【完結】俺の好きな人は誰にでも優しい。

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闇から逃げた先で

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 虚ろな表情のまま、フィリオン様はゆらりと俺のほうへ歩み寄ってきた。足取りは覚束ないのに、その進路だけは異様なほど正確で、迷いがない。
 その様子に、ヒューゴは反射的に一歩前へ出る。俺を背に庇うように立ち、盾になるつもりなのが一目で分かった。
 だが、その仕草すら気に食わないと言わんばかりに、フィリオン様はヒューゴの存在を視界から消した。そこに人がいないかのように、視線は一切向けられない。ただ俺だけを見据え、ゆっくりと手を伸ばしてくる。

 空気が凍りつく。
 その指先が触れたら、何かが決定的に壊れてしまう――そんな予感が、胸を締め付けた。

 次の瞬間、ヒューゴがその手を強く阻んだ。伸ばされた腕を掴み、間に割って入る。ふたりの腕がぶつかり、抑えきれない力がせめぎ合う音が、静かな夜に鈍く響いた。
 俺は息をのむ。ヒューゴの背中越しに見る彼の瞳は、なお虚ろなまま、それでも確かに怒りと執着を宿していて、逃れられない現実として、そこにあった。

「ロランは私のものだろう…?なぜそんな男の後ろにいるんだい…?さぁ、私のもとへおいで」

 虚ろな表情のまま、彼は口許だけでうっそりと笑った。その笑みには温度がなく、人の感情に伴うはずの揺らぎもない。
 ただ形だけをなぞったような歪みが、闇の中で浮かび上がっている。あまりにも異常で、背筋に冷たいものが走った。
 そこに、俺の知っている彼はいなかった。胸の奥に大切に仕舞い込み、思い出になったはずの初恋の面影は、跡形もなく消えている。目の前に立っているのは、似た顔をしたまったくの別人だった。

 恐怖に喉を締め上げられ、俺は声を失う。ただ震える視線で彼を見返すことしかできない。
 その代わりに、一歩前へ出たのはやはりヒューゴだった。俺を完全に背に庇い、警戒と嫌悪を滲ませた低い声で、はっきりと言い放つ。

「それ以上、コイツに近寄るな」

 その言葉は短く、鋭く、拒絶の意思を一切の余地なく突きつける。夜の冷気の中で、ヒューゴの背中だけが、今の俺にとって唯一の現実の壁として守ろうとしてくれていた。

「あぁ、ロラン…早く私たちの部屋に帰ろう?そしてまた今日も、触れ合って気持ちよくなろう?そうすれば最後には私の腕の中で君は安心した顔で眠るんだよ」
「…ッ、てんめぇ…」
「おいで、ロラン。さぁ、はやく」

 こちらへ伸ばされる腕が、鎖のように見えた。絡め取るための金属の輪が連なり、逃げ道を塞ぎながら迫ってくる幻影が、否応なく脳裏に焼きつく。
 口角は不自然に吊り上がっているのに、その声には拒否を許さない圧があり、まるで「逃がさない」と宣告しているかのようだった。

 これほどまでに、はっきりとした恐怖を感じたことはない。胸の奥がきゅっと縮こまり、息を吸うことすら忘れそうになる。後ずさろうとした足は、恐怖に縫い止められたように動かなかった。

 今、頼れるのは目の前に立つ背中だけだ。
 ヒューゴの広い背中が、俺と闇との間に壁のように立ちはだかっている。
 けれど、その壁さえも、今にも砕かれてしまいそうな予感が拭えない。鎖が音もなく伸び、背中ごと絡め取ってしまう未来が、ありありと想像できてしまうほどに、その瞳はあまりにも冷たく、残酷だった。

「ろらん」

 名を、ゆっくりと低い声で呼ばれた――その瞬間だった。
 ヒューゴは唐突に動く。躊躇の欠片もなく俺の腕を掴み、強く引いた。咄嗟のことで足が縺れ、転びそうになりながらも、無理やり前へと引きずられる。

 逃げるのだ。彼から。

 そう察した瞬間、胸の奥で冷静な思考が悲鳴を上げた。無謀だ。
 この広くもあり、同時に逃げ場の限られた学園の中で、俺たちが身を隠せる場所などたかが知れている。追われれば、いずれ行き止まりに行き着く。逃げ続けることなど、できるはずがない。

 それでも今は、ヒューゴの選択に縋るしかなかった。
 考える暇はない。ただ腕を引かれるまま、必死に足を動かす。冷え切った夜気が肺を刺し、視界が揺れる。祝福されるはずの新年の夜を切り裂くように、不穏だけを連れて、俺たちは走った。
 新年に似つかわしくない闇の中を。追ってくる気配を背に感じながら、ただ前へ、前へと。

 ヒューゴの向かった先は、学園の敷地内ではなかった。石壁の外、学園の正門前に止められていた一台の馬車へと、迷いなく駆けていく。
 その意図を理解する間もなく、俺は引きずられるようにして、闇に口を開けた馬車の中へ吸い込まれた。
 飛び乗った瞬間、扉が勢いよく閉じられる。夜の冷え切った空気を遮断するかのような重い音とともに、外界との境界が断ち切られた。瞬く間に馬車はぐらりと揺れ、あっという間に走り出す。

 俺は激しい息切れのまま、椅子に倒れ込むように身を預けた。肺が悲鳴を上げ、喉が焼けつく。必死に空気を吸い込み、吐いて、また吸う。酸素を求めるその動作すら、思うように整わない。
 額にはじわりと汗が滲み、冷たい車内の空気に触れてひやりとした。
 このままどこへ行くのか――そんな考えが浮かぶ余裕もなく、俺はただ、逃げたという感覚だけを胸に抱えたまま、荒い呼吸を繰り返していた。

「大丈夫か?わりぃな、強引だとは思ったが、最善の策だったろ」
「…はぁっ…は、ありがとう…こ、怖かった…」

 肩で激しく息をする俺とは対照的に、ヒューゴは汗ひとつかいていなかった。乱れた様子も見せず、涼しい顔のまま、そっと身を屈めて俺を覗き込む。その仕草には、さきほどまで彼を覆っていた激しい怒りの影はどこにもない。
 あるのはただ、静かで、切実な心配の色だけだった。眉がわずかに寄せられ、視線は俺の呼吸の速さを確かめるように、注意深く追っている。

 まるで先ほどの出来事が幻だったかのように、馬車の中は不思議なほど穏やかだ。
 その落差に戸惑いながらも、俺は荒い息の合間からヒューゴを見上げる。彼の表情が本物だと分かっているからこそ、胸の奥に、遅れて震えが広がっていった。

「ど、どこへ向かっているの…?っていうか、どうしてあそこに…?いつ学園に帰ってきてたの…?」
「大丈夫だから落ち着け。オレはあんたのそばにいるし、質問にはしっかり答えてやっから。ほら、先に水飲め」
「あ、りがと…」

 手渡された水筒を受け取り、俺はごくごくと音を立てて水を飲んだ。乾き切っていた喉に冷たい水が流れ込み、肺に張り付いていた焦燥が、少しずつ洗い流されていく。
 数口飲み終えるころには、視界の端の揺れも収まり、乱れていた呼吸もようやく本来のリズムを思い出した。

 ふう、と一息つく。するとヒューゴの指先が、そっと俺の額に触れた。滲んでいた汗を拭い、張り付いていた前髪をさらりと撫で付ける。
 その何気ない仕草が、ひどく近くて、優しくて――胸の奥がまた不穏に跳ねかけた。
 変な動悸が始まる前に、俺は慌てて姿勢を正し、椅子にきちんと座り直す。背筋を伸ばし、距離を保つことで、どうにか自分を現実へ引き戻した。

 馬車が進むたび、規則正しい揺れが尻に伝わる。その振動が、不思議と余計な感情を削ぎ落とし、冷静さを呼び戻してくれた。
 闇の中を走る馬車の音に身を委ねながら、俺はようやく、今この場所にいる自分を実感していた。

「で、本当にどこに向かってるの?勢いで学園を出てきちゃったけど…こんなたまたま馬車が用意されていたのもおかしいし、元からあそこに準備させてたの?」
「準備させてたというか、この馬車でつい数十分前に学園に着いたばっかだったんだよ。あんたと年越しパーティーでダンスを踊る約束、果たそうと思ってな。一度アイツのせいで失くなりかけたが、あんたが学園に帰るなら絶対に踊ってやると思った」
「えぇ…?じゃあついさっき俺の実家から学園に着いて、また学園を出たってこと?」
「そ。本当はすぐにでもあんたを追いかけようとしたが…ちーっとあん時のことが気に食わなくてよ。少し頭冷やしてから行こうと思ったら、あんたの兄貴たちにこき使われた挙げ句、もう一度あんたを連れ戻してこいと言われて馬車を飛ばしたが…途中で事故があった道に入っちまってギリギリ、ダンスタイムには間に合わなかったっつーわけ」
「そ、それは兄たちがごめん…でもあそこにいたのは?」
「あんたとアイツが並んで歩いてくるのが遠目に見えてな。なんか変な空気だったから様子見してたら……耳を疑うような話が聞こえてきて思わず声かけちまった」

 責めるような響きを滲ませた声にドキリとする。まるで浮気が見つかったかのような新妻の気持ちになり、なぜこんなことを感じてしまうのかと頭が混乱した。

「とりあえず、またあんたの実家にとんぼ返りするあいだ、言い訳でも聞かせてもらうぜ?」

 ヒューゴは、にひるな笑みを浮かべた。
 それは安堵の表情でも、冗談めいたものでもない。どこか鋭く、奥に棘を隠した笑みだった。
 俺はその瞬間になってようやく悟る。彼の怒りは消えたのではない。ただ、形を変えて、静かに沈んでいただけなのだと。
 先ほどまで見えていた激しさが影を潜めた分、その底にあるものは、かえって測りがたい。

 馬車は暗い道を進み続ける。外は夜、内もまた夜。逃げ場のない密室で、長い、長い時間を、俺たちはふたりきりで過ごすことになる。
 フィリオン様と共に揺られた時間と同じ分だけの時間なのに、まったく別の空気を吸うことになる。

 そのあいだに、きっとすべてを暴かれる。そんな予感が、確信に近い重さをもって胸に落ちた。
 馬車の揺れに合わせて、にひるな笑みが視界の端で揺れ続ける。新年の夜は、まだ終わる気配を見せていなかった。


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