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スキン・ヘッド・イレブン ~後編~
しおりを挟む~前編からのつづき~
一人の坊主がいた。
名前を江良須(えらす)サチルといった。年齢は三十三歳。職業はアーティストだった。女性にしては珍しく、頭を坊主にしている。何かの願掛けをしたわけではない。自分のアーティスト活動に合わせるために切ったのだが、おそらく第三者には理解できないだろう。何人かの知り合いに説明したことがあるが、みんなポカンとした顔をしていた。
先日、神丘仏具店に高さ二メートルの仏壇を二つ、頼んでおいた。特注だったため、二台で二百六十万円と、かなりの金額がかかったが、今度のパフォーマンスには必要だ。
発注しておいた二台の仏壇はライブ会場の舞台に上げられ、舞台設営と電気関係の人たちが群がって、改造を施してくれている。
私はその作業を客席に座って眺めている。ただ眺めているわけではない。ちゃんと照明や音響のチェックもしながら、頭の中でパフォーマンスのイメージを膨らませているのだ。
先ほどまで仏壇を置く場所をあちこち動かし、やっとのことで決めた。大型仏壇は相当重かっただろう。いつも一緒に仕事をしている旧知のスタッフだが、とても感謝をしている。
高さ二メートルの二台の仏壇をそれぞれ舞台の上手と下手へ向かい合わせにして置き、それぞれから色とりどりのレーザー光線を発射させて、交差するその真ん中で、私が歌唱するという仕組みだ。つまり、レーザーに包まれて歌うわけだ。
そのために、今は仏壇の中が配線とライトだらけになっている。内部に置く位牌、花立、火立、香炉といった仏具は避けられ、すべてのセッティングが終わり次第、また元の位置に置かれることになっている。
こんな仏壇に改造されて、ご先祖様もびっくりだろうし、今やバチを当ててやろうと待ち構えている仏もいるかもしれない。
仏壇の後ろにはいくつもの丸い穴が開けられ、そこからは何本ものコードが舞台の床を這い、舞台袖にまで伸びているが、上から床と同じ色のテープが貼られ、さらに照明を調節して、客席からは見えないようにしてある。
仕掛けが見えたら、白けてしまうからだ。かといって無線で動かす仕組みにするには時間もないし、これ以上、お金もかけられない。
仏壇の観音扉を開けたとたんに発射されるレーザー光線は、球体から直線へと変化した魂を表し、二つの仏壇の間で交じり合うレーザー光線は、天から位牌へと降りて来た二体の魂の結合と交流を意味する。
あの世とこの世の境を行ったり来たりしていた二つの魂がやっと出会えたという吉兆を、私の歌が祝福しているというイメージであり、歌っている間だけ、私自身は赤や青や緑や黄のレーザー光線に応じて、神や仏に変化しているという設定だ。
このことを分かりやすく、絵にも描いて、仏壇を依頼した仏具店店主の住柿さんに説明したのだが、ニコニコ笑ってるだけで、まったく理解してくれなかった。
――そりゃそうだろう。
分かっているのは私だけで、周りのスタッフも観客も分からないのだから。
ましてや仏壇の内部を調整してくれている外部から来た電気関係の人たちはチンプンカンプンに違いない。自分たちでも何をやってるのか分からず、図面を見ながら、言われたまま作業をして、さっさと帰ろうと思っているだろう。
そんな彼らを私は観客席から静かに見守る。
こんなパフォーマンスだけど、いつかみんなに分かってもらえることを信じて、アーティスト活動を続けて行きたい。
今回の二台の仏壇を使ったパフォーマンスには、魂の救済という意味もある。
もしかしたらステージ上を彷徨っているかもしれない二つの魂は、かつて轢き殺した二匹の犬のものだった。
私は二年前、二匹の犬を轢き殺した。
突然じゃれ合いながら飛び出して来た二匹の小型犬を避けることができず、ぶつかったのだ。二匹ともにリードがついたままだったので、飼い主の手からすり抜けたのか、どこかに繋がれていたものが解けたのか分からないが、自由になれてうれしくなり、駆け出したのだろう。
私の足元で転がった二匹は何が起きたのかと、周りを見渡しながらも起き上がった。
それを見て、私は安心した。
見た感じはケガがなさそうだし、近くに飼い主も見当たらないし、なんといっても、こちらは自転車だ。ぶつかった際の衝撃はほとんど感じることはなかった。
だから、元気そうな犬を見て、大丈夫だと思った。遠ざかるとき、一度だけ振り向いてみたが、犬は二匹とも、現場にたたずんだままだったので、そのまま気にすることもなく、帰って来た。
翌日、その道を通りかかって驚いた。
死亡事故現場に立ててある看板と同じようなものが電柱にくくりつけてあり、昨日ここで二匹の犬がひき逃げに遭って亡くなったと書かれていたからだ。
看板の下には花束が手向けられていた。飼い主が置いたものだろうか。
事故を目撃された方、不審な車を見かけた方は連絡をくださいと個人の電話番号が記載されている。見るからにDIYで作ったような武骨な看板であり、警察署の名前もないことから、個人が勝手に設置したものだと思われた。
不法で設置したと思われるので、すぐに撤去されるだろうが、どうやら探しているのは車のようだ。二匹の犬が道路で同時に死んでいたのだから、車に轢かれたと考えるのが自然だろう。まさか自転車に轢かれて死んだとは思ってないのだろうし、目撃者もいなかったのだろう。
そのことで私は安心したのだが、罪悪感にさいなまれた。だが、名乗り出ることはできなかった。勇気がなかったからだ。急に飛び出してきたとはいえ、二匹の犬を轢き殺してしまい、飼い主にどんな罵声が浴びせられるのか、考えただけでも怖かったからだ。
まさか、何事もなかったかのように立ち上がった二匹が同時に死んでしまうなんて、そんなことがあるのかと信じられない思いだった。見た目は何ともなかったのだから、内臓がやられていたのかもしれない。あるいは頭を強打したのかもしれない。
もしかしたら、私が轢いた後に、車が通りかかって轢いたのかもしれない。
その可能性はないのか?
そうあってほしいと思い、そのときの状況を思い出してみる。
最後に振り向いて確認したとき、走ってる車は見えなかった。それどころか、自転車もバイクも人影さえも見えなかった。だから、たたずむ二匹の犬の様子をはっきり覚えているのだ。
つまり、車によって、二度轢きされたわけではなさそうだ。
やはり、私が自転車でぶつけて殺してしまったのだろう。
二匹の犬はペットに過ぎなかったが、飼い主にとっては家族のような存在だったに違いない。あんな不法な看板を翌日すぐに設置して、犯人捜しを始めたくらいだから。
また、相当のショックを受けていることだろう。世の中には、ペットロスにより、病気になってしまう人もいるくらいだ。
あれから私の元には何の連絡もない。近隣の防犯カメラにも映ってなかったのだろう。
自動車ならぶつかった衝撃でランプの破片でも散らばったりするのだろうが、乗っていたのは自転車で、転んでもいないため、現場には証拠となる物は何一つ残してないはずだった。
私はそのときの事故のことを、ずっと引きずって生きている。犬を殺したという罪が頭から離れずにいる。
つまり、今回のライブは私のまったくの私的なことである二匹の犬のための鎮魂ライブであった。スタッフにはここまで詳しく事情を話してない。ましてや、観客は何も知らない。
鎮魂のためにはどういった形式のライブにすればいいのか悩んだ。ライブを教会で行うことも考えた。墓地で行うことまでも考えた。でも、私が立つべき場所はいつものライブ会場のステージだ。教会であっても墓地であってもいけない。
では、ステージ上でどうやって鎮魂を表現すればいいのか?
魂から連想されたのは、おばあちゃんの家にあった仏壇だった。音楽シーンの先端を走っていると自負していた私が思い付いたのは、おばあちゃんの古びた家の古びた仏間にある古びた仏壇だったとは、自分でも驚いた。
そのとき、ステージ上に仏壇を上げて、何らかのパフォーマンスをしようと思い付いた。
二台の仏壇を向かい合わせにして、魂の交流を表現しようと決めた。
私がひき殺した犬は洋犬だったのだけど、仏式の供養で我慢してもらおう。
こんなことに仏壇を使うことについて、当初店主の住柿はあまりいい顔をしてなかった。そもそも仏壇はパフォーマンスに使う道具ではない。大道具さんにダンボールで作ってもらったらどうかとまで言われた。コントのセットに出てくるような仏壇を想像したのだろう。
でも、私は本物にこだわった。ハリボテの仏壇だったら、死んだ二匹の犬に申し訳ないし、職人さんが魂を込めて作り上げた本物の仏壇だ。彼らの魂も融合したい。まだ生きているけど、魂を込めて作りますと言うではないか。だから生きていても、職人さんの気持ちや情熱が感じられればいい。
当初は渋っていた住柿だったが、仏壇を二台、現金で支払います。前金もこの場で支払いますと言ったとたん、エビス顔になった。
いいのか、仏具店の店主がそんな欲まみれで。
本物のエビスさんに怒られないのか?
そのとき、いきなり変なことが頭に浮かんだ。
七福神のエビスさんは店主や私と同じ、スキンヘッドだっただろうか?
でも、あの神様はいつも帽子をかぶっているから、分からないなあ。
まあ、どうでもいいことだけど。
高さ二メートルの仏壇さえ製作してもらえればそれでいい。仏壇は二台とも、大切に使うし、パフォーマンスが終わったら、ちゃんとライトや配線を外した上で、また使う機会があるまで大切に倉庫へ保管しておくつもりだから、バチは当たらないだろう。使う機会が来るかどうかは分からないが、それは今回のライブの評判しだいだ。
地元紙の記者も招待してある。大きな記事になればいいなと思う。
「エラスさん!」女性スタッフが客席でステージを見上げている私の元へ走って来た。「チケット完売です!」
「えっ、ホント? ありがとう!」ホッとして全身の力が抜ける。「まだ三十分くらいしか経ってないんじゃない?」興奮したため、膝の上に置いているタブレットが落ちそうになる。
「はい。ちょうど三十分で完売しました! こんなことは初めてです」彼女も興奮して、声が上ずっている。
「へえ、びっくりだね。魂が震える仏壇ライブ。こんなタイトルでよく売れたよね」
「それはスタッフの反対を押し切って、エラスさんが付けたんじゃないですか。お客さんは意味の分からないうちに買われたのではないでしょうか」
「お爺さん、お婆さんばっかりだったりして」
「お爺さん、お婆さんはネットを使って、ライブチケットをゲットしませんよ」
「そうだね、窓口に並んで買うか、孫に頼んで取ってもらうかだね。だとしたら、すぐに完売したのは仏様のお導きかもね」
二人からは軽口も飛び出す。それほどうれしかった。
以前は足を棒にして、声を枯らしながら、手売りで売っていたのだが、今はネット販売だから助かる。販売前にSNSなどを使って宣伝もできるし、買った人もネット上で宣伝してくれる。
前回は完売するまで丸三日かかった。今回は三十分だから格段の進歩だ。確かに前回の評判は良かったのだが、ここまで早く売り切れるとは予想外だった。
完売のニュースを聞いた、他のスタッフたちもうれしそうだ。彼女たちの給与もチケット代金の中から出るのだから、当然の表情だった。
だが、完売しても今回は赤字だ。二台の仏壇の代金が大きかった。
「ネットの力はすごいね」エラスが珍しく興奮した顔で言う。
ファンがライブの感想をSNSやツイッターで拡散してくれているお陰で、しだいに客入りもよくなってきた。ネット社会はありがたい。
「エラスさんのパフォーマンスがいいからですよ。もし悪ければ、あのライブはつまらないという評判が拡散されて逆効果になりますよ」
「なるほど、両刃の剣というわけね。――ということは、この仏壇パフォーマンスがどう評価されるかで、次回のチケットの売れ行きに影響があるということだね。がんばらないとね」
だから、ステージ上では一瞬たりとも気は抜けない。
「ステージに仏壇を二台も上げるなんて画期的ですよ。しかもその間をレーザー光線で繋ぐなんてすごい発想ですよ。ホント、最初に見たとき、私も驚きました。当日はマスコミも呼んでますから、きっと評判を呼びますよ」女性スタッフの興奮も収まらない。
二台の巨大な仏壇はステージ上の左端と右端とで、向かい合わせに鎮座している。
「ここから見上げると、仏壇も神々しく見えますね」
「仏壇が神々しいって、変じゃない?」
「ああ、そうですね。考えてみると仏と神ですもんね」
では、表現すればいいのかと悩み始めるが、答えは出てこない。
「なぜ仏壇を上げたか分かる?」エラスが尋ねる。
「いえ、それはこれから考えます」考えることが多い。
私の側近の彼女も仏壇の意味は分からない。
まあ、そんなものだろう。
「あんな大きな仏壇、高かったんじゃないですか?」
「それはもう目玉が飛び出るくらいにね」
このスタッフにも、私が轢き殺した二匹の犬のことは話してない。
舞台上の左右の仏壇から飛び出るレーザーは二つの魂を暗示しているとして、それがまさか犬のものだとは思わないだろう。
だけど、人はそれぞれの魂を体内の頭か胸か分からないが、どこかに埋め込んでいるはずだ。はっきりしなくてもいいから、私のパフォーマンスから何かを感じ取ってくれればいい。そうなることで、二匹の犬の供養だけのパフォーマンスではなくなり、観客と気持ちが共用できる。そう信じて、静かに気合を入れ直す。
マイクテストをしていた音響スタッフが音の大きさと響きの確認を求めて来た。私は客席から頭の上で大きく丸を作って「OK!」と大きな声で答えた。そして、音声の最終チェックは私がマイクで歌い、スタッフ全員に確認をしてもらって、逆にOKサインをもらう。
私は再び視線を膝の上にあるタブレットに戻した。
隣に座っている女性スタッフが覗き込んで来た。
「すごい人気ですね」うれしそうに見入る。
タブレットには花道を入場してくる女子格闘家の動画が写っていた。
女性スタッフが喜ぶのも無理はない。花道の両脇にはたくさんの人が集まって、大きな声援を送っているのだが、流れている入場曲はエラスが作曲した作品だったからだ。
力強い曲に乗って、女子格闘家は観客に拳を振り上げている。
この小柄な女の子を大きく見せるようなダイナックな曲を作ってくださいと依頼された。今、タブレットで見る限りでは大きくて、強そうに見える。表情を見ても、音楽に乗って、気を引き締めているようだ。そして、何よりも観客の盛り上がりがすごい。
提供した楽曲は成功したとエラスは思った。力強い曲という要望には十分に応えられたはずだ。
そして、エラスの曲が会場全体を大いに盛り上げ、この小さな女子格闘家が試合前から、観客を味方に付けることに成功したことが何よりもうれしい。
女子格闘家の虎(こ)星(せい)は真っ赤なコスチュームに身を包み、なぜか、首から大きな数珠を下げていた。
仏壇の赤字はこの曲の仕事で何とか黒字に転換できると、エラスはしたたかに計算していた。
天に召された二匹の犬のための鎮魂ライブが始まった。
この日のために作った新曲を歌う。バックの大きなスクリーンに歌詞が映し出されるが、歌詞の中に犬という言葉は使っていない。聞いているお客さんもスタッフも、何かを暗示した歌詞だと分かるだろうが、まさか犬の冥福を祈る歌とは誰も思わないだろう。
二台の仏壇の中から、コンピューター制御された赤や青や緑や黄のレーザー光線が次々に飛び出て来た。
観客がどよめく。まさか、仏壇から光が飛び出すとは思ってなかったのだろう。私もスタッフも、してやったりの表情を浮かべる。
左右の仏壇が発するレーザー光線に挟まれながら、私はステージの中央で歌う。
色とりどりの光が私の坊主頭に乱反射する。
お客さんには仏壇同士でただレーザー光線の交換が始まっているように見えてるだろうが、私にとっては、二匹の犬の魂が交差して、私の魂と交流しているのである。
おそらく大きさからして、兄弟か姉妹の犬だったのだろう。一緒に生まれて来て、一緒に死んで行ったのだから、居たたまれない気持ちで一杯だ。
せめて、私が心を込めて歌う歌で許していただきたいと思う。
――そんな願いを込めて歌う。
自分勝手だとは承知している。二匹の犬をひき殺しても、名乗り出ることなく、飼い主から、逃げ回っているのだから。
事故の目撃者を募る看板はいつの間にか外されていた。飼い主が諦めて外したのか、警察が強制的に撤去したのかは分からない。しかし、何の情報提供もなかったのだろう。私の元へは何の連絡もないのだから。
だが、飼い主の心の中から、あの二匹の犬の思い出が風化することはないはずだ。
ライブ会場に来る前、もはや看板もない死亡現場に小さな花を手向けて来た。以前、置いてあった花はすでになかった。手向けていたのは私だけだった。
二台の仏壇間で飛び交うレーザー光線の速度も大きさも最大限となる。私の歌もこの曲でラストを迎える。バックの演奏も激しくなり、観客の手拍子と声援と歌声も、この日最高の盛り上がりを見せる。
なぜステージに仏壇が設置され、レーザー光線が行き交っているのか、何の説明もないままライブは進む。私から何も説明はしていない。この仏壇を見て、観客がそれぞれ何かを感じてくれればいい。
私のすべてを、スタッフの情熱とともに観客へ放り投げる。
それを受け止めてくれるかどうか、そこから何を感じてくれるのかは観客にゆだねる。
そして今、ライブは終焉を迎えようとしていた。
いつしか観客とは一体感が生まれ、それが最後まで続いてくれたことで、エラスの顔にも、演奏スタッフの顔にも、ダンススタッフの顔にも笑みが浮かんでいた。きっと裏方の人たちも安堵していることだろう。
私を受け止めてくれた観客はたくさんいた。
歌い終えた私は額の汗を拭い、観客席に向けて、一礼をした。それは二匹の犬に対する礼でもあった。最大出力で稼働していた仏壇の電源が落とされ、普通の大きな仏壇に戻った。
二匹の犬のためのライブは無事に終わった。
二匹の犬に対して、ずっとお詫びの気持ちを抱きながら、すべての曲を歌った。
会ったこともない飼い主に対しても、申し訳ない気持ちを抱きながら歌った。
私のこの気持ちが届いてほしいと願いながら歌った。
二つの魂が荒ぶっているのなら、静まってほしいと思いながら歌った。
あとは、勝手ながら、どうか私を恨まないで、二匹が仲良く天国へ行ってほしいと願うだけだった。こうして私の二匹の犬に向けての鎮魂ライブを終えた。
心配していた観客からの手応えは十分だった。今回のライブパフォーマンスは良かったという感想を観客はネット上で拡散してくれるとエラスもスタッフも信じて、すべてを終えた。
続けてエラスには変わった仕事が入っていた。といってもボランティアだから利益に貢献しない、ノーギャラで歌うという仕事である。しかも今度の観客は子供たちらしい。
七岸留華さんという、よく行くブティックの店員さんから友人になった女性がいる。エレクトーンが趣味で、休みの日には近所の幼稚園へ行って、子供たちの前で演奏をしているという。私が歌手だと知って、話してくれたのだ。
ところが、留華さんはその小さな幼稚園だけでは満足できないのか、大きな公民館で演奏をしたいと言い出し、私に一緒にやろうと声をかけてきたのだ。公民館だから町民は格安で利用できるらしい。留華さんがエレクト-ンを弾き、私が歌うというコラボライブであり、もちろんボランティアのため、子供と家族は無料で招待する予定だという。機材の運搬などに費用がかかるが、それはカンパで間に合わせるらしい。
ちょうどその日は私のスケジュールも空いていて、面白そうな企画なので、即決で引き受けることにした。ただし、子供たちに仏壇のパフォーマンスはウケないだろうから、残念ながら封印し、倉庫に保管したまま、またの機会を待つことにする。
公民館ライブには留華さんのエレクトーンと私の歌に、もう一人のアーティストが合流する予定だった。
一人の坊主がいた。
名前を虎星(こせい)といった。年齢は二十四歳。
職業は女子格闘家である。本名は元崎星奈。寅年の生まれ。よって、リングネームは虎と星を足して、虎星だ。
住柿が経営する神丘仏具店にプロレスラーのような大男が来店して、大きな数珠を注文していった。般若心経を彫り込んだ特注の数珠だった。このときも住柿はエビス顔になったのは言うまでもない。その場での現金一括払い、しかも前払いだったからだ。さすが、体育会系はきっぷがいいと大喜びだった。
この大男は総合格闘家であり、今、リングに向かう花道を険しい顔をしながら歩いている。すぐ後ろを歩くのは直弟子の女子格闘家虎星である。エスコートしている大男はこのまま虎星のセコンドに付く。
童顔であまり強そうに見えない虎星に迫力を付けさせるため、坊主頭にさせてみたが、逆に童顔が引き立ち、修行中の小坊主のようになってしまった。
申し訳ないと思った男は、今度こそ箔を付けようと、大きな数珠を特注で買って、首から下げさせたのである。実際、首から数珠を下げている同僚のプロレスラーがいる。たいへん強くて、人気もある。そいつにあやかったわけである。男子格闘家が強く見えるのだから、女子格闘家も強く見えるだろうと思ったのである。
虎星を強そうに見せかけても、師匠格の自分が弱そうだったら元も子もない。いつもより怖そうな表情をして、観客席を睥睨しながら、わざと大股でゆっくり歩いている。これも相手に対する心理戦の一つである。
大きな数珠をぶら下げることは、虎星にとって迷惑な話だったが、先輩格闘家の指示には逆らえないし、数珠代は当然、言い出しっぺの先輩持ちだし、何と言っても自分の容姿には迫力がないと自覚していたため、やらざるを得なかったのである。
巨大な数珠だが見た目ほど重くはない。あまり重いと花道を歩くだけで体力を消耗してしまうため、そのように作ってもらったのである。情けない話だが、体力は試合のために使いたい。すべての力を相手選手にぶつけたい。
数珠の出来栄えについては、神丘仏具店がいい仕事をしてくれたと思った。数珠の珠には般若心経が丁寧に彫り込んである。
だが、今日の対戦相手にこんなこけおどしが通用するのか疑問だ。相手は数珠なんかなくても、ただ黙って立っているだけでも強そうに見える。全身が筋肉の塊のような女性だ。
そして、実際に相手は立ち技でも寝技でも強かった。過去に一度対戦をしているが、手も足も出せずに完敗した。
――今日はそのリベンジだ。しかも、私から相手を選んだ指名試合だ。絶対に勝ちたい。
首の数珠に加えて、入場曲も強くて、カッコイイものにしようと、新鋭アーティストであるエラスという女性に依頼をした。希望通り、力強く、エネルギッシュな曲に仕上がっていた。
花道を歩いているときの声援は、かつてないほどの盛り上がりだった。ファンが曲に合わせて、こぶしを突き上げ、足を踏み鳴らしてくれる。初めて聞いた曲のはずが、ちゃんとノッてくれている。
リベンジ戦には男性のみならず、女性ファンもたくさん駆けつけてくれていた。
これで私も強く見えるかもしれない。
子供の頃から、常に弱く見られていた私が。
プロの格闘家には見えないと言われ続けている私が。
そして、見た目だけではなく、今度こそ勝てるかもしれないと、声援に囲まれた虎星は思った。
子供の頃から、私はイジメられっ子だった。小学生の頃から、クラスの誰よりも小柄で大人しかったため、ヤンチャな女子たちの絶好の標的になっていた。標的にしないと、自分が標的にされるから、イジメなどしたくない女子も、イジメる側につく。
結果、クラスで標的は私だけになった。
親や先生に言うと、さらなるイジメが待っている。何とかならないのか。何とかできないのか。このままでは殺されてしまうと、本気で思った。
直接殺されるのではなく、自分で自分を殺す――自死だ。
でも、まだ死にたくない。まだ生きたい。もっと生きたい。
でも、学校へは行きたい。学校が大好きだからだ。
この状況を変えるにはどうすればいいのか?
さんざん悩んだが、答えは一つしかなかった。
――自分が強くなる。
相手よりも強くなる。そして、リベンジしてやる。それしかないと思った。
死ぬための勇気を持つことに比べれば、強くなることなんか簡単だ。絶対にできる。
特にヒドく当たって来た彩華、霧子、麻以の三人組が標的だ。
そのとき私は虎星という名前を思い付いた。寅年の生まれだったから虎だ。星のように明るく、ずっと輝き続ける強い虎だ。
中学生にときに考えた虎星という別名は誰にも教えなかった。だが、女子格闘家としてデビューが決まったとき、本名の元崎星奈ではなく、この名前を名乗ることにした。
イジメは小学、中学と続き、私は高校生になった。
そして、高校に入ってから、近所のボクシングジムに通い出した。私がイジメに遭っていることをうすうす感じていた親は何も止めなかった。もともと私には何ら関心もないような親だったからだ。毎月のお小遣いはほぼ月謝で消えた。
高校生になるとイジメから解放されると期待していたのだが、なくなることはなく、それどころかしだいにエスカレートしていったため、このまま死んでしまうか、生き延びるのか、二者択一を本気で考えた結果のジム通いだった。近所にジムがあったのはラッキーだった。
ただし、正式に入るまで二か月も迷った。
通う時間があるかどうかということもあったし、誰かに見られるじゃないかとう不安もあったし、なによりも、これで本当にイジメから解放されるのかという迷いがあったからだ。
結局、ジムの前を何度も行き来して、やっと決めた。
死なないために。これからも生き続けるために、ジム通いを一人で決めた。入会にあたっての契約書の保護者欄の署名と捺印は母親が内容を読むこともなく、さっさと済ませてくれた。反対されるとは思ってなかったが、私にとってはありがたいことだった。
近くには柔道場もあったのだが、ボクシングにした。私の体格からしたら、取っ組み合いになると勝てない。勝てるようになるまで、何年にも渡って、体を大きく作り直し、練習を重ねなくてはならないだろう。柔よく剛を制すは強くなってから言う言葉だ。
素人ながら、ボクシングなら相手を掴まなくても倒せると思った。
彩華、霧子、麻以の顔面にたった一発のパンチを当てるだけでいい。この子たちがボクシングを習っているとは聞いてない。だから、当てることができるはずだ。
三人の住所は分かっていた。学期の初めに、クラス全員の住所と電話番号が書かれたプリントが配られたのだ。有り難いことに、個人情報など気にしない担任だった。
夜七時。一人目の標的、彩華が住む高層マンション。
玄関先に自転車を止める。初めて来たマンションだったが、旧タイプだったので、止められることなく、すんなりと入れた。
入口のセキュリティが厳しい最近の高級マンションじゃなくてよかった。
部屋番号は分かっている。号室までプリントに書かれていたからだ。部屋は十階建ての九階だ。さっさとエレベーターに乗り込む。
――惜しいね、もう少しで最上階だったのに。
表札を確認して、呼び鈴を押す。さっき外から部屋を見上げた。灯りがついていて在宅だということは確認してある。本人がいなければ、適当な言い訳を並べて帰るだけだ。
でも、ラッキーなことに彩華本人が出てきた。
「彩華、こんばんは」
「えっ、星奈。――何? どうしたの?」ドアチェーンをかけたまま、驚いた顔をのぞかせる。ピンクの上下スウェット姿で、サンダルを履いている。
「見せたいものがあるんだけど」両手を後ろに回して、何かを持ってるフリをする。「ちょっと、出てきてくれない?」
「まあ、いいけど」チェーンを外す。「なんでうちが分かったの?」と言いながらドアを開ける。三人でイジメているときは威勢がいいけど、一人だと大人しい。イジメっ子なんてそんなものだろう。こいつら、一人では何もできない。
「先生からもらったプリントに住所が書いてあったから」
「ああ、そうか。――で、見せたいものって何?」
「私がボクシングを習ってるって、知ってる?」
「えっ、星奈がボクシング? 知らないけど」
クラスメートの誰にも言ってないし、うちの高校からジムに通っているのは私だけだし、今まで誰にも見られてないので、知らなくて当然だ。だが、インパクトを与えるために、わざと訊いてみた。まんまと引っかかった彩華は信じられないという顔をしている。
私の武器――強そうに見えない。
「そう、始めたの。アンタたちに勝つために」
「アンタたち? 私にということ? どういうこと?」彩華はさらに驚くが、「見せたいものって何?」もう一度訊いて来る。視線が私の腰のあたりに向かう。
「見せたいものはこれ……」
突然、彩華がしゃがみ込んだ。
私の渾身の一発がボディにヒットしたからだ。
このときのために、右ボディを何度も練習して来た。体は軽いけど、体重を乗せたボディが決まった。
「見せたいものは、私の勇気」
彩華は真っ赤な顔をして、お腹を押さえながら涙目で見上げてくる。
息が詰まって、声は出せないようだ。
「このことを誰かに話したら、今度は顔面を殴るからね。じゃあ、さようなら」
二発目、三発目を打とうと思えばできた。でも、それはしなかった。わずか一発で勝敗は決まったからだ。これ以上やるとイジメになってしまう。
彩華はお腹を押さえて、しゃがんだまま、無言で私を見送ってくれた。いい子だ。
夜七時半。二人目の標的、霧子が住む古いアパート。
建物の脇に、あわてて自転車を止める。
――急がなくては。
二階建ての二階。外から在宅を確認する。電気がついていて誰かがいるようだ。
錆びた鉄製の手すりを掴みながら、コツコツと階段を上がって行く。彩華のマンションと比べてかなり古い。部屋の前では洗濯機が回っていた。表札はないが、住所録に書いてある号室はここだ。ボタンにヒビの入った呼び鈴を押す。ビーという貧乏くさい音が室内に響く。呼び鈴の音はピンポーンだから、これはおそらく昭和の音だろう。
ドアが開いた。霧子本人が木製ドアの隙間から顔をのぞかせる。ドアチェーンなんか付いてない。
「こんばんは」と言うなり、私はドアを思い切り引っ張る。
ドアノブを掴んでいた霧子が釣られて廊下に飛び出てくる。ジーンズ姿だ。
「ちょっと、何よ!」よろけながら、霧子が睨み付けてくる。「星奈じゃんか」
「ちょっと、見せたいものがあるんだ」ニコッとして言う。余裕だ。「ここの住所は先生が配ってくれたプリントに書いてあったから」質問される前に言っておく。
「私がボクシングを始めたって、知ってる?」そして、こちらから質問をしてやる。
「ボクシング? 知らない」霧子はつっけんどんに答える。「それがどうしたわけ? 見せたいものって?」
「見せたいものは、これ」
霧子がお腹を押さえてうずくまる。
ボディへのパンチが決まったからだ。
顔を狙わないのは傷が残るからだ。家の人にバレると、ちょっとマズいから、攻撃は見えない箇所に行う。お腹だと跡は残らない。この卑怯なやり方を、私はいじめっ子から教わった。やられた箇所と同じ箇所を狙う。これが私のリベンジだ。
「アンタに見せたかったのは、私の根性」
霧子は果敢にも立ち上がろうとするが、
「もう一発ほしい?」と訊くと、首を横に振りながら、再びしゃがみ込んだ。
「このことを誰かに言うと、今度は顔面にクリ-ンヒットさせるからね。じゃあ、さようなら」
霧子も座り込んだまま無言でこちらを見ていた。声が出せなかったのだろう。
目から涙がこぼれ落ちていた。相当痛かったのだろう。
ボディの痛みは私も知っている。練習で何度も喰らったことがあるからだ。まともに喰らうと、霧子のように声も出せなくなるし、涙も出てくる。
ちょうど洗濯機が止まって、廊下に静寂が訪れた。次へ急ごう。
夜八時。三人目の標的。麻以の家。
麻以が三人のリーダー格だ。他の二人にいろいろとイジメの指示も出していた。
急いで来たが、自転車で十五分もかかってしまった。郊外にある新築の一軒家だ。電気は点いている。自転車にまたがったまま、玄関の表札を確認していたら、ドアが開いて、一人の男性が出て来た。
「こんばんは。成田麻以の兄の才二です」
なぜか突然、自己紹介をしてくる。
おそらく年齢は二十代後半で、今どき珍しい肩までの長髪だった。
麻以には二人の兄がいると聞いている。上のお兄さんだろう。
「元崎星奈さんですね。彩華ちゃんと霧子ちゃんから電話が来ました」
ちっ、連絡済みか。こうならないように急いで来たのに、麻以へのリベンジは無理か。
「三人で星奈さんをイジメていたことは聞きました。たぶん、一人ずつ復讐に回って、最後にここへ来られたと思います」
「そうです」私は自転車にまたがったまま答える。「二人を倒したので、麻以ちゃんが最後です」
そう、あなたの妹さんがラスボスなのです。
まるで、格闘技系ゲームの展開のようでしょ。
「麻以には私からよく言っておきますのでここは……」お兄さんは申し訳なさそうな顔で言って来る。
「いえ、私から言いますから」強引に話を断ち切って、こちらの要望を伝える。今までの私では考えられなかった行動だ。「麻以を呼んで来てくれませんか」逃がしてなるものか。
ボクシングは私を変えた。心も体も強くなった。それを見せてやる。体に覚えさせてやる。
「それは、そのう、麻以も反省してまして……」
「反省してるということは、悪いと思っているのでしょう。だったら謝罪すべきではないでしょうか? 私に直接謝罪もできないのなら、反省しているとは言えませんよ」
「私が代わりに謝罪を……」頭を下げてくる。
「お兄さんに謝ってもらっても困りますので、早く呼んで来てもらえませんか」
「殴りますよね」彩華と霧子から殴られたと聞いたらしい。
「もちろんです。この日のために苦しい練習にも耐えてきましたから。私がボクシングをやってることを二人から聞きましたよね」たぶん、聞いたはずだ。イジメられっ子の私が急に殴れるわけない。「ですから、お兄さん、早く麻以ちゃんを連れて来てください」
「では、私が妹の代わりに殴られましょう」
何を言い出すんだ、この人は。
「少年マンガじゃないんですから」私はズッコケそうになる。「格好つけないでください。それとも、麻以ちゃんから、お兄ちゃん、代わりに殴られて来てとお願いされたのですか?」
「いや、そんなことは言われてません」首をブンブンと横に振って否定する。
「だったら、ダラダラと言い訳をしてないで、呼んで来てくれればいいでしょう」
そう言い放ったとき、私は二階の窓のカーテンが揺れたことに気づいた。電気は付いてないが、おそらく麻以が見下ろしていたのだろう。なかなか戻って来ない兄を心配していたのかもしれない。
麻以が出て来ないということは、敵前逃亡したのだから、私の勝ちだ。戦わずして勝つというやつだ。不戦勝で私の勝利だ。ラスボスに不戦勝勝ちというのは珍しいが、事実なのだから仕方がない。このままネチネチと追及しても、お兄さんからのらりくらりとかわされるだけだろう。だから、この辺で勘弁してやる。
そういうことにしておこう。
お兄さんとやり取りをしていて、自分はちょっとだけ嫌な女の子になったと思った。以前の私はこんなネチッこく、陰険ではなかったのになあ。竹を割ったような性格だったのになあ。自分の口から出てくる言葉に自分でも嫌悪を感じたくらいだ。イジメっ子はこんな感情でイジメてるのか。私には合わない。
今までに受けた数々の仕打ちを思い出しながら話していたから、つい言い過ぎてしまった。私が第三者の目で見ていたら、思わず赤面するレベルだ。
ボクシングで鍛錬したおかげで、今は三人よりも私の方が強くなった。三人にまとめて来られても勝てると思う。つまり、これ以上やると、逆に私の方がイジメっ子になってしまうということだ。麻以はカーテンの陰に隠れてしまった。ラスボスのくせに。
「分かりました」麻以をブン殴るのを諦める。「では、お兄さんから麻以ちゃんによく伝えてください。だから、私を含めて、今度誰かをイジメたら顔面をボコボコにすると忠告しておいてください」
「はい、分かりました。妹にはよく言っておきますから」
なぜか急に私が態度を変えたので、お兄さんはホッとした表情を浮かべた。
そりゃそうだろう。
いい年した大人の男性が、もう少しで女子高生に殴られるところだったのだから。
「それともう一つ。私は以前の弱い私ではなく、強くなったと伝えてください」
「はい、それも伝えます。私が伝えなくても、星奈さんが彩華ちゃんと霧子ちゃんを順番にシメたことは妹も聞いてますので――それと」
お兄さんはポロシャツのポケットから名刺を取り出した。
「また妹がちょっかいを出すようなことがありましたらここへ連絡してください」
両手でうやうやしく、会社の名刺を渡してくる。羽田不動産営業部と書かれている。あらかじめ名刺を用意していて、すかさず出してくるとは、さすが営業マンだと感心する。何事も準備は必要だ。
「裏に私個人の電話番号を書いておきましたから」
裏を返すとケータイの番号が書いてあった。家の固定電話には連絡されたくないのだろう。このことは兄と妹との間で話し合いがされていて、親には内緒なのだろう。あるいは、お兄さんの独断なのかもしれない。どちらでも構わない。連絡することはないだろうから。
私は自転車で麻以の家を後にした。たぶん、二階から麻以が見送っていたはずだ。
――麻以に見せたかったもの、それは私の力。
アンタよりずっとずっと強くなった私の力を見せてあげたかった。
三人のイジメっ子の成敗は、あっけなく終わってしまった。
放ったパンチはボディにわずか二発だけ。
こんな一瞬のために、私は三か月もボクシングの練習をしていたのか。
だとしたら、無駄な時間を費やした気もする。
イジメっ子をイジメたところで罪悪感しか残らなかった。
だから、最後までイジメっ子の気持ちは理解できなかったし、共感などできなかった。
おそらくあの三人はもう私をイジメることはないだろう。
だが、神聖なスポーツであるボクシングをこんなことに使ってしまってよかったのか?
せっかくだからボクシングは続けて行こう。今までの練習をもっと生かそう。もっと強くなろう。強くなるには、あんなヘナチョコ相手ではなく、もっと強い人と対戦しなくては。弱い人間と戦っていても、自分が強くなれるはずはない。
では、次の目標をどこに置くのか?
もっと強い相手はどこにいるのか?
自転車を漕いで家に帰る途中、私は決心した。
――女子格闘家になろう。
ボクシングも含めた格闘家になろう。
いきなりの決心にしては無謀すぎると自分でも思った。
なぜ、そんなに飛躍するのか?
三人に勝って自信が付いたのだ。社会人の男性にも頭を下げさせた。完全勝利だ。
でも、まだまだ私は変われる。もっともっと強い人間になれる。
こうして私は女子総合格闘家になり、虎星と名乗るようになった。
試合はドローに終わった。
体重差がある相手に組み付かれないように距離を取り、パンチだけでなく、キックも多用したことがよかった。特にふくらはぎを狙ったカーフキックの効果が大きく、何度も相手をぐらつかせた。最近覚えた技だけど、我ながら見事に決まって、うれしかった。もっといろいろな技を身に付けて、大きな相手に立ち向かっていきたい。
エラスさんに作ってもらった入場曲で、観客と一緒に盛り上がれたことも大きかった。私自身も曲に乗ることで、体中に力がみなぎるのを感じた。
また、首から下げた大きな数珠も心なしか効果を感じた。先輩に無理やり付けるように言われたものだが、かなり高価だったと聞いている。そのためなのか、仏のご加護があったのかもしれないと本気で思った。
手も足も出せずに完敗した前回に比べたら格段の飛躍だ。だが、本気で勝ちに行ったが、勝てなかったことも確かだ。強敵だったとはいえ、ドローで満足をしていてはいけない。体格差からしてドローでもよくやった方だという意見も多かったのだが、もっと強くならなければいけない。
もっと強く。もっと前へ。もっと上へ行かなければならない。
私をイジメていた三人のことなんか、もはや眼中にはない。
翌日、腫れた顔のままで、私が所属する格闘技団体の事務所に寄った。社長に昨日の試合の報告をするためだ。試合結果はスタッフから聞いているだろうが、選手が挨拶も兼ねて、直接報告に行く決まりになっていた。
事務所には一人の坊主頭の男がいた。興行主の赤根浩志郎さんだ。黒っぽいスーツを着て、応接セットで社長と向き合って座っている。
昨日の試合は満員御礼で無事に終わった。さっそく次の試合の打ち合わせをしているのかもしれない。
「おお、これは虎星選手、昨夜はお疲れさん。派手にやられましたね」
赤根さんが私の絆創膏を貼った顔を見て笑う。何度も会っていて、顔見知りだ。
「応援をありがとうございました」
頭を下げて、お礼だけ言う。
何度も会っているが、私はこの人が苦手だ。
言葉は丁寧だが、見かけが怖い。坊主頭だ。私も坊主頭だけど。
――事務所に坊主が二人。
態度はきちんとしていて、言葉遣いはとても丁寧だが、丁寧だけに怖い。視線を決して外さないで話しかけてくる。怖くて背中がゾクッとする。強そうな格闘家と向き合ったときに感じる怖さとはまた異質の怖さだ。
格闘技やプロレスなどの興行を幅広く行っているらしい。おそらく雰囲気からして、どこかの組の人だろう。
お世話になっていて、この人たちがいなければ試合の開催はできないのだが、あまり深く付き合いたくはない。よって、自然と口数は少なくなってしまう。
いつもあいさつ程度でこちらからは話し掛けないようにしているのだが、向こうから話しかけてこられると対応せざるを得ない。
「虎星選手、試合の入場のときの数珠はよかったですよ」
「ありがとうございます」
「大きな数珠と迫力のある入場曲で虎星選手が強そうに見えましたよ」
「あの数珠には般若心経が彫ってあるんです」
「ほう、私と同じですね」赤根はスーツの袖をめくって手首を見せた。「黒オニキスでできた数珠ブレスレットです」高そうなブレスだ。「私のも般若心経が彫ってあります。あれは神丘仏具店で作ってもらったものでしょう」
「はい、そうです。赤根さんとお揃いとは思いませんでした」
そうか、やっと分かった。
先輩格闘家は、赤根さんからあの店のことを聞いて、私の首掛け数珠を依頼したのだ。ということは、負けなくてよかった。かろうじて引き分けだったけど、もし負けていれば、赤根さんのブレスレットにケチを付けることになる。
「私がこれをやり出したら、周りでマネする連中が増えましてね」
赤根は黒オニキス製の数珠ブレスを愛おしそうに撫でる。
周りで……? おそらく同じ組の人たちだ。
複雑な心境だが、赤根さんとお揃いということで、うれしそうな顔をしておく。
「昨日の対戦相手は外国人選手だったでしょう。こういう数珠なんかに、彼女らは畏怖の念を抱いてますからね。東洋の神秘という奴ですよ」
畏怖の念?
だとしたら首から下げた数珠はこけおどしではなく、少しは効果があったのかもしれない。目に見えない何らかの力が私に備わっていると思われたのだろうか。
先輩が数珠をぶら下げるように言ってきたとき、面倒だなと思ったのだが、後でお礼を言っておこう。
「虎星さん、実はここの担当が私から別の者に代わります」突然、言われる。
「えっ、足を洗われる……」と言ってしまって、私は言葉に詰まった。
赤根さんが反社だという確証はない。私が勝手にどこかの組員だと思い込んでいるだけだ。思わず口が滑ってしまった。足を洗うなんて表現は一般人には使わないだろう。ヤバいなあ、反社の人間だと断定してしまった。
「まあ、微妙なところかな」はぐらかされたが、どうやら怒ってないようだ。「――というわけで社長、虎星さん、お世話になりました。近いうちに後任を寄越しますから、これからもよろしくお願いします」赤根は腰を上げる。
「いえ、こちらこそ。今まで大変お世話になりました」社長もあわてて立ち上がった。
私もあわててドアを開けてあげた。
赤根さんが高そうな香水の香りを残して帰って行った。
残り香が漂う中で、私は社長に試合の報告を始めた。
一人の坊主がいた。
名前は成田才二といった。年齢は二十九歳。羽田不動産で営業をしている。以前は、不動産屋には見えない、肩までの長髪だったが、今は坊主頭だ。
仕事で大きなミスをして、自ら髪を切って会社に詫びを入れた。会社は髪型や服装などが自由なので、坊主でもモヒカンでも構わない。短パンでもジャージでも構わない。ピアスやカラコンさえもOKだ。要するに、仕事を取ってくれば何も言われないという自由な社風だった。
しかし、坊主にしたところでミスが取り消しになるわけではないし、営業成績がよくなるわけではないし、上司のご機嫌が直るわけでもない。あくまでも本人の自己満足だ。
だが、成田はそれでいいと思っていた。今の会社に大して未練はなく、会社に内緒で行っている副業が本業よりも好調だったからだ。
私は女子格闘家虎星のファンになった。虎星の正体は、妹の成田麻以の同級生で元崎星奈という名の女性だった。高校生からボクシングを始めて、総合格闘技に転向したらしい。
高校生の頃、一度だけ家に来たことがある。彼女をイジメていた妹をぶん殴りに来たのだ。そのとき、兄である私が対応をした。妹はイジメ仲間の二人がやられたため、恐れをなして、出て行かなかったからだ。たまたま家にいて、泣く泣く妹からお願いをされたため、兄として話し合った。あやうく、自分が殴られそうになったが、何とか丸く収まった。女子高生に殴られようものなら、末代までの恥だ。
その後、あのときの女の子が格闘技をやっていることを知り、会場へ見に行った。かつて妹がイジメていたという引け目もあり、奮発して、最前列のチケットを買って、応援することにした。――これが間違いの元だった。
プロレスはよく場外乱闘があって、客席にまでレスラーが下りて来て、客が逃げ惑うシーンがよくある。試合を盛り上げるための演出の意味もあるのだろうが、まさか総合格闘技でこれが起きるとは思わなかった。
最前列で応援していた私の上に対戦選手が落ちて来たのだ。
まず、虎星が豪快にロープ際まで投げ飛ばされた。果敢にも攻めて行ったのだが、小柄なため簡単に弾き飛ばされたのだ。すかさず、対戦相手の外国人選手マリアンヌが、転がる虎星の上から覆いかぶさって、寝技に持ち込もうとして突進してきたのだが、スピードに定評のある虎星がすばやく起き上がって、かわした。
だが、そのとき偶然にも虎星の足がマリアンヌの足に引っかかって、大柄な外国人選手はバランスを崩した。そして、これまた偶然にも勢い余ったマリアンヌが、うまい具合にロープの隙間から外に飛び出し、宙を舞い、最前列の客席に飛び込んだ。
虎星選手なら軽量だから大したことはなかっただろう。だが、よりによって対戦相手の重量級選手がリングから落ちてきたのだ。
私の体の上にドカッと。
気が付いたら病院だった。まるで陳腐なドラマのような展開だった。
頭部を強打したようだが、命に別状はなかった。しかしなぜか右足首を骨折していた。自分でもよく覚えてないのだが、逃げようと腰を上げたところに巨体が落ちて来て、二人分の体重が私の片足にかかり、足首がグキッとなったようだ。二人分の体重といっても、その比率は1対2だ。もちろん私が1だ。
結局、私は上から乗っかって来たヘビー級中年外国人女性選手マリアンヌの強烈な体臭を嗅ぎながら、気を失ってしまったのである。こんな品のないドラマはない。
松葉杖を使うと一人で歩けるのだが、頭を打ったこともあり、しばらく入院することになった。もちろん、仕事中ではなかったため、会社からは何も補償は出ず、残っていた有給休暇をひたすら消化する日々が続いた。
あまりにもヒマで何もすることがないため、本や雑誌や新聞を読んで過ごすしかなかった。院内でスマホはご法度だ。いろいろな医療機器に電波障害を起こすらしい。
今読んでいるのは、杖をつきながら病院内のコンビニで買ってきたハードカバーの新刊本だ。
“ハンパない輩たち”
半グレのことを書いたノンフィクション本で、著者は鷹西竜士となっている。年齢は書いてなくて、写真もない。体当たりで取材をするのが信条だと書いてあるだけで、細かいプロフィールは載ってないが、おそらくこの人は反社の人間ではないかと思われた。本の内容がやたらと詳しく、当事者でないと知り得ないような情報も載っていたからだ。正体がバレないように配慮されているのだろうが、読む人が読めばこの覆面作家が誰なのか、分かるのではないか。――大丈夫か、鷹西竜士さんとやら。
そのあたりのワクワク感がこの本の面白さを助長している。半グレには大して興味がなかったのだが、赤と黒のおどろおどろしい表紙に引かれて買ってしまった。まだ途中だが、
期待以上に面白い。ヒマつぶしには十分だ。
入院後しばらくして、マリアンヌ選手ではなく、虎星選手がお見舞いに来た。
「わざわざ来てもらってすいません。三年前は失礼いたしました」
かなり昔のことだが、妹の件を謝っておく。しかし――。
「はっ?」虎星選手は気づかないようだった。
お詫びに来たのに、なぜ逆に謝られるのかという顔をしている。その顔には試合の時の傷跡が残ったままだ。若い女性なのに顔が傷だらけでかわいそうだと思いながらも、
「成田麻以の兄の成田才二です」ベッドから体を起こして、頭を下げる。
「麻以ちゃんのお兄さん? ああ、あの不動産屋さんの……」気づいたようだ。
「そうです。以前、名刺をお渡ししましたが、今も羽田不動産で営業をしてます」
あの頃は長髪だったが、今は仕事でミスって、坊主頭だ。虎星選手も坊主頭だ。
――病室に坊主が二人。
お見舞いには既に格闘技団体の代表が来てくれていたので、虎星選手は個人的に来てくれたのだろう。あのとき私にぶつかったのは外国人選手だったのだが、
「マリアンヌ選手からも預かって来ました」と見舞金を差し出して来た。「彼女はもう帰国してしまったので、私だけで来ました。申し訳ありませんとの伝言です」
「いや、それは返って気を使っていただいて、こちらこそ申し訳ありません」また頭を下げる。「私がドン臭かったので、避けられなくて、下敷きになっただけですから、不可抗力です」
「もうすぐ退院だと代表には聞いて来ましたけど」
「はい。来週には退院できます。これに懲りて、二度と会場には足を運ばないということはありませんから。またこれからも応援しますよ」
「ありがとうございます、そう言っていただければ、とても助かります。代表とマリアンヌ選手にも伝えておきます」
その後、虎星選手は持参した大きなポスターを広げ、ちゃっかり次の試合のPRをして、何度も頭を下げながら、帰って行った。偶発的な事故なのだが、新聞にも取り上げられて、責任を感じていたのだろう。
ネットニュースには私がマリアンヌ選手の下敷きになる瞬間の写真が掲載されていた。そのことも虎星選手は知っていたのだろうが、私はこんな写真をタイミングよく撮れたものだと感心していたくらいで、何も気にしてなかった。
それよりもどうやって調べたのか分からないが、羽田不動産の名前が被害者の勤務先としてネット上に流れてしまった。おそらく私が押しつぶされる写真を見て、知ってる誰かがマスコミにリークしたのだろう。
しかし、うちの社長は社名が出たことで宣伝になるといって喜んだ。私が坊主頭になるきっかけになったミスが、この件で帳消しになったようだ。
それはそれでよかったのだが、ニヤニヤした社長に「成田君、会社の宣伝のために、また女子選手につぶされてくれんかね」と言われて、いつか絶対にこの会社を辞めてやると誓った。
たまに大きなミスはするが、他の営業マンと比較しても私の営業成績はいい。辞めると言うと社長は止めるだろう。それを振り切って辞めてやる。きっと快感に違いない。
虎星選手にもらった次の試合のポスターは病室内に貼った。入って来た看護師さんが目を丸くして驚いていた。
虎星選手をイジメていた私の妹はその後、ごく普通のOLとなって働いている。一緒にイジメていた二人、彩華ちゃんと霧子ちゃんとは連絡を取り合ってないようだ。
社会人になって、環境が変われば、人間関係も変わる。しかし、妹も含めた三人は虎星選手をイジメていたという記憶は、すでに薄まっていることだろう。イジメる側なんてそんなものだろう。
だが、イジメられる側はちゃんと覚えていて、おそらく、虎星選手が厳しい選手生活を続けていく上でのモチベーションの一つになっているのではないか。あのときの辛かった日々を新たな日々として取り返そうと、小さな体で懸命にがんばっているのではないか。
――そんな気がした。
私が妹の代わりに殴られそうになってから三年が経過した。
ごく普通のOLとなって、ごく普通の日々を送っている妹の成田麻以。
大きな声援を受けながら、大きな外国人選手と戦ってる虎星選手こと元崎星奈。
果たしてどっちが勝ち組と言えるのだろうか?
答えを出すには、もう少し時間が必要だろう。
病室の壁に貼ったポスターをじっと見つめた。
虎星選手が中央でポーズを取っていた。
一番小さな虎星選手が一番大きく写っていた。
成田は土地の有効活用という本来の不動産屋の仕事の他に、会社に内緒で裏プロジェクトを展開している。フーゾク店の斡旋だ。
神丘仏具店の隣の駐車場跡に新しく建てた七階建てマンションの二階に派遣型フーゾク店をオープンさせた。もちろん非合法だ。オーナーは店主の住柿であり、成田は斡旋をしたに過ぎない。
もしも警察にガサ入れを受けても、知らぬ存ぜぬで逃げてやる。不動産の営業で培った人垂らしの能力がこんなときは役に立つ。口八丁手八丁で警察くらい言いくるめてやる。
かたや、どう見ても店主の住柿は欲まみれなだけで、頭が切れるとは思えない。口下手で警察に追及されてもしどろもどろになるだろう。一人だけ、まんまと風営法違反で逮捕されて終わりだ。私はまた新しいカモを探すだけだ。それまでに、今のカモである住柿とともに、稼げるだけ稼いでやるつもりだ。
派遣型フーゾク店の取り分は女性が七割、住柿が二割、私が一割の計算だ。住柿には私の二倍の取り分にしましょうと提案すると、たいへん喜んでいた。
「いいのかい。あんたの倍ももらって」
「もちろんですよ。大いに儲けましょう」
「いやあ、悪いねえ、たくさんもらって」
恐縮しているようだが、見せかけだ。内心、女性の取り分が多いのではないかと思っているに違いない。何度か話し合いを持ったので、単純なオヤジだということは分かっている。
だが、あまりガメツク行くと、信用されなくなる。副業と言えども信用が第一だ。金にうるさいが、商売人だから信用も大切にするオヤジだ。
派遣型フーゾク店が順調に回り出した頃、住柿から相談があるという連絡をもらった。急いでいるわけではないと言われたが、あのタヌキオヤジはあまり信用ならない。何かマズいことでもやらかしたのかと思って、その日のうちに本業の都合を付けて、マンションの一階に移転した神丘仏具店まで向かった。
派遣型フーゾク店についての相談事だといっても、妻も含めた他の店員は、住柿が二階で派遣型フーゾク店を経営していることを知らない。看板を出しているわけではないし、客は近くのホテルに出向いて、待機しているので、マンションの二階にやって来ることはない。
住柿は家族や店員に悟られないように細心の注意を払っているし、ときどき訪れる私も疑われることはない。普段からスーツを着て、身なりをよくしていて、普通の不動産会社のサラリーマンにしか見えないからだ。坊主頭だから少し厳つく見えるかもしれないが、礼儀正しさと物腰の柔らかさで、十分カバーできているだろう。
住柿は店の入口で待っていた。笑顔で手招きしている。
「成田さん、まあ、どうぞ、どうぞ」
――仏具店に坊主が二人。
さっそく通された一階の応接室で何事かと訊いてみた。
「何やら相談があると聞きましたが」
「まあ、相談というほどのものでもないのだが」
住柿は女性店員が運んできたお茶をズルズルすすりながら言う。
――やはりそうか。何も緊急性のないくだらない用事だろう。
だったら、わざわざ呼び付けなくてもいいではないか、仕事の都合を付けて駆けつけたこっちの身にもなってほしいよなと、私は心の中で毒づく。
だが、大事なカモだ。大きな金づるだ。大切に接してあげよう。
女性店員が応接室を出て行った頃を見計らって、住柿は口を開いた。
「店のことだがね」と天井を指差す。一階の神丘仏具店のことでなく、二階のフーゾク店のことだろう。「成田さんよ、二階に女の子がたくさんいるわなあ」
「まあ、いますね。常時、四、五人は待機するようになってますからね」
こう答えてから住柿の表情を見た。
ニヤケている。
この瞬間、このオヤジが何を考えているのかが分かった。
「何でしたら、女の子を紹介しましょうか?」先にズバリ言ってやる。
「おっ、いいのかい?」オヤジの顔がパッと明るくなった。「催促したみたいで悪いねえ」
いや、顔を見れば催促丸出しだ。それでも副業の大事な顧客なのだからうまく取り計らってあげよう。こうして恩を売っておけば、これからのビジネスに役立つこともあるだろう。住柿はなかなか顔も広いようだから、どこかで誰かと縁が結びつくこともある。仏壇は身分にかかわらず、一生に一度は購入するものだ。中には仏式ではない人もいるが。
私はすぐ二階に電話をかけた。
「オーナーに空いてる子を一人、当ててくれるかな? ――ちょっと待って」
「オーナー!」
「へっ? オーナーというのは私のことで?」
「住柿さんしかいないでしょ」
普段は店長とか店主とか呼ばれているので、急に横文字で呼ばれても、ピンと来ないらしい。フーゾク店関係者にはオーナーと言っておいた方がスマートに聞こえるし、箔が付いていいだろう。
だが、確かに派遣型フーゾク店のオーナーは住柿であり、私は店をオープンするにあたってアドバイスをしたくらいで、オープンした後には、少しだけリベートをもらっているにすぎない。もし警察がガサ入れをして来ても、私だけは安全圏に居られるように仕組んでいるのだ。
私が悪党というわけではない。金に目がくらんで、まんまと利用される方が悪いのだ。こうやって私がオープンしてきた派遣型フーゾク店はやがて十店舗になる。もはやこの街では飽和状態なので、これからは隣の街でこの裏副業をやらなければないだろう。隣の街はこの街よりも大きい。私のビジネスはますます拡大していく。だから、本業の羽田不動産を退職しても平気だ。
「オーナーの好みを訊いてきてますが、どんな子がいいですか? 今は七人の子が待機しているそうですよ」
「ほう、いつも四、五人なのに、今日は七人とは多いねえ」
仏壇仏具を売っているためなのか、このオヤジは悪運が強い。まさか、そんなところにも仏さんのご加護があるのか? 仏さんというのはスケベなのか? それともオヤジに憑りついている悪霊に仏さんは勝てないのか?
「ええ、七人もいれば選び放題ですよ。何でしたら、七人全員となんてどうですか。みんな喜びますよ、住柿オーナー殿」ゴマをすっておく。
「ハーレムかね!? 男子の夢だねえ。だが、もうこの年だ。今回はやめておこう」
今回ってなんだ。次回があるのか? また機会があったらハーレム遊びをするつもりなのか?
「では、一人だけということで、オーナーはどういうタイプがよろしいですか?」
「うーん、この際、若けりゃいいかな」
顔がさらにニヤケる。今にもヨダレがこぼれ落ちそうだ。ドアの向こうでは、何も知らずに、妻が働いているというのに、この様だ。
しかし、笑ってはいけない。お得意様の接待だと思って接しよう。優秀な営業マンの腕の見せ所だ。
「そうですか。二十歳になったばかりの子がいますけどどうですか?」
「おっ、二十歳かね! いいねえ。その子で頼むよ!」
二十歳が一番年下だ。未成年を雇うようなことはしない。見つかったら大ごとだ。上は二十九歳だ。在籍する女性は全員が二十代をウリにしている。だから、若い子好きのこんなオヤジたちにジワジワと人気が出てきている。
二十歳の女の子の予約を入れたところで、私たちは連れ立って店を出た。
駐車場に止めてある私の車に乗り込む。途中で住柿を待ち合わせ場所のホテルの前で降ろして、私は会社へ向かう予定だった。
店を出るとき、三人いた女性店員にはちょっとした打ち合わせだと言って出て来た。三人の中の一人は住柿の妻だったのだが、不動産関連の打ち合わせだと思ったことだろう。
すでに店舗付きマンションは完成しているので、打ち合わせも何もないのだが、住柿は店内で着用していた紺色の法被をちゃっかり脱いで、ダサい私服に着替えていた。
先ほど妻に向かって、「お仕事中、申し訳ありませんが、ちょっとご主人をお借りしますね」と私が微笑みながら軽口を叩いたら、「はいどうぞ。何でしたら、朝までお貸ししますよ」と明るく返してくれた。
こんないい奥さんを今から裏切るのだがら、私の心は少し傷んだ。
タヌキオヤジの浮気の片棒を担ぐのだから、とんでもない行為だ。
ところが、助手席に乗り込んだ住柿はニヤついた顔で言ってきた。
「成田さん。あんた、いい仕事をするねえ」
逆に、まんまと奥さんを出し抜いたのがうれしいらしい。とことん下劣な人物だ。こんな奴と一緒に仕事をしているのかと思うと、自分でも情けなくなる。しかし、これも金のためだと割り切るしかない。金のための接待だ。いや、金以外の目的がある接待はあるのか?
住柿はポケットに売り物の線香を一本持って来ていた。
「うがいに使うイソジンの臭いとか、石鹸の匂いとか、女の子の香水の匂いが、わしの体に残っていたら、嫁にバレるだろ? だから、線香のニオイを体や服に染み込ませて、誤魔化すのだよ。この坊主頭に擦り込ませてもいいがな。はっはっは」
いつものそっとしているのに、なんでこんな細かいことに頭が回るのか。
どうしようもないタヌキオヤジだった。
もっとも、相手を騙すのはタヌキの専売特許だが。
私は店の女の子が先に行って待機しているホテルの前で住柿を降ろした。女の子に支払う料金は当然、私のポケットマネーだ。これが接待というものだ。一人分の奢りなんか、すぐに取り返せる。
「いやあ、成田さん、ありがとう。恩に着るよ。ではまた」
うれしそうに歩いて行く住柿の後ろ姿を見ながら、私は思った。
このオヤジはロクな死に方をしないだろう。
一人の坊主がいた。
名前を高北乗次といった。年齢は五十二歳。職業はフリージャーナリストである。
ジャーナリストになって初めての本を出した。タイトルを“ハンパない輩たち”という、半グレのことを書いたノンフィクション本である。初めて書いた本にしては、まずまずの売れ行きであった。
裏社会のことがリアルに書かれていると評判になったのだが、それもそのはず、ジャーナリストになる前、高北は長年、裏社会の人間だったのである。詳しいのも当然だ。あちこちに素人では関われないようなコネがある。そのコネを活かして取材を続け、一冊の本に仕上げたのである。
反社から作家への転職はときどき見られる。
転職のきっかけは組長から依頼された仲裁の仕事にあった。その仲裁に失敗したのである。ヘマをしたため、若い衆に示しがつかず、組を辞めざるを得なかったのである。
胡蝶蘭組の幹部だった高北は組長に頼まれて、敵対している二つの組、桃組と紅葉組の仲裁に乗り出した。何人かいる幹部の中で高北が選ばれた理由は、口がうまいとか、揉め事を解決するのがうまいといったことではなく、年齢がそこそこいったベテランヤクザだったことと、見た目ががっしりした体格で、いかつい坊主頭だったため、迫力があったのだ。
つまり、高北ならば、ハッタリが効いたのである。
この世界ではハッタリが必要不可欠だ。舐められた負けだ。
しかし、高北のハッタリは空振りに終わった。
高級料亭で、二つの組の組長が顔を合わせたのだが、二人とも高級そうな和服を着ていた。一方、仲裁役の高北は薄汚れたジーンズにジャンパー姿だった。しかも、二人の組長は高北よりもずっとベテランのヤクザで、高北よりもずっとおっかない顔をしていた。以前から顔を知っていたのだが、ウワサに聞く顔と、実際に近くで見る大迫力の顔面は大違いだった。
そして高北と違って、二人とも小指がなかった。
二人の組長に挟まれた瞬間、高北はその迫力に屈した。
業界では有名な人物のため、二人のことを知ってはいたが、まさか組長自らが仲裁の場に出てくるとは思わなかった。せいぜい幹部クラスだと踏んでいたのだが、このことは胡蝶蘭組の組長でさえ予想できなかったようだ。知っていたら、胡蝶蘭組も組長が乗り出して来ただろう。
敵対する組長が二人揃って、いったいお前は何をしに来たんだという目で睨み付けてくる。この神聖な場に、汚い格好で来るんじゃないと、目で訴えかけてくる。
しかし、ここでひるんではいけない。仲裁役の仕事を全うしなければ、うちの組長の顔に泥を塗ることになる。泥を塗られた組長は業界人から舐められる。
「元はというと桃組の組員がスナック内で紅葉組の組員をぶん殴ったと聞いてますが」
高北がそもそもの発端を訊く。負けないように二人の目を交互に睨みつけてやる。
「ああ、そうだ」桃組の組長が太い腕を組んで頷く。「すると、紅葉組から倍返しをされたわけだ」
一発殴ったら、二発殴り返されたということらしい。
「先に手を出す方が悪いだろ!」紅葉組の組長がいきなり気色ばむ。「その後、二発殴り返された野郎が、逆にうちの組員を倍の四発殴った」
「その後、そいつはうち組員を倍の八発殴っただろ」
殴る回数が倍になってくる。
「うちはその後、倍の十六発殴られたんだ!」紅葉組の組長が立ち上がる。
「なんだと、うちはその倍の三十四発だ!」桃組の組長も立ち上がる。
二人の組長が互いに見て来たようなウソを吐く。ハッタリ合戦だ。
しかも、最後は計算を間違えている。この殴り合いがきっかけとなり、スナック内で桃組と紅葉組との大乱闘が始まったらしい。
「まあまあ、お二人、お座りください」何とかなだめて、二人を席に座らせるが、
「最初に殴りかかった桃組の組員は空手使いらしいな。うちの組員は殴られて大ケガをした」紅葉組の組長がイチャモンを付けてくる。
「やり返した紅葉組の組員はキックボクサーらしいじゃねえか。うちは蹴られて大ケガだ」
「桃組の組員の中には柔道の有段者がいたらしいな」
「紅葉組の組員の中にはカンフーの達人がいたらしいじゃねえか」
「お前らは凶器のナイフを振り回しただろう」
「お前たちは青竜刀まで用意してたな」
「そっちはヌンチャクを振り回しただろう」
「そっちこそ三節棍を出してきただろう」
「三節棍って何だ?」
「よう知らんが、恐ろしい武器だ」
あまりにも幼稚な言い合いに、高北も唖然とする。これでも指定暴力団の老練な組長か?
「胡蝶蘭組よ、どう思うね?」いきなり桃組が訊いて来た。
「おお、そうだな。仲介役としての意見を聞かせてくれるか?」紅葉組も続く。
「どっちもどっちじゃないスかねえ」あまりにもバカバカしいため、俺は投げやりで答える。
「何だと!」「もう一回言ってみろ!」
二人の組長が大きな声を張り上げて激怒したと同時に、別室で待機していたそれぞれの組員がふすまを蹴り倒しながら、部屋になだれ込んで来た。
「おやじ、どうされました!?」
「組長、大丈夫ですか!?」
これだけの人数の組員がどこに隠れてやがったんだ?
今まで物音一つしなかったじゃないか。
桃組の先頭に立つ三人はなぜか頭に、それぞれ青と緑と赤のバンダナを巻いている。
あれはどういう意味だ?
反社にもファッションの波が押し寄せて来たのか?
最近の若いヤクザは何を考えているのか分からん。
そして、俺は大勢の組員に取り囲まれながら思った。
どう見ても仲介は失敗だ。
ここはみんなをなだめないと、俺の命がない。ヤクザとしての命と生物学的な命の両方だ。
これだけの人数じゃ勝てるわけないし、びっしりと囲まれているのだから、逃げ場はない。
一人の仲居さんが心配そうに部屋を覗き込んでいる。
腹も減ってることだろうし、何か食わせりゃいいか。満腹になれば文句も言うまい。
「まあまあ、皆さん、落ち着いてください。――仲居さん、取り敢えず、おビールを十本追加してくれ」
「何が、おビールだ!」「ふざけんな!」
ビールじゃダメか。
「仲居さん、おウィスキーとおカクテルとおジンも頼むわ」
「誰がオジンじゃ。全員、てめえより年下だぞ!」
「仲居さん、ワインも頼むわ」
「バカヤロー。俺たちがワインをたしなむ顔してるかよ!」
「だったら、仲居さん、ワインを取り消して、ハイボールとホッピーね」
「お前、ここに何をしに来たんだ!」「ここでバイトしてんのか!」
俺はたちまち高級料亭から追い出された。せっかくの高級料亭だというのに、何も口にすることなく、背中に罵声を浴びせられながら逃げ帰って来た。
奴らが飲み食いした料金は胡蝶蘭組に請求されることになっている。
あいつら、調子に乗って、飲まないと言っていたワインも空けていることだろう。店で一番高いワインを持って来させていることだろう。
「おーい、フグのフルコースを人数分持って来てくれー!」という声が聞こえてきた。桃組の組長の声だ。
奴ら、メシまで喰うつもりだ。しかも、フグだってよ。俺は何年も喰ってないわ。
だが、これは無理もないだろ。なにしろ、他人の勘定で飲み食いすると、自分で払うより、十倍くらいうまいからな。
いったい、いくら請求されるのだろう。
うちの組長が顔を真っ赤にして怒る様が今から目に浮かんで来る。
――ああ、帰りたくないのう。
俺は仲良くドンチャン騒ぎを始めた連中のバカでかい声を背中で聞きながら、トボトボと事務所へ向けて歩き出した。道行く人には、仕事でミスをした中年オヤジのように見えただろう。
しかし、桃組と紅葉組の怒りが胡蝶蘭組に向かったことで、偶然にも敵対していた二つの組のわだかまりは一気に解決してしまった。共通の敵を持ったことが幸いとなったのである。
結果だけ見れば、仲介役としての務めは十分に果たしたのではないか。
――結果オーライじゃないか。
二つの組は酒の席で和解したのだから、これでうちの組長も喜ぶかと思いきや、胡蝶蘭組は桃組と紅葉組から突き上げを喰らい、業界内で孤立してしまったのである。
仲介役があまりにもだらしなく、役目を果たしてなかったという理由からだ。
うちの金でさんざん飲み食いしやがったくせに、ずうずうしいことを言いやがる。
しかし、うちの組長も俺をかばってくれなかった。
「仲裁になんか乗り出さなければよかった。あんな組は敵対したままでよかったんだ」
こんなことまで言われる始末だった。
おまけに組長の息子大刃人が二度もコテンパンにやられた。
一度目は、ストーカーをしていた坊主頭の女性ダンサー、カレンのマンションの部屋の前で、暴力団有墓組のタクジによって、ナイフで首を切られ、瀕死の重傷を負った。
二度目は組長宅から出てきたところを何者かにより、手榴弾でドアごと吹き飛ばされた。これも有墓組の仕業とウワサが流れたが、確かなことは分からない。防犯カメラの映像が、空中に舞うホットケーキミックスで真っ白になっていて、何も見えなかったからだ。
だが、組長は両方とも有墓組がやったと思っていた。
組長の機嫌が悪いところに、高北から仲裁失敗の報告がなされたのである。
桃組と紅葉組と有墓組のせいで胡蝶蘭組は業界内の笑いものにされてしまった。
胡蝶蘭組の組長は二度に渡り、息子の大刃人を血祭りにされて、怒り狂っていた。
「誰か、うちの組に息子のカタキを討てる奴はおらんのか!?」
組長の悲痛な叫びに、高北は名乗りを上げた。
「俺が行きます!」
仲介の失敗を挽回するためには、行かざるを得なかったのである。たとえ、それが組長の私的な恨みを晴らすためであっても、隣に座ってるマヌケ面の息子のためであっても。
他の組員はしらけていた。なぜ、組織とは関係のないバカ息子のために体を張らなければならないのか? オクビには出さないが誰もがそう思っていた。
だから、高北が手を挙げたときには、みんなが驚いた。
しかし、鉄砲玉の立候補をしたはいいが標的を誰にするのかと高北は悩んでいた。
大刃人にケガを負わせた有墓組のタクジは服役中だ。
手榴弾を投げつけた犯人は、組でも警察でも探しているが分からない。
何のアテもなく、計画もなく、勢いだけで鉄砲玉を買って出たはいいが、これから先はどうすればいいんだ? 一日中考えても分からなかった。
しかし、その後はどうなってるのか。お前はまだ行動しないのかと組長からの催促はうるさい。こうなれば、手榴弾を投げた奴を、自分で探し出すしかない。カタギが手榴弾を用意できるわけないのだから、どうせこれも有墓組の組員の仕業だろう。
そう結論付けて、有墓組の周辺を探っていると、不穏な情報が入って来た。有墓組の組長の姿を長らく見ておらず、若頭の竜汽がいろいろな指示を出しているというのだ。
手榴弾の投げ込みと何か関係があるのかもしれない。
胡蝶蘭組が有墓組の組長をどうにかしたと思い込んだのかもしれない。
逆恨みで手榴弾を投げ込んで来たのか?
いや、組長の敵討ちなら、もっと大々的に動くだろう。手榴弾一発では終わってないはずだ。あれ以来、事件は起きてない。
――ならば、何だ? 何が起きてるんだ?
俺はヘブンアクアというクラブの前を通りかかった。有墓組が面倒を見ている店で、かなり繁盛しているというウワサだ。
何でも、ポールダンスという踊りが人気らしい。それがどういうダンスかは知らないが、組長の息子の大刃人がストーカーをしていたのが、そのダンスを得意としている女だ。女の名前はカレンというらしい。
なぜ名前が分かったかというと、店の前に立っているパネルに、ポールに掴まってダンスをしている写真と顔写真と名前が出ていたからだ。バカ息子が熱を上げるだけあって、確かにキレイだ。
タクジの女だったのだろうが、今もこうしてこの店で働いているということは、タクジとはまだ切れず、出所を待っているのだろう。今どき、けなげな女だ。
だが、もしかしたら、違う男とくっ付いたのかもしれない。相手は有墓組の関係者かもしれんな。タクジが出てきたら揉めるぞ。
そんなことを考えながら、俺はもっとよく見ようとパネルに顔を近づけた。
ほう、これがポールダンスというものか。このポールに巻き付いて踊るわけだな。よくこんなに足が開くものだな。まあ、スケベオヤジたちが足繁く通うのも無理はないな。だが、ライバルの有墓組の店だから、入りたくても入れんな。何とか、この店のケツ持ちをうちの組に変えられんかのう。
さらに顔を近づけて見ていると、店から三人の男が出てきて、俺の後ろを通り過ぎて行った。うまい具合にパネルにかぶりついて見ていたから、俺の顔は見られてない。スケベな中年男が店に入ろうか迷っているくらいに見えただろう。
そいつらは有墓組の若頭の竜汽と二人のボディガードだった。竜汽自慢のオールバックの髪はいつものようにキチッと整えられて、すでに夜だというのに乱れることなく、ポマードでテカテカに光っている。
だが、やはり組長の姿はない。竜汽と組長は常に行動を共にしていたはずだ。かなりの高齢だったから、もう死んじまったのかもしれない。奴らはそれをひた隠しに隠している? まさかな、武田信玄じゃあるまいし、あんな老いぼれの死を隠しても、業界には何の影響もない。有墓組なんて弱小の部類に入る組だ。
だったら、どういうことだろうな。
パネルに顔を寄せながら考えていると、今度は店から坊主頭の男が出てきた。
赤根じゃねえか!
ボディガードも付けずに一人で歩いて行きやがる。
――店の前に坊主が二人。
若頭の竜汽と組のナンバー3の赤根がこの店で何をやっていたのか?
俺は敵対する胡蝶蘭組の幹部だ。奴らにも顔はバレている。さすがに店の中にまで入ることはできない。
うつむいたまま、店の前を行ったり来たりしながら、もうしばらくスケベな中年オヤジのフリをして、この店を見張ることにした。最後に行方不明とウワサされている組長が出てくるかもしれないと思ったからだ。
しかし、いくら待っても出てくる気配はない。やはり、この世にいないのか?
さらに三十分ほどウロウロしていたが客足は途切れない。この店が組の大きな資金になっていることは間違いないようだ。
やがて一人の女が大きなバッグを持って出てきた。――パネルの女、カレンだ。
おそらく仕事が終わって出てきたのだろう。
カレンは客待ちしているタクシーに目もくれず歩き出す。駅とは逆の方向だ。タクシーにも電車にも用はない。つまり、歩いて帰れるところに住んでいるのだろう。
俺は後をつけることにした。特に目的はない。この店の稼ぎ頭だから、組の者とも親しいだろう。住まいを知っておけば何かの役に立つかもしれないと思ったからだ。
ヘブンアクアはまだ営業中だったが、この日カレンはたまたま私用で早退していた。
近々行うライブの打ち合わせのためだった。
この偶然の巡り合わせのため、カレンは高北に自宅を知られることになる。
ブティックの店員七岸留華とアーティスト江良須サチルは公民館を借りて、子供たちを相手に無料ライブを行うことにした。
留華がエレクト-ンを弾いて、エラスが歌うというコラボライブである。
二人とも子供が大好きで、店員と客同士でいつかライブができればいいねと話していたのだが、思っていたよりも随分と早く実現することになった。
予想以上に多くのカンパが集まったことと、公民館を格安で貸してくれることになったためだ。観客が地元の子供たちと保護者ということで通常料金よりさらに安くしてくれたのだ。
いつもは小さな幼稚園へ出向き、ボランティア演奏している留華だったが、今回は大きな公民館だ。プロのミュージシャンであるエラスは大きなホールも慣れていると言っているが、留華は素人だ。いつもと違って、大きな緊張感と戦わなければならない。
子供とその家族を無料で招待するのだが、もうすでに予約で席は一杯になっている。さすがにこの客層だから、エラスはステージに二つの仏壇を設置するようなことはしない。カンパのお金は公民館の使用料や機材の運搬、エラスのスタッフへのギャラなどで消えた。二人はボランティアとして参加するため、ノーギャラだった
留華は事故に遭って意識不明だった母の回復を願いお百度参りをし、願いが叶うように頭を坊主にしていた。またエラスは自分のアーティスト活動の世界観に合わせるために髪を切り、坊主頭になっていた。
いきなり二人の坊主が現れたら、幼児たちは怖がって、泣き出すのではないかと考えて、当日は二人とも頭にバンダナを巻くことにした。
留華は青の、エラスは赤のバンダナを用意していた。
演奏して歌う曲は子供相手のため、どうしてもアニメソングが多くなる。
「留華さんはいいけど、私はアニソンという柄じゃないんだけどねえ」
エラスは愚痴るが、うれしそうな顔をしている。
「童謡も何曲か入れようと思ってます」留華が言うと、
「童謡!?」エラスの声が裏返った。「もしもしカメよとか?」
「ハトぽっぽとか」「チューリップとか?」
「ブンブンブン蜂が飛ぶとか」「カラスが鳴くから帰ろとか?」
エラスは坊主頭をガリガリと掻いた。世界観があまりにも違い過ぎたからだ。なんと言ってもこっちは仏壇の間を行き交うレーザー光線の世界だ。魂の昇華の世界だ。
でも、歌手として活動をしているのだから、子供たちには笑われないようにしっかりと歌い上げよう。有名なアニソンとか童謡は子供のころ、私も一度は口ずさんだことがある。今から覚えるわけではないので、なんとかなるだろう。
午後二時にコラボライブは開演する。その一時間前から会場の公民館は最終準備のためにドタバタしていた。
裏手にある大きな搬入口が開かれ、数台のマイクロバスが横付けされた。
待ち構えていたスタッフとともに、医療関係者が駆け寄って行く。それぞれのバスの後部が開いて、中からも医療関係者が出てくる。両者が協力して、数台のベッドが順番に公民館へと搬送されていった。
運営スタッフを交えて、留華とエラスが最後の打ち合わせを始めようとしているとき、控室に一人の女性が大きなバッグを持って入ってきた。
「ごめんなさい。遅くなりました」
ポールダンサーのカレンだった。
エラスが友人のカレンを誘ったのである。
「最後の打ち合わせはこれからだから大丈夫だよ」
エラスが、走って来たため息切れをしているカレンにやさしく声をかける。
もちろん、カレンもノーギャラのボランティアとしての参加だ。カレンは刑務所にいる恋人のタクジが、一日でも早く出られるようにと願を掛けたため、今は坊主になっている。
母の回復を願って坊主になった留華。
独特の世界観から坊主になったエラス。
カレン、留華、エラス。
――公民館に坊主が三人。
さすがにステージ上にはエラスの仏壇はないが、カレンのためにポールが設置されていた。いつもはスケベな中年オヤジを相手に踊っているが、今日のお客さんのメインは子供だ。おそらく子供たちは生まれて初めて、間近でポールダンスを見ることになるだろう。もしかして、ポールダンスを知らない子供の方が多いのかもしれない。
小さな目を大きく見開いて、その華麗な技に子供たちが見惚れている姿を、ダンサーカレンは今から想像して、誰よりもワクワクしている。
大きなバッグから衣装を取り出し、着替え終わったカレンは、幕を下ろした状態のままのステージに上がり、ポールの具合を確かめながら、最後の練習を始めた。子供と保護者に見てもらうため、いつもと違って露出が少なめの衣装だ。頭には黄色いバンダナを巻いている。
すぐに体が温まった。体調は万全だし、照明と音響などはすでに調整済みだ。この日のために、何度かヘブンアクアを早退させてもらって、打ち合わせを続けて来たのだ。
それにしても、アニソンと童謡に合わせて、ポールダンスを踊るって?
――面白すぎる。
誘ったエラスさんも参加する私もどうかしている。
でも、世界初の試みに違いない。マスコミが取り上げてくれないかなあ。
カレンは笑いそうになりながら練習を繰り返した。
やがて、開演の時間を迎えた。
スタッフを含めた全員で円陣を組んで、誓い合った。
「全力で、悔いなく、エレクトーンと歌とダンスで子供たちをハッピーな気分に!」
「ハッピーな気分に!」
午後二時。ステージの幕が開いた。いきなり中央に設置されたポールに逆さまになってぶら下がってるカレンを見て、子供たちは驚いたが、すぐに盛大な拍手と大きな声援が送られた。
いつもは野太いオヤジの声援だったが、今日の声援は甲高く、かわいい。
カレンも演技を行いながら、顔から笑みがこぼれそうになる。
カレンのパフォーマンスに合わせ、留華がエレクトーンを使って、即興で音を付けていく。会場はダンスとエレクトーンで大盛り上がりだ。
カレンが一回目のダンスを終え、幕の袖に下がると、今度はエラスが登場して、歌を歌い出す。一曲目は国民的アニメの主題歌だ。たちまち子供たちも一緒に歌い出したが、一息ついているカレンは、エラスがまったく似合わない歌を歌い出したため、舞台袖で笑い転げている。それを横目で見たエラスは一瞬、カレンを睨みつける。もちろん冗談で。
パフォーマンスを行う側も楽しまないと、お客さん側も盛り上がらない。
エラスは子供たちがよく知っているアニメ曲を立て続けに三曲歌うと、カレンと交代した。カレンは先ほどよりもさらに難易度の高いダンスを繰り広げ、大きな拍手を受けている。
その後、エラスは童謡を歌い出した。これもまたいつものエラスとは真逆の歌だ。だが、子供たちは大喜びだ。保護者や数人いる年配の人たちも楽しそうに口ずさんでいる。
今までのアニソンはさっぱり分からなかったのだが、童謡ならみんな歌えるだろう。子供たち、お母さんお父さんたち、おじいちゃんおばあちゃんたち、三代に渡って会場を盛り上げてくれている。
エラスの歌とカレンのダンスが交互で登場するというパターンを五回繰り返したあと、ステージ上に留華、エラス、カレンの三人が揃った。
それぞれ、頭に青、赤、黄のバンダナを巻いている。
留華は舞台袖に引っ込むことなく、二人に合わせて、エレクトーンを弾き続けている。
三人が揃い、会場が大いに盛り上がってきたとき、何を思ったのか、エラスがアニソンでも童謡でもない曲を歌い出した。自分の持ち歌である。留華は驚きながらも歌に合わせて、エレクトーンで追いかける。
唖然と立ち尽くすのはダンサーカレンである。
エラスが歌っているのは、心が震えるとか、魂がどうしたとか、因縁を断ち切るとか、子供どころか、大人でさえよく分からない歌だからだ。
こんな場所で歌う歌ではない。聞いているお客さんはさっぱり分からないだろう。さっきまでの盛り上がりが、たちまち萎んで行き、会場内が静かになる。
――これはエラスさん、やっちゃったな。
そうカレンが思ったとき、手拍子が始まった。みんなは歌詞を知らないため、手拍子で参加してくれているのだ。最初はパラパラと鳴っていた小さな波のような手拍子だったが、それはしだいに大きくなり、すべての子供も大人も老人も巻き込み、会場全体を揺らし始めた。
――えっ? 盛り上がってきた。なんで?
やがて、子供たちが大きな声で叫び出した。
その声は呆然とステージの真ん中で立っているカレンに向かう。
――えっ、私?
エラスの訳の分からない歌に、留華は即興で伴奏を付け、観客は盛り上がっているのに、ダンサーは何をやっているのかというメッセージだ。
戸惑いながらもカレンは踊り出す。
さっきはエラスのアニソンを笑っていたカレンだったが、逆にエラスから笑われる。
――歌いながら笑うとは器用な女性だ。
三人が一体となったパフォーマンスが再び始まった。
カレンは踊る。二人に負けないように。
そして、刑務所に服役しているタクジに思いを飛ばす。
タクジ、すごいよ。みんな喜んでくれてるよ。パフォーマンスは年齢も性別も関係ないんだ。そんな簡単なことを私は忘れていた。二人に先を越されちゃったよ。ダメだ。ダンサーとしてまだまだだ。でも、タクジが出てくる頃には、もっと成長しているからね!
留華は演奏しながら、会場の後方にいる子供たちに目を向けた。
そこには立ったり、座ったりすることができない子供たちが縦に並べられた五台のベッドの上から声援を送ってくれている。それは介護用のベッドで半分が電動でせり上がるようになっている。そこにいる子供たちは上半身だけ起こして、ステージを見つめているのである。
病院からマイクロバスに乗って、ベッドごと運ばれてきた五人の子供たちは裏手の搬入口から会場へ入り、医療関係者が付き添って、ライブを楽しんでいた。
留華はその中の一人の女の子を見た。薬の副作用のためか、坊主頭である。隣には母親らしき若い女性と看護師らしい年配の女性が付き添っている。
留華はエレクトーンを離れると、エラスとカレンの元に近寄った。
三人はそれぞれ、青、赤、黄のバンダナを外して、ポケットに仕舞った。
女の子とカレン、留華、エラス。
――公民館に坊主が四人。
女の子がベッドの上から三人に向けて、片手を突き上げて、笑った。
ここから三人揃ってのパフォーマンスを次々と繰り広げた。エラスのスタッフも公民館の関係者もみんな、高い天井に向けて、手を突き上げる。
会場は今まで以上の興奮に包まれた。
暴力団有墓組の幹部、赤根浩志郎は通りかかったセダンの前に飛び出し、強引に止めた。急ブレーキをかけて止まった車の運転席の窓からスーツ姿の若い男が顔を出した。
「おい! 危ねえじゃないか。これはタクシーじゃ……」
だが、坊主頭で迫力のある赤根の顔を見て、たちまち威勢が萎んだ。
「な、なんですか?」
「兄さん、急に悪いな。タクシー代わりに乗せてもらおうというわけじゃないんだ。ちょっと訊きたいことがある」
「あっ、はい。何でしょうか?」
若い男は危害を加えられないと分かって、ホッとした顔になる。
「この車にドライブレコーダーは付いてるな」赤根が車内を覗き込む。
「はい、この通りです」男は目の前を指差す。
「あんたはいつもこの時間、ここを通るのか?」
「はい。残業が終わって、毎日この時間に通りますが」
「ちょっと思い出してほしいことがある。今月四日の今の時間だ。その日もこの道を通ってるか?」
「はい、四日は平日で仕事がありましたから通ってます」
「そのときのドライブレコーダーを見せてくれるかい?」
最近のドライブレコーダーは進化している。自動的に長時間映像が保存されるようになっている。多発するあおり運転への対策のため、メーカーがそのように開発を進めてきたためだ。そのことをアナログ人間の赤根も知っていて、車を止めたのである。
「お見せすればいいですか?」
「ああ、見るだけだ。俺が見た後は、あんたにもこの車にも用はないから、そのまま安全運転で帰ってくれればいい。それと、このことは誰にも言わないでいただきたい」
「はい。それはもう、お約束いたします」
やっと事情が呑み込めて緊張が解かれたようだ。
「そうか、悪いな。ここでは邪魔だから、車を脇に寄せてくれるか」
見せるだけでいいと言われた男は車を道の中央から移動し、ドアを開けて、赤根を車内に呼んだ。
赤根はこの時間帯に走ってる車を片っ端に止めては、こうして聞き込みを繰り返した。もちろん脅しはしないが、赤根の風体から勝手に先方が怖がってくれて、録画を見せてくれた。
この日は近くのビルの管理人室にも聞き込みを行った。定年後、アルバイトで管理人をしているという初老の男性に防犯カメラの映像を見せてくれるよう頼んでみるが、やんわりと断られた。
赤根の恐ろしい風貌にも屈しない骨のある男であるが、規則で関係者以外には見せてはいけないことになっているという。――そりゃそうだろう。
だが、ここで諦めるわけにはいかない。いくら仕事熱心だからといっても、何か弱みがあるはずだ。そこを狙って追い込んでいく。ヤクザもんの真骨頂だ。
「あんた、ここの給料はいくらもらってるんだい?」
俺は管理人室の窓越しに話しかける。
まずは金から攻めてみる。金じゃなければ酒だ。酒でもなければ女だ。女じゃなければ家族だ。人間の弱点なんぞ、だいたいこの四つだ。――他に何がある?
だが、相手の家族をネタにして脅しにかかるのは任侠道ではなく、外道のすることだ。赤根の主義に反する。もし、金でも酒でも女で動かなければ、きっぱりと諦める。
防犯カメラは他の場所にも設置されているだろうから。
「えっ、給料ですか? まあ、だいたい十五万ほどですが」
渋々、答えてくれる。
なぜか?
給料に不満があるからだ。
こいつの弱点はズバリ、金だ。
そうと分かれば、落とせる。
「だったら謝礼として、二十万払おう」
「えっ、二十万円ですか!? 防犯カメラの映像を見せるだけで二十万円ですか? 今ここでですか?」
男が二十万円という金額を繰り返したのは、聞き間違えたかもしれないと思ったのと、本当に二十万円をくれるのかと確認したからだろう。やはり、こいつは金で動く。
「そうだ」赤根はセカンドバッグから百万円の札束を右手に掲げて見せる。「ここから抜き取ってくれればいい」
「いえ、そんなことはできません」と言いながら札束を凝視している。
「もちろん、あんたの雇い主には言わない。言えば俺も不利になる。あんたと俺だけの秘密だ。しかも、一回だけでいい。これから何度も見せろということはない。今ここで見せてくれたら、二度とここには来ないことを約束する」俺は札束を男の目の前に示す。
「急に言われましても……」
「俺は約束を守る。つまり筋は通すとうことだ。俺たちの業界の掟だ」
業界と言っただけで、反社に属する人間だと分かっただろう。当然、組の名前を出すようなことはしない。名前を出すだけで脅迫になってしまう。世知辛い世の中になったもんだ。
落とせると睨んだ赤根は管理人を追い込む。
管理人の目は泳いだままで定まらない。頭の中は葛藤しているに違いない。
――あと一歩だ。
「二十万じゃ足らないから、もっと払えということか? 三十万か? 四十万か?」
「いえ、そういうわけではありません。ビデオを見せて差し上げるだけで二十万円とは、逆に多すぎると思ったもので……」
何か裏があると思ったらしい。無理もない。俺のこの顔を見れば誰もがそう思うだろう。
安易に受け取ってしまい、後から脅されるとでも思っているのだろうか。
金を持ってない奴を脅すはずがないのだが、そこまで頭が回らないのだろう。
だが、このオヤジは間違いなく、金を欲しがっている。
「だったら、いくらなら取引をしてくれるんだ?」
そう言って、管理人の胸の名札を凝視する。あんたの名前を覚えたというアピールだ。せこいやり口だが、パクられない程度のちょっとした脅しも必要だ。
「三万円くらいなら」ボソリと言った。男が落ちた瞬間だ。
「なんだ、少ないな。その三万はどこから出た金額だ?」
「はい。私の一か月の食費です」
「だったら五万でどうだ。今月はいい物を喰えよ」
「うーん」
管理人はしばらく考えているが、ここでは急かさずに返事を待つ。名札を睨んだまま。
「はい」意を決した表情を見せる。「では五万円ということで。くれぐれもビルの関係者には内緒ということでお願いします」頭を下げてくる。
「分かった。だが、俺のことも内緒で頼むぞ」
「はい、そりゃ、もう約束いたします」
赤根は五万円を抜き取ると、管理人の目の前に滑らせた。管理人は左右をキョロキョロと見渡してから、札を掴むと、しっかりと枚数を数えてから、深々と頭を下げて、ズボンのポケットに捻じ込んだ。取引はまんまと成立した。
「――で、いつの録画をお見せすればいいですか?」
「今月四日のものだ。時間は夜の十時以降だ」
赤根は他にも近隣の民家や商店に設置されている防犯カメラを探して回り、見せてくれるように交渉した。もちろん、このときも警察に通報されない程度に、いくらかの金と現役ヤクザもビビる強面を有意義に使った。アメとムチというやつである。
やがて、このしつこく強引な努力は実を結ぶことになる。
数日後の昼過ぎ、赤根は駅のコインロッカーにエコバッグを入れ、鍵をかけると、近くの公園に向かった。
この時間、公園は閑散としている。サラリーマンの昼休みは終わり、子供を遊ばせていた母親たちや散歩をしていた老人も家に帰っている時間だからだ。
赤根は入口から入って一番奥にあるベンチに腰掛けた。格好はスーツ姿だ。坊主頭で人相も悪いが、サラリーマンに見えなくもない。一応、あたりを見渡してから、スマホを取り出した。
「印堂さん、赤根です」
「おお、赤根か。久しぶりじゃねえか」
馴れ馴れしいが、ドスの効いた声が返って来る。マル暴刑事にありがちな厳つい顔を思い出す。顔がアレだから刑事になったのか、暴力団員を相手にしているうちにあの顔になったのか分からないが、裏でやってることはヤクザも顔負けだ。
「大事な話があります」俺は挨拶もほどほどに要件を繰り出す。
「分かった。ちょっと待ってくれ」
ありがたいことに、“大事な話”だけで通じる。どうやら場所を移動するらしい。
しばらく待たされてから、カチッと音がした。署の建物から中庭に出て、ライターでタバコに火を付けたのだろう。署内は全面禁煙のため中庭が喫煙場所になっている。ちょっとタバコを吸って来ると言って、席を外して来たのだろう。
「おお、いいぞ。どういったことだ?」依頼を受ける気が満々である。
「陸運局の件です」これで十分通じる。
「見返りはなんだ?」話が早い。
「拳銃が一丁」ズバリ言ってやる。
「ほう、でかいな。弾じゃないんだな」喜んでいる。
「違います。本体です」弾丸なわけはない。せこい取引はしない。
「ふっ、本体か」どうやら、本体という表現を聞いて笑ってるらしい。「でかいということは案件が多数あるということだな?」
「いいえ。一件だけ調べてもらえればいいです」好条件だろう。
「赤根よ、お前、何を企んでる」だが、疑ってくる。「やけに気前がいいじゃねえか」
「何も企んじゃいませんよ。印堂さんにはいつも世話になってますから」明るく言ってやる。
「分かった。詳しく聞こうか」すでに引き受けたということだ。
赤根は陸運局の件の詳細を話す。印堂はメモを取っているようだ。
「明日には連絡ができる。――ブツはどこだ?」拳銃本体からブツへと呼び名が変わる。
赤根は駅のコインロッカーの番号と鍵の在りかを説明して電話を切った。
ロッカーの鍵は、今座っているベンチの裏にテープで貼り付けた。
印堂刑事が引き受けてくれることは分かっていた。以前から印堂と反社の人間はズブズブの関係になっている。この先はどうなるのか、こっちが心配になるほどだ。
こうやって幾度となく、情報や物のやり取りをしてきた。ヤクザとマル暴刑事による持ちつ持たれつの関係だ。昭和に始まったこの関係は令和の時代になっても、まだ続いている。両者の間には需要と供給があるということだ。
拳銃の一丁くらいいくらでも調達できるのだが、有意義に使わなければならない。特に今月は拳銃の摘発月間だと聞いている。警察にはスピード違反の取り締まりといったような署内キャンペーンがたびたびある。ノルマ達成のために、一丁でも多くの拳銃が欲しいところだろう。ボーナスの査定にも響く。だから、この時期は多少の融通も効く。
見返りはブツとは限らない。ときとして、少なくない金が動くときもある。刑事という人種は大嫌いだし、向こうも反社なんて大嫌いだろうが、バレなければ両者ともに得をするというわけだ。英語で言うとウィンウィンの関係というやつだ。
印堂はそのお陰で一刑事とは思えないほどの高級車を乗り回しているし、高級クラブに入り浸っている。何も知らない同僚には何と説明しているのだろうか。株でもやって儲けているとでも言っているのかもしれない。
しかし、仕事はできる。つまりキャンペーンの成績がいいので同僚も上の人間も見て見ぬフリをしているらしい。反社とのズブズブの関係も薄々、気づかれていることだろう。
赤根はゆっくりと立ち上がった。うまく取引が進んだことで気分もいい。
公園を出るとき、もう一度ベンチを振り返った。
印堂がロッカーの鍵を見つけてニヤニヤしている姿を想像して、笑いが込み上げてきた。
仏像工房村中に赤根はいた。
半年前、左胸に携帯できる十二センチほどの仏像を彫ってもらった工房だ。さらにここから紹介してもらった神丘仏具店で、黒オニキス製の般若心経が彫ってあるブレスレットを買い、今も愛用している。
「これは赤根さん、ご無沙汰してます」
町田は顔と名前を覚えてくれたようで、彫刻刀を傍らに置くと、いつもの紺色の作務衣姿で、出迎えてくれた。
今まで高さが五十センチほどの不動明王を彫っていたようだ。立ち上がったとたん、作務衣から木くずがパラパラと落ちる。以前も見た光景だ。
傍らで寝転んでいた白ネコが首だけをもたげて、こちらを見た。ネコも元気そうだ。この子も顔を覚えてくれていたのだろうか。
――工房の中に坊主が二人。
「それは、なかなか立派な不動明王ですね。火炎光背が非常に細かく彫られてますね」
赤根は作業台の上に置かれた製作中の仏像を見つめる。
町田は赤根の口から火炎光背という専門用語が出てきたので少し驚く。
「ああ、これですか。光背の部分に細かい注文を付けて来たお客さんがいらっしゃったもので、かなり時間がかかってしまいます。いやあ、いろいろなお客さんがいらっしゃいますね。――赤根さん、ご注文の仏像はできております」
棚から三十センチほどの観音像を出してくれた。
一週間前に電話で頼んでいた仏像だ。代金は振り込みで支払った。郵送で届けると言われたが、直接受け取りに行くと言って断った。
赤根は包みを解き、観音像を確認する。
「ほう、こちらも素晴らしい出来栄えですね」
今回もいい仕事をしてくれている。
「はい。ありがとうございます。心を込めて彫りました。――ところで、今回、赤根さんはなぜこのような観音像をご希望されたのですか?」
「うちのオヤジが亡くなりましてね」
「えっ、そうですか。それはご愁傷さまです。では、ご供養ということですか?」
「そうではない。これはまた違う人の供養のために彫ってもらったんだ」
誰の供養なのかは話さず、赤根は観音像をふたたび丁寧に包み直した。
町田もそれ以上は訊かないで、話題を変える。
「最近、神丘仏具店の住柿さんからよく電話が来ます。数珠ブレスの売れ行きが好調のようですよ」
「この黒オニキスのブレスですか。職場で私が付けてるのを見て、買う人が増えたようですね」
手下の組員が買いに行ってるのだが。
赤根が付けているのを見て、その後、マネをする組員が増えて、黒オニキスブレスが組のトレンドになっていた。
「住柿さんの店を紹介した者として、私もうれしいですよ」
今日も赤根は手首に般若心経が彫られた数珠ブレスをしていた。
「工房の中を少し見学してもいいですか?」
「はい。もちろんです」町田は大小たくさんの仏像に囲まれて仕事をしている。「ご自由にご覧ください。お気に入りの仏像がございましたら、お申し付けください」
値段が書いている仏像があれば、値札がないものもある。値段は交渉次第ということだろうか、それとも値段を付けられないほど価値のある仏像なのだろうか。
「勝手に拝見しますから、私に気を遣わず、町田さんはそのまま仕事を続けてください」
赤根は包んだ観音像を仕舞わないで、バッグの上に乗せたまま、工房内をゆっくりと歩き出す。
やがて、両手に手袋をはめた。窓から差し込む淡い光が白い手袋を浮き上がらせる。
町田は言われた通り、見学する赤根を気にすることなく、座り込むと、彫刻刀を手に取り、先ほどの不動明王を彫り始める。そろそろ光背が仕上がる頃だ。
赤根が歩く足の音。町田が彫る木の音。白ネコがエサを咀嚼する音。
工房内に静かな時が流れる。差し込む陽はやさしい。
「町田さん」赤根が突然、口を開く。「江戸時代は仇討ちが合法化されていたのですよ」
「仇討ち……ですか?」町田は手を止めずに返事をする。「ああ、時代劇でよく出てきますね。白装束を着た娘が父親の仇討ちをやるという話ですが、たいていは失敗して、主人公の侍に助太刀してもらうというパターンですね」
町田はなぜ赤根が仇討ちの話を持ち出したのか分からないまま不動明王を彫り続ける。
「だが、明治になって、仇討ち禁止令が布告されて以来、非合法になった」
「ほう、そうですか。明治と言えば、まだ最近のことですね」
町田はうつむいたままだが、いったいこの人は何の話をしているのかと困惑している。
「町田さん、私のオヤジをどこに埋めたのですか?」
町田の手が止まった。
町田が顔を上げる。目は天井の梁の辺りを見つめている。
赤根はさっきこう言った。
“うちのオヤジが亡くなりましてね”
私のオヤジではなく、うちのオヤジと赤根は言った。風貌からして赤根は反社だろう。つまり、オヤジというのは父親のことではなく、組長のことか?
そして、町田は突然、気づいた。
――横断歩道でぶつかったあの老人は、赤根が所属する組の組長だったのか!?
仇討ちの話を始めた意味も分かった。
赤根は組長の仇討ちをするために、ここへやって来たのだ。
注文した観音像を郵送ではなく、直接受け取りに来たのはそのための口実だろう。
――そうか。
証拠を残さないように、さっき手袋をはめたのか。
この工房には防犯カメラなど設置していない。のどかな田舎に強盗や泥棒が現れることは想定してなかったからだ。つまり、指紋さえ残さなければいい。
完全に手を止めた町田の頭が素早く回転する。
言い逃れをするために。命を奪われないために。
――なぜ、ここだと分かったのか? なぜ、私だと分かったのか?
あのとき目撃者はいなかったはずだ。いや、もしかしたら誰かに見られていたのかもしれない。まさか、探し出したというのか?
あたりに防犯カメラもなかったはずだ。しかし、私が気づいていないだけで、近くに防犯カメラが設置されていたのかもしれない。それを丹念に調べたというのか?
確かに事故後、数台の車が通った。それらの車も調べ上げたというのか?
だとしたら、どうして私の車だと分かったのか?
そうか。この人は特殊な業界にいる。何らかのコネを使って、車種とナンバーから割り出したのかもしれない。そういう裏の仕事を引き受ける人がいるのだろう。
いや、待てよ。あのとき事故を起こした車も、しばらく遺体を寝かせていた家も売却した。遺体も私しか知らない場所に埋めておいた。――物的証拠は残ってないはずだ。
大丈夫だ。ごまかせる。
町田は後ろを振り向いた。
赤根が立っていた。
手にはオレンジ色のプラスチック片が入ったグラスを持っていた。
破損したウィンカーの破片だった。
棚の上に置いていたものを見つけたらしい。
町田は思わず、目を横に逸らした。
赤根のバッグの上に置かれた観音像が目に入った。
オヤジ……、仇討ち……、違う人の供養のために彫ってもらった……。
そうか。
私自身のための供養だったのか。
――やがて工房の中の坊主は一人となった。
コラボライブを終えたダンサー、カレンは興奮が冷めやらぬまま、家路を急いでいる。
先ほど、駅を出たところで、チラッとあの男を見かけた。最近、仕事終わりに後を付けられているような気がして、ときどき振り返ることがある。そんなとき、何度か見かけたのは坊主頭の中年男だ。今日もその男に付けられているような気がする。
働いているヘブンアクアのバックには指定暴力団有墓組がいる。あの男は身なりからすると同業者のように見える。まさか有墓組の組員ではないと思うのだが、今度タクジの所へ面会に行ったときに相談してみよう。業界は狭い。たとえ違う組の人でも特徴を説明すると、何者かが分かるかもしれない。
カレンは後ろを気にしながらマンションへ早足で歩いて行く。ポールダンス用の衣装が入った大きなバッグを肩からかけている。このあたりは人通りが少ない。誰かにつけられていたら、すぐに分かるだろう。
尾行はされてないようだが、一応、左右を見渡してから、マンション入り口から入る。オートロックが付いているような高級マンションではないため、そのままエントランスを突き抜けて、エレベーターに乗る。
ドアが閉まる寸前も注意をしたが、駆け込んでくる人はいなかった。
五階で下りて、廊下の角を曲がった。
部屋の前に黒いジャンパーを着た坊主頭の男が立っていた。
あの男だった。先回りをされていた。
――暗い廊下に坊主が二人。
「カレンさん、こんばんは」
男がドスの効いた声で挨拶をしてきた。
私の名前を知っている。かつての大刃人のようなストーカーかもしれない。
「ここは私の部屋ですけど、何か御用ですか?」
立ち止まって睨みつけてやる。なぜ、名前を知ってるのかは訊かない。店の前には私の写真が載った大きなパネルが立ててある。それを見れば名前も載っている。きっと、それを見たに違いない。
肩からバッグを下ろし、すぐに逃げられる体勢を取る。いざとなれば、バッグは置いて行く。どうせ衣装だけで、身分証などは入れてない。
エレベーターがそのままなら乗り込むこともできるが、ドアが閉まる寸前に入って来られたら危険だ。ならば、階段だ。階段を駆け下りれば、この中年男は若い私について来れないだろう。五階から一階まではかなり下りることになるが、職業柄、足腰には自信がある。駆け下りながら警察に電話をすればいい。エレベーターが先に一階へ着いていれば、また階段を駆け上がってやる。追いかけっこだ。そのうちにパトカーのサイレンも聞こえてくるだろう。
――とっさにここまで考えた。
だが、男は目の前に立ったままだ。
「有墓組の方ですか?」
違うと思うが、一応訊いてみる。
有墓組なら味方だ。私はヘブンアクアのスターダンサーだ。有墓組の関係者なら、稼ぎ頭の私を傷つけたりしないはずだ。タクジの兄貴分である赤根さんとも顔見知りだ。組幹部の赤根さんの名前を出せば引き下がるはずだ。
「いや、そうではなく胡蝶蘭……」
男は口を滑らせた。ドン臭いオヤジだ。
「ああ、敵対する胡蝶蘭組の組員の方ですか。こんな遅くにわざわざ自宅までご苦労様です」皮肉を言ってやる。「堅気の私に何のご用でしょうか?」
私の住まいを、なぜ知っているかとは訊かない。これ以上、話を長引かせたくないからだ。
どうせ、何度か尾行して、あらかじめこの部屋を突き止めていたのだろう。
この街ではすっかり有名なダンサーになっていて、しかも、女性の一人暮らしなのだから、
もっと気を付けるべきだった。今さらながら、無防備だったことが悔やまれる。
「カレンさんは有墓組のみなさんと仲良くされてますか?」
男は質問に質問で返してくるが、質問の意図がよく分からない。
確かに、私が働いているクラブのバックにいるのだから、仕事上、有墓組の皆さんとは仲良くしている。おそらくこの男は私から何らかの情報を得ようとしているのだろう。
残念ながら、ライバルの組に渡してあげられるような有益なネタなんか持ってない。ただの女性ダンサーにそんなことを話すわけはない。服役中のタクジも普段は決して仕事の話はしなかった。あの業界はそんなものだろうと思っていたのだが、この男は素人の私から何を訊き出したいのか?
もしかしたら、クラブの世話を胡蝶蘭組で請け負いたいと思っているのかもしれない。あれだけ繁盛しているのだから、金に卵を産むニワトリにでも見えたのかもしれない。だったら、私ではなく、森林店長のところにでも行けばいい。
有墓組のみなさんと仲良くしてるのかという訳のわからない質問なんか無視してやる。
「何もお話しすることはありません。私はただの女性ダンサーであって、女性組員ではありませんから」
からかってやる。暴力団に女性組員なんていないだろう。
「ちょっと訊きたいことがあるんだが」男はボソッと言う。
「有墓組のみなさんに直接訊けばいいじゃないですか。――聞く勇気はないのですか?」
また皮肉を言ってやる。
「――何だと?」怒気を含んだ声に変わった。
「そこをどいてください。胡蝶蘭組のヒマな組員さん。もしかして、ストーカーさんですか? 痴漢さんですか? 変態さんですか?」
男の表情が一変した。
「あんた、俺をバカにしてる?」
そう、バカにしている。
男が向かって来た。
私の自慢の足は意に反して、竦んでしまった。
――やがて、暗い廊下に坊主は一人。
胡蝶蘭組の高北が急ぎ足で歩いている。街灯の下で立ち止まり、来ているジャンパーとズボンを確認する。ジャンパーは黒くて分からないが、カーキ色のズボンに血の跡はなかった。
――どうやら大丈夫のようだ。
高北は小さな川を見つけると、血の付いたナイフを投げ込んだ。
そのとき、ちょうど三人の男たちが角を曲がって来た。
まさか、見られてないだろうな。
高北はうつむいたまま、三人とすれ違う。
「高北さん、こんなところで会うとは奇遇だな」
ビクリとした高北が顔を上げた。
有墓組の若頭の竜汽が二人のボディガードを連れて歩いていた。
「ああ、竜汽さんか」高北は冷静さを取り戻そうと小さく息を吐く。「こんなところで三人揃って、何をやってるんだ?」
「ここはうちのシマなものでね」
竜汽はニヤリとする。オールバックの髪はきれいに整えられている。
「ああ、そうだったな」高北はまだ動揺している。いつの間にか、敵対する組の縄張りに入り込んでいたことに気づかないとは。
「不届き者がいないか見回りをしてるんだよ」またニヤリと笑う。
「それはご苦労だな」お前が不届き者じゃないかと心の中でつぶやく。
「高北さんこそ、うちのシマで何をやってるんだね?」
「いや、まあ、友人に会った帰りだ。――じゃあ、急いでるので」
「ああ、最近は物騒だから気を付けてな」
高北は走り出しそうになるのを我慢して、ゆっくりと歩く。背中に三人の強烈な視線を感じるが、振り向くわけにはいかない。
小声でつぶやく。
「お前らのような奴がいるから、世の中は物騒なんだ」
高北が遠ざかったところで、竜汽がドスの効いた声でボディガードの一人に言った。
「西塚。至急、ここに若い衆を十人集めろ!」
西塚はあわててスマホを取り出した。
この代償は高く付いた。高北はヤクザから足を洗うことになったのだ。
手榴弾でぶっ飛ばされた組長の息子大刃人のカタキ討ちに、揚々と手を挙げて立候補したはいいが、犯人は見つけられず、それどころか糸口さえも掴めず、毎日何の情報も持ち帰らない高北に対して、ついに組長の我慢の限界は越えた。
他の組員の見せしめに破門してしまったのだ。
胡蝶蘭組の幹部の一人であったが、一般のサラリーマンで言うと窓際族というやつで、組長も機会があれば追い出してやろうと企んでいたのだろう。
そこへ、仲介の失敗とカタキ討ちの失敗というダブルミスをやらかした。お荷物がいなくなって、内心、組長も喜んでいるに違いない。
組どころか業界までも追い出された高北はヤクザから作家へ転職した。
しかし、その後、カレンのことがあり、さらなる転職を考えることになった。
――出家である。これ以外の行く末は考えられなかった。
ヤクザから出家する人はいるし、作家から出家する人もいるが、ヤクザから作家、さらに出家と、三段階を経るのは珍しいだろう。具体的な日数は決めてないが、あと数冊本を出してから、どこかの寺へ出向いてみるつもりだ。
前職を訊かれても作家と言っておけばいい。ヤクザは前々職だ。ウソではない。出家をするのに履歴書がいるのか分からない。出せと言われれば、出鱈目を書いて出すだけだ。まともに書こうものなら、世界中どこへ行っても雇ってくれないだろう。
とりあえず、コンビニに寄って履歴書を一部買った。
この年になって履歴書かよ……。
若い男性店員に笑われたような気がしたので、睨みつけてやった。
その後、履歴書に貼る写真を撮るため、証明写真の自販機を探して街をうろついた。
すでに坊主頭だから、あえて坊主にする必要はない。出家をするためにわざわざ坊主頭にして来ましたと言えば、やる気があるように思われて、採用されるかもしれない。
出家の場合も、一般企業のように、採用と言うのだろうか?
くだらない疑問に頭を悩ましながら、高北は雑踏の中を一人歩く。
羽田不動産の成田は女子格闘家の虎星とドライブに来ていた。
仕事でミスをして頭を丸めた成田。
強そうに見せるために髪を切った虎星。
――車の中に坊主が二人。
成田は妹の同級生だった虎星の試合を見に行ったとき、ロープを越えて上から落ちて来たヘビー級外国人女性選手マリアンヌに押しつぶされて足首を負傷し、入院する羽目になってしまった。
何の縁か、その後もお見舞いに来てくれた虎星と親しくなり、退院後、お礼として、初ドライブに誘ったというわけである。
後部座席には入院中に読んでいた“ハンパない輩たち”が置いてある。半グレのことを書いたノンフィクション本で、著者は鷹西竜士である。半分を読んだところだが、リアルでなかなか面白い。反社に詳しい人物が書いたのではないかと推測している。
ラジオのFMから流れていた快適な洋楽がいったん終わり、ニュースコーナーに変わった。カナダで行方不明になっていた二人の日本人留学生が遺体で発見されたという内容だった。
「この女子大生の事件はかなり前からやってたね」成田が助手席の虎星に話しかける。
「私もネットニュースで見たよ。日本から捜査員が派遣されたって言ってたけどね」
「そのときはすでに殺されてたのかもしれないね。二人とも若い女性だったから、どこかで襲われて、殺されてしまったんじゃないかな」
「でも女性二人でしょ。一人ずつ襲われたってこと?」
「そうなるよね。一人ずつ何らかの口実で誘われて、何も疑わずに出かけて行ったら、殺されて、埋められたということかもしれない。あるいは犯人は複数犯かもしれない」
「カナダは自然が豊かで安全なイメージがあるけどね」
「メープルシロップもおいしくて、有名だよね」
「メープル街道という絶景スポットをテレビで見たことがあるよ。メープルの木がたくさん植わっていて、秋になると紅葉してキレイだって言ってた。そんな美しい国で女性が二人も殺されるなんて、なんだか怖いね」
そうか。女子格闘家でも怖いのかと、成田は妙に感心する。
チラッと隣を見ると、虎星のけっこう逞しい二の腕が見えた。自分より太いと思ったが、もちろん黙っておく。初デートでフラれたらミジメだ。
ニュースが終わり、ラジオからはふたたび音楽が流れ出す。
日が暮れつつある頃、店舗付きの七階建てのマンションが見えてきた。一階は住柿が経営する神丘仏具店である。二階より上は住居スペースとして貸し出していて、最上階に住柿一家が住んでいるが、二階の一室では派遣型フーゾク店が非合法で営業中である。
「ほら、あれ」成田が運転をしながら、前方を指差す。
「わあ、大きなマンションだね」助手席の虎星は無邪気に感心する。
不動産会社に勤務している成田が一から携わり、開発したマンションということを自慢しようと、虎星を連れて来たのである。
初デートだから、まだ会話もぎこちない。しかし、この新築マンションの存在は、二人の会話が弾むための絶好のネタになりそうだ。
フロントガラスに顔をくっつけるように上半身を極限まで乗り出して、虎星はマンションを見上げている。横目で見ていた成田は、さすがに格闘家は体が柔らかいと妙な感心をしている。
「へえ、七階建てなんだ。大きいね」階層を数えたようだ。
「そうだよ。一階はオーナーが経営する仏具店と駐車スペースで、上は賃貸マンションになってるんだ。元々は駐車場だったんだけど、土地を有効活用して、店舗付き住宅にしたんだ」
「――えっ、神丘仏具店?」虎星は見えてきた看板の文字を読んで驚く。
「知ってるの?」
「私が入場するときに、首から下げている大きな数珠があるでしょ。あれはあの店で作ってもらったものだよ」
「へえ、そうなんだ。じゃあ、ここに来たことがあるの?」
「私じゃなくて、先輩の格闘家がここに来て、頼んでくれたんだ。少しでも私を強く見せようと、坊主にされるわ、数珠を下げさせるわで、すごく迷惑なんだけど、先輩だから逆らえないしね。こんなときは困るね、上下関係に厳しい体育会系は」
「最近は調子がいいじゃない」虎星は三連勝をしている。「数珠のお陰かもしれないよ」
「そうかなあとも思うけどね。あとでオーナーさんに挨拶をしておこうかな」
「それはいいね。今も店に出て、お客さんの対応をしてると思うから紹介してあげるよ」
二人でマンションを見上げる。
「あの最上階にオーナーは家族と一緒に住んでるんだ。要望によって、何枚か壁をぶち抜いたから、仏具店のオーナーには似つかわしくない大きな造りの部屋なんだ。なかなか素敵なマンションに仕上がってるでしょ」
「この辺りでは、一際目立つね。これは成田さんが一人でやってのけたの?」
「まあ、なんというか。もちろん、みんなで行ったプロジェクトなんだけど、ほぼほぼ、私が中心だったかな」と言って自慢してみる。
自慢するために連れて来たのだから、これでいい。
会社に提案したのは成田で、オーナーを説得したのも成田である。だから、間違ってはいない。だが、それから先は先輩社員がやってのけたのだが、そこまで詳しくは話さない。もちろん、今も二階で営業を続けているフーゾク店のことは口が裂けても言えない。二度とデートなんかしてくれなくなるだろう。
そのとき、坊主頭の男が店から出てきた。
それを車の中の二人の坊主が見つめる。
「ほら、あの男の人がオーナーの住柿さんだよ。たぶん、タバコを吸いに表へ出てきたんだ。店の中が臭くならないようにね。お線香の香りがしている仏具店のはずが、ニコチンの臭いがしてたらダメでしょ。それに最近はタバコの煙が何かとうるさいから、オーナーも気を使ってるのだろうね」
「新築だから、余計に気を使うのでしょ」
「――あっ、いいことを思い付いた。住柿さんを脅かしてやろう!」
成田は車のスピードを緩めた。
「何をするの?」虎星は運転席の成田と店の前の住柿を交互に見る。
「そっと近づいて行って、後ろからクラクションを思いっきり鳴らしてやるんだ」
「大丈夫? 怒られない?」
「大丈夫だよ。これは私が建てたマンションだよ。笑って許してくれるよ。それにあのタヌキオヤジさんは私にいろいろと借りがあるんだ」
タダでフーゾク嬢と遊ばせてあげたことは言わない。初デート=最後のデートになってしまう。
成田が言った通り、住柿はタバコに火を付けて吸い始めた。うまい具合に駐車スペースの方を見て、こちらには背を向けている。店名が入った看板から出る光がオーナーの背中を浮かび上がらせ、デカい頭の向こう側から、タバコの煙がユラユラと上がっている。
車はゆっくりと近づいて行く。エンジン音が静かな車に乗っていたのはラッキーだ。他に車は走ってないし、歩行者もいない。イタズラの条件は揃っている。
タヌキオヤジが驚いて腰を抜かす光景が目に浮かぶ。
まさか心臓麻痺を起こして死なないだろうな。仏具店で死んだらシャレにならないよ。
オヤジまであと五メートルくらいの所に近づき、笑いを噛みしめながら、クラクションに手を置いたとき、車がグラグラと揺れた。
「えっ、何だ?」成田はあわててブレーキを踏んで車を止めた。
「地震じゃない?」虎星は辺りを見渡す。「ほら、電線が揺れてるよ」
二人は車を止めて、周りを見る。電線や木の枝がゆっくり揺れている。
「ほんとだ。地震だ。車に乗ってて感じるのだから、けっこう大きな地震だ」
住柿も揺れを感じたらしく、タバコを足元に捨てて、足で揉み消している。
そして、住柿がこちらを振り向いた瞬間、大きな地鳴りが聞こえてきた。
それは地震が放つ地鳴りではなく、建物から聞こえる地鳴りだった。
七階建てマンションの壁に亀裂が走り、道路側へ傾き出した。
――ゴゴゴーッ。
「ウソだろ!」
成田は叫んだが、Uターンをしているヒマはない。今にもマンションが倒れてきて、押しつぶされそうになっていたからだ。あんな大きなものがのしかかって来たら、この車なんかペシャンコだ。二人は確実に即死だ。押しつぶされたマリアンヌ選手の比ではない。
マンションの二階の部屋のガラスにヒビが入り、建物が傾斜するにつれて、順番に上の部屋のガラスも割れ、やがて、ガラスの破片が地面に降って来た。
壁面の亀裂は数本に増え、モルタル外壁も次々に剥がれ落ちて来る。ガラスと壁の落下音が響き、あたりに粉塵を巻き起こす。小さいながらも、マンション内部から、人の叫び声も聞こえてきた。
成田はギアをバックに入れて、車を急発進させた。
傾いていくマンションに住柿が入って行った。店員を助けに戻ったのか。避難するために戻ったのか。おそらく大きな地震というだけで、マンションが傾き始めたことは気づいてないのだろう。
先ほど住柿が立っていた場所には、すでに大量のガラスが散乱していて、キラキラと輝き、その上からも、ひっきりなしに破片が降り注いで来る。
「このまままっすぐ!」
虎星が後ろを振り向きながら、指示を出す。成田は前を向いて、状況を確認したまま車をバックさせている。他に車は見当たらない。このまま後進で退避できるだろう。
成田は、さすが虎星さんは現役の格闘家だ。こんな非常時にも落ち着いて行動できるんだと、妙なところに感心する。
二人を乗せた車はバックのまま、センターラインを踏みつけながら、道路のド真ん中を走って、倒壊しつつあるマンションから遠ざかる。
先ほど停車していた地点へ覆いかぶさるように、七階建てのマンションが倒れて行った。ビルの重さで地面に亀裂が走り、つながっている数本の電線がブチブチと切断されて火花を散らし、切断されずに残った電線が電信柱を引き摺り倒す。
夕方になり、灯りはじめた街灯が消えて、ビルの周り一帯が一斉に停電した。
やがて、マンションは地響きを立てて道路に激突し、バラバラに崩壊した。
地面から突き上げてくるような衝撃は、バックで走って逃げている車の中にまで伝わり、黒と白と茶が混ざったような色の砂埃が、道路上を這うようにして、追いかけて来た。
もはや、成田も虎星も声が出ない。
私が苦労して建てた新築のマンションが地震で倒壊だって!?
――ウソだろ! 私のマンションが目の前で……。
だが、周りの建物は何ともない。古そうな二階建ての木造民家でさえ傾いてない。
あのマンションだけが倒れていった。
あそこだけピンポイントで地震が起きたのか?
いや、そんな奇妙な現象が起きるわけない。
地質はちゃんと調査した。あのマンションの下に活断層なんか走ってない。地盤は堅固でしっかりしている。ビルが基礎から傾いて倒れるなんてありえない。
そもそも大きなビルが倒れるなんて、震度いくつだよ!
倒れたとたんに、バラバラに解体されるって何だよ!
手抜き工事しか考えられないじゃないか。
天災ではなくて人災だ。
誰が手を抜いた? 誰が指示をした?
だったら責任の所在はどこにある?
私の知らないところで何が行われていた?
住柿に二階で待機している女の子をタダで紹介してあげたことがあった。
「ではまた」とうれしそうに歩いて行く後ろ姿を見ながら、このオヤジはロクな死に方をしないだろうと思った。おそらく、その通りになった。七階建てのビルに押しつぶされて、生きているわけない。奥さんも他の店員さんも、二階の女の子たちも、二階から上の住民たちも……。
自分も何らかの責任を問われるのだろう。
成田はこれから押し寄せてくるであろう数々の難題に今から頭を悩ませた。
虎星の顔からも血の気が引いていた。
最初のデートは最悪のデートとなった。
成田はやっと車を停めた。
遠くからサイレンの音が聞こえてきた。
ヘブンアクアのステージ上にあった二本のポールは撤去されていた。ポールを使って素晴らしい演技を見せ、観客を魅了していたダンサーのカレンはもういない。
カレンが不在となった店は目に見えて、客足が減っていた。今も空席が目立つ店内を店長の森林がデカい体を小さくして、手持ち無沙汰な様子で店内を見渡している。
かつてはカレンに開店前の時間を使って、ポールダンスを教えてもらっていた。そのうちポールが曲がるのではないかと冷や冷やしながら、百キロ越えの体で練習を重ねていた。出所して来るタクジさんに見せるためだ。出所祝いがポールダンスなんて前代未聞だろう。きっと喜んでくれるだろうと信じて筋肉痛と戦っていたのも、今となっては懐かしい思い出だ。
タクジさんはまだ娑婆に出て来ない。出て来たときに、どういう顔で接したらいいのか、今から気が重い。ポールダンスなんて見せられるはずがない。
店の奥にあるVIPルームには有墓組若頭の竜汽とボディガード二人と赤根の四人がいた。
森林店長は竜汽から、誰もこの部屋に近づけるなと言われている。何か重要な話し合いがされているようだが、自分は組員ではなく、カタギであり、ただの雇われ店長に過ぎないのだから、関係のないことだろう。
だから、何もこの店を使わなくてもいいのにと思う。景気が悪くなって来た時期に、人相のよくない四人には、あまり出入りをしてほしくなかった。
「稼ぎ頭がいなくなると寂しくなるものだな」
ソファーにどっかりと座り込んでいる竜汽が、ブランデーの入ったグラスを手にぽつりとつぶやく。この場合の“寂しくなる”は、カレンがいなくて寂しいという意味と、店の売り上げが落ちて寂しいの二つの意味を掛けている。
「いい子でしたからね」赤根は前者の意味で答える。
「タクジには伝えたのか?」竜汽も前者の意味で訊いてくる。
「いえ、まだです。出所までは黙っておこうと思ってます。せっかく模範囚でがんばってるので、自暴自棄にならないように、そっとしておこうと思います」
「そうか。それがいいな」竜汽がやるせないような表情をして、グラスを置いた。「西塚、あれを出してくれ」ボディガードの一人に言う。
西塚は弾除けの鉄板が仕込まれたブリーフケースからビニール袋を取り出した。
「カレンを刺し殺したナイフだ」竜汽が静かに告げる。
「えっ!? これが……?」赤根は珍しく取り乱し、テーブルに置かれたビニール袋に入った刃渡り二十センチほどのナイフに顔を近づけて見入る。「これをどこで?」
「偶然だったのだが、うちのシマを見回っているとき、一人の男が川に何かを投げ入れるのを目撃した。カレンのマンションのそばだ。そこで若い衆を十人ほど呼んで川をかっさらったら、こいつが出てきたというわけだ。そのときはなぜナイフを捨てやがったのかは、分からなかった。後になって、あの事件が発覚してピンと来たというわけだ」
「なぜわざわざ川をさらうようなことをしたのですか?」
「おお、そのことだ。見知らぬ酔っ払いが物を捨てたくらいじゃ、二、三発ぶん殴って、川に放り込む。だが、これを捨てた男というのは、お前も知ってる男だったからだ」
「誰ですか?」
「胡蝶蘭組の高北だ」
「高北が……」赤根は天井を仰ぐ。
「奴がうちのシマを一人でウロウロしてるなんておかしいだろ。しかも、そのときの態度もそわそわしておかしかった。だから、何かあると睨んだんだ。何か大事な物を捨てやがったとな。俺は拳銃かヤクじゃないかと睨んでいたのだが、拾い上げてみると、ナイフだったわけだ」
「高北はこのことを?」
赤根はナイフを見つけたまま訊く。頭の中をカレンとタクジの顔が去来する。水の中に浸かっていたからか、血痕なんかは見当たらない、比較的新しいナイフのようだ。最初から刺殺するために、新しく買い求めたものかもしれない。
「あのバカはさっさと立ち去って行きやがったから、その後、俺たちがナイフを引き揚げたことは知らんだろ。まさか、うちの若い衆がズボンの裾を捲りあげて、川をさらうとは思わんだろ。警察もこのナイフのことは知らないし、高北をマークしている形跡もない。殺人事件なのだから、当然捜査中だろうが、暗礁に乗り上げているのだろうな。だが、俺たちは犯人を突き止めた。警察よりも早くな。だから、タクジのためにも、兄貴分のお前のためにも、店の稼ぎ頭を失った森林店長のためにも、俺たちの手で奴にけじめを付けてもらおうというわけだ。刑務所に放り込むといった生温いやり方ではなく、俺たちのやり方でな」
竜汽がニヤリとする。
高北は敵対する組の幹部だった男だ。胡蝶蘭組にはさんざん煮え湯を飲まされてきた。竜汽でなくても、憎くて当然だ。
「奴は何のためにカレンを?」
「それは本人に訊かないと分からんが、犯行現場はカレンのマンションの部屋の前だ。胡蝶蘭組の組長のバカ息子がタクジに刺された場所だ」
「つまり、高北は息子の仕返しとしてカレンを殺したということですか?」
「タクジはムショの中にいるから手が出せないからな、代わりにカレンをターゲットにしたとは考えられる」
「もちろん、高北の独断ではなく、組長からの指示があったのでしょうね」
「ああ、そうだろうな。あのウスノロにそんな度胸はないだろ。ちょっと痛めつけて来いとか言われ、カレンの部屋を突き止めて、待ち伏せでもしていたのだろうよ。最初から殺そうと待っていたわけではなくて、何かを話し合っているうちに、逆上して刺してしまったのだろうな。自分の感情もコントロールできないバカだ」竜汽は吐き捨てるように言う。「ナイフはまだ新しい。護身用にでも持っていたのだろう。若いねえちゃん相手に護身用のナイフを持っていたのだから、情けないにも程がある奴だ」
「しかし、高北は業界から足を洗ったと聞きましたが」
「ああ、そうだ。おそらくこの件があったから、破門されたのだろうよ。相手は堅気の若いねえちゃんだったのだからな。現役のヤクザが、しかも幹部クラスのヤクザが素人に手を掛けたとなると、任侠道の名が廃るというものよ。しかも、このご時世だ。ヘタすりゃ、組長までパクられる。親子そろって恥をさらすことになる。高北はトカゲの尻尾よろしく、切られちまったんだろ。まあ、俺が組長の立場だったら同じことをするがな」
竜汽の野郎、すでに自分が組長になったことを考えていやがる。組長不在の中、近いうちに若頭から昇進することになるだろうが、そんなことはどうでもいい。今はカレンのことだ。
「それで、高北の居場所は分かりますか?」
「ああ、見つけた。俺の機動力を総動員してな」
竜汽の出身母体の組員を使ったのだろう。組の中で最も組員数が多い。
「西塚。あれを出してくれ」
つづいてテーブルの上に一冊の本が置かれた。
“ハンパない輩たち”著者は鷹西竜士とある。
「この鷹西竜士という男が高北竜也だ。偽名を考えるときは、本名に近い名前を付けるというのは本当だな。今はこのペンネームを使って物書きをしているようだ。本人はジャーナリストとか何とか横文字で名乗って、カッコつけてるようだがな」
「よく見つけましたね」
「ああ、すぐに見つかった。あんなゴツイ体で坊主頭の奴はそうそう居ねえ。俺が鷹西こと高北でございますと、首からプラカードを掲げて、街中を歩いているようなもんだ。――まあ、アンタも坊主頭だがな。引退して敵がいなくなったのと、殺しの証拠品も目撃者も見つかってないので安心してるのだろう。大手を振って歩いてやがった。つまり、俺たちがナイフを拾ったことも気づいてないということだ」
手入れの行き届いたオールバックをテカらせながら竜汽が自慢げに話す。
「だが、警察は防犯カメラの解析を進めているだろうし、これから目撃者も現れるかもしれん。警察が奴を見つけ出す前の今がチャンスというわけだ」
竜汽の魂胆は分かっている。竜汽はうちの組長が事故に遭い、山に埋められていたことを知らない。だが、もう戻って来ないと確信している。高齢だったから、何らかの病気にかかったか、事故に巻き込まれたのではと思っているようだ。
残念なことに、その感は当たっている。
それは胡蝶蘭組の仕業だと思っているのかもしれない。だが、その感はハズレだ。組長を轢いたのは町田という木仏師だ。――そして、すでにカタキは討ってある。
竜汽は自分が次期組長のつもりでいる。つまり有墓組内で、奴のすぐ下の位置にいる俺は邪魔になるということだ。俺が竜汽の寝首を掻けば、俺が組長になる。そういう世界だ。
俺に高北を殺らせることで、邪魔者を排除しようということだろう。
手榴弾のときもそうだった。胡蝶蘭組の組長宅に投げつけるよう、俺に指示をしてきた。若頭の指示だから断れずに、決行してやった。おそらく、俺が何もできずに戻って来ると期待していたのだろう。組長に直接被害は与えられなかったが、ドアと息子の大刃人をぶっ飛ばしてやった。
結果、組内の俺の信用は増した。竜汽はよくやってくれたと口では言っていたが、内心は悔しがっていたに違いない。だから今回、俺をけしかけてきたのだ。高北が書いた本まで見つけ出して。
俺がしくじったら、あいつは腑抜けだと組内で言い触らし、信用を失墜させるつもりだろうし、奴を仕留めたとしても、俺は塀の向こうに何年も落ちるだけだ。その場合は組長代行である竜汽の立場も危うくなるのだが、そこまで頭は回らないらしい。
竜汽のことは若い頃から知っているが、危ういことを自分ではやらない。他人にやらせて、他人に責任を取らせる。このやり方でここまで、のし上がって来やがった。組長が甘かったことも否めないが、竜汽が常に何らかの責任を負っていたら、今頃自慢のオールバックは坊主頭だっただろう。
だが、赤根は決心した。
竜汽を喜ばすためではない。もはや、組長がいなくなった組にも未練はない。
かわいがっていた舎弟のタクジと、その彼女のカレンのためにやってやる。
「この本、もらってもいいですか?」
「ああ、持って行ってくれ。俺は読んじゃいないが、若い衆はよく取材してあると感心してた。半グレの連中の周囲をうろついて取材したのだろうよ」
すでに竜汽は高北の件を俺に任せたつもりになっている。
俺が断らないだろうと踏んでいたのだろう。その通りになって機嫌がよさそうだ。
内線で森林店長に連絡をして、ブランデーのお代わりを持って来させた。
乾杯をしようと誘われたが、ていねいに断って、俺は一人で店を出た。
カレンが殺されたのだから、乾杯なんかできるはずがない。
そもそも、何を祝しての乾杯だ?
お前の組長昇進のための乾杯だろうよ。
その日、赤根にとっては今年一番の悪い知らせを受けた。
いや、この十年のうちで最も悪い知らせかもしれない。
「間違いなく殺されたのか?」俺は自分の耳を疑って、そう訊いた。
「はい。警察が店に来ました。被害者は間違いなくうちの店のカレンちゃんです」
電話の向こうで森林店長が鼻水をすすりながら言う。
「今、身元の確認をしてきました」
マンションの部屋の前でカレンは腹から血を流しながら倒れていた。
住民が見つけて、救急車が到着した時には、すでに息はしてなかったという。傍らに転がっていたバッグの中に森林店長の名刺が入っていたため、警察が連絡を寄越し、たった今、遺体と無言の対面をしてきましたと、森林が泣きながら電話をかけてきた。
「これからご家族に電話をします」森林店長にはつらい役目が待っていた。「あのう、タクジさんには……」
「俺が伝えておくから、カレンのご家族への連絡は頼む」
あの電話から数日が過ぎていたが、赤根はいまだに信じられない思いでいる。そして、カレンと付き合っていたタクジに、このことを告げるべきかを随分と悩んだ。
それは刑務所の面会室でタクジの顔を見るまで決心がつかなかった。
「ここにいると甘い物が喰いたくなるだろう」赤根は久しぶりに会ったタクジに訊く。
「そりゃ、もう」タクジはアクリル板越しに答える。「特別な日にしか喰えませんから」
――面会室に坊主が二人。
二人とも表情は穏やかだ。赤根は穏やかさを装っているし、タクジは赤根が来てくれたことに喜んでいるからだ。
「娑婆では台湾カステラとマリトなんちゃらが流行ってる」
「カステラは分かりますが、マリトなんちゃらというのは何ですか?」
「外国から来た、そんな名前のお菓子だ。クリームが異常なほどにたくさん挟まっている」
二人はタクジの好きなスイーツの話で盛り上がる。刑務所内では滅多に口にすることができない。想像してヨダレを流すしかない。
「もうすぐ出られるから楽しみにしておけ」
「はい。短気の俺がここまで我慢して、模範囚としてやってきましたから、もう少しだけがんばります。早くカレンにも会いたいし」
「ああ、そうだな」赤根は一度、目を伏せて、「タクジは山陰に行ったことがあるか?」
急に話題を変える。
「アニキの生まれ故郷ですね。俺は行ったことないです」
「山陰の香住漁港で水揚げされる紅ずわいがにを香住ガニと呼ぶんだ。それがうまい。もうすぐカニのシーズンだから、喰いに行けばいい」
「アニキと一緒に里帰りですか?」
「いや、最近忙しくてな」
「そうですね。アニキはいつも何かと忙しいから、カレンを連れて行きますよ。あいつにもさんざん迷惑をかけてますから、山陰のカニを喰わせてやりますよ。俺が早く出られるように髪を切って坊主になってくれたくらいですから、前から、何らかの形で恩返しとしたいと思ってました。――カレンは元気にしてますか?」
「ああ、相変わらずだ」赤根は再び、目を伏せる。ウソが顔に出てしまうタイプの男だ。
「そうでしょうね。あいつはいつもマイペースだから。髪も伸びたでしょうね。――そういえば、森林店長も俺の出所に合わせてポールダンスを習ってるんでしたっけ?」
「ああ、そっちはあまり期待しない方がいい」カレンから店長に話題が変わって、ホッとする。
「そうですね。あの体型ですからね。ポールも曲がりますよね。でもアニキ、人間というのは楽しみが多いと力が沸いて来ますね」
「タクジ、これからもしっかり生きろよ」赤根が突然言った。
「――えっ? あっ、はい」タクジは何を言われたのだろうと、一瞬戸惑う。
赤根は立会人に会釈をして、静かに去って行った。
タクジは赤根の最後の言葉がずっと気になっていた。
そして、二人が会うのはこれが最後となった。
――面会室に坊主が一人。
留華とエラスは細い石畳の道を歩いていた。留華は手に花を持っている。
しだいに新しいお墓が立ち並んでいる区域に差しかかった。線香の香りが漂っていて、どこからか読経の声が聞こえてくる。先ほど管理人さんから聞いたカレンのお墓がある場所だった。
二人にとってはショックな出来事が続いた。カレンの突然の死に悲しんでいたところ、コラボライブで用いる仏壇を製作してくれた神丘仏具店の住柿店主の死。立て続けに訪れた悲しいニュースに、二人は今も戸惑っていた。
カレンを刺殺した犯人はまだ捕まってない。
住柿は先日の地震でマンションが倒壊して、従業員もろとも圧死した。
そんなに大きな地震ではなかったが、なぜか、そのビルだけが大きな被害を受けていたという。地方の小さな地震だったが、全国ニュースでも大きく取り上げられていた。倒壊の原因は究明中らしいが、ビルの手抜き工事の疑いがあるという。建築を請け負った地元の羽田不動産と大手ゼネコンが警察の強制捜査を受け、営業担当者と建築課課長が任意で取り調べを受けているらしい。
また、マンションの住民ではない身元不明の若い女性の遺体が数体、見つかったという。そちらもまだ解決してなかった。
二人は暗い気持ちを抱いたまま、無言で石畳を行く。前から黒いスーツ姿の坊主頭の男が歩いて来た。道が狭いため、二人は脇に寄ってスペースを空ける。すれ違った瞬間、男から場違いな香水の香りがした。
――墓地に坊主が三人。
留華とエラスはカレンの真新しいお墓を見つけた。小さくてきれいなお墓だった。そこには少しくたびれた花と、新しい花が供えられていた。そぐ横の線香からは煙が昇っている。
「誰かが来たみたいですね」留華が新しい方の花を見つめて言う。
古い花は家族が置いたものだろうか。
「このお線香は火をともしたばかりだよ。ほら、まだ長いよ」エラスも不思議そうだ。
「こっちの新しい花とこのお線香をお供えしてくれたんじゃないですか?」
「きっとそうだ」
「さっきの男の人じゃないですか?」
「そうかもね」
「誰ですかね? カレンちゃんの知り合いかな。ちょっと怖そうだったけど」
「じゃあ、聞いて来よう!」エラスは留華の返事も聞かずに駆け出す。
「待ってください!」留華もあわてて追いかける。
男はゆっくり歩いている。その大きな背中にエラスは声をかけた。
「すいません!」
振り向いた男はかなり厳つい顔をしていて、一瞬ドキッとする。
「あの、すいません。カレンちゃんのお墓にお花とお線香を供えてくださった方ですか?」
「ああ、そうだ」低い声で答えてくれる。
「私はカレンちゃんの友人でエラスと言います」
留華が追い付いた。
「私も友人で、留華と申します。カレンちゃんのためにありがとうございます。一言お礼を申し上げたかったものですから、お声をかけさせていただきました」
二人で坊主頭を下げる。長身の男は二人を見下ろす。
「そうか。いい子だったのに残念なことになったな」
「はい。本当に悲しいです。――失礼ですけど、カレンちゃんとはどういうご関係の方でしょうか?」
留華が勇気を出して訊いてみる。エラスも訊きたがっていたことだろう。
この怖そうな中年男性と可憐なカレンがどうしても結びつかないからだ。
「あの子がダンサーとして踊っていた店の関係者だ」
「ヘブンアクアですか?」
「ああ、そうだ。ポールダンサーとして人気があった子でファンがたくさん付いていた。あの子がいなくなってから、店も寂しくなった」
「いつかあの店に行こうと思っていたのですが残念です」
「あの子のことは、ずっと忘れないでくれ」
「はい、分かりました。ありがとうございました」「ありがとうございました」
二人はお礼を言うと、静かに去って行く男の背中に坊主頭を下げた。
そして、あの男性はヘブンアクアのオーナーさんだろうと思った。
そうか、友人が墓参りに来てくれたのか。二人とも礼儀正しい子だった。どうやら、カレンは友人に恵まれていたらしい。
なぜ、女性なのに坊主頭にしているのか分からんが、カレンもそうだった。タクジの早い出所を願っていたからな。
すでにオヤジの仇も取っている。格闘技などを行う興行主からは下りて、若い者に代わってもらった。看板スターの虎星選手の人気はますます上がっている。ヘブンアクアは森林店長ががんばって立て直してくれるだろう。
タクジの顔はしっかり目に焼き付けた。カレンの墓参りも済ませた。
有墓組には長年世話になったが、もはや何も未練はない。これ以上、竜汽の下ではやりたくない。かといって竜汽は引退しそうにない。これからも口八丁手八丁でこの業界を渡って行くだろう。これからは組を潰さない程度に運営してくれればいい。あいつにそこまで期待してない。
赤根は墓地の入口にある建物の窓から外を眺めていた管理人に軽く頭を下げた。この建物の一角は売店にもなっていて、墓参りに来た人のために線香や花やお供え物や、墓石を掃除するためのタワシとバケツまで売っている。先ほど供えた花と線香はここで買った。
カレンちゃんよ、出来合いの花で悪かったな。ここに来る途中に花屋があったんだが、入れなかった。女の店員さんと目が合ったが、逸らしてしまったよ。
花屋にどんな顔をして入れって言うんだ?
私のような汚れちまった極道者に美しい花は似合わんだろ。
だがな、もうすぐ出所したタクジが来てくれる。
あいつのことだ。もっと大きな花束を持って来てくれるだろう。
赤根はカレンの墓を振り返った。先ほどの二人がまだ手を合わせていた。
――墓の前に坊主が二人。
「カレンのために、ありがとな」
赤根は二度と訪れないであろう墓地を後にした。
数日後、赤根は車椅子に乗っていた。帽子を目深にかぶって坊主頭を隠し、膝には青いブランケットを掛けている。
前から高北が歩いて来た。近くの書店で鷹西竜士として、サイン会を行った帰りだ。タクシー乗り場に続くこの道を歩くと予想し、赤根は大嫌いな刑事をマネして、張り込んでいたのだ。
どこにも防犯カメラが設置されてない一角を探して、二十分ほど待っていた。
高北の表情を見ると晴れやかだ。たくさんの人が集まったのだろう。引退してからは堂々と顔をさらして、そんなイベントを行っている。ずうずうしいのか、バカなのか分からない。きっとその両方なのだろう。
しかし、警察の捜査が行き詰っていて、奴の元には迫ってないのは確かだ。事情聴取も受けてないようだし、尾行も付いてない。それは赤根にとって有り難いことだった。誰にも邪魔されずに決行できるからである。
呆れ返りながらも、赤根は慣れない車椅子を進めて行く。
高北は車椅子に気づいて、脇に寄ろうとする。
「作家の鷹西竜士さんでしょうか?」
赤根はいつもの低い声を封印して、わざと高めの声で話しかける。声でバレてはいけない。
「はい、そうですが」
高北は赤根の正面へ歩いて来る。元ヤクザとは思えないほど丁寧な返事だ。
「サイン会に間に合わなかったもので。今、ここでサインをもらってもいいですか?」
赤根は青いブランケットの下から、鷹西こと高北が書いた“ハンパない輩たち”を取り出して見せた。竜汽からもらったものだ。当然、読んでない。
「おお、私の読者でしたか!」高北はかがんで、自分の著書を手に取る。「いや、ありがとうございます。書店で用意してもらった本が全部売り切れて、サイン会は早めに終わってしまたのですよ。いや、申し訳ない。ここでのサインなんて、お安い御用ですよ。何か書く物は持ってますか?」
高北は上機嫌に言う。たちまち完売したのなら、こんな態度にもなるだろう。
車椅子の男を少し警戒していたようだが、ファンと分かってうれしかったようで、サイン会に遅れた車椅子のファンのために笑顔を見せる。
――路上に坊主が二人。
赤根は思う。
こいつの笑った顔は初めて見た。だが、カレンは二度と笑うことはできない。やがて、出所したタクジの顔からも笑いは消えるだろう。こんな笑顔が許されていいわけない。
「ペンならここにありますから」
赤根はジャケットの左胸に手を入れた。町田に彫ってもらった仏像に触れた。
「用意がいいですね」高北がのんびりと言った瞬間、赤根は立ち上がった。
今まで車椅子に乗っていた男がいきなり目の前で立ち上がったため、高北は驚いて目を見開いた。しかも、自分よりかなりの長身だ。
二人の足元に青いブランケットがヒラッと落ちる。
赤根が左胸から取り出した仏像には、さかさまに刃渡り二十センチのナイフくくり付けてあった。すぐさま鞘を抜き、高北に体ごとぶつかる。ナイフは左胸に突き刺さった。右手に持っていた自著が落ちて行く。高北は何が起きたか分からないまま、全身の力が抜けて行く。
赤根は抱き合ったまま、体をくるっと半回転させると、高北を車椅子に座らせ、青いブランケットを拾い上げて裏返すと、高北の体の上にふわりと掛けた。左胸には仏像にくくり付けたナイフが刺さったままのため、その部分だけ盛り上がって見える。
ブランケットはリバーシブルになっていて、青色の裏は赤い色をしていた。高北の体から血が流れてくるが、ブランケットが吸い取ってくれる。赤色のため、血が滲んできても、外からは分からないはずだ。そのためにこの色のブランケットを選んだ。
高北は一度ブルッと痙攣してから静かになった。
赤根はかぶっていた帽子を脱ぐと、すでに事切れている高北の坊主頭に深くかぶせて、表情が見えないようにした。
その間、わずか十五秒。
目撃者ゼロ。防犯カメラなし。
オヤジの仇につづいて、カレンの仇も討った。
江戸時代なら無罪になるのだが、今は令和だ。殺人罪が適用される。
赤根は何事もなかったかのように、高北の遺体を乗せた車椅子を押し始めた。
傍から見ると、赤いブランケットを体に掛けて、帽子を目深にかぶった男性を乗せた車椅子を、中年男性がゆっくり押しているようにしか見えない。
坊主頭で人相も悪いが、なんといっても車椅子を押してあげているほどの善人だ。これだと職務質問もされないだろう。
車椅子を押してあげているような優しい人に悪い人はいないと警官は思い込んでいるはずだ。
赤根はこの計画を思い付いたときから、周到に準備していた。高北の行動を調べ上げ、赤いブランケットを探して百貨店に行き、車椅子を通販で買った。霊柩車の代わりとして、奴を乗せるためだ。一度だけの使い捨て。当然、一番安いものを選んだ。
赤根は高北の遺体を車椅子ごと、近くの公園に運び込んだ。この時間、公園は閑散としている。サラリーマンの昼休みは終わり、子供を遊ばせていた母親たちや、犬の散歩をしていた老人も家に帰っている時間だからだ。
赤根は入口から入って一番奥にあるベンチの横に車椅子を停めた。
先日、印堂刑事と取引をするために、コインロッカーの鍵を裏に貼り付けたベンチだ。当然、そのときの鍵は剥がされているだろう。見るまでもない。拳銃を押収して喜ぶヤクザ刑事印堂の顔が目に浮かぶ。
いわく付きのベンチにこだわったわけではない。ただ、日当たりがいい場所だったから、この場所を選んだに過ぎない。
車椅子に乗って散歩をしていた男性がポカポカ陽気に、ついウトウトとしてしまい、ブランケットを掛け、帽子を目深にかぶり、眠ってしまったように見えるだろう。
高北のポケットの中にあった財布や封筒やスマホを抜き取った。身元の発見を遅らせるためだが、これで強盗殺人になってしまった。捕まれば、死刑か無期懲役だ。
マル暴担当の刑事が暴力団の幹部だった高北の顔を見るとすぐに身元は分かるだろうが、まさか元暴力団員がのどかな公園で車椅子に乗って息絶えているとは思わないだろうから、彼らが面通しをするとしても、かなり後のことになるだろう。
高北よ、新品の車椅子は香典代わりに受け取ってくれ。安物だけどな。
スマホの中には留華の母親を轢いて車から下りて来る根済議員の写真が数枚残されていた。高北が事故の目撃者の老人から転送してもらったものだ。運転席から下りて来た根済議員は赤い顔をして、ふらつき、泥酔している様子が分かる。しかし、秘書にすべてを擦り付けて逃げてしまった。高北はこの写真を証拠として、脅迫する準備を進めていたのだろう。
留華はカレンの墓参りのときに出会った二人の友人のうちの一人だったのだが、赤根はその事故のことを知らない。根済議員の写真を見つけても、どこかで見た奴だと思ったくらいで、特に関心も示さずにさっさと閉じた。
高北が議員を脅そうとしていたことも、耳には入って来てなかった。おそらく、高北は自分一人だけで金を脅し取ってやろうと、誰にも言わずに行動していたのだろう。
赤根はスマホを公園の片隅で何度も踏んづけると、画面をヒビだらけにして、内部に水が入ってデータがダメになることを願いつつ、川に投げ捨てた。
このことにより、高北は死んだが、根済議員は生き延びることとなった。
本当の悪党はなかなか死なない。
のどかな公園で、左胸に仏像が突き立っている高北の遺体が発見されたのは、それから半日後のことだった。
夕方になり、公園内を散歩していたおばあさんが車椅子に乗った高北を見つけ、こんな所で昼寝をしていたら風邪を引きますよと声をかけたが返事がなく、よく見てみると、胸にナイフが刺さって死んでいることが分かり、あわてて警察へ通報したという。
また、仏像工房村中では、店主の町田が遺体で発見されていた。たまたま工房へお茶を飲みに行ったヒマな村人が、物言わず横たわる町田を見つけた。胸の上には観音像が乗せられていて、白いネコが寄り添っていたという。
二つの事件は残されていた仏像という点で共通していたが、警察では二つの事件をまだ結び付けておらず、本格的な捜査はこれからだった。
高北には俺がかぶっていた帽子をかぶせておいた。帽子に付いている汗か何かでDNA鑑定ができるだろう。俺には前科があるから、警察に残っているデータと照合すれば、俺の犯行だと分かる。高北の胸に刺さっている仏像と、町田の遺体の上に置いて来た観音像の作者はともに木仏師の町田だ。仏像工房には顧客名簿か仏像の送り状の控えが残されているだろうから、優秀な警察はそこからでも犯人である俺にたどり着くはずだ。
俺は二件の殺人事件の容疑者として、全国に指名手配されるだろう。
かまうもんか。
とりあえず北へ逃げよう。悪さをした奴は北方へ逃げるものだ。
北方は寒くて厳しい。
暖かくておだやかな南方は犯罪者に似合わない。
だから、北だ。
見つけられるものなら、見つけてみればいい。
数日後、俺は東北地方にある古寺の本堂で副住職と向き合っていた。
板場の床から突き上げて来る冷気で堂内は寒い。ムショ経験のある俺は滅法寒さに強いのだが、副住職も平気な顔をして座っている。
オヤジの前に出るときはいつも礼節を守り、正座をしていた。だから、俺は正座にも強い。だが、副住職も顔色を変えずに座っている。大したものだ。
本堂には二人しかいない。
二人の右に立っている大きな仏像は、何とか菩薩だと説明されたのだが忘れてしまった。文殊菩薩くらいは知っているが、他のマイナーな菩薩の名前なんかは知らない。もとより神仏に頼ることはせず、自分だけの力で生きてきたからだ。
しかし、最近になって数珠ブレスだの仏像だのに興味が出てきた。人間は年を取るとそういうことに目が向くのかもしれない。
仏の名前は漢字ばかりで難しそうだが、今日からは知らないというわけにもいかない。後でもう一度、この有り難そうな仏様のお名前を訊いておくか。
「高北さん。――高北さん?」
「えっ? ああ、はい」ああ、俺のことか。
「高北さんでよろしいでしょうか? 高北という文字は、たかほくともこうきたとも読めますね」
「たかきたでいいです」俺は冷静に答える。
「漢字は難しいですね。私はここに書かれている文字の半分くらいしか理解できません」
「半分も分かれば十分ですよ。副住職さんは来日間もないカナダ人なのですから」
あてもなくホテルを転々としていたところで宿泊費がかかるだけだった。俺はふと寺にでも泊めてくれないものかと閃いた。宿坊と呼ばれる宿泊施設があったはずだ。乗っていたバスを適当に下りて、適当に歩いて見つけた寺に行ってみた。
呼び鈴を押し、寺の山門を見上げながら待っていると、出てきたのが作務衣を着たこの男だった。副住職だと自己紹介した男は俺よりも背が高く、坊主頭で、青い目をしていた。
「メープルの国カナダから来ました。ルーカスです」と名乗った。
――山門に坊主が二人。
来日して間もない外国人だというのに、たくさん漢字を知ってるのだから、大したものだ。
この寺に宿坊はなかった。だが、副住職のルーカスと話しているうちに、出家者を募集していることが分かった。
出家するのもいいか。警察もこんな山奥の寺まで追って来ないだろう。
俺はそう思った。俺らしくていい。今までも行き当たりばったりの人生だった。これからも行き当たりばったりの人生でいい。それにこの頭だ。あらためて坊主頭にする必要もない。
うまい具合に、高北から奪い取った履歴書を持っていた。奴のポケットには財布やスマホと一緒に封筒が入っていて、中身は履歴書だったのだ。
組から破門されたのだから、どこかで働かなければならない。どこに就職するつもりだったのか分からないが、そのまま流用させてもらった。東北地方を放浪しながらも、履歴書を持っていると何かの役に立つのではないかと思っていたからだ。
手持ちの資金が切れたら、俺もどこかに就職しなければならない。もちろん、貼ってあった写真は剥がし、自分の写真を撮って、貼り直していた。奴の醜い顔は見たくもなかったからだ。あいにくと年齢は近く、疑われることはないだろう。
奴の書いたミミズが這ったような汚い字をよくもカナダ人が読めたものだ。
奴の履歴書には“趣味:読書”と書いてあった。どうせエロ本だろ。
“特技:スポーツ全般”と書いてあった。どうせケンカだろ。
記載事項にケチを付けているが、赤根は高北も出家を願っていたことを知らなかった。
カナダ人ルーカスは履歴書を見つめている。おそらく高北は趣味や特技以外も適当に書いているだろう。まともに書いたら採用されることはない。
よく読まなかったのだが、まさか最終学歴はハーバード大学なんて書いてないだろうな。ヤクザは見栄っ張りが多い。奴なら書いていても不思議ではないが、面接官がカナダ人というのはマズい。カナダは英語が公用語じゃなかったか? 英語で何か訊いて来られたら答えられない。
「最近は出家される方も増えてます」幸いにも日本語で続けてくれるようだ。「私もそうです。カナダで日本のお寺を検索しているうちに、ここを見つけました。以前から日本に興味があって、日本語も少し勉強してました」
「それにしてはうまいですね」俺は話を合わせるが、まだ出家するかどうかは決めてない。
「フリーですけど、日本からカナダに来た観光客のガイドもしてました。だから、日本にはお友達もたくさんいます。そのお陰で日常会話はできます」
「ほう、そうですか」本当に感心する。
「それである日、仏教の勉強もしようと思い立ったのです」
「それは素晴らしい。すぐに副住職の地位も得られたのだから、よほど熱心なのでしょうね」
「住み込みなら食費も宿泊費もかかりませんし、給料も出ます。だから出家したのです」
「遠くカナダから来られて、いきなり出家とは大したものです」
「人々がお寺に来られる理由は、勉強以外にもさまざまです。定年退職後に第二の人生を送るために出家する人も増えてますし、社会復帰を考えてる人もいます。このお寺では、僧侶になりたい人を育成して、後継がいないため廃寺になりそうな寺へ紹介することも行ってます。――高北さんはどういう理由でここに来られたのでしょうか?」
流暢な日本語で訊いてくる。正座も崩さず、微動だにしない。
「そうですね。まあ、何と言うか、人生も晩年に差し掛かって、いろいろあって、たまには良いこともしようかと思いまして」心にもないことを適当に答える。
「そうですか。それはいい心掛けですね」
「近い理由があるとすれば社会復帰ですかね」
これから心を入れ替えて、第二の人生を歩むという意味で言ってみたが、まあ本音だ。
「きっと仏様は手を貸してくださいますよ。――ところで、素敵なブレスレットですね」
「ああ、これですか」右手のブレスが見えたようだ。「黒オニキス製で般若心経が彫ってあります。年を取るとこういう物を求めるようになるものですね」
そういえば、この数珠ブレスを作ってくれた店が、先日の局地型地震でビルもろとも倒壊して、店主も死んだようだ。
最近、俺の周りには死者が多すぎる。俺は死神だ。
仏の道を歩もうとする変わった死神だ。
「出家となると今までの生き様と真逆になるものですから、こんな私に勤まりますか。ルーカスさんのように勉強をするといった高尚な理由は持ってませんので」
「高北さん、それは大丈夫ですよ。ここお寺はどんな人でも受け入れています。私のような外国人も受け入れてもらいました。日本のことわざにある“来るもの拒まず”です。――たとえ、あなたが高北さんでなくてもね」
「何を……」
なぜ、俺が高北じゃないと分かった?
俺はルーカスに気づかれないように、すばやく目だけを動かして、本堂の中を見渡す。
どうやら、俺の手配書は貼ってないようだ。
もっとも、指名手配されているのか知らないが。
――では、なぜ分かった?
ルーカスは何も言わない。
仏も見つめる静寂の中で、俺は頭をフル回転させる。
そうか、さっき高北さんと名前を呼ばれてもボケッとしていたからな。
自分の名前を呼ばれて、気づかない奴はおかしい。
それでバレたのだろうな。
高北のフリをしていたのだが、高北に成り切ってなかった。
俺が刺し殺して仏にしてしまった奴に成り切るのには無理があったし、そもそも俺はあいつが大嫌いだ。自分を押し殺して、嫌いな奴に成り切るのは難しい。
青い目の外国人に翻弄されるとは、俺も焼きが回ったのか?
とまどう俺に構わず、副住職は口を開いた。
「心配いりません。私の名前も本当はルーカスではありません」
何を言い出すんだ、このカナダ人は。
「名前が違っていても構いません」カナダ人は続ける。「このお寺は仏の慈悲をもって、どんな事情のある人でも受け入れてくれます。たとえ、過去に二人の人間を殺めていたとしても」
――何だと!
それは俺が二人の人間を殺したことを言っているのか?
それとも、この男が二人の人間を殺したとでも言っているのか?
くそっ、この俺が背中に寒気を感じる。
どうなってるのか。
菩薩像の前で、俺の頭は混乱する。
――本堂に坊主が二人。
(了)
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