【完結】俺の好きな人は誰にでも優しい。

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気付きたくない真実はチェスに隠す

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 この話題は一段落ついたと言わんばかりに、ヒューゴは何事もなかったようにベーコンを二切れ、ほとんど噛みもせずに飲み込んだ。
 その豪快さに一瞬だけ目を奪われつつ、俺も残っていた料理に再び手を伸ばす。

 けれど、頭の中に浮かぶのはフィリオン様のこと。
 彼から逃げるように学園を出てきてしまったが、俺たちが身を寄せられる場所など、そう多くはない。通行止めになった橋の情報を知れば、行き着く先は自然と絞られる。この屋敷に辿り着くことも、いずれ突き止められるだろう。
 もっとも、彼はこの土地に足を踏み入れることができない。それが唯一の救いであり、同時に不気味でもあった。

 次に彼は何をするのか。あるいは、何もしないという選択をするのか。
 どちらも想像がつかず、考えれば考えるほど思考は霧の中に沈んでいく。結局、はっきりしているのはひとつだけだった。
 休暇が終わるまで俺はここで過ごすのだろうという、ただ漠然とした予感として、そんな考えが胸の奥に居座っていた。

 朝食、時間帯的に言えば昼食を食べ終えると、俺はヒューゴの部屋に案内された。彼の部屋は、彼の性質をそのまま映したような空間だった。

 まず目に入ったのは、頑丈そうな木製の机。装飾はほとんどなく、傷や擦れがそのまま残っている。
 上に積まれている羊皮紙の束には、走り書きのメモや図が描き殴られている。骨格図、筋肉の走行、薬草の効能――几帳面とは言い難いが、必要な知識は確実にここに集められていた。
 壁際の棚には、料理の知識本や分厚い医学書がいくつも並べられている。高さや種類でしっかり仕分けされた棚は、以外にも彼が几帳面であることを教えてくれた。

 一方で、暖炉の隅には剣や外套が無造作に立て掛けられている。革のベルト、旅用の鞄、泥の落ちきらない靴。
 野性的な生活の名残が、片付けられぬままそこにある。ベッドは広く、毛布はきちんと畳まれることなく投げ出されたように置かれていた。

 屋敷全体で見ると高価なものに彩られているが、この部屋に華美さはない。だが、ヒューゴという男を語るには、これ以上ないほど正直な部屋だった。

「適当に座れ」
「…うん」

 とりあえず彼に着いてきたはいいものの、今朝のキスを思い出して選択肢を誤ったような気もしてくる。それを無理やり振り払うために、意味もなくじろじろと室内を見回した。

 ヒューゴの特徴、好きなものを体現している部屋だが、どこを探しても義姉の面影になりそうな物はない。
 たとえば彼女がくれたものや思い出の品、彼女を描いた肖像画などがあるのかと思っていたのだ。そこで俺は初めて、ヒューゴの義姉の顔を見たかったのだと気付く。
 彼が慕った義姉。しかし、彼に毒を盛った義姉。フィリオン様から聞かされた人物像とヒューゴから聞かされた人物像があまりに遠く、一体どんな人だったのか知りたいと無意識に思っていたようだ。

 人様の過去や家族関係について根掘り葉掘り聞くなど無礼にもほどがある。ましてや相手は貴族だ。
 俺は自分の口が変なことを聞こうとする前に、別の話題を用意した。

「俺、ご家族に挨拶もなしに居座っちゃって本当に大丈夫なの?使用人の方たちも俺を貴族だと誤解してない?」
「心配すんな。オレが誰かを連れてきたことなんかねぇから、嬉々としてあれやこれやしようとしてくるくらいだ。家族には帰ってきてから挨拶すりゃいーだろ」
「だったらいいんだけど…俺、この屋敷にただ居座るだけにはいかないから、何か出来ることない?家令として学ぶためにも使用人の方の手伝いを…」
「あ?あんた、アイツへの恋心捨てたんじゃねーのかよ?それでもまだアイツの家令になるつもりか?」
「え、当たり前じゃん。家令としてそばにいるために邪魔な恋心を捨てようてしてたんだから」
「それは利用されてると知る前の話だろ?しかも性欲処理にまで使われて。アイツの家令になんかなったら、いつまた襲われるか分かんねぇだろーが」

 ヒューゴの声が、次第に刺々しさを帯びていくのを感じ取る。そうだ、彼は見た目や態度に反して、案外情に熱い男なのだ。
 俺が、フィリオン様に人としてではなく、ただ都合のいい存在として扱われていたと知った今、平然と元の場所へ戻せと言われて納得できるはずがない。理屈よりも先に、感情が拒絶するだろう。

 低く抑えられたその声の裏に、怒りと、守ろうとする衝動が滲んでいるのが分かる。それに気付いてしまった途端、胸の奥が微かに痛んだ。

「フィリオン様にお願いしたから大丈夫だと思う。俺を家令としてそばに置きたいなら性欲処理はさせないで下さいって。その場面をヒューゴに見られたら…フィリオン様の様子がどんどん怖くなっていって逃げ出してきたわけだけど」
「完全にアイツ、狂い始めてたぞ。あんたを今のアイツの元に戻したらぜってー逃げ出せねぇよ。最悪、あんたを鎖にでも繋ぐんじゃねーか?」
「鎖!?そ、そんなわけ…きっとヒューゴにまた自分の物を奪われると思って警戒してたらあんな感じになっちゃっただけだと思うよ」
「確かにオレにあんたを奪われまいとする意思はすげー感じたな。案外、アイツが気付いていなかっただけで、あんたら両思いだったんじゃね?」

 彼の言葉を受けて、俺はばちくりと、やけにゆっくり瞬きをした。一拍置いてから、堪えきれないという風に、軽く笑い飛ばす。

「そんなわけないって!」

 考えすぎだ、と自分に言い聞かせるように。
 するとヒューゴも、何か引っ掛かるものを感じ取ったのか、まるで言ったことを後悔してるような、曖昧な笑みを浮かべた。
 その笑いは深追いを避けるためのもので、互いに踏み込まないための合図のようでもあった。
 言葉にしなかった思いだけが、その場に取り残される。けれど俺たちは、それ以上触れようとはせず、ただ同じ調子で笑い合ってやり過ごした。

「それより、久しぶりの実家なんだからやりたいこととかないの?俺のことは気にせず、好きなことして大丈夫だよ」
「あんたから目離せねぇから何かするとしたらあんたもだ。せっかく新年になったわけだし、また勝負でもすっか?」
「お、ここにもあるならやる?」
「ロランちゃんの実家にはなかったチェスもあるぞ。ルールは知ってっか?」
「チェスは貴族の遊びだもん。商人家にあるわけないでしょ。何となくしか知らないから教えてくれる?」
「いいぜ。こてんぱんにしてやる」
「初心者相手に本気になるとかダサいよ」

 そうして俺たちは、互いに何かに触れないよう、あえて視線を逸らすみたいにして、チェス盤を挟むことになった。
 貴族の遊びだというだけで少し浮き足立ち、俺はヒューゴの口から語られるルール説明に、思いのほか真剣に耳を傾ける。

 ひと通り理解したつもりで試しに指してみれば、結果は彼の予告通りだった。容赦なく、こてんぱん。
 一手先も読めていない俺に対し、ヒューゴは当然のように盤面を制圧していく。
 けれど、不思議と悔しさより先に感心が勝った。
 チェスは、俺が想像していた以上に奥深い。駒の動きひとつで形勢が変わり、読み合いが生まれ、負けるたびに「次はこうしてみよう」と思わせてくる。

 気付けば、負けては挑み、挑んでは笑われ、時にはからかい返しながら、夢中で盤に向かっていた。
 時間はいつの間にか溶け、笑い声が途切れることもない。夕暮れ時を知らせる気配が漂う頃になって、ようやく俺たちは顔を上げた。
 結局その日、俺たちは夕刻まで、何も考えず、ただチェスに興じ続けていたのだった。

***

 ヒューゴに連れられ、ロランに逃げられたフィリオンは、怒りという名の炎に全身を焼かれていた。

 昨夜の年越しの喧騒が嘘のように、元旦の昼を迎えた学園はひどく静まり返っている。
 夜更かしをした生徒の多くはまだ眠りの底にあり、廊下に人影はほとんどない。祝日特有の、現実感の薄い静寂が、建物全体を覆っていた。

 その中心で、フィリオンは一睡もせずに立ち尽くしていた。
 ロランの影がまだ残っている自室で、表情ひとつ動かさず、空中の一点を見つめている。瞳に映っているのは壁でも家具でもない、すでに現実とは別の場所だった。

 彼の頭の中で、ひとつの絵が、ゆっくりと描かれ始めている。
 恐るべき構図。逃げ場のない配置。感情に名を与えることすらできない男が、ただ執拗に思考を巡らせる。

 どうすれば、ロランを自分の元に置けるのか。
 どうすれば、ロランからヒューゴを引き離せるのか。

 それ以外の問いは存在しない。彼はそれらを何度も反芻し、脳裏のキャンバスに配置し、線を引き、修正し、より確実な形へと歪めていく。
 そこにあるのは愛でも欲望でもなく、支配への執念だった。
 理性も倫理も排された、暗黒の構想。救いのない、地獄のような絵。

 無表情のまま、フィリオンはそれを完成させようとしていた。
 ――自分が何を生み出そうとしているのかも、知らぬままに。


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