもある。
タクジ側は裁判で正当防衛を主張し、私も法廷で意見を述べたが、裁判官にはいい印象を与えることはできなかった。タクジが組の人間であり、大刃人は組長の息子とはいえ、カタギの人間だったからだ。
きっとそうに違いない。法の下でも平等でないことは起きると思う。でも、不平等を訴えたところで聞いてはくれないだろう。タクジ側も控訴することなく、そのまま刑に服することに決めて、収監された。
タクジはストーカーから私を守って、捕まってしまった。だから、私にはタクジを待つ義務がある。初めて会ったとき、自転車を蹴飛ばしていた酔っ払いから、タクジが四万円を手に入れ、そのうちの二万円を山分けとしてもらった。あのときは勢いで受け取ってしまったのだが、二万円とはいえ、お金をくれたという義理もある。
定期的に面会には行っている。こちらも忙しいので月に一回くらいしか行けないが、ずっと待っているからと伝えてある。タクジは日々、模範囚としてがんばっているのだが、自分のことよりも、私のことをとても心配してくれている。
カレン、毎日ちゃんと食べてるのか? 俺の方は三食布団付きトイレ付きだから心配しなくてもいい。スマホもゲームもエアコンもないけどな。
私はしっかり働いている。ヘブンアクアの森林店長もやさしくしてくれる。赤根さんも何かと私に気をかけてくれていて、タクジに会いに行ったときは、様子を教えてくれる。
タクジが帰って来たときのために、少しずつだけど貯金もしている。だから私のことも心配しなくてもいいから、一日でも早く出所できるように、がんばってほしい。
いつも、そう願いながらダンスを続けている。
いつも、そう願って生きている。
私は反社が好きなわけじゃない。
好きになった人が反社だっただけだ。

遺書にカレンという名前は書かれてなかった。
自分の名前が書かれてなかったことで、ホッとしたが、ホッとした自分が嫌になった。
悩んだ挙句、私は高校をやめた。
私を含めた三人がアヤ乃をイジメていた。アヤ乃はイジメを苦に自宅マンションから飛び降りて自殺をした。残された遺書にはイジメに遭っていたと書かれていたが、具体的にイジメていた三人の名前は書かれてなかった。ただ、SOSを発信していただけだった。
遺書が見つかったことにビビった私たち三人は、善後策を講じるために集まっていた。
「イジメが原因だって、先生が言ってたけど、うちらはアヤ乃をイジメてないよね」
真麻が自分たちに言い聞かすように話す。
「イジメてないよ。ちょっとからかっただけじゃん。あんなのがイジメなら、普段の会話もできないよ。みんな、ずっと黙っとくわけ?」
 咲来が言い訳のように答える。
カレンは黙って二人の会話を聞いている。
「そうそう。少しからかって、ちょこっと無視してたくらい」
「そんなことで死なないよね、普通」
「死なないよ、普通。私は男子が悪いと思うな」
「ああ、相模君だね。あいつ、アヤ乃の机を蹴り倒したからね」
「男子同士でジャレ合ってて、体が当たったと言ってたけどね」
「確かにあいつは体がデカいけど、わざと倒したんじゃない?」
「そうかもね。アヤ乃のことが好きだったとか」
「あんな暗い子が好きなんだ」
「違うって。好きになった子が暗かった」
「なるほどね」
「相模君はアヤ乃の靴箱も蹴ってたよ」
「あれはカンフーの練習をしてたら、たまたま当たったと言ってたよ」
「たまたまアヤ乃の靴箱に当たるか? 靴箱はズラッと並んでるんだよ。そもそも、靴箱の前なんて狭いじゃん。あんな場所でカンフーなんかやるはずないよ。運動場でも体育館でも空いてるでしょ。それにアヤ乃の机と靴箱、二つ続けて蹴飛ばすなんておかしいよね。きっと狙い撃ちをしたんだよ。ホントに好きになったのかどうか、理由は分からないけど、机と靴箱を傷つけたのは確かだよ」
「だからアヤ乃は自分がイジメられたと思ったんだよ」
「相手が相模君だから、怖くて名前を出せなかったんだね」
「きっとそうだ。悪いのは相模君だ。あいつが犯人だ」
「先生は知らないんじゃない?」
「そうだね。うちらが相模君のことをチクってやろうか」
「ねえ、カレンはどう思うの?」
 二人が私の方を向いた。
 突然振られた私はきっぱりと言ってやった。
「私たち三人のせいで、アヤ乃は自殺したと思う。悪いのは私たちだと思う」
 二人は何を言ってるのと言いたげに、私を睨みつけてきた。

この二人は学校をやめることなく、アヤ乃が死んだ後も毎日通学を続けた。私が自主退学してからも、二人が卒業してからも、連絡は取ってない。
風のウワサによると、普通に生活を送っているらしい。
イジメた側なんて、そんなものだろう。
イジメたことすら、もう忘れてしまっているのだろう。
イジメられた側はずっと覚えていても。
三人いれば責任転嫁も計れるし、遺書では名指しされてないのだから、とぼけていればいい。なにしろ、アヤ乃を含めた私たち四人はいつも一緒にいて、クラスメートからも仲良し四人組に見えていたはずだから、三人が疑われることはない。アヤ乃をからかうために無理矢理グループに誘い込んでいたなんて、アヤ乃が言わない限りはバレるはずがない。アヤ乃は三人のことを何も残さずに、この世から消えた。だから、永遠に三人が追及されることはない。
 事件後、アンケート調査が行われたが、誰がイジメていたのかも含めて、何も分からなかったようだが、学校と遺族との間で何らかの和解が行われたというウワサだけが残り、いつしか、生徒たちの記憶から、アヤ乃の存在は消えていた。もともと存在が薄かったのだから、消え去るのも早かった。
 だが、カレンの心の中には常にアヤ乃が存在していた。
やがてカレンは、アヤ乃が座っていた席や、アヤ乃がいた教室そのものの存在に耐えられなくなり、しだいに学校を休むようになった。
からかっていたつもりだったが、アヤ乃にとってはイジメだった。
アヤ乃をイジメによって死に至らしめたという十字架を、カレンは一生背負って行こうと決めて、高校を中退した。
中退したとたん、当然ながら社会人になった。
学生に戻るつもりはない。親に頼るつもりもない。自分の意思で学校を辞めたのだから。
ならば、高校中退の女子がどうやって生活費を稼いでいくのか?
残されたものは、子供の頃から大好きだったダンスしかなかった。
カレンは何種類ものダンスができた。見よう見まねだが、日本舞踊までできた。祖母が日本舞踊を嗜んでいて、家でよく稽古をしていたのを見ていたからだ。
だが、伝手やコネは何もない。そもそも実績さえもない。年齢を誤魔化しながら、流しのダンスで食いつなぎ、気が付けば、誤魔化す必要がない年齢にまで達していた。
そんなときタクジに出会った。
その頃、それまで働いていたホールの契約が切れて、新しい働き場所を探していた。以前よりお客の入りがよさそうなアクアヘブンという新しくできたクラブに目を付けていて、飛び込みで売り込みに行こうと店の前に来たとき、止めてある自転車を蹴飛ばしている酔っ払いがいた。
タクジは、私が悪さをしている酔っ払いに文句を言ったと思っているようだが、そうではない。たまたま目が合って、向こうから、何を見てるんだと因縁を付けてきたのだ。そのとき、店からタクジが出てきて、その酔っ払いを追い払うとともに、私が店で働けるように取り計らってくれたのだ。
最初、タクジは黒服じゃないかと思っていたのだが、後になって、店の用心棒だと分かった。しかし、どういう関係であろうと、酔っ払いから助けてくれて、この店で働けるように話を付けてくれたのは確かであり、私はタクジに借りが一つできた。
 だが、タクジはそんな“借り”を利用するでもなく、私はその店の専属ダンサーとして、仕事を続けていた。
ダンスを踊っているときだけは、アヤ乃を死に追い込んだという十字架のことを忘れることができた。アヤ乃への居たたまれない思いは、汗となり飛び散り、熱となり、溶けていき、歓声とともにかき消された。
十字架を背負っている背中は軽くなり、自分の体重が半分くらいになった気がした。

アヤ乃をイジメて自殺に追い込んだ私は高校を中退して、一人で家を出た。
家族も友人もいなくなった。私にはダンスだけが残った。
ダンスがあればよかった。
だから、私は大丈夫。ずっと大丈夫。
 踊っているときに酔っ払いがヤジを飛ばしてくることもある。ときには女性客からも心ない言葉を浴びせられることがある。ビールをかけられたこともある。グラスを投げつけられたこともある。――でも、私は踊る。
アヤ乃をイジメて死に追いやったという十字架を背負いながら私は踊る。
お客さんから万雷の拍手を受けるときもある。食事を忘れて、ダンスに見入ってくれるときもある。サプライズで花束を渡してくれるときもある。
だから、私は踊る。
十字架に押しつぶされないように、十字架を落とさないように、私は踊る。
 
 タクジは、私がそんな十字架を背負っていることを知らない。
 これからも話すことはないだろう。
 きっと、彼は自分のことのように心配をしてくれるだろうから。
 私はもう、他人を苦しめたくない。だから、私は話さない。
 いつも笑顔でタクジと接していた。だから、彼は気づかない。
そんな二人はいつしか仲良くなっていくのだが、むしろ私の方が積極的だった。
そんなとき、タクジが傷害事件を起こして、逮捕された。
私のために捕まってしまった。
瀕死の重傷を負わせた相手は胡蝶蘭組組長の息子大刃人だった。
そして、私はまた一人になった。

 タクジが何とか一日でも早く出所できないものかと考えたが、自分の力ではどうしようもなかった。法律で決まっているのだから、私の力で刑期は変えられない。
だが、あるとき、ここは神頼みしかないと気づき、その日から近所の八幡神社にお百度参りをすることに決めた。といっても、一日に百回ではなく、百日かけて達成するお百度参りである。つまり百日祈願だ。ネットで調べてみて、お百度のやり方もいくつかのバリエーションがあると知った。
タクジは模範囚として、刑務所内でがんばっている。
私は外から応援することに決めた。
 毎日、仕事に行く前の夕方五時半頃に神社に寄って、お賽銭を入れ、願を掛けた。仕事が休みの日も、ご祈願するため、神社に来るようにしていた。
百日間を途中で切らすと、次の日から、また百日間のやり直しをしなければならなかったからだ。それでは、いつまで経っても終わらない。
神様も呆れてくるだろうし、その間にタクジの刑期が終わったら、何の意味もない。
 七日目が終わった頃から、私と同じように、毎日参拝に来ている女性がいることに気づいた。
私はほぼ毎日同じ時間に行く。その女性も同じく夕方の時間に来ている。水商売に就いている女性には見えないから、私のように出勤前ではないはずだ。ということは、仕事の帰りに寄っているのだろう。
髪が長く、いつもおしゃれな格好をしていることから、どこかのブティックの店員さんではないだろうか。時間からして、交代制で働いているのではないかと思ったのだが、声をかけることはしなかった。お祈りの邪魔をしてはいけないと思っていたからだ。
何を祈っているのか分からないが、私が行くと、いつも長い間お賽銭箱の前で熱心に手を合わせている彼女がいた。
 ある日、彼女のお祈りが終わるのを、後ろで待っていた。特に急いでいたわけではないので、横に並ぶことをしなかった。熱心にお祈りをされているのに、私がすぐ横に立つことで、集中を切らせてしまったら申し訳ない。そう思ったからだ。
やがて、お祈りを終えて振り向いた彼女と目があった。
「あっ、すいません。気が付かなくて。――どうぞ」
 彼女はさっと横に移動して、お賽銭箱の前の中央スペースを空けてくれた。
「いえ、大丈夫です。私も今来たばかりですから」軽くウソを言い「何回かお会いしてますよね」と訊いてみた。
あまりの真剣さに興味をそそられたからだ。いったい何を御祈願されているのだろうと思ったからだ。
「はい。実は私もあなたの存在に気づいてました」と言って彼女は笑った。
「えっ、そうだったのですか!?」私は彼女に近づき「いつも熱心にお祈りをされてますけど、もしかして、百日祈願ですか?」と訊いてみた。
「はい、そうです。あなたもですか?」
「はい。――あっ、名前はカレンと言います。私も百日祈願をしてます」
「私は七岸と申します。七岸留華です。母の具合が悪くて、お百度を踏んでます。事故に遭ってしまって、ずっと意識不明なんです。実は今日で九十八日目なのですが、まだ何も効果といいますか、容体に変化がなくて、ちょっと焦ってます。だから、今日は少し長めにお祈りをしてました」
「そうだったのですか。それはお気の毒ですね。私は……」彼氏が刑務所に入っているとは言えず「付き合っている人が遠くにいて、なかなか会えないので、会えるような環境になりますようにと、ご祈願に来てます」と言って誤魔化した。
「遠距離恋愛ですか」うまく勘違いしてくれる。「それは大変ですね。早く近くで会えるようになればいいですね」
「でも、私はまだ今日で九日目です。留華さんはあと二日で百日間達成なんですね」
「はい。あさって満願となるのですが、願いが叶わなかったら、あと百日間、延長するつもりです」
「さらに延長ですか。私にはできないかもしれません。九十八日間も休まずに通われて、すごいですね。その思いが神様に届けばいいのですけどね」私は感心して言う。
「はい。でも、あと二日間しかありません。今日みたいにお祈りの時間を長くするだけでいいのかと思ってます。あとはお賽銭を増やすことくらいでしょうけど、経済的にも苦しいですし、どうしたらいいかと悩んでます」
 おそらく、私と違って留華さんは多めのお賽銭をしているのだろう。なにしろ、お母さんの命がかかっているのだから。でも、私は何もしてあげられない。もし、留華さんが百日間の延長をされるのなら、私も満願まで休まずに通いたいと思う。その間、一緒に並んでご祈願をしてあげようと思う。それくらいしか、やってあげられることはない。
留華さんにそのことを話すと、丁寧にお礼を言って、ではまた明日お会いしましょうと、帰って行った。彼女の仕事を訊いてみると、私が思った通り、ブティックの店員さんだった。
 翌日は珍しく、私の方が早く着いたので、一人でお祈りをしていた。
 そこへ留華さんがやって来た。
 今日は九十九日目のはずだ。
頭に赤いバンダナを巻いている。
お賽銭箱の前で、そのバンダナをほどくと、坊主頭になっていた。
「願いが叶うように頭を丸めました」
――神社に坊主が一人。

翌日、留華さんの百日目の満願の日にも私は神社に行った。
すると、先に来ていた留華さんが私を見て、うれしそうに言った。
「カレンさん、昨日の夜、母の意識が戻りました!」
 驚くことに、九十九日目にして、神様に祈りが通じたようだった。これでさらに百日間延長する必要はなくなったと言って笑った。
初めて見る留華さんの笑顔だった。それはとても魅力的な笑顔だった。
お母さんが助かったことを私に報告するために待っていてくれたらしい。目を覚ましたお母さんのそばに早く帰りたかっただろうに、知り合ってまだ二日の私を優先してくれた。
意識が戻ったからには、近いうちに退院の目途も付くと言う。
 やっぱり、神様は存在するんだ。
二日目、三日目くらいではお願いを聞いてくれず、九十九日目まで待たすようなじれったい神様だけど、留華さんのお願いが成就したのは確かだ。私も留華さんを見習って、途切れずに百日祈願を成し遂げよう。そう新たに決意した。
留華さんの、お母さんに対する思いは私の心も動かし、そして勇気づけられた。
 翌日、私も留華さんの覚悟を見習って、長かった髪をばっさり切って、坊主頭になった。もちろん、私の願いはタクジの一日でも早い出所だった。
 私の髪の長さは三十一センチ以上あったため、寄付をすることにした。三十一センチ以上ないと、寄付できないのだ。髪の毛の寄付はヘアドネーションと呼ばれていた。私はそのことを留華さんから聞いて知った。留華さんも寄付をしたと言っていた。
 百一日目も留華さんは来ていた。お母さんを助けてもらったので、神様へ感謝の祈りを捧げるために来たらしい。
そして、私の頭を見て驚いていた。
――神社に坊主が二人。

一人の坊主がいた。
彼女の名前は七岸留華といった。年齢は二十八歳。職業はブティックの店員だった。
母親が交通事故に遭い、意識が戻らないため、百日祈願を決行したのだが、九十八日まで休まず神社に通い詰めても、一向に回復の兆しがなく、心願成就のために思い切って髪を切り、残りの二日間に賭けたのだった。
その思いが通じたのか、九十九日目の夜、母は約三か月ぶりに目を覚ました。
 百日祈願も残り二日となったとき、願いを叶えてもらうには、何かを犠牲にしなければならないのではないか。――私はそう考えた。
 しかし、九十八日間一日も休まずに八幡神社へ御祈願に来た。お賽銭はもう十分にした。お祈りも何十時間と捧げた。それでも事態は好転しない。母は意識がないままだ。担当の医者には手を尽くしたので後は運を天に任せて、待つしかないと言われていた。医者の言葉とは思えないと思ったのだが、そう言うしかなかったのだろう。
 では、私に何ができるのだろうか。神様に何を捧げればいいのだろうかと考えた。
鏡に映った自分の姿に向かって、疑問を投げかけているときにふと気づいた。高校を卒業
してから今まで伸ばし続けた髪を捧げよう。そして、切った髪は、病気で髪を失った子供たちのために寄付をしよう。――そう決心した。
そして翌日、長かった髪を切った。
 行きつけの美容師さんには、本当に全部切っていいのかと何度も確認をされた。母を助けるために私ができることはこれくらいしか残されてない。これは神様への母を助けてほしいという私の願いであり、真心であり、誠意であると説明をした。
神への願いが形となって現れたものがヘアドネーションだと、私よりずいぶん若い美容師さんを説得した。根負けした彼女は泣きそうになりながらも、私の髪にハサミを入れた。
そして、その思いと覚悟は神へと通じたのだろう。母が何の前触れもなく、突然目覚めた
のだ。運を天に任せていた医者も驚いていた。お母さんは素晴らしい生命力を持った方だと褒められた。決して、ベテランの医者である私の力で意識が戻ったと言わなかったところは、褒めるべきだろう。
 ブティックの店長とスタッフには、私が髪を切ることを、あらかじめ伝えてあった。この願掛けには母の命がかかっていることを理解してもらった。ただし、接客中は頭をバンダナで覆うことで、オーナーと店長には了承してもらった。
これを機に、今まで取り扱ってなかったバンダナを仕入れて、店に並べてみることにした。自分が着ている服をお客さんに勧めるように、自分が巻いているバンダナをお客さんに勧めたらどうかと気付いたからだ。
初日だけで高級なブランド物のバンダナが七枚も売れて、スタッフ一同は大喜びだった。その後、バンダナの数もいろいろと取り揃え、一つのコーナーとなった。売れ行きは今も好調で、バンダナを目当てに来店されるお客さんもいる。
 意識不明から戻って来た母は食欲も出てきて、快方に向かっている。あと一週間ほどでリハビリを開始して、一か月もすると退院できることとなった。
 私が八幡様で百日祈願をしていたことを母は知らない。母が退院して、無事に家へ帰り、日常の生活に戻れたとき、ゆっくり話してあげようと思う。
神社に百日間も通うことがどんなに大変なことかを教えてあげよう。
大切な髪を切って願を掛けたことを話してあげよう。
でも、母はきっとまるで他人事のように、笑いながら聞いてくれるだろう。
私のためにありがとね。でもね、留華。髪なんかすぐ生えてくるから心配ないよ。坊主頭もなかなかお似合いだよ。私も坊主頭にしようかな。どう、親子で並んで歩いたら目立つかもよ。どこかの事務所からスカウトされたりして。
母はそう言って、おどける。
母のその天性の明るさは私の家族の宝物だった。
家族にやっと宝物が戻って来た。

三か月程前、母は自転車に乗って、青信号で横断歩道を渡っていたとき、突っ込んで来た車に跳ね飛ばされて、全身を強打し、意識不明の重体となった。
運転をしていた男はその場で逮捕されたが、足元もおぼつかない状態だったという。飲酒運転をした上に信号無視をした挙句の事故だった。
この事故は新聞やテレビで大きく取り上げられ、ネットでも長い間、話題になっていた。
容疑者の男が根済という名の現職の市会議員だったからだ。
ある日、フリージャーナリストと名乗る男が留華の店へやって来た。母が巻き込まれた事故について取材がしたいという。母の意識は戻っていたがまだ入院中で、私は毎日仕事終わりに病院へ通っていた。
アポなしでブティックに押しかけて来た男は鷹西と名乗った。黒いハンチング帽をかぶっていたが、挨拶のために脱ぐと、坊主頭だった。
――ブティックに坊主が一人。
「なぜ、私がここで働いていると分かったのですか?」
「私もジャーナリストの端くれですから」
 鷹西は名刺を差し出しながら言った。
名刺には鷹西竜士という名前と電話番号しか書かれていない。いろいろとコネがあるのですよと笑いながら言うが、目は笑ってない。
 とりあえず、今は仕事中だ。店内もそんなに広くない。こんなガラの悪そうな大男に居座られたら窮屈だ。
スタッフに断り、外に出て、店の前で少しだけ話を聞いてあげることにした。
母の事故のことでマスコミからの取材は殺到していた。店に迷惑はかけたくないので、なるべく取材には応じることにしていたし、スタッフも理解をしてくれていた。マスコミというものは、追い返しても、またしつこくやって来る。
事故後は何も進展はない。母の容態は安定していて、退院の目途も付いている。そのうち、マスコミも書くことがなくなって諦めるはずだ。そう思っているのだが、まだこうしてやって来る人がいる。
坊主頭で人相はあまりよろしくない鷹西であったが、人を見た目で判断してはいけない。しかし、どう見ても、しつこくて、ずうずうしいタイプだ。こうやってアポなしで娘の勤務先に押しかけて来るくらいだから。
 年齢は五十歳くらいか。体付きは大きく、目付きは悪い。見事なスキンヘッドで、あちらの筋の人といっても疑われないだろう。ジャーナリストといっても資格があるわけではない。自分はジャーナリストだと名乗れば、そのときからジャーナリストになれる。だからすぐに信用はできない。
おそらく自宅の近所の人たちに、私がこの店で働いていることを聞いてきたのだろう。だが、アポくらいは取っておくべきではないのか。
事前に連絡をもらっても、会うかどうかわからないが、礼節は守るべきだろう。
「被害者の家族の方の意見をお聞きしたくてね」やはり、ずうずうしく訊いてくる。
 マスコミが被害者家族に今のお気持ちはと訊いて顰蹙を買うパターンだ。
 加害者は政界でも有名な根済議員だ。私の証言を添えて、何らかの脅しでもかけようとしているのではないか? この男の風体からそんな感じがする。つまり、私は金づるというわけだ。
「早く母が退院できればいいと思います」
私は差し障りがないようにそう答えた。あまりベラベラしゃべると尾ヒレを付けられたり、話の一部だけを抜粋強調されて、思いもしない家族コメントにされてしまう。
「ですが、長期入院となると、医療費もかかりますし、その他の出費もバカになりませんよ」
「そうですね。すでにかなりのお金が出て行ってます」
「そうでしょうね。――そこで、モノは相談ですが、私が先方と交渉してあげましょうか? そのあたりは得意としてますよ。数々の実績もありますし、悪いようにはしませんよ」
 ほら、やっぱり来た。ジャーナリストの名を借りた金銭仲介ビジネスだ。
 加害者は市会議員だ。しかも二世議員だ。父親は議員を七期務めて引退したあと、ビジネスの分野でも成功して、かなりの財産があると聞く。
この男からすると絶好のカモだ。さすがに母が入院している病院には行けないだろうから、被害者家族の話を聞くために、わざわざここまでやって来るのも分かる。悲しみにくれる娘の談話を加害者にぶつけて、同情を引き、交渉を優位に進めるつもりだろう。
「私と組んで、悪徳市会議員を糾弾しませんか? 悪いようにはしませんよ」
 ついに正体を現したようだ。最初からこれが目的だったのだろう。
 私を脅迫犯の仲間にしようというのか?
また先ほどと同じセリフを言ってくる。悪いようにとはどういうことか、具体的には言えないようだが、後でどうとでも言い訳はできる。
「交渉については知り合いの弁護士さんにお願いしてありますから結構です」
 きっぱり言って、ジャーナリストとやらを突き放す。知り合いというのはウソだが、弁護士さんに依頼して、交渉に当たってもらっているのは本当だ。
「加害者についてはどう思ってるんだ?」
 突き放されて、頭に来たのか、突然口調が変わる。目付きはさらに険しくなる。弁護士と聞いて介入は諦めたのか、話を変えてきた。
 言葉遣いは丁寧だが、誘導尋問に嵌まらないように気を付けよう。
 おそらく、一生刑務所から出て来ないでほしい、極刑を望みますといった過激なコメントを期待しているのだろう。この手のコメントは相手を怒らすことで出てくる。だから、あえて口調をぶっきらぼうに変えて来たに違いない。マスコミがよく使う手だ。過激な方が視聴者や読者にウケる。
「飲酒運転はダメだと思います」わざと小学生のように答える。
「えっ、それだけ?」
「信号無視もダメだと思います」
「他にはないの?」
「市会議員という立場を自覚した行動を取ってほしかったです。――以上です」
 わざと冷たく言い放ってやった。
 わざわざ仕事を中断して話を聞いてあげている。店の中を見ると、かなりのお客さんが入っていて、仲間のスタッフが忙しそうに接客している。母の事故の関係だといっても、あまり迷惑はかけられない。
それに、店の前で若い女性のためのブティックと縁もゆかりもないようないかつい男と話し込んでいると、何事かと思われてしまう。そろそろ帰ってもらいたい。
「あっ、そう。分かった」男は不愛想に吐き捨てる。「何かあったら、名刺のところに連絡してよ」
 何かあったら? 何かとは何か? そんなことは起きないと思うけど。
 自称ジャーナリストの鷹西は最後に私をキッと睨み付けて、低い声で言った。
「七岸留華さん、あんた、いい度胸をしとるね」
どこかで聞き込んだのだろう。私の名前はフルネームで憶えられている。
 鷹西は最後に本性を現した。この捨て台詞のような言葉に、私は少し恐怖を感じた。まともな人間ではない。関わらなくてよかったと思った。弱い立場にある人を利用して、何らかの利益を得ようとするロクでもない人物だろう。
鷹西は店の前から去って行ったが、諦め切れないのか、しばらく周辺をウロウロしていた。私は外に目を向けないようにして、店内に戻り、待たせていた常連客の相手に専念する。
そして、いつの間にか鷹西の姿は見えなくなっていた。
その後すぐに、その筋の人たちと分かるような三人の男たちがズカズカと店に入って来た。またもや、このブティックに用があるような風貌ではない。まさか、三人揃って彼女へのプレゼントを買いに来たわけではなかろう。先ほどの鷹西と関連している人たちに違いない。
三人の中の口髭を蓄えた中年の男が訊いて来た。この男がリーダー格のようだ。
「ねえさんよ、さっき店の前で坊主頭の男と話してたわな」
「鷹西さんですか?」
「鷹西? 誰だ、そりゃ」
 私はさっきもらった名刺を見せる。どうせ同じ世界の人たちだろう。見せても構わないだろう。個人情報なんてどうだっていい。鷹西と敵対している人達なら、逆に私の味方ということになる。敵の敵は味方だ。
 男は名刺に書いてある名前を声に出して読んだ。
「鷹西竜士? 高北の野郎、名前を変えてやがるな。おい、見てみろ」口髭男が他の二人に名刺を見せる。
「ペンネームですかね?」若い男が言う。「生意気ですね」
「悪いことばかりやって来たから、本名は出せないんじゃないのか」もう一人の若い男が言う。三人とも事情が呑み込めないようだ。
「ジャーナリストだとおっしゃってましたけど」私は助け舟を出してあげる。
「ジャーナリスト? なんだそれは? 日本語で何と言うんだ?」口髭男が訊いてくる。
「新聞とか雑誌の記者と言いますか……」私も詳しく知らない。
「記者? 高北の野郎が横文字の職業とは生意気だな。――おい、電話番号が書いてあるから控えてくれ」
 口髭男が若い男に言った。男はあわててスマホを取り出して数字を登録する。
「――で、奴はねえさんに何か言ってきたのか?」
「悪徳市会議員を一緒に糾弾しませんかと言われました」
 これもバラしてやる。
「奴め、くだらないことを抜かしやがって。カタギを巻き込むとはとんでもない奴だ。まあ、相手は金持ちのおぼっちゃま議員だから、絶好のカモだけどな。――当然、断ったわな?」
「はい。すべて弁護士さんにお願いしてますから」
「それでいい。あんたが犯罪に加担することはない。奴みたいな悪党の言うことは聞かなくていいぞ」いかにも悪党面の口髭男は言う。「他に何か言ってなかったか?」
「あんた、いい度胸をしとるねと言われました」
「何だと! 高北の野郎、素人のねえさんまで脅すのか。何かあったら遠慮なく警察に通報した方がいいぞ」
 何かあったら? さっきも聞いたセリフだ。反社の世界で流行してるのか?
「はい。分かりました」素直に答えておく。
これ以上余計なことは言わないでおこう。この人たちにも早く帰ってほしい。
「ちなみに鷹西竜士という奴は暴力団の元胡蝶蘭組の幹部で本名は高北と言うんだ」
「元胡蝶蘭組ですか?」
「ああ。今は足を洗ってカタギになったはずだ。奴が店の前をウロウロしたりして、警察に連絡するようなことが起きたら、元胡蝶蘭組の幹部だった高北という坊主に脅されましたとはっきり言ってやればいい」
「はい。そうします」つまり、この三人も同業者なのだろう。
「もらった名刺は証拠として捨てずに取っておいた方がいいな。まあ、そういうことだ。ねえさん、邪魔したな。――おい、お前ら。奴がまだその辺をうろついてるかもしれんから、今から探しに行くぞ」口髭男が他の二人に声をかける。「おい、何をやってるんだ!」
「いや、俺に似合う服がないかなと思いまして」若い男が店内を見渡している。
「お前はバカか! ここは女物の服屋だろうが!」口髭男に怒られる。
「でも、兄貴。このバンダナはカッコイイですよ」口髭男に勧める。
 えっ、やめて!
お店の目玉商品を勧めないで、早く帰って!
 私は心の中で絶叫する。
「バンダナって何だ。日本語で言えよ」
「色付きの手拭いです」
「手拭いには青色とか紺色が付いてるものだろ」
「いや、もうちょっと派手な色でして、ほら、ねえさんも頭に巻いてます」
 私の頭を指差してくる。
「――おお、いいじゃないか!」
 ウソでしょ!
口髭が私に巻いたバンダナを見て、うれしそうにしている。
「お前ら、どれがいい? 好きなのを買ってやるぞ」
 テーブルの上に並べられたバンダナを物色している。
 えっ、ヤクザさんがバンダナを買うの?
せめて私と一緒のバンダナにしないで!
「俺はこの青いのがいいです」
「俺はこの緑です」
「そうか、だったら俺はこの赤だな」
「いや、さすが兄貴、お目が高い!」
「兄貴には赤がお似合いです!」
「おお、そうか。――ねえさん、この三枚を頼むわ」
「兄貴、ありがとうございます!」「一生の宝物にします!」二人の子分が頭を下げる。
 結局、青色、緑色、赤色の一万八千円の高級バンダナを三枚も買ってくれた。私のピンク色とかぶらなくて、よかった。危うくヤクザさんとお揃いになるところだった。
 口髭男は若い二人を引き連れ、もう一度、邪魔したなと言って、去って行った。
 はい、確かに邪魔でした。でも、お買い上げはありがとうございます!
後日、店に一冊の本が送られてきた。半グレのことを書いたノンフィクション本だった。著者は鷹西竜士となっている。あの坊主頭の男の著書らしい。口髭男は、高北という名前の男だと言っていたが、ペンネームなのだろう。
表紙の帯には“実録”とか“潜入”といった言葉が踊っている。こんな本が書けるということは、反社に属していたのか、あちらの世界にコネがある人間しかいないだろう。簡単に潜入なんかできないだろうから。
ただ赤と黒の気味の悪い表紙に、金色の帯が巻かれた派手な本は読む気をなくさせる。たぶん、読むこともなく置いておくことになるだろう。
確かに著書もある本物のジャーナリストだったようだが、その後、何も連絡はない。鷹西だか高北だかを探していた三人組も来ない。
四人とも来なくていい。ここはレディースのブティック。みなさんの着るような服は売ってませんから。
これ以上、営業の邪魔はしてほしくなかった。

その後は仕事をしながら、神社に通い、母の回復を祈る日々が続いた。百日祈願は終えたが、仕事終わりに神社に参拝するのが習慣になってしまっていた。そして、カレンさんとは毎日のように会って、いろいろな話をしていた。
一度、私は加害者である根済議員の事務所へ行ってみた。交渉を任せている弁護士がこの頃になって、のらりくらりの対応となり、焦れてしまったからだ。
弁護士には依頼を受けたので、先方へは連絡をしないようにと言われていたのだが、どうしても納得がいかなかったため、強硬手段に出たというわけだ。
表向きは、その後の経過を聞きに来たと言ったのだが、自分でもよく一人で乗り込んだなと思うし、向こうでもよく会ってくれたものだと思う。私がまだ若い女性だったから、簡単にあしらうことができると踏んだのだろう。
残念ながら、あしらわれるような結果になってしまった。
立ちはだかる壁は大きく、分厚かったからだ。

何度電話をかけても、議員は不在だと言われ、アポが取れなかったため、根済議員の事務所には飛び込みで訪問した。事故の被害者の娘だと言うと、応接室に通してくれた。議員は遊説に出かけているという。相手をしてくれたのは秘書という男性だ。何人の秘書がいるのかは分からないが、そのうちの一人らしい。らしいというのは、名刺をくれなかったからだ。当然、お茶なんか出てこない。厄介者はさっさと追い返そうという魂胆が見える。それでなくても、来年早々に選挙を控えているので、何かと忙しいのだろう。
「あの事故が起きた時、運転をされていたのは根済議員でしたよね?」
 のっけから切り込んでみる。
「いいえ、秘書の一人が運転してました」当然のように言われる。「根済先生は後部座席に座ってましたから。後部座席が先生の指定席なのですよ。先生ともなると、ご自分で運転なんかなさいませんよ」
市会議員の根済が運転していたはずだった。当初はそう報道されていた。目撃者もいたはずだ。店に来たジャーナリストの鷹西だか高北だかにも、飲酒運転で事故を起こした悪徳市会議員を糾弾しませんかと持ち掛けられている。
だが、いつの間にか、うやむやになっていた。
見間違うはずはない。根済議員は細身の長身で白髪という特徴的な容姿をしていたからだ。母をはねて、車から出てきたのは議員であり、泥酔していて、足元がふらついていたという複数の証言もあったのだ。
「根済議員が飲酒運転をしていて、自転車で横断歩道を渡っていた私の母を轢いたという目撃証言があります」
さらに追及してみるが、
「そんな証言、今は既に無いでしょう」ニヤつきながら言われる。
 その通りだ。
目撃者の証言は取り消された。新聞の報道も間違っていたと謝罪の記事が掲載されたのだ。
根済議員が運転していたというのは複数の目撃情報に基づくものだ。防犯カメラやドライブレコーダーの映像が存在したはずであり、警察も押収しているはずなのだが、それは表に出てこない。あくまでも目撃者の証言だけにとどまっていた。
 おそらく、目撃者たちはいくらかのお金を与えられたか、何らかの弱みを握られて、証言を変えさせられたに違いない。
 後になって、あのときは眼鏡をしてなかったとか、見間違えたとか、こっちも酔っぱらっていたとか、白々しい言い訳をさせられて、証言を撤回したのである。
警察だってそうだった。議員から圧力をかけられたのだろう。誤認逮捕だったとして、根済議員を釈放し、真犯人だとして秘書を逮捕して、署長による謝罪会見まで開かれたのだ。
 これらの理由は、本当の加害者が市会議員だったからだ。
父親は議員を七期も務めた地元の名士だったため、警察もかつては何らかの世話になっていたのではないか。
――私はそう思っている。
だから、そのことの確認に来たのだ。おそらく、依頼した弁護士までもが突然弱気になったのも、何らかの圧力がかけられたのではないかと疑っている。
「七岸さん、この件は弁護士さんにお願いしてあるのですよ」
私が鷹西だか高北だかに言ったのと同じセリフを秘書から返された。
「あなたがこうやってここへ来ることはおかしいでしょ。それに、逮捕されたことで、うちどもは社会的制裁を受けてますからね」ニヤニヤしながら言われる。
確かにそうだ。逮捕されたのだ。根済議員ではなく秘書の一人が。もちろん、この男ではない秘書が。
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ここで留華は諦めた。壁が厚すぎた。
最後は逆に謝って帰って来た。

しかし、諦めずに喰らいついていた男がいた。自称ジャーナリストの鷹西こと高北である。
秘書ではなく、根済議員が運転をしていたと確信していたが、証拠が出てこない。目撃者は全員、警察によって翻意を促されたに違いないと、留華と同じことを考えていた。
 しかし、ここで絶好のカモを逃してはいけない。デカくて長いネギを背負っているのだ。カモが根済で、ネギが父親だ。贅沢な鴨鍋じゃないか。
子供でも年寄りでもスマホを持っている時代だ。集まっていたヤジ馬の中に写真を撮った人物がいるに違いない。
そう睨んだ高北は足を使って、近所の聞き込みをくまなく続けた。
そして、その執念は実った。大きな音を聞いた近所に住む老人が、自宅の二階の窓から、数枚の写真を撮っていたのだ。
そこには運転席から下りて来たばかりの長身で白髪の根済議員の顔がはっきり映っていた。顔は赤く、足元はふらついているように見える。
高北は半ば脅すようにして、老人から写真のデータを自分のスマホに送らせた。老人は今後、何かを行う目的で写真を保存していたわけでなく、ただ撮影して、持っていただけだった。高北はもちろん、根済議員を脅迫するために写真を保存した。

高北は懲りずに、私が勤務するブティックにまたやって来た。しかし、最初に来たときと違って、今日はにこやかだ。同じ人物とは思えない。また後で豹変するかもしれないが。
――ブティックに坊主が二人。
どうやら、根済議員を糾弾するための準備を進めているようだ。表情からして、議員を脅すための証拠を手に入れたのかもしれないが、協力なんかするつもりはない。敵の敵が味方にならないこともある。この男と組んで議員と戦おうものなら、共倒れをして、二人揃って収監される可能性もある。パートナーにするには危険すぎる。今では弁護士でさえ、信用できない存在になっている。ましてや、素性のよく分からないジャーナリストを信用するわけにはいかない。
前回は帰り際に、何かあったら連絡してくれと言われたが、もちろん連絡なんかしてない。
今はすでに母の意識は回復しているし、日々順調に回復している。被害者であるお母さんの証言をいただけないかと言われたが、まだ話せる状態ではないとウソを吐いて断った。とっくに日常会話ができるくらいには回復していたのだが、病院にまで行かれたら大変だし、この男なら本当に行くかもしれないからだ。
高北は、私の証言なり、意見を聞いて、糾弾する材料にしようと企んでいたようだが、母も私もこれ以上、事を大きくしたくないと思っていることを告げ、弁護士も保険会社も動いてくれていると説明して、帰ってもらった。
今回は何も捨て台詞を残すことなく、高北は黙って帰って行った。余裕があるということだろう。私たちの意見を添えなくても根済議員を追い詰めることができる何らかの証拠を掴んだのだろう。それに私たち親子の意見が加われば儲けものくらいに思って、店に寄ったに違いない。残念ながら提供できる新情報は持ち合わせてなかった。
 今後、高北がどう動くのかは知らないが、私にとっては、母が一刻も早く退院して、平和な暮らしが続いてくれるだけで満足だった。
高北との直接の縁はこれで切れてくれることを願いたい。だけど、その反面、高北を応援したいという気持ちもある。
飲酒運転をして、私の母を轢き、瀕死の重傷を負わせたにもかかわらず、秘書の一人をスケープゴートにした男と高北が何らかの証拠を元に脅迫をしようとしている男。
共通の敵が根済議員だったからだ。

八幡神社で百日祈願を終え、母の容態もしだいによくなって来たころ、家に帰るとNPO法人から、寄付をした髪の毛を確かに受け取りましたという受領証が届いていた。寄付された髪の毛でウィッグを作って、子供たちに無償で提供するという活動をしているNPOだった。
 私の友人が近所にある幼稚園で先生をしている。そこの園長先生から、髪の寄付=ヘアドネーションのことを教えられた。長かった髪を切ることで、願掛けと寄付の二つができたわけだ。
神様は母の意識が戻りますようにという私の願いを叶えてくれたし、私が寄付した髪は日本のどこかの子供たちに喜んでもらえるだろう。日頃から手入れをしっかりしていたし、一度も染めたことがない髪だったから、そんなに傷んでないはずだ。
私は少しエレクトーンが弾けることもあって、ときどき休みの日に、その幼稚園へ行って、子供たちの前で演奏をしている。ブティック勤務なので、平日に休みが取れる。
私的な用事がなければ行っているボランティア活動である。子供と音楽の両方が好きだったため、始めた活動だ。
 ありがたいことに子供たちも私のエレクトーンを楽しみにしてくれている。子供たちがよく知っている曲を選んで弾いているし、演奏に合わせて、子供たちも大きな声で歌ってくれる。私も一緒に歌えばいいのだが、残念なことに歌はうまくない。というかヘタだ。
 幼稚園の近くに公民館がある。何とかそこにたくさんの子供たちを集めて、演奏ができないものかと、以前から思っている。その幼稚園以外の子供たちも無料で招待して、楽しんでもらいたい。そのためには幼稚園のキャパでは狭すぎる。もっと大きな場所が必要だ。
母が事故に遭い、それどころではなかったのだが、退院の目途もついたため、またその夢に心が向かい始めた。
町民ならばその公民館は格安で貸してくれる。しかも、子供たちの保護者がカンパをしてくれそうだ。ただし、公民館はかなり広い。幼稚園児とその親御さんと先生たちを招待するだけでは、空間を持て余す。それに、せっかくカンパをしてもらえるのに、私のエレクトーン演奏だけでは申し訳ない。他に参加をしてくれる人はいないだろうかと考えていたところ、一人の友人を思い浮べた。
 私には歌手の友人がいる。元々、ブティックの常連さんから友人になった人だ。見た目が変わっているし、歌う歌もスタイルも変わっているのだが、歌はうまい。
名前を江良須という。珍しい苗字だが本名だ。女性なのだが頭を剃り上げて、坊主にしている。願を掛けて坊主になった私とお揃いだが、願を掛けて剃ったのではないという。
でも、なぜ剃ったのかは訊いてない。理由を訊いても分からないと思うからだ。名前も見かけも思想も変わってはいるが、大事なお客さんであり、大事な友人だった。
エラスさんは歌手でなく、アーティストだと名乗り、変な世界観を持っている。音楽と魂がコミュニケーションを取り、やがては融合し、お互いが昇華していくとか何とか……。
以前にそう説明されたが、さっぱり分からなかった。二度と声明を求めることはないと思う。次回のライブでは舞台に二つの大きな仏壇を設置するという。
――仏壇だって!? 
なぜ歌に仏壇が必要なのだろう? 
これだって、おそらく理由を訊いても理解できないだろう。
ぜひ見に来てと言われているが、どうするかは考え中である。だって、仏壇だから。
そんな個性的と言うか、ヘンテコリンなエラスさんだが、とても真面目で、いい人で、熱い人で、子供のことも大好きだ。見た目からか、なかなか子供の方から近寄ってくれないという欠点があるけど、いったん仲良くなれば、子供たちは彼女から離れなくなる。そんな不思議な魅力を持った女性だ。
だから、いつか公民館を使って、彼女の歌と私のエレクトーンとで、コラボができればいいなと思っている。きらびやかなホールじゃなくて、地味な公民館だけど、そしてノーギャラで、観客のメインはチビッ子たちだけど、きっと引き受けてくれるだろう。
ただし、ライブと違って公民館に仏壇はいらないし、子供たちも喜ばないと思う。
こうして、私の夢の一つは近いうちに実現しそうだ。
夢に向かって、あと一歩。


~後編につづく~

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母の下着 タンスと洗濯籠の秘密

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