【完結】俺の好きな人は誰にでも優しい。

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初めて入る貴族の家

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 様子のおかしいヒューゴを、しばらく黙って眺めていた。険しい表情の裏で、何かを必死に噛み砕こうとしているような、その横顔を見ているうちに、ふとまた一つの記憶が浮かび上がる。

 ――首の後ろにつけられた、あの痕。

 フィリオン様に指摘されるまで、俺自身まったく気づきもしなかった口づけの痕。あれがきっかけで空気が歪み、疑念が膨らみ、ついには性欲処理という事態に転がり落ちたのだ。

 すっかり忘れていたが、そもそも不自然だった。ヒューゴは、なぜ俺にあんな痕を残したのだろう。眠っている間につけられたのは、ほぼ間違いない。だが、だからこそ分からない。
 衝動だったのか、思惑があったのか。それとも、無意識の何かが手を動かしたのか。俺に見せるためでも、他人に見せるためでもない、あの位置に――何を考えて、何のために。

 考えれば考えるほど、胸の奥がざわつく。怒りでも恐怖でもない、名前のつかない違和感。
 俺は、その答えを知りたいと思った。ヒューゴが、共に眠った数日間の夜、俺に何を見ていたのかを。

「あのさ…なんで俺の首裏に痕をつけたの?」
「…ッそ、れは…」
「何か思惑があったの?それとも無意識?フィリオン様に言われるまで全く気付かなかった。俺が眠った後につけてたってことだよね?何のために?」
「……」

 俺が問いかけると、彼はぴたりと黙り込んだ。
 悪戯が見つかったときや、宿題を忘れたことを先生に指摘されたときの子供のように、気まずそうな表情で口を一文字に結んでいる。
 いつもの余裕や荒々しい態度は影を潜め、その沈黙がかえって分かりやすい。
 俺は思わずきょとんとした顔をつくる。責めるつもりも、追い詰める気もない。ただ理由が知りたいだけだ。そう伝えるように、真っ直ぐな目で彼を見つめ、その答えを待った。

 馬車の揺れが、ふたりの間の沈黙を引き延ばす。彼は視線を逸らしたまま、言葉を探しているようだった。
 やがて何かを覚悟したように喉を鳴らすが、それでもまだ口は開かない。その逡巡こそが、あの痕に込められた感情の重さのように思えた。

「…ヒューゴ?言いたくない?てっきり寝惚けてとか、口寂しくてとかそんな理由かと思ってたんだけど…なにか深刻な理由でもあるの?」
「……分からねぇ」
「え?」
「オレにも分からねーから答えられねぇ。それだけだ」
「分からないの?じゃあやっぱり寝惚けてたってことか」
「……寝惚けてはねぇけど、そういうことにしておいてくれ」

 珍しく歯切れの悪い物言いに、俺は思わず首を傾げた。あのヒューゴが言葉に詰まるなど、あまりなかった。けれど、本人にもはっきりとした理由が分からないのなら、これ以上問い詰めても答えようがないのだろう。
 そう思って、俺は諦めることにした。深く息を吐き、椅子に身を預けるように座り直す。張りつめていた背中が、ようやく革張りの背もたれに触れた。

 馬車の揺れが、また一定のリズムを刻み始める。未解決の疑問は胸の奥に残ったままだが、今はそれ以上掘り下げる気力もなかった。
 俺は視線を前へ戻し、ただ静かに、流れていく夜に身を委ねることにした。

***

「おい、起きろ。……おい」

 肩を揺さぶられ、浅い闇の底から引き上げられるように目を開けた。どうやら、いつの間にか眠り込んでしまっていたらしい。
 至近距離でヒューゴが顔を覗き込んでいて、その近さに一気に眠気が引き剥がされる。ぼやけていた思考が、輪郭を取り戻していった。

「……あれ、着いた?」

 掠れた声でそう呟き、目を擦りながら馬車の外へ視線を走らせる。窓の向こうには、淡く染まり始めた朝焼けの空が広がっていた。夜は明けている。だが――そこに広がる景色は、見慣れた実家のものではなかった。

 胸の奥に、小さな違和感が生まれる。俺は説明を求めるようにヒューゴへと向き直った。
 彼は一瞬、言葉を探すように視線を逸らし、それから後ろ髪をわしゃわしゃとかき混ぜる。いつもの軽さとも違う、どこか居心地の悪そうな仕草だった。そうして観念したように息を吐き、ようやく口を開いた。

「あんたの実家に戻ろうとしたんだが…どうやら途中の橋が雪崩に巻き込まれて通行止めになっちまったみてーだ。あんたの実家には行けそうにねぇから、行き先を変更してオレの実家に来た」
「え!?ヒューゴの実家って…男爵家ってこと?」
「おう。とりあえず疲れただろ。家ん中に案内すっから行くぞ」
「う、うん…!」

 学園の隣町にある実家へ戻るには、必ず一本の橋を渡らなければならない。だがその橋が雪崩に呑まれ、通行止めになったとなれば話は別だ。
 残された道は気の遠くなるような迂回路だけで、丸一日を費やしてようやく辿り着けるかどうか――そんな距離になる。
 それでも、まさかヒューゴの実家に来てしまうとは思わなかった。

 胸の奥で、不意に変な動悸が跳ね上がる。理由の分からない緊張に、頬の筋がこわばった。ヒューゴに支えられながら馬車を降りると、冷えた朝の空気が一気に肌を撫でる。
 視線を上げた先にそびえ立っていたのは、威圧感すら覚えるほどの屋敷――男爵家の館だった。
 朝焼けを背にしたその建物は、これから始まる何かを黙して告げているように見え、俺は知らず息を呑んだ。

 高く積まれた灰色の石壁は長い年月を経た重みを湛え、角ごとに施された装飾は過剰にならぬ気品を保っている。
 城と呼ぶには小ぶりだが、屋敷と呼ぶにはあまりに威厳があり、ここに住まう家の格を無言のまま示していた。

 正面の鉄門をくぐると、手入れの行き届いた庭が広がる。冬の朝にしては珍しく、低木や生け垣はきちんと刈り揃えられ、雪の名残が白い縁取りのように枝葉に残っていた。
 常緑の木々は冷気の中でも深い緑を失わず、凛とした佇まいで屋敷を囲んでいる。ところどころに置かれた石のベンチや小さな噴水は、かつてここで穏やかな時間が流れていたことを思わせた。

 庭の奥、緩やかな砂利道の先に屋敷の正面玄関がある。重厚な木製の扉は鉄の金具で補強され、朝の光を受けて鈍く輝いていた。
 窓は左右対称に並び、分厚いカーテンの奥に人の気配を忍ばせているように見える。
 この庭も、この屋敷も、華美さよりも実用と品位を重んじて築かれたのだろう。
 静まり返った空気の中で、男爵家という名にふさわしい重さが、そこにはあった。

「すごい…貴族のお屋敷に来るのは初めてだけど、こんなに立派なんだね」
「これでも貴族の最下層だから大したことねぇよ。ほら、足元すべっから気を付けろ。手、出せ」
「ぁ、ありがとう…」

 男爵家の玄関前に辿り着くと、石畳で組まれた数段の階段が行く手を遮った。夜の冷え込みが残した朝の氷が薄く張り付き、光を受けて静かに危険を主張している。足を踏み出せば、簡単に滑り落ちてしまいそうだった。
 それに気付いたヒューゴが、手を差し伸べる。咄嗟の仕草だったのだろうが、その動きには迷いがなかった。俺は一瞬だけ躊躇い、胸が小さく跳ねるのを感じながら、その手を取った。

 触れた掌は思ったよりも温かく、冷えた朝の空気の中でやけに存在感がある。互いに視線を交わすこともなく、ただ慎重に一段ずつ階段を上る。
 その短い間、足元の氷よりも、繋いだ手の感触のほうがやけに意識に残っていた。

 ヒューゴが鉄輪を持って扉を叩く。こんな朝早く、しかも何の前触れもなく訪ねてきたのだ。屋敷はまだ眠りの中にあり、誰も起きていなくて当然の時間帯だった。
 しかし、さすがは男爵家というべきか。扉の隙間から、使用人のひとりが用心深く顔を覗かせる。その視線がヒューゴを捉えた瞬間、空気が一変した。驚きと安堵が入り混じった表情のまま、彼は慌てて扉を押し広げる。
 重厚な扉が勢いよく全開になり、屋敷の奥から温かな空気と、整えられた静謐が流れ出してきた。まるで、主の帰還を待ちわびていたかのように。

「ヒューゴ様…!学園で新年を過ごされるはずでは…」
「ちと事情があってな。学園の休暇が終わるまでこっちで過ごすわ。すぐに温かい部屋を用意してコイツを通してくれ。オレはキッチンへ行ってホットミルクを作る」
「かしこまりました。すぐに準備して参ります」

 ヒューゴの指示を聞き入れた使用人は、俺たちを扉の内側に招き入れたあと、そそくさと立ち去っていく。
 飲み物ひとつすら使用人ではなく自分で作るのかと感心し、しかしすぐにそうしなければならない理由を思い出して眉を下げた。

「どうした、まだ寝惚けてんのか?ホットミルク飲んだらふかふかのベッドで寝かしてやるからもう少し目開けとけ」
「…貴族の家に初めて入ったからその凄さに圧倒されているだけ」
「くくっ、ならいいけどよ。減るもんでもねーし、好きなだけ見とけ」

 そうヒューゴにからかうように言われるがまま、俺は男爵家の内観に視線を走らせる。
 高い天井を支える梁は落ち着いた色合いに磨かれ、年月を経た木と石が放つ重厚な気配が、この屋敷の格を無言で物語っている。
 足元には磨き込まれた大理石の床が広がり、朝の淡い光を受けてほのかに艶めいていた。壁際には装飾を抑えた燭台が等間隔に並び、火は入っていないにもかかわらず、そこに灯るはずの光を想像させる静かな威厳がある。

 正面にはゆるやかな曲線を描く大階段が伸び、深い色の絨毯が一段一段に敷かれていた。その先はまだ眠りの中なのか、奥へ続く廊下は静寂に満ち、遠くからかすかに時計の規則正しい音だけが響いてくる。
 飾られた絵画や花瓶は過剰に主張することなく、家の歴史と品位を淡々と示していた。ここは人を圧倒するための場所ではなく、迎え入れるための玄関なのだと、そう思わせる落ち着きが、屋敷全体に行き渡っていた。

「お待たせしました!お部屋へご案内致します」
「あんたは使用人に着いていけ。オレはホットミルク作ってから行く」
「分かった。ありがとう」
「こちらへどうぞ」

 ヒューゴと別れ、俺は使用人の背を追って屋敷の奥へと進んだ。廊下に並ぶ調度品や壁を飾る装飾のひとつひとつが、静かに値段を主張してくるようで、視線を向けるたびに息が詰まる。
 誤って触れでもしたら取り返しがつかない。そんな思いが先に立ち、自然と肩はすくみ、歩幅も小さくなった。

 磨き上げられた床に靴音を響かせないよう気を遣いながら、使用人の後ろを一歩遅れて歩く。屋敷は広く、どこまでも続くかのようなのに、人の気配は控えめで、その静けさがかえって落ち着かない。

 休暇中はここで過ごす、とヒューゴは気軽に言っていた。しかしその言葉とは裏腹に、俺の胸の内には早くも不安が巣を作っている。
 この豪奢な屋敷の中で、俺はどんな表情をして、どんな立ち位置で日々をやり過ごせばいいのか――その答えは、まだどこにも見当たらなかった。


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