札付きのお堂でいてくれよ

右京之介

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札付きのお堂でいてくれよ

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「札付きのお堂でいてくれよ」

                右京之介

 立ち上がろうとしたとたん、よろけてしまい、お堂の扉が開かないように封印してあったお札に手が触れて、バリッと剥がれてしまった。
これはヤバい。実にヤバい。
 音もなく、扉が開いていく。

 午前九時。
 俺は四月から大学生になる。田舎生まれの俺が都会で念願の一人暮らしだ。といっても、実家からの仕送りは少なく、学生生活を送るためには、バイトを見つけてがんばるしかない。そのために、街の中心ではなく、家賃の安い郊外のアパートに住むことになった。
多くもない引っ越しの荷物がだいたい片付いたため、近所の散策へ出かけることにした。どこに何があるのかを知っておくには、スマホで地図を見るだけでなく、自分の目で確かめたかったからだ。大型スーパーまでは自転車で行くとして、歩いて行ける範囲には何があるのか知っておきたい。
部屋を出ようとしたとき、郵便受けに回覧板が差し込んであるのに気づいた。
 そうか、一人暮らしを始めたのなら、回覧板を回すこともしなければならないのか。実家に住んでいたときには、おそらく母が隣の家に回していたのだろう。気にもしなかったことだ。
ちらっと中を読んでみると献血の案内だった。
大型スーパーの駐車場に献血車が来るらしい。

俺は軽装でアパートの部屋を出た。
公民館に、特養老人ホームに、幼稚園に、お地蔵さんか――。
俺の生活とは縁のない施設が続く。
満開の桜並木を抜けて、十分ほど歩くと、長い石段を見つけた。どうやら山の上にある神社かお寺への階段だと思われた。
石段というと、俺は高校時代、野球部に所属していて、学校のそばの石段を吐きそうになるまで往復させられたものである。
 石段か、懐かしいなあ。高校を卒業したばかりだけど。
 俺は軽く屈伸運動をしてから、推定三百段はありそうな石段を駆け上がった。
 ――百段で力尽きた。
 退部してからの暴飲暴食が効いた。すっかりデブになってたのを忘れていた。
ストイックというタガが外れると、みんなこうなるのだ。
 カッコ付けて伸ばした髪と無精ヒゲが、今となっては返って恥ずかしい。
 俺は残りの推定二百段を、お年寄りのようにエッチラオッチラ登り始めた。

 登りながら気づいたのだが、この石段は人が登っている気配がない。雑草が伸びて、コケが生え、石は所々が割れたり、欠けたりしているし、設置してある手すりは錆だらけで、一部は折れてしまったり、曲がってしまったりしている。
そこで、もう一つ気づいた。石段を登り始めるところに、神社やお寺の名前が彫られた石碑や看板なんかがなかった。
この上には神社仏閣が建っているのではなく、ただの登山道ではないのか? 
しかも、あまり人が登ってなさそうな有様からして、上には大したものが、何もないのではないのか? チョロッと山菜が生えているだけではないのか?
だが、ここまで来たら引き返せない。もう半分を過ぎているからだ。
ブツクサと文句を言いながらも、俺は今にも崩れそうな石段を登って行く。
もしかしたら、ものすごい絶景が広がっているのではないか。
ものすごくおいしいお団子屋さんがあるのではないか。
そんな淡い期待を抱きながら――。
こんなポジティブな俺は素晴らしい。

 ゼエゼエ息を切らしながらたどり着いた頂上から絶景は見られず、お団子屋さんはなく、山菜も生えてなくて、小さく古びたお堂があるだけだった。
縦横ともに三メートルくらいの木造のお堂で、観音開きの扉は開かないようにお札が貼り付けてあった。
ポツンと存在しているお堂だが、あまりにも小さいので衛星写真では見つけられないだろう。
お堂の周りを大きな木々が取り囲んでいるため、木漏れ日程度しか陽は当たっておらず、昼間なのに薄暗い。どう見てもご利益があるとは思えない。これでは誰も参拝には来ないだろう。石段の手入れが行き届いてないのも当然だ。
水を飲みたいのだが、手水場などない。座りたいのだがベンチなどない。顔出しパネルやお土産屋さんなんかあるわけない。
俺は腹を立てながらもお堂に近づいた。
せめて、どういう由来があるお堂なのかを確かめようと思ったからだ。
お堂の中を覗くには、石段をさらに三段登る必要があった。
だが、三百段を登って来た俺の足はガクガクだった。
二段目で足を踏み外すと、ハグをするように両手を広げて、お堂に激突し、
――ドゴン。
 頭をしたたかに打った。
――痛ェ。
立ち上がろうとしたが、ふらついてしまい、扉が開かないように封印してあったお札に手が触れて、バリッと剥がれた。
――ヤバッ。
お札を拾い上げようと腰をかがめたとき、音もなく、お堂の扉が開いた。
 ――中には何もなかった。
「何だよ。脅かすなよ」
 俺はホッとして息を吐いた。
その瞬間、お堂の中から何かが飛んできた。小さくて丸くて白い物体が五個だ。
びっくりして大きな口を開けたら、体の中に飛び込みやがった。
わっ、俺の体に何かが入った!
「オェ~、オェ~」出てこない。
「グェ~、グェ~」出てこない。
小さな虫か? デカい花粉か? 丸まった埃か? マッシロシロスケか?
 分からない。だが、体調に変化はない。お腹の辺りを押さえてみるが何ともない。とりあえず、水を飲もう。たくさん飲んで吐き出すか、オシッコにして流してやろう。
 俺はお堂をそのままにして、汚い石段を駆け下りた。
緊急事態だ。下りるときは早かった。

 俺は小さな公園で水飲み場を見つけた。そして、吐くまで飲み続けた。腹が膨れ上がり、これ以上は飲めないといったところで、口の中に指を突っ込んで吐いた。
這いつくばって、大量の水と朝に食べたシリアルの未消化分の中から、小さくて丸くて白い五個の物体を探す。
――ない!
 すでに溶けたのか?
 立ち上がって体を動かしてみる。どこも痛くはないし、痒くもない。だるくもないし、高熱も出てない。異常はなさそうだ。
まったく、人騒がせなお堂だ。もう二度と行くもんか。
ハンカチで口を拭いながら歩き出したところで、俺の利き腕である左手から声がした。
“左手を借りるよ”

左手がしゃべった?
 俺は左手を空にかざして、確かめてみる。いつもの手だ。
どこから声がしたんだ? 手に口なんかない。当たり前だ。
毛穴がスピーカーの役目をして……。
うぇ、気持ち悪い。気のせいか? そうしよう。気のせいだ。

 俺は変な現象を無視して公園を出ようとした。ふと見ると、砂場で幼稚園児らしき二人の女の子が遊んでいた。そばで二人のお母さんが立ち話をしている。この地に引っ越して来たばかりで、当然、女の子たちのことは知らない。
なのに、俺は砂場に近づいて行く。
 えっ、俺はどこに行くんだ?
 俺は二人の女の子を見下ろした。一人の子が怖くなったのか、怯えた顔をして立ちあがった。俺はその子のお尻を“左手”で触った。
 おいおい、これじゃ、俺は痴漢じゃないか!
 そばにいたお母さんが、俺の行為を見ていたらしい。
「ちょっと、お兄さん。うちの娘に何をやってるのですか!?」
 お母さんの叫び声に、二人の子供は同時に泣き出した。
「いや、違うんです。俺の左手が勝手に……」

 俺は猛ダッシュで逃げた。言い訳なんか通用しないと思ったからだ。
二人のお母さんは子供の元に駆け寄ったため、追ってこない。
俺は走りながら考えた。俺はこの公園の近所に住んでいる。またあのお母さんたちとどこかで会うだろう。一瞬なので詳しい人相は覚えられてないだろうけど、卒業後から伸ばした髪と無精ヒゲを切ることにしよう。家の中でかけてる銀縁メガネをかけて外出すればバレないだろう。
 それにしても、俺の左手はどうしたんだ?
 あのとき左手がしゃべった。確かに“左手を借りるよ”と聞こえた。誰が借りたのか?
俺の利き腕が左手だと、なぜ知ってるのか?
俺の本能じゃない。俺は痴漢なんかする連中が大嫌いだ。しかも小さな子供を相手になんか、絶対にしない。痴漢の風上にも置けない不届き者ではないか。
ああ、あの物体だ。
お堂から飛び出て、俺の体内に入り込んだ白い五個の物体が痴漢をさせやがったんだ。
あれは何だったんだ? 痴漢の元か? 種か? 源か?
その後、左手から声はしない。

 俺は息も絶え絶えに、公園から遠く離れた空き地にたどり着いた。俺のアパートと公園の中間あたりだ。立ち入り禁止の看板が立っていて、有刺鉄線が四方を取り囲んでいる。
 くそっ、俺の左手めが!
何が憑り付きやがったんだ!
痴漢と間違われたじゃないか!
 俺はヤケになって、有刺鉄線を左手で握りしめた。刺がグサッと突き刺さる感覚が走った。でも、これだけじゃ足らない。
俺はシャツを肩の辺りまでめくり上げて、左手を露わにすると、腕全体を鉄線に何度も叩きつけた。
 出て行け、悪霊!
 グサッ、グサッ、グサッ!
血がドクドクと流れ出た。自分でも驚くほどの出血量だった。
 俺はシャツの袖を下し、手首のボタンをとめた。血だらけの腕がシャツにベットリと張り付いた。あいにくと濃いブルーのシャツを着ている。血が滲み出てもそんなに目立たない。   
俺は振り向いて、さっきのお母さん方の尾行がないことを確認すると、足早にアパートへ向かった。

 部屋に入ったとたん、貧血のためか、立ちくらみがして片膝をついた。左手を見ると、ブルーのシャツに赤い血が混ざり合って、どす黒く変色している。さすがに痛い。
前ボタンを外し、血で張り付いたシャツを剥がしている時、肩から手先まで強烈な激痛が走った。その瞬間、俺の左手に憑り付いていた小さくて白い物体は、すでにいないことが分かった。
見えたわけではない。感覚として分かったのである。
アパートに到着するまでに流した血とともに、出て行ったと感じたのだ。だが、あの物体の正体は分からないままだった。

 午後一時。
左手に液体の傷薬を塗り、軟膏も塗り、絆創膏をこれでもかと張り付け、さらに腕全体を包帯でグルグル巻きにして、長い髪と無精ヒゲを切って、銀縁メガネをかけた。
そして、昼飯にカップラーメンをかきこむと、コンビニに出かけた。ラーメンだけじゃ足らず、まだ腹が減っているからである。おやつと晩飯をまとめて買いに行くことにしたのだ。
アパートを出て左右を見渡す。さっきのお母さん方は張り込んでいない。人相も変わっただろうし、服も着替えてきた。変装で肝心なのは靴だ。服を替えても靴が同じままだとバレる。さっき履いていた黒い靴から白い靴に替えた。これで大丈夫だ。 
俺は爽やかな青年に変身した。

 俺はコンビニでおやつのチョコバーを一個、手に取った。たまたま利き腕でない右手で持ったのだが、その右手がチョコバーを持ったまま、ズボンのポケットに入って行く。
“右手を借りるよ”
 ちょっと待てよ!
 今度は“右手”から声がした。
 痴漢の次は万引きか!
 二度と同じ手を喰らうかよ。今度は止めてやる。俺の手だけど、俺の手で止めてやる。
 勝手に動いている自分の右手を、包帯だらけの左手で掴んだ。
立ったままだと力が入らず、暴れる右手を抑え込もうとしゃがみ込んだ。
左手で右手を床に押し付ける。「どうだ、参ったか!」
お菓子売り場の前で悪戦苦闘している俺を、店員さんが見つけてやってきた。
「何をされてるのですか?」
 俺は床に転がりながらも、ポケットに半分入りかかっていた右手を左手で掴み、力一杯持ち上げると、店員さんの目の前にチョコバーを差し出した。
「これをお買い上げということですか?」
「そう……です」声を絞り出す。
 店員さんは俺の指を広げ、チョコバーを取り出すと、レジに向かった。
 たぶん、何て変な客だと思っているだろう。実際、変な客だ。自分でもそう思う。
 俺はやっと大人しくなった右手をダラリと下げたまま、これ以上暴れるなよと念じながら、チョコバー一本だけを買った。
とりあえず、晩飯はこの右手を何とかしてから、また買いに来よう。

 左手のときと違って少し余裕がある。白い物体を追い出す方法を知っているからだ。
――血を流せばいいんだ。
血と一緒に、あれはどこかへ消えていく。これは左手から学んだことだ。それで左手は回復した。だから、この右手にも通用するはずだ。
 問題はどうやって血を流すかだ。もう一度、有刺鉄線に叩きつけるか?
 でも、痛かったもんなあ。
 俺はチョコバーを齧りながら考える。
 血か……。
 そうだ、献血だ!
 あの回覧板に書いてあったじゃないか。
 俺は一度帰宅すると、自転車で大型スーパーに向かった。
 人生初の献血だった。

 献血車の中でも俺の右手は暴れた。
献血をさせないように、右手が女性看護師さんに掴みかかろうとするのだ。俺はそれを傷だらけの左手を使って必死で止める。そんな俺を看護師さんは不思議そうに見つめる。さっきコンビニ店員にも同じ目で見られた。冷たい視線だ。
「そろそろ採血を始めたいのですが」看護師さんが困惑気味に聞いてくる。
「お願いします。パラパラの練習は終わりましたから」何とかごまかす。
「ちょっと、チクッとしますよ」
 痛いフリをして、左手で右手を抑え込んだまま献血は進む。
「パラパラをされてるのですか?」
 余程、痛がっているように見えたのか、看護師さんは俺をリラックスさせようと、話しかけてくる。
「楽しそうですね」
「はい。大学のパラパラ部に所属してます。ホントはチャンチキおけさ部に入りたかったのですが、大人気で定員がいっぱいでした」
 俺は献血カードと紙パックのジュースを受け取ると、献血車を出た。
献血が終わった瞬間、あの小さくて白い物体は出て行った。今度も見てはいないが、感覚で分かった。
もしかして、あの物体は俺の血を輸血された人の体に入るのかと思ったのだが、怖くなって考えるのをやめた。そのときは、その人が自分で何とかしてほしい。俺の手には負えない。 
そもそも俺のせいじゃない。悪いのは、あのお堂だ。

 やっとのことで、両手から変な白い物体を追い出した。俺は帰りにまた同じコンビニに寄って、晩飯の弁当を買った。トマトジュースも忘れずに買った。今日はさんざん血を消費したから、補充するために買ったのだ。血と同じ色をしているから効果があるだろう。
 俺はコンビニの駐車場の隅で、自転車にまたがったままトマトジュースを一気飲みした。ここにはごみ箱がある。ここで飲んでおくと、缶を捨てる手間が省けるから楽チンだ。
 自転車を下りて、空き缶用のゴミ箱に向かって歩いているとき、女子高生らしい二人連れがコンビニから出てきて、俺の前を通り過ぎた。
何気ない光景だったのだが、俺の足は彼女を追い始めた。
“右足を借りるよ”
 待てよ! 今度は右足かよ!
 そうか。あの変な白い物体は五個あったんだ。
 両手から二個追い出したから、あと三個だ。
 おそらく、俺の“右足”はあの子たちを蹴飛ばそうとしている。

 俺は体が動かないように両足を踏ん張って止まった。右手に空の缶を持ちながら。
まるで四股を踏んでいるように見えるだろう。
パラパラ部の次は相撲部だ。強く握った缶がベコンと凹んだ。
 俺は歯を食いしばりながら思う。
 早く向こうへ行ってくれ女子高生。おしゃべりしてないで早く歩くんだ。
恋バナなんて、後ですればいいだろ。
やがて、女子高生は見えなくなった。
 よしっ! これでいいと思ったが、今度はコンビニから、ガラの悪そうなヤンキー三人組が出てきた。
ガラの良さそうなヤンキーなんていないんだけど、さっきの女子高生よりこっちの方がマズい。
やめろよ、俺!
蹴るなよ、俺!
駐車場の隅で、取り組み直前の力士のようなポーズで立って悶絶していたら、さすがに目立つ。
俺を見つけたヤンキー三人組がニヤニヤしながらやって来た。
「お兄さん、ここで何をやってるの?」

ヤンキー、あっちへ行けと思ったが、俺の右足は正面に立つヤンキーの左の側頭部を狙ったかのように振り上がった。ハイキックだ。
 ヤバい! 勝手に上がるな、俺の足!
瞬間、俺は全身の力を使って体を左に傾けた。バランスを崩して、自ら倒れようと思ったのだ。素晴らしい反射神経だ。だが、元野球部で体幹が優れている俺は倒れない。
右足は空を切って、ヤンキーの目の前をギリギリで通り過ぎると、後ろに張ってあるフェンスに激突した。俺はわざと蹴りを回避したのだが、ヤンキーは俺の攻撃が失敗したと思ったらしく、おっ、やるのか! と言って迫って来た。
いや、やらない。
当たり前だ。相手はヤンキー三人。俺は勝手に動く右足を持つただの大学生。
しかも、振り上げた右足はフェンスを直撃したまま、器用に左足だけで立っている。
これじゃ、クラシックバレエじゃないか。
 そこで、俺はアホな作戦を思い付いた。
全身に力を入れて右足を動かすと、もう一度フェンスを蹴飛ばした。
「こいつ、何と戦ってるんだ?」
 ヤンキーの呆れた声を無視して、右足を何度もフェンスに叩きつける。
 ガン、ガン、ガン……。
 危ない人作戦だ。
「怖い、怖い。こいつ、ヤバい奴だ。関わるな、行こう」
ヤンキーが気味悪そうに退散して行く。
 危ない人作戦、成功だ。
俺はフェンスへのハイキックをやめた。このとき既に俺の右足は自由に動くようになっていた。数え切れないほどの蹴りによって、俺の右足は血だらけになっていたからだ。ここでも流れた血の中に、白い物体が入っていたのだろう。
俺は右足を引きずりながら、コンビニの店内に戻り、トマトジュースをもう一本と傷薬を買った。

 自転車にまたがり、アパートに向かって走り出す。
途中で女子高生二人組とヤンキー三人組を追い越した。追い抜きざま、ヤンキーは俺に気づいたらしく、さっきのヤバい奴じゃんという声が聞こえた。
何とか加害者にならずに済んだ。
いや、ヤンキーに反撃されたら被害者になっていたに違いない。
 両手と右足から白い物体を三個追い出したから、あと二個だ。
 次に来るのは分かっている。今、ペダルを漕いでいる左足だ。
「おい、何者かは分からないが左足を貸してやるよ!」
 俺は自分で自分の左足を挑発してみた。
 何者かがすぐに反応した。
“左足を借りるよ”
 おい、冗談だ! 貸さないぞ!
いきなり、自転車がアパートとは逆の方向に走り出した。

 午後二時。
「何をするんだ、俺の左足は!」
 自転車は街の中心部に向かって行く。交通量が目に見えて増えてきた。
 まさか、この自転車を車にぶつけるんじゃないだろうな。
どうなんだ、俺の“左足”さんよ。俺を当たり屋にしたいのか?
突然、俺の左足が動いた。
左に立っていた街路灯を蹴飛ばしたのだ。
 反動で自転車が右へ傾き、反対車線に飛び出た。
 俺は傷だらけの両手でブレーキをかけ、傷だらけの右足を地面に着けた。
 ズルズルズル……。
走って来たトラックが、わずか一メートル手前で停止した。
俺は当たってもいないのに、恐怖のあまり自転車と一緒に転んでいた。

トラックドライバーの罵声にペコペコ謝りながら、自転車を押して、元の車線に戻った。転んだ拍子に足から血が流れ出した。残念ながら、さっきフェンスを蹴飛ばしていた右足だ。
肝心の左足はというと、これも残念ながら無事だ。
何とか流血させなくてはならない。また献血車に戻っても、さっき献血したばかりだ。二回連続は無理だろう。そもそも足からの採血なんて聞いたこともない。
どうしようかと迷っていたら、左足が勝手に動き出した。
俺は歩いて車道に向かっている。
しつこいぞ、俺!
 ああ、早く俺を止めないと車に轢かれてしまう! 
がんばれ、俺! ファイトだ、俺! やればできるぞ、俺!
 車道に出る手前に郵便ポストがあった。昔ながらの円柱形の赤いポストだ。なんでこんなレトロなポストが設置されているの分からないが、俺はとっさにそのポストにしがみついた。通行人が驚いて俺を見る。
「あっ、どうも。俺、ダンス部なものですから、社交ダンスの練習をポスト相手にしてまして。エへへ」
 パラパラ部、相撲部、クラシックバレエ部、社交ダンス部――。
今日の俺は部活で忙しい。
 俺はポストに抱きついて、周りをグルグル回りながら、左足から出血させる方法を考える。
 また、どこかにぶつけるしかないのか。もう、痛いのは嫌だなあ。
 そうしている間にも、俺の左足は勝手に動き出そうとする。ポストにしがみつく力も限界を迎えたところで、俺は意に反して、ふたたび車道に飛び出てしまった。
そこへ、大型バイクが走ってきて、うまい具合に俺の左足にぶつかった。
俺は派手に転倒したが、バイクは大型だけに倒れず、運転していた中年男性が下りて、血相を変えて走って来た。
「大丈夫ですか!?」
 俺は左足を見た。ズボンから血が滲んできたのが分かった。白い物体は足から出て行ったようだ。偶然とはいえ、出血したことで、俺の左足がうまい具合に止まってくれた。
ラッキーだと思って、立ち上がった。
「大丈夫です。横断歩道でもないところから飛び出したのですから、俺が百パーセント悪いです。ですから、気にしないで行ってください」
「いいですか?」
「いいです。助かりました」
「――何が?」

 俺の両手両足は傷だらけになったが、白い物体を四個追い出すことができた。
あと一個だ。次はどこに来る? 胴体か? 背中か? 
胸とお腹を触ってみるが異常はなさそうだ。
背中にも手を回してみるが、いつもの俺の背中だ。
まさか、お尻に来るのか?
オナラが止まらなくなるのか?
いや、ケツは貸さん。男の操は守る!
満身創痍の俺はふたたび自転車にまたがり、とりあえずアパートに向かった。

午後三時五分前。
 しかし、俺はアパートには向かわなかった。また、体が勝手に反応したからだ。白い物体は俺の胴体やケツに潜んでなかった。奴は脳の中にいたのだ。
“頭を借りるよ”
 ちょっと待てよ!
 俺の叫びは俺の頭の中に届かず、俺は街の中心にある都市銀行の正面玄関に到着した。
閉店間際の銀行だ。
この時間だから、俺が今から何をやらかそうとしているのか分かる。
銀行強盗だ。しかも、素顔丸出しで手ぶらだ。
俺はアホだ。いや、アホなのは俺に憑いてる奴だ。
アホによって、俺は操り人形にされている。つまり、俺はアホ以下だ。
 俺の脳が命令する。今からこの銀行を襲えと。
 俺の本当の脳が制御する。やるなと。
 だが、頭から血を流して白い物体を追い出さないと、俺自身を止められない。今までは、両手両足を傷つけて、自分自身が起こすであろう犯罪をギリギリで止めることができた。 今度の白い物体は頭部に住み着いている。傷つけるとどうなるのか?
 ヘタすれば死んでしまうのではないか。
 手足のときと違って、今回は体の動きをなかなか止められない。
自転車を下りた俺は一歩、二歩と銀行の入口に近づいて行く。やはり、脳から神経への命令は強烈だ。早くどうにかして頭に傷を付けて血を流さないと、俺は強盗犯にされてしまう。おそらく、一円も盗れないで捕まるだろう。もちろん、盗るつもりなんかないのだけど。
捕まったとき、頭の中に変な奴が憑りつきましてと言っても、警察は信じてくれないだろう。

 自動ドアが静かに開いた。
俺は閉店間際の銀行に入った。
いきなり、後ろから羽交い絞めにされた。
 なんだ? 早いじゃないか!
俺が強盗をやることは俺の脳しか知らないはずだぞ。
「静かにしろよ」後ろから男の低い声がした。
 一言もしゃべってないのに、静かにって何だよ。
 俺は素顔で手ぶらだぞ。なんで、強盗犯だと分かったんだよ。
「お前は人質だ」
 ――えっ?
 俺は行内を見渡した。
 行員も客も両手を頭の上に乗せて立ち尽くしている。
 カウンターの上に目出し帽をかぶった男が乗り、ライフル銃を手に行員たちを見下ろしている。
 げっ、本物の銀行強盗だ!
 カウンターの男が天井に向けてライフルを発射した。
 行内に轟音が響く。
 げっ、本物のライフル銃だ!
 割れた蛍光灯と、穴が開いた天井の破片がパラパラと落ちてくる。
 俺は後ろの男に突き飛ばされて、同じく人質になっていた中年のおばさんの足元に転がった。
「お兄さん、大丈夫?」おばさんが小さく声をかけてくれる。
 入口の電動シャッターが音を立てて下りて行った。
「えーと、俺はどうすればいいのかな?」
転がったままの俺の頭は混乱する。本当の脳が混乱する。

 白い物体に支配された脳は健在だった。つまり、俺の意に反して、俺の体を動かしてくる。
俺はおばさんの足元から立ち上がると、さっき羽交い絞めにしやがった男の元へフラフラと歩いて行く。
 待てよ、俺! 危ないじゃないか、俺! 止まれよ、俺!
 男が俺に気づいた。
「じっとしてろ、人質! 両手を頭の上に乗せるんだ!」
 俺は命令に従わない。俺ではなく、脳に入り込んだ物体が従わない。
 素直に従え、俺!
こいつは本物の強盗だぞ!
 俺はその男のすぐ目の前にまでやって来ると、口が勝手なことを言った。
「俺は人質側の人間じゃなくて、強盗側の人間なんですよ」
「意味が分からん」
「仲間に入れてくださいよ」
「人質を仲間に入れるわけないだろ」
「だったら、俺が強盗をやるから、お宅ら二人が人質になってくださいよ」
「なんで強盗犯が人質になるんだ。おかしいだろ」
 俺も自分が言ってることはおかしいと思う。
 だが、俺が言ってるのではなく、言わされてるんだ。
誰も信じないだろうけど。
「あのライフルを俺にくださいよ」
「あれはさっきアニキが天井に向けて撃ったから、もう弾は入ってない」
「なんで一発しか装填してないんですか?」
「人に当たったら気の毒だろ」
 カウンターの上に乗って、現金を袋に詰めるように指示をしていた目出し帽男が、
俺たちの変なやり取りを聞きつけた。
「おい、さっきから何をゴチャゴチャ言ってるんだ!」
 叫んだとたん、目出し帽男が足を滑らせてカウンターから落ちた。
 その瞬間、ライフル銃が暴発した。
 銃弾が俺に向かって来た。
 弾は一発だけじゃないのかよ!
 信じられないことに、飛んできた弾は俺を避けてくれた。
いや、少しだけこめかみをかすって行った。
 
 カウンターの下で伸びている目出し帽男と、呆然と立っているもう一人の男を勇気ある行員たちが取り押さえた。二人の犯人は観念したのか抵抗はしない。他の行員もあちこちに電話をしたり、散らかっている現金を仕舞ったりしている。人質も安どの表情を浮かべている。
俺はというと、かすって行った弾丸のため、こめかみから血が流れ出ていた。血とともに白い物体も流れ出たことが感覚で分かった。
遠くからサイレンの音が聞こえ、入口の電動シャッターが上がって行く。人質たちが外へ出ようと、シャッターの前に行儀よく整列した。俺もその後ろに並んだ。

午後四時。
 俺はドサクサに紛れて銀行を後にした。自転車に乗って、あのお堂に向かう。途中でコンビニに寄って帽子と接着剤を買った。帽子をすぐにかぶって、こめかみの傷を隠した。
 今日は散々な目に遭った。すべてはあのお堂のせいだ。いや、やっぱり俺のせいだ。俺があのお札を剥がしたからだ。お札はお堂の中に白い物体を閉じ込めていたんだ。それを剥がしたから、俺の口の中に五個の物体が飛び込んだんだ。
その物体もどこかへ行ってしまった。
責任は俺にあるが、原因はあのお堂にある。もう一度、お堂に行くべきだ。もっと早く気づけばよかったのだが、次から次に変なことが起きて、対処するのに精一杯で、元凶であるお堂のことまで頭が回らなかった。
俺は石段を登って、お堂の前に到着した。やはり推定三百段はキツい。両手両足と頭部を負傷しているのだから尚更だ。たたずんだまま呼吸を整える。
そもそも、これは何のお堂なんだ?
この山頂はどういう場所なんだ?
俺はお堂の周りの林の中を探索してみた。電灯なんかないため、夜になるとこの辺りは真っ暗になるはずだ。だが、日暮れまではまだ時間がある。木々が生い茂っているとはいえ、木の間から陽が少し差し込んでいる。
獣道さえもない場所の草木をかき分けて進んだところで、一基の朽ち果てた石碑を見つけた。
“刑場跡”と書いてあった。

 ここは処刑場だったのかよ!
どうりで気味が悪い。こんな狭い所でよく刑を執行したものだ。だから誰も登って来ないし、案内板もないし、お団子屋さんもないんだな。これで石段が整備されてない理由も分かった。
 ここで刑が執行されたとして、お墓はどこにある? 遺骨はどこへ行った?
林の中を歩いたが、見つけたのはこの石碑だけだ。
これは石碑だけではなくて、お墓も兼ねているのか?
それとも各自の遺骨は故郷へ送られたのか?

だが、お堂の中に何もなかったのはどういうことだろう?
昔は仏像の一体でも安置してあったのかもしれない。それを盗賊が盗んで行ったという推理はどうか。だから、成仏できない魂がお堂の中にいる。
ということは、俺の体内に入り込んだ白い物体は犯罪者の魂か? 
まあ、五個とも出て行ったからいいか。
 魂は肉体がない。だから、俺が痴漢をしたり、万引きしようとしたり、人を蹴飛ばそうとしたり、道路に飛び出してイタズラしたり、強盗を働こうとしたりしたのは、俺の肉体を借りて、その罪人たちの欲望を満たすためだったのだろう。
ヘタしたら、誰かを傷付けるか、誰かが死んでいたかもしれない。偶然とはいえ、血を流すことで、体から魂が抜けて行くことが分かってよかった。

 俺はお堂の前に戻った。
観音開きの扉は開いたままで、お札は下に落ちていた。
俺が今朝、来たときのままだ。お札が風でどこかへ飛んでいたらどうしようかと思っていたのだが、ちゃんとあってよかった。
俺は扉を閉めて、お札を接着剤で貼り付けた。
「これで良し!」もう出てくるなよ。
俺は帰ることにした。
だが、全身は傷だらけで、足元はまだふらついていた。
――わっ!
よろけた拍子に、封印したばかりのお札へ手がかかり、バリッと剥がれた。
音もなく扉が開き、小さくて丸くて白い物体が五個飛んできて、また体内に入ってしまった。
 俺は左手を見つめて、声がするのを待った。

                                                                 (了)
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