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男爵との初邂逅
しおりを挟む年始は、拍子抜けするほど穏やかに、そして瞬く間に過ぎ去っていった。
男爵家の屋敷の中で、俺とヒューゴはとにかく常に一緒にいた。チェスやボードゲームに興じ、彼が医学書を広げれば、その隣で俺は小説を読む。
台所に立つ彼の背中を眺め、気まぐれに手伝いを申し出ては、慣れない手つきで野菜を刻んだり、鍋を覗き込んだりもした。そんな時間は、笑顔に満ちていて、驚くほど静かで、温かかった。
――ある一点を除いて。
あの日以来、ヒューゴは俺にキスをしようとすることはなかった。
同じベッドに潜り込もうとすることも、夜更けに距離を詰めてくることもない。それどころか、ふとした拍子に触れてしまいそうになると、まるで無意識に避けるような仕草さえ見せる。
その違和感に気づかないほど、俺は鈍くなかった。けれど、それを「寂しい」と感じてしまう自分の心には、見て見ぬふりをした。
これは正しい距離なのだ。俺たちにとって、今はこれでいいのだと。
そう何度も、胸の内で繰り返し言い聞かせながら、俺は彼の隣で笑い、穏やかな時間の中に身を置き続けていた。
あまりにも静かに過ぎていく時間の中で、どうしても胸に引っかかるのはフィリオン様の存在だった。
彼が本当に、大人しく学園で俺たちの帰りを待っているだろうか。最後に目にした彼の姿は、闇に呑み込まれかけているようで、そこには執拗で、粘つく何かが確かにあった。
この穏やかな日々が、嵐の前の静けさなのではないか。
そう思い始めると、胸の奥に小さなざわめきが生まれ、それは消えることなく居座り続けた。笑っていても、チェス盤を挟んでいても、どこか意識の隅に影のように張り付いて離れない。
そんな不安を抱えたまま過ごしているうちに、学園へ戻るまであと2日という日が訪れる。その日、屋敷に馬車の音が響いた。
ヒューゴの家族――男爵家の一行が、南部から戻ってきたのだ。
静まり返っていた屋敷に、人の気配と声が一気に満ちていく。その喧騒の中で、俺の胸のざわめきは、まったく別の緊張へと形を変え、はっきりとした輪郭を帯び始めていた。
突然、彼の家族に挨拶する機会が訪れ、俺は一瞬で身をかちこちに固くした。
「居間で待ってろ」
そう言い残して去っていったヒューゴを見送ったあと、俺は借りてきた猫のように客間のソファへ腰を下ろし、背筋を不自然なほど真っ直ぐに伸ばしていた。だが、その緊張を支える糸は、今にもぷつりと切れてしまいそうだ。
何しろ、相手は男爵家。紛れもない、本物の貴族だ。
ヒューゴ自身も貴族ではあるが、普段の彼はあまりにも気安く、貴族らしさを感じさせない。だからつい、身分の境界線など最初から存在しなかったかのように錯覚してしまう。
けれど、商人家と男爵家とでは、立っている場所が明らかに違う。ここで失礼を働けば、個人の問題では済まされない。取引相手でなくとも、実家に余計な迷惑をかける可能性がある。
それにこの家は、優秀な医師を幾人も輩出してきた名門だ。王家との縁も深いはずで、その影響力は計り知れない。
とにかく、失礼のないように。そう自分に言い聞かせながら、俺は頭の中で何度も挨拶を反芻する。言葉遣い、視線の位置、礼の角度。思考が忙しく行き交う。
そのとき、客間の扉が開く音がした。
姿が視界に入るよりも早く、俺は反射的に、すくっとその場に立ち上がっていた。
扉の先から姿を現したその人。一目で分かった男爵家現当主――ヒューゴの義父は、室内に入った瞬間、空気の密度を変えるような人物だった。
背は高いがヒューゴよりは小さく、体躯は鍛え抜かれているというより、長年の責任を静かに背負ってきた者の落ち着いた重みがある。
深い色合いの上着は仕立てが良く、派手な装飾はないが、一目で上質と分かる。流行を追わず、家格と実用を優先する男の選択だ。
白髪交じりの髪はきちんと整えられ、口元には常に感情を抑えた線が引かれている。だが冷酷というわけではない。
緑色の瞳は鋭く、俺を値踏みするように見つめるが、その奥には医師の家系らしい観察眼と、命に向き合ってきた者の慎重さが宿っていた。
「君が…ヒューゴが連れてきたというロランか」
「は、はい!お目にかかれて光栄です、ファレル男爵様。商人家三男のロラン・フォードと申します。お留守の中、こちらでお世話になってしまいまして申し訳ありません」
「…ふむ。かけなさい」
声は低く、よく通る。大きくも威圧的でもないのに、不思議と逆らえない響きがある。感情を声に乗せることは少なく、必要なことだけを、必要な分だけ告げるタイプだ。怒鳴るより沈黙の方が恐ろしい、そんな種類の男。
ヒューゴとは、似ても似つかぬ男。血の繋がりがないのだから当たり前といえばそれまでだが、やはりヒューゴはこの家の中で異端な存在なのだと思わせる。
「ロランちゃん、んな固くなんなよ。いつも通り自然体でいろって」
「ヒューゴ、この子とふたりきりで話がしたい。お前は外に出てなさい」
「はぁ?いきなり帰ってきてふたりきりにしろだなんて、聞くわけねぇだろ。豹と子猫を同じ檻に入れるようなもんじゃねーか」
「悪いようにはしない。ただ彼と話がしたいだけだ。出てなさい」
「…チッ。コイツになんかしたら許さねぇからな。ロランちゃん、何かあったら大声で叫べよ。近くにいっから」
「う、うん」
まさか男爵から、早々に「ふたりきりで話がしたい」と切り出されるとは思ってもみなかった。胸の奥がきゅっと縮み、緊張に冷や汗が背を伝う。
助けを求めるようにヒューゴへ視線を投げたが、彼もまた義父の前では逆らえないのだろう。わずかに眉を下げ、渋々といった様子で客間を後にしていった。
使用人が静かに茶器を置き、音もなく扉を閉める。そうして、文字通り男爵と俺だけが部屋に残された。男爵が先に腰を下ろすのを見届けてから、俺もソファに浅く身を預ける。
張りつめた空気が肌にまとわりつき、喉がからからに渇く。無意識に唾をのみ込み、これから投げかけられるであろう言葉を待ち受けた。
「そう緊張しなくて大丈夫だ。この客間に来るまでのあいだ、ヒューゴから君について簡単に聞かせてもらった。大変だったようだな」
「ご、ご子息には大変お世話になっております…!突然の訪問にも関わらず、ここまで厚待遇をして頂き恐縮するばかりでございます」
「家令科にいるそうだな。……伯爵家の令息、フィリオン様の家令になりそうだとか」
「…はい。お声をかけて頂き、学園を卒業したら伯爵家に勤めさせて頂く約束をしております」
「ふむ。ヒューゴとフィリオン様の関係は知っているか?」
「い、異母兄弟、であることは存じております。こちらの男爵家には養子で入られたと」
「なるほど。ヒューゴの義姉については?」
「ぞ、存じております…」
次々と投げ掛けられる質問に、俺はひとつひとつ言葉を選びながら丁寧に答えていった。だが、その内容はいずれも微妙な均衡の上に成り立つものばかりで、少しでも踏み外せば取り返しのつかない地雷を踏み抜いてしまいそうだった。
男爵の視線は穏やかに見えて、その奥では何かを量るように鋭く揺らいでいる。
――この人は、俺から"何か"を引き出そうとしている。
そう悟った瞬間、背筋に冷たいものが走った。手のひらにはじっとりと汗が滲み、指先がわずかに強張る。
沈黙が落ちるたびに、男爵の次の一言を予測し、答えを何通りも頭の中で組み立て直す。俺はただ無難であることを願いながら、慎重に、慎重に言葉を紡ぐ。
「義姉について、どこまで知っている?ヒューゴからも、フィリオン様からも聞いたのであろう」
「は、はい。それぞれからそれぞれの視点の話をお聞きしました。フィリオン様を慕われたご令嬢が…その、自ら命を…」
「ヒューゴに毒が盛られたことは?」
「…ご子息の口からは直接お聞きしておりません。フィリオン様から、彼が人の作る料理を口に出来なくなった経緯を聞き及びました」
「やはりまだ本人は言っておらんか…ヒューゴに毒を盛った犯人は聞いたか?」
「…はい。フィリオン様からお聞きしました」
「ふむ」
まるで誘導尋問を受けているかのようだ、と内心で思いながらも、俺は結局、正直に答え続けていた。
けれど、答えを重ねれば重ねるほど、男爵の質問の意図はかえって霧深くなっていく。
何を確かめたいのか、どこへ辿り着こうとしているのか、その輪郭がまるで掴めない。困惑は胸の奥で膨らんでいった。
そもそも男爵家にとって、触れられたくないはずの過去だ。初対面の男、それもまだ学生の身である俺に、なぜそんな話をさせるのか。理解が追いつかない。
男爵の眼差しは終始落ち着いているが、自ら命を絶った娘のことを口にするだけでも、本来なら耐え難いはずだ。それでもなお、彼は淡々と質問を重ねてくる。
そこにあるのは、感情ではなく、何か別の――大きな理由。そう考えると、俺はこの先に待つ会話の行き着く先を想像して、知らず喉を鳴らした。
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