【完結】俺の好きな人は誰にでも優しい。

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元旦とは思えない静けさの屋敷

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 扉の開閉音に引き戻されるように、意識が現実へと浮かび上がった。
 いつもならば起きる時間にようやく眠りについたせいか、身体にはほとんど休んだ感覚が残っていない。まだ重たい瞼のまま、もう一度眠ろうと寝返りを打つ。
 しかし背中に伝わるベッドの柔らかさと、包み込むような心地よさに、ふと引っかかるものを覚えて瞼を持ち上げる。

 見慣れない綺麗な部屋が視界に入り、ここがどこなのかを思い出した途端、眠気は潮が引くように急速に遠ざかっていく。
 代わりに胸の奥に残ったのは、はっきりとした現実感と、目を覚ましてしまったことへの静かな諦めだった。

「ロラン様、おはようございます。朝食のご用意が出来ております。ヒューゴ様も起きておりますので、お着替えをしてご用意下さいませ」
「は、はい!今すぐに!」

 声をかけてきたのは、朝早くに俺たちを屋敷内に入れてくれた使用人だった。俺は将来、彼のような立場になるのに、男爵家の客室のベッドの上で微睡んでいるわけにはいかない。
 勢い良く返事をしながら飛び起き、俺はそそくさと着替え始め、鏡を見ながら手櫛で寝癖を整える。これからヒューゴと対面するのかと思うと、その動きは無意識に緩慢になっていった。

 昨日……というより今朝、ヒューゴの実家である男爵家の屋敷に着いてからホットミルクを飲むまではまだ良かった。問題はホットミルクを飲んで舌を火傷してからのことだ。

 彼に舌を舐められ、キスをされた。その事実を思い出して、俺は小さくため息をついた。
 あれは、紛れもなく俺のファーストキスだった。けれど彼にとっては、ただの気まぐれで、火傷治療の延長線に過ぎなかったのだろう。

 そう思うと、胸の奥がじわりと痛む。
 キスをしておきながら、彼は無慈悲にも――もう、恋愛なんてくだらないことはするな、と暗に告げたのだ。
 直接的ではなく、だが、はっきりとそう伝わる言葉だった。

 普通なら怒りに染まってもおかしくない。けれど、俺は彼の過去を知っている。恋愛を遠ざける理由も、その裏にある傷も知っている。
 だからこそ、真正面から反発することもできず、俺は曖昧な笑みで受け流すしかなかった。
 あのあと、冷めてちょうどいい温度になったホットミルクを喉に流し込み、眠気を主張すると、この客室に通された。
 そして力が抜けたみたいにベッドへ倒れ込み、電池が切れたように眠りへ落ちたのだ。

 しかし眠りに沈む直前、同じベッドに彼も潜り込もうとしていたこと、そしてそれだけは必死に阻止したことを、ぼんやりと覚えている。
 それがせめてもの抵抗だったのか、それとも自分を守るためだったのか。その答えを考える前に、意識は深い闇に飲み込まれていき、目覚めた今に至る。

 準備を整えて使用人の後ろを続きながら廊下を歩く。朝食というよりは完全に昼食の時間だ。元旦であるはずの今日だが、男爵家の中はお祝いの気配もなく、ひっそりとしていた。

 通された食事の間は、過度な華美を避けつつも、家格にふさわしい落ち着いた威厳を備えていた。
 厚い石壁に囲まれた室内には、長年燻された木の香りが染み込み、低い天井からは鉄製の燭台が吊り下げられている。
 揺れる蝋燭の炎が、壁に掛けられた家紋入りのタペストリーを淡く照らしていた。
 部屋の中央には、無垢の木で作られた長い食卓。天板には無数の細かな傷が刻まれ、代々この家で重ねられてきた食事と会話の歴史を物語っている。
 背もたれの高い椅子は装飾こそ控えめだが、肘掛けや脚部にはささやかな彫刻が施され、身分の違いを静かに示していた。

 奥には暖炉が据えられ、薪のはぜる音とともに、室内にぬくもりを広げている。
 朝は粥や黒パンの香りが、夜には煮込みや肉料理の濃い匂いがこの部屋を満たすのだろうとうかがえる室内の椅子に、ヒューゴはすでに座っていた。

「やっと来たか、お寝坊ちゃん。今、オレの特性料理を運ばせてっから、早く座れ」
「…おはよう」

 やはり彼は、俺たちの間で交わされたキスなど最初から存在しなかったかのように、普段通りに振る舞っていた。昨夜の出来事を思わせる素振りは一切なく、軽い口調も、気安い態度も、何ひとつ変わらない。

 俺のファーストキスだったことなど、知る由もないのだ。遊び人の彼にとって、キスなんて取るに足らない行為なのだろう。
 そう考えた途端、胸の奥に苛立ちが燻り、食欲がすっと引いていく。それでも、今さら態度に出すこともできず、俺は無言のまま椅子を引いた。
 ヒューゴの正面の席に腰を下ろす。向かい合う距離は近いのに、昨夜の温度はもうどこにも残っていない。その事実が、妙に現実的で、余計に腹立たしかった。

 俺が席についたことを確認した使用人が静かに立ち働き、皿を整える。必要以上の会話は交わされない。
 俺は思わず彼らの行動を指先ひとつまで観察してしまう。本物の貴族の使用人を間近で見れる機会など滅多にない。
 彼らを空気のように気にする素振りもないヒューゴの態度に、彼はこの形が当たり前の日常で生きてきた貴族なのだと思い知らされる。

 焼き立ての黒パンと白パンの香ばしい匂いが立ちのぼる。卓の中央には木皿や錫の皿が並べられ、蜂蜜やジャム、小さな器に盛られた果実の保存食、柔らかく煮た豆や粥が置かれていく。
 卵料理や燻製のベーコンの皿とは別にチーズやバターが切り分けられると、使用人たちは一礼して部屋から去っていった。
 朝の栄養を補う料理たちを前に、さっき引いていった食欲がまた戻ってくる。全部食べきれるだろうかという贅沢な悩みを抱えながら、俺は感嘆のため息を溢した。

「これ全部…ヒューゴが作ったの?」
「蜂蜜やジャム以外はな。オレはパンには何もつけねぇからよ。おら、冷めねぇうちにさっさと食え」
「い、いただきます」

 促されるまま卵料理を口に運び、思わず目を細めた。ふんわりとした食感と、塩気のきいた素朴な味わいが舌に広がり、沈んでいた気分がすっと持ち上がる。
 もう時刻は午後だ。昨夜から何も口にしていなかった腹は、最初の一口で完全に目を覚ましたらしく、次はこれだとばかりに料理を求め始めた。

 俺は夢中で食べ進める。空腹が満たされていく感覚に身を任せているとふと、視線を感じた。
 顔を上げる勇気はなく、目だけを動かして確かめると、当たり前だがヒューゴと目が合った。
 そこにあったのは、からかいでも無関心でもない、やけに優しい眼差しだった。不意を突かれ、心臓が大きく跳ねる。
 何でもない顔を装いながら視線を逸らすが、胸の鼓動だけがうるさく主張していた。さっきまでの食欲とは別の理由で、喉が妙に渇いて仕方がなかった。

「な、なに…?あ、すっごく美味しいよ。どれも全部」
「んなこと言われなくても分かってる。あんたがオレの料理を食ってる姿を見んのは、気持ちがいーなって思っただけだ」
「…あのさ、ずっと気になってたんだけど」

 不自然な心臓の動きを誤魔化すように、水をごくりと飲んで喉を潤したあと。気になっていたことを聞くために、俺はフォークを元の位置に戻し、姿勢を正した。

「今日って元旦だよね…?えと…ご家族はどちらに?」
「あぁ、この屋敷には今オレたちしかいねぇよ。年末年始は家族揃ってあたたかい南の地方で過ごすのが恒例なんだと。オレは行ったことねぇけど」
「え、なんで?ヒューゴは行きたくないの?」
「毎回誘われるが、オレは学園で過ごすほうがいーんだよ。入学前はこの屋敷を独り占めしてる気分に浸ってたぜ。家族が行くのは南部にいる親戚が管理してる別荘だからな、オレは血縁上は親戚でもなんでもねぇし、あまり興味もねぇ」
「へぇ、そうなんだ…俺だったらこんな寒いところじゃなくてあったかいところで年明け出来たら最高だと思うけどな」
「んじゃ、来年の年末年始は実家に帰ったふりしてふたりで南部地方に行ってみっか。泊まるとこは探せばいくらでもあんだろ」

 当たり前のことのように、ヒューゴは来年の年末年始の話を口にする。まるで、次も同じ時間を共有するのが既定路線だと言わんばかりで、俺は思わず唖然とした。

 確かに、俺たちはまだしばらく学生の身だ。学園にいれば、友人として顔を合わせ、言葉を交わすことも続くだろう。それ自体は否定しようのない現実だ。
 けれど――年末年始まで共に過ごすのは、今年限りだと、俺は勝手にそう思い込んでいた。
 特別な時間は、特別だからこそ終わる。そうでなければ、胸のざわめきに理由がつかない。

 今年はあまりにも異常だった。
 感情が揺さぶられ、距離が狂い、踏み越えてはいけない線がいくつも曖昧になった。そんな今の続きを、何事もなかった顔で繰り返そうとする彼の無邪気さが、理解できない。
 来年も同じだなんて――その言葉に、なぜか期待より先に、言いようのない不安が胸に広がっていった。

「そーいや、あんたの実家には書簡を送っておいた。オレとまた帰ってくると思って待ってるだろうからな。橋が封鎖されちまったのも知ってるだろーし、たぶん察してると思うが念のために」
「あ、そういえば…いろいろありがとう。俺がいなくなった後も兄たちにこき使われた?」
「薪割りや雪掻きはもちろん、毎日三食しっかり作らされたぜ。ま、それが条件だからやってのけたけどよ」
「条件?あぁ、実家に寝泊まりするための?」
「……ま、そんなところだ。つーことだから、あんたはしばらくオレとこの屋敷で過ごすぞ。アイツが追っかけてくる可能性もあるが、アイツは男爵家の土地を踏めねぇしここなら心配ねぇ」
「男爵家の土地を踏めない?それはフィリオン様が?なんで?」

 どういうことだろうか、と首を傾げて見せる。するとヒューゴは齧っていたパンの残りをすべて口の中におさめ、咀嚼が終わると無造作に唇を手の甲で拭った。
 その野性的な仕草がさまになっていて、小さく胸が高鳴る。そんなことを知らない彼は、一息ついて、気合いを入れたように口を開く。

「忘れたか?姉貴はアイツに恋をして狂って自殺したんだ。勘当宣告をしていたとはいえ、義父にとっちゃ、可愛い一人娘であることに変わりはねぇ。伯爵家に不義を働いたとしても反省させていつか家に戻そうとしてたんだろうな。
 死ぬなんて思ってなかったから、義父は相当参ってた。アイツに手酷くフラれなきゃこんなことにもならなかったと、姉貴を慕っていた使用人含めて何人かはアイツを恨んでる。
 姉貴の墓はこの屋敷の裏にあるし、アイツが来たら姉貴も安心して眠れねぇだろうと、義父はアイツが男爵家の土地を踏むことがないようにしたんだ。伯爵家に不吉だからとか何とか上手く言って。簡単に言えば、アイツは出禁っつーわけ」
「なるほど…」

 話を聞き、俺は静かに腑に落ちた。
 娘を失った父親なら、それは当然の感情だろう。恋心だけでなく、結果として命までも奪ったフィリオン様を、恨まずにいられるはずがない。
 たとえそれが自ら命を絶った結果だったとしても、フィリオン様と出会わなければ、娘は狂うこともなく今も生きていた。そう思ってしまうのは、あまりにも自然だ。
 だからこそ、フィリオン様を二度とこの土地に踏み込ませたくない、その気持ちも痛いほど分かる。正しさや理屈では割り切れない、親としての感情なのだろう。

 俺はそっと、ヒューゴの顔色をうかがった。重い話題を持ち出してしまったことで、彼の気分を害してはいないだろうかと、不安がよぎる。
 けれど、彼の表情に変化はない。いつもと同じ、落ち着いた様子だった。
 それを確認して、俺は胸の奥で小さく息をつく。知らずのうちに強張っていた心が、ようやく緩んだ気がした。


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