【完結】俺の好きな人は誰にでも優しい。

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ファーストキスだったのに

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 通されたのは、つい先ほど暖炉に火が入れられたばかりの客間だった。まだ新しい炎がぱちぱちと音を立て、赤橙の光が壁や調度品の陰影を柔らかく揺らしている。
 客間――そう呼ぶには、俺の知るそれとはあまりにも隔たりがあった。置かれたソファひとつとっても、張りのある生地と洗練された意匠が漂わせるのは、否応なく背筋を正させるような高級感だ。

 使用人に促されるまま、そのふかふかのソファに腰を下ろす。身体は沈み込むほど心地いいはずなのに、気持ちはちっとも落ち着かない。暖炉の熱が足元から伝わってくるのに、胸の内だけが妙に冷えている。
 俺は無意識に手を膝の上で組み、扉のほうへと視線をやった。ほどなく戻ってくるはずのヒューゴを待ちながら、ここにいること自体が場違いなのではないかという思いが、ほんの少し胸を締めつけていた。

 ほどなくして、ヒューゴは湯気を立てるマグカップをふたつ手に、客間へ戻ってきた。白い湯気が揺れながら彼の歩みに追いつくように漂い、室内に甘いミルクの匂いがふわりと広がる。
 艶を帯びた机の上に、ことり、と控えめな音を立ててカップが置かれ、俺は反射的にヒューゴへと頭を下げていた。

 その様子がよほど珍しかったのか、ヒューゴは一瞬目を瞬かせ、それから悪戯を思いついた子供のような笑みを浮かべる。
 次の瞬間、彼は俺の正面ではなく、ためらいもなく俺の隣に腰を下ろした。距離が一気に詰まり、ソファがわずかに軋む。
 肩が触れそうな近さに、心臓がまた妙に忙しくなる。ヒューゴはそんな俺の反応を楽しむように、何も言わず、ゆったりと背もたれに体を預けた。

「おら、まだあちーからふぅふぅしながら気をつけて飲めよ?あ、オレがふぅふぅしてやろうか?オニイサンたちにいつもやってもらってんだろ?」
「なっ、誰に聞いたの!?」
「ロザリーさんが教えてくれたぜ。あんたは猫舌だからって兄貴たちが勝手にふぅふぅして冷ましてるらしいじゃん?ロランちゃんがもう子供じゃないって一回ぶちギレてからは反省したふりしてまたやろうと企んでるらしいぜ」
「いつの間に…にぃにたちめ…」
「にぃに?」
「あっ、ち、違うから!」
「くくっ、顔真っ赤だぜ。なに焦ってんだよ」

 子供のころ、兄たちをひとまとめにして「にぃに」と呼んでいた。その癖が、思わず口をついて出てしまったことに気づき、俺ははっとして言葉を飲み込む。今さら取り繕っても遅いのに、顔がじわりと熱を帯び、視線が宙を泳いだ。

 ヒューゴはというと、そんな俺の様子を横目で捉え、まるで新しい玩具を見つけた子供のように目を輝かせている。愉しげで、逃がす気など毛頭ない表情だった。
 俺はその視線から逃れるように、慌ててホットミルクへと手を伸ばす。カップにそっと息を吹きかけながら、湯気と一緒に、頬に集まった熱まで冷えてくれと願った。
 けれど白い湯気は儚く揺れるばかりで、胸の高鳴りも、顔の火照りも、なかなか収まってはくれなかった。

「あちっ」
「おい、だから気を付けろっつっただろ?まだはえーよ、ばか。舌、出せ。見せてみろ」
「ら、らいじょうぶらもん…」
「いーから見せろって」

 羞恥心を隠そうとするあまり、勢いでカップに口をつけてしまった。けれど、舌に触れたのは甘さよりも先に、じんと刺すような熱だった。思わず短い悲鳴が漏れる。
 するとヒューゴは呆れたような、それでいてどこか本気で心配しているような顔をして、俺の手からマグカップをさらった。次いで、強い指で顎を取られ、顔を無理やり彼のほうへ向けさせられる。

「ほら」

 そう言って、彼は自分の舌をわずかに出し、真似をしろと視線で促す。その仕草があまりにも子供じみていて、俺は一層恥ずかしさを募らせた。
 強がって何か言い返そうとしたが、ひりひりとした舌の感覚は正直で、何より彼の有無を言わせない圧に抗えない。
 結局、俺は観念して、同じように舌を出してみせた。彼はそれをじっと確かめるように夕陽のような瞳で見つめる。
 その夕陽が徐々に近付いてきた、と思ったときにはもう――ゼロ距離だった。

「……?」

 ―――キス、されてる?いや……舌を、舐められてる?

 そう思った刹那、全身の血が炎に炙られたように沸騰する。俺は反射的にぎゅっと目を閉じ、彼の視線から逃れる。
 胸元に手を当てて押し返そうとするが、ヒューゴの力はびくともしない。顎と首の後ろを支える手は、逃げ道を塞ぐように確かだった。

 近すぎる距離。息がかかるほどの近さに、空気が震える。触れ合う感覚に背筋がひりつき、未知の温度に戸惑う。彼の舌はひやりとしているはずなのに、触れ合うたびに熱を帯び、境界線が曖昧になっていく。
 こぼれた息が静かな客間に溶け、鼓動の音だけがやけに大きく響いた。彼がわずかに動くたび、肩や腰がぞくりと反応してしまう。
 その一瞬一瞬が、俺にとっては初めてで、理解する前に身体が覚えてしまいそうで――ただ、息を殺して耐えるしかなかった。

「っ…はぁ、な、んで…」
「…?なんでだろーな。したくなったから?傷には唾つけときゃ治るって言うし」
「なっ…なな…あ、あなた…!」
「あー……わり、もっとしてぇから、させろ。あんたに拒否権はねぇ」
「!?」

 あっけらかんと言い放つ彼を前に、俺の口元がわなわなと震え出す。
 怒りなのか、動揺なのか、それとも胸の奥を焼くような羞恥なのか――自分でも震えの出どころが掴めない。ただ、内側で膨れ上がる感情が、今にも声となって噴き出しそうだった。
 叫び出してしまう、その一瞬手前。
 それを見越したように、彼は一歩踏み込み、逃げ場を塞ぐ。制するように、押さえ付けるように、再び、俺の唇を自分の唇で封じた。

 息が詰まる。思考が白く弾ける。
 けれど、その温度と触れ方は、さっきまでの治療の延長線上と呼ぶにはあまりにも違っていた。
 これは、誤魔化しでも応急処置でもない。否応なく分からされる。

 今度こそ――これは、紛れもないキスだった。

「っ…ん、ぁ」
「…もっと口、開けろ」

 言われるがまま、無意識に口を最大限に開く。彼の舌が、俺の口内を好き勝手に行き交う。
 不意にさっき火傷したばかりの火照った舌先に触れられるたび、ビリビリと痺れるような刺激が走り、視界が揺れた。

 息の仕方さえ分からなくなり、彼の腕からも、その支配的な温度からも逃げられない。
 頭は次第に霞んでいくのに、体の奥だけがぞくりと敏感になっていく。
 どうして、なんでこんなことを――そう考えようとした矢先から、思考は溶け落ち、形を結ぶ前に消えていく。

 抵抗する術も、拒む言葉も見つからない。
 俺はただ、彼の舌に翻弄されるがまま、流されていくしかなかった。

「は、ぁ…ん…っ」
「……あー、あんたのその顔…やべぇな」

 ほどなくして、唇は解放された。
 名残惜しそうに離れたその瞬間、俺たちの唇のあいだを橋のようにつないでいた銀の糸が、彼の口元の動きにつられて、ぷつりと音もなく途切れる。

 まだ定まらない視界の中で、彼の表情が滲む。それは、今まで一度も見たことのない顔だった。
 獲物を前に本能を露わにしかけた獣のようでもあり、衝動を押さえ込もうとして必死に耐えている人間のようでもある。あるいは、自分自身の行動に戸惑い、理由を見失っているかのようにも見えた。
 はっきりしているようで、どこか曖昧。
 欲望と理性の狭間で揺れている、その矛盾を孕んだ表情から、俺は目を離せずにいた。

「なぁ…アイツともこんなこと……したのか?」

 ふと、ヒューゴの纏う空気が変わった。耳の奥で、ぎり、と歯軋りの音が確かに響く。
 さきほどまで熱を帯びて揺れていた瞳に、剣呑な影が差し込み、刃のような鋭さを帯びていく。その変化を感じ取った瞬間、背筋を電流が走った。
 さっきまで得ていた甘美さとはまるで別種の、逃げ場のない緊張。ぞくりとした痺れが首筋から脊椎をなぞり、身体の芯へと落ちていく。

 さっきまでとは違う意味で、俺は、本能的に悟っていた。今、彼の中で何かが、決定的に切り替わったのだと。

「…それを聞いて、どうするの?なんで…キス、なんかしたの」
「オレの質問に答えろ。アイツともキスしたのかって聞いてんだよ」

 答えることから逃げようとした俺を、決して逃がさないと言外に告げるように、彼の声は鋭さと冷たさを帯びた。低く落とされたその一言一言が、針のように耳に刺さる。

 首の後ろを掴んでいた指先に込められた力は容赦がなく、逃げ道を完全に断つ強さだった。
 その手は饒舌で、言葉以上にはっきりと語っている。口を開くまで決して離さない、と。

 喉が鳴る。背中を伝う緊張が、冷たい汗となって滲んだ。
 俺は彼の手の中で身動きもできず、否応なく、その視線と問いに向き合わされることになった。
 出し渋ることでもないと思い直し、視線を僅かに伏せて口を小さく開いた。

「…してない。フィリオン様が俺に求めたのは…性欲処理だけ、だから。キスなんて必要なかったもん」
「ふーん…アイツとキス、したかったか?」
「……あのね、ヒューゴ。俺、フィリオン様への恋心を思い出に出来たんだ。もう…フィリオン様を恋愛感情で好きだと思い続けることはないよ」

 俺がそう告白した瞬間、ヒューゴは切れ長の目を見開き、隠しきれない驚きを露わにした。いつも余裕を纏っているその表情が崩れるのを、俺はまじまじと見てしまう。
 ぐっと、また顔の距離が詰まる。吐息が触れるほど近くで、彼はわずかに口角を持ち上げた。その笑みは、抑えきれない感情が漏れ出したようなものだった。

「……マジで?」

 そう溢したヒューゴの声には、疑いよりも先に、確かな喜びが滲んでいる。それを感じ取り、胸の奥が熱くなり、俺は迷いなく頷いた。
 言葉はいらなかった。その小さな仕草だけで、俺の答えは十分すぎるほど伝わっていた。

「やったじゃん。これからはロランちゃんも、恋愛をしねぇ人生を送ろうぜ」

 その言葉が耳に入ってきた途端、俺の思考はぴたりと止まった。まるで時間だけが取り残されたみたいに、頬が不自然な形で固まる。

 屈託なく笑うヒューゴの笑顔が、視界の中でゆっくりと歪んでいく。
 さっきまで確かに感じていた熱が、嘘だったかのように冷めていくのが分かった。
 胸の奥がズキリと痛み、その痛みは容赦なく告げてくる――もう、遅いのだと。

 俺は必死にそれを押し殺し、乾いた作り笑いをどうにか口元に貼り付けた。曖昧に、誤魔化すように笑ってみせる。
 その笑顔の裏で、何かが静かに音を立てずに崩れていくのを感じながら――さっきのキスが、俺のファーストキスだったことに、今さら気付いた。


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