【完結】俺の好きな人は誰にでも優しい。

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案外、友情に熱い男

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 馬車の揺れの中で、俺はヒューゴと見つめ合っていた。視線を外そうとしても、狭い車内ではそれすら叶わない。逃げ場のない距離と、揺れに合わせて近づいたり離れたりする空気が、居心地の悪さをいっそう際立たせる。
 動いている馬車からも、そして何より、彼の視線の強さからも、俺は逃げられなかった。にひるな笑みは消えているのに、その眼差しだけが、俺を捉え続けている。

 胸の奥で、何かが諦めに似た形へと変わった。ここまで来て、黙り続けることに意味はない。
 俺は小さく息を吸い込み、観念したように唇を開く。この夜の続きを、避けることはもうできないのだと、はっきり理解しながら。

「…貴族の中には家令に性欲を発散させる人たちも多いって聞いたんだ。フィリオン様も俺にそれを求めて…俺は、拒絶しきれなかった」

 俺の言葉を聞いた瞬間、彼のこめかみに、はっきりと青筋が浮かぶのを認識した。
 感情を押し殺そうとしているのだろうが、その努力とは裏腹に、内側で怒りのマグマが沸々と上昇しているのが手に取るように分かる。
 馬車の揺れとは別の熱が、狭い空間に満ちていく。空気が重くなり、息をするのがわずかに苦しい。
 彼はまだ何も言わない。ただその沈黙こそが、怒りの深さを物語っていた。

 遊び人として知られる彼が、性的なことでここまで露骨に感情を揺らすとは思っていなかった。その意外さに、俺は一瞬、思考が逸れる。案外――自分のことは差し置いて人の貞操だとか、そういうものには妙に厳しいのだろうか。
 そんな取り留めのない疑問が浮かぶほど、彼の怒りは生々しく、そして俺に向けられているという事実が、胸に突き刺さる。

「……どこまでした?何をされた?」
「別にそんな大したことじゃない。ただ性器を触れ合わせたり擦り合いしたり…それと、首を吸われたり噛まれたりしたくらい。優しいほうだったと思う」
「あぁ?どこが優しいっつーんだよ!あんたの好意を利用して拒否できないことを利用して、良いようにされてんじゃねーか!」

 ヒューゴの怒声が、鼓膜を叩いて痛い。音量だけではない。その声に滲む感情の荒さが、刃のように鋭く、耳の奥へ突き刺さってくる。
 不思議なことに――いや、痛ましいことに、性欲処理に使われた俺よりも、ヒューゴのほうがよほど傷ついた者のような表情をしていた。
 顔を歪め、歯を食いしばり、どうにもならない怒りと後悔を同時に抱え込んでいるように見える。その姿が、かえって胸を締めつけた。

「クソッ…!やっぱりすぐにでも追いかけるべきだった…!いや、あんとき、何としてでもあんたを引き留めてアイツの元に行かせなければよかった…ッ!」

 俺の痛みは、もう過去の出来事として沈めようとしているのに、彼は今まさに、それを自分のことのように引き裂かれている。
 守れなかったという事実が、彼の中で何度も反芻され、怒声となって噴き出しているのだと分かってしまったからこそ苦しい。

 怒鳴られているはずなのに、責められているという感覚は薄かった。むしろ彼は、彼自身を責めているようで、どうしようもない胸の痛みに襲われる。
 彼の怒りが、俺の傷よりも深く、そして新しいものであるように思えてしまって。

「…俺のためにそこまで怒ってくれてありがとう。でももう、大丈夫だよ。俺は――フィリオン様への恋心を、思い出に出来たんだ」
「っ…あんたのためなのか、自分のためなのか分かんねぇのが余計にムカつくが……思い出に出来たっつーことは、もうアイツを好きじゃねぇのか?」
「うん…たぶん。フィリオン様とエヴァドネ様のダンスを見て、心からふたりの婚約を祝福する気持ちがわき上がってきたんだ。だからこそ、もう性欲処理として使われたくないと思った。ひとりの家令として、見てほしいと思ったんだ」
「……あんたがアイツへの恋心を捨てられたんなら、それは良かった。――だが、それとこれとは別だ。アイツがあんたにしたことをオレは許せねぇ……わりぃが、オレはアイツへの復讐心を捨てるどころか、さらに増しちまったわ」

 憎悪を深めていくヒューゴの様子に、俺は拭いきれない違和感を覚えていた。怒りの向かう先が、あまりにも切実で、個人的すぎる。
 彼は、これまで多くの女性と軽い関係を重ねてきた遊び人だ。別れ際に振り返ることもなく、感情を置き去りにした行為を重ねてきたはずだ。
 そんな彼が、なぜ俺の尊厳のために、ここまで激しく怒るのだろう。

 フィリオン様に最後まで踏み越えられたわけでもない。世間には、同性同士でも割り切って欲求を発散させる者がいる、という話も聞いたことがある。
 そうした関係の延長のようなものだと捉えれば、彼にとっては取るに足らない戯れ――お遊戯のような出来事で済んでもおかしくないはずだ。
 それなのに、彼は傷ついた者のような顔で、怒りを剥き出しにしている。その温度差が、どうにも腑に落ちない。

 ヒューゴの怒りは、正義感などでは説明がつかない。むしろ彼に正義感のようなものがあったことに驚きだ。
 しかしこれはもっと個人的で、もっと深いところから湧き上がっている気がして――俺はその理由に、まだ名前を与えられずにいた。

「ヒューゴって…案外、友情に熱い男なんだね」
「あ?」
「だって、俺の貞操をそこまで大切にしてくれていたなんて思わなくて。遊び…経験豊富なヒューゴからしたら、俺とフィリオン様がしたことなんて大したことないでしょ?俺をゆ、友人…だと思ってくれているからそんなに怒ってくれているのかなって…」
「……」

 そう指摘した途端、彼は不自然なほどに黙り込んだ。怒声も、荒い息も、ぴたりと途切れる。まるで言葉を忘れてしまったかのように。

 そして浮かべたのは、これまで一度も見たことのない表情。困惑――それだけでは足りない。
 まるでまったく知らない言語を突然投げかけられ、意味を探して思考が空回りしているような顔。あるいは、何の覚悟もないまま目の前に財宝を差し出され、価値を理解する前にただ呆然と立ち尽くしているような、そんな顔だった。

 口はわずかに開いたまま、言葉が出てこない。視線は俺を捉えているのに、焦点が合っていないようにも見える。
 怒りに染まっていたはずの気配が、行き場を失い、宙に浮いたまま固まってしまったかのようだ。何とも言い表しがたい沈黙が、馬車の中に落ちる。
 俺の一言は、彼の感情のどこか――触れてはいけない部分を、思いがけず叩いてしまったのかもしれない。もしくは。

「あ、あれ…俺たちってやっぱり…友人、ではなかったりする?あはは、そうだよね、ごめん…勘違いしてた」

 また俺は、勘違いをしようとしていたのかもしれない。ここまで親身になって怒ってくれるから、俺をそれなりに大切な友人だと思ってくれているのかと考えたが、それは俺の見せる願望だった可能性が高い。
 そもそも俺とヒューゴは、平民と貴族なのだ。彼が気さくな様子で俺の実家にまで姿を現し、居座ったことでその境界線が無意識に曖昧になってしまっていた。
 ここら辺でまたしっかりと、線引きをする必要がある。しかしそうすると、俺たちの関係を表すのにふさわしい名前は、何ひとつ思い浮かばなかった。

「――友人?オレと、あんたが?」
「い、いや!それは違うよね!ごめんごめん、調子に乗ってた。俺とヒューゴは…共犯者というか、秘密を共有した仲ってだけで、対等な関係にはなれないってこと、きちんと分かってるよ」
「…いや、対等は対等だろ。オレたちに身分の差だとかそんなもんはねぇ」
「え…そ、そう?でもヒューゴの反応的には…」
「うるせぇ。オレはあんたを…将来の助手にしてやろうと思うくらいには気に入ってるし、あんたを傷つけられて怒るのは…当然のことだ。何もおかしなことなんかねーよ」

 まるで自分自身に言い聞かせるように、ぶっきらぼうな言葉を吐いた男の顔を、俺はしげしげと眺めた。
 怒りを押し殺すための言い訳のようにも、感情を整理するための独り言のようにも聞こえる。
 よく見ると、頬がわずかに赤い。気のせいだろうか――そう思うほどの微妙な色づきだ。
 瞳は落ち着きなく泳ぎ、腕を組んだまま、人差し指だけがトントンと忙しなく動いている。その仕草が、内心の動揺を正直に語っていた。

 だが、その表情も長くは続かなかった。何かに引き戻されたように、顔つきが一気に険しくなる。眉が寄り、口元が強く結ばれ、先ほどの迷いは奥へ押し込められた。
 彼は考え込むように視線を落とし、再び口を閉ざした。その表情を見て、ふと脳裏にフィリオン様の声が蘇る。

『――ヒューゴ本人が、自分の皿に毒を盛ったのではないか、という疑惑。つまり、自作自演だね』

 義姉が勘当宣告されるきっかけとなった事件の真犯人が、自分に毒を盛ったのがヒューゴ自身だなんて、やはり今の彼を見ても信じられない。

 そもそも――矛盾するのだ。『自分の思いを受け入れなければヒューゴを殺す、と書かれた文が届いた』というフィリオン様の言葉と。
 確かに文はただの脅しで、義姉は本当にやっていない可能性が高いのかもしれない。でも、だからといってヒューゴの自作自演が真っ先に疑われるなんておかしい。
 それに、ヒューゴは毒を盛られたから他人の手料理を食べられなくなったのだ。まさかそれまで事件を隠すための演技だとでも言うのだろうか。そんなわけがない。

 フィリオン様は、嘘に嘘を重ねている気がしてならない。ヒューゴの手を振り払わず、彼から逃げ出してきてしまった俺は家令として完全に失格だが、心は分かっていたのだ。

 ――ヒューゴが正しい、と。

 本当は彼に直接、実家に急遽帰った理由を聞ければいいのだろう。だが、ヒューゴは過去に毒を盛られたことを俺に話していない。毒を盛った犯人が義姉だとされたことも知らない。
 だからフィリオン様に言われたことが本当かどうかの事実確認ができない。でもそんなことをせずとも、俺はヒューゴが自分に毒を盛るとは考えられなかった。
 フィリオン様の言葉に惑わされず、俺は俺の信じたいものを信じる。

 そんな俺が信じたいと思った彼は、馬車の揺れの中で、未だ言葉にならない何かが、彼の胸の内で重く蠢いている――そんな気配だけが、静かに伝わってきた。


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