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信じる心と一瞬の揺らぎ
しおりを挟む泣き止み、少しだけ心が落ち着いた頃、俺はフィリオン様から温かいココアを受け取った。両手で包み込むと、じんわりとした熱が指先から伝わってくる。時間をかけて、ゆっくりと飲み干すうちに、全身の震えも次第に静まっていった。
いつの間にか、手足を縛っていた痺れは消えている。思うように動かせるようになった体を起こし、俺は改めてフィリオン様へ視線を向けた。
「……お見苦しいところをお見せしてしまい、申し訳ありません。ココアも…いろいろと、ありがとうございます。でも……なぜ、俺はここに?自分の部屋にいたはずですが…」
目を覚ましてからずっと胸に引っかかっていた疑問を口にすると、彼は何も言わず、そっと俺の手を握りしめた。その指先は驚くほど優しく、温かい。
涙黒子をわずかに揺らしながら、彼は穏やかに微笑み、口を開いた。
「ロラン……君はもう、分かっているね?私と君の同室者であるピートが、繋がっていることを」
その言葉は、予想だにしていなかった形で、静かに彼の口から落とされた。思いがけない告白に、思考が止まる。まさか、彼自身の口からその事実を明かされるとは思ってもいなかった。
俺は唇をあの字に開けたまま、間の抜けた顔で固まってしまう。言葉も反応も、何ひとつ出てこない。
そんな俺の表情を見て、フィリオン様はさらに笑みを深めた。涙黒子をまた揺らしながら、彼はなおも言葉を重ねた。
「私は君と初めて会ったとき、君のお辞儀に心を奪われた。こんなにも純粋で綺麗なお辞儀をする子がいるのかと、衝撃を受けたんだ。すぐに君を、私の将来の家令にしたいと思ったよ。だからすぐに、君のことを調べ、おのずと同室者であるピートのことも知った」
彼の口からさらさらと流れ出る言葉を、俺はまるで川のせせらぎに耳を澄ますような心地で聞いていた。
「ロランの好きなものや趣味、性格を知りたかったが、君と直接、個人的な会話をするのは憚られた。自分の学園での立ち位置をしっかり理解していた私は、君を特別扱いしている場面を誰かに見られ、君が攻撃されることを懸念したんだ。だから、君のことを知るために、私はピートに近付いた」
意味を追うより先に、柔らかな声の抑揚が胸に落ち、思考は静かに流されていく。疑問も警戒も、水面に溶ける泡のように薄れていき、ただその音だけが、穏やかに意識を満たしていた。
「当時、彼が神学科希望だと知り、毎朝、学園内の端にある小さな教会でお祈りをしていることを知った私は、そこで彼に接触を試みた。そして彼が孤児院出身であり、より良い教会の修道士を目指していることを利用して、彼に取引を持ちかけた」
「……薄々、そうではないかと思ってました」
「さすがは同室者。やはりピートのしたたかさを君もよく分かっているね。そう、私は彼に…伯爵家次代当主としての権力を使って、彼を格式高い教会へ斡旋することを条件に、ロランのすべてを報告するよう、義務付けたんだ」
ピートが喜んで了承している図が思い浮かぶ。孤児院出身なのであれば、きっと貧困に苦しんできただろうし、彼にとって棚からぼた餅の幸運な話だろう。
悪く言えば友人を売った、とも見えるが、ピートは俺がフィリオン様に並々ならぬ想いを抱いていたことを知っていた。きっと、俺にとっても良いことだと思ったに違いなかった。
「そこまでして、私は君をほしかったんだ。……軽蔑するかい?」
「いえ…むしろ、そこまでして気を配って頂いたことを今まで知らずに、数々のご無礼を…」
「私がピートに強く口止めをしていたからね、仕方ない。話を戻すけど、今回のチロのことがあって、ロランが気絶するように眠ったとピートから報告があってね。
君たちの部屋では十分に休息が取れないと判断して、私の部屋に連れてきたんだ。……まぁ、ただ私が心配で心配で、君を近くに置いて見守っていなければ不安だっただけなんだけどね」
彼の表情や声色を、俺は注意深く追った。些細な揺らぎや、視線の逃げ場――けれど、どこをどう見ても、彼が嘘をついているようには思えなかった。
作り物の言葉特有の硬さも、取り繕うための間もない。それどころか、俺は思い知らされる。
彼が、俺の知らないところで、ずっと俺を気遣い続けていたという事実を。
侯爵令息の一件も、そうだった。俺が何も知らずに過ごしていた裏側で、彼は手を回し、俺を守ろうとしてくれていたのだ。気づかせないように、負担を感じさせないように。
ふと、エヴァドネ様からもたらされた事実を思い出す。確かめるなら、今だと思った。
「あの……俺はずっと、フィリオン様が…エヴァドネ様との婚約のために、俺を家令にしたいのだと思ってました」
「え……?そんなわけないだろう!なぜそんな勘違いを……」
「申し訳ございません…!俺、フィリオン様に利用されていると思い込んでしまって……」
「……そうだったのか。だから、君が私を見る目が少しずつ変わっていったんだね。ロランは、私の意思で私の家令にしたいと思った、唯一の人だよ。もう、誤解はないかな?」
「…はい。数々のご無礼を、本当に申し訳ありません」
布団に額を擦り付けるように深く頭を下げる俺を、彼のあたたかな手で制される。顔を上げると、彼は慈愛のこもった瞳で、俺を許すとでも言うように穏やかな笑みを浮かべていた。
これではっきりした。彼にとって"利用価値のある道具"だというのは、俺の思い込みに過ぎなかった。エヴァドネ様から聞かされた話でそれに気付き、彼が彼の本心で俺を欲してくれたのだと、今は素直に思える。
エヴァドネ様が言っていた"愛"はきっと、家令としての愛なのだろうけれど、彼の愛を別のものにすり替え、誤解したのは俺の過失だ。
彼にたいして確かに抱いた恐怖や危機感も、すべてが消えたわけではないが、俺はフィリオン様をひどく誤解していたのだと痛感する。
そして何より――彼は一度、チロの命を救ってくれた。その事実は、どんな疑念よりも重い。
ヒューゴのことを一度脇に置いて見れば、やはり彼は、俺がかつて好きになった通りの人間なのだと思う。思慮深く、誰にでも手を差し伸べる優しい心を持った人物だと、改めて胸に落ちてくる。
確かに、ヒューゴの自作自演を疑う余地があったと知った今、彼は嘘をついていたわけではなかった。情報が、古かっただけだ。
彼はきっと、良かれと思って俺に助言したのだろう。彼の視点から見れば、ヒューゴが危険人物に映ったとしても、何ら不思議ではない。本気で俺を案じていたからこその判断だったのかもしれない。
悪意ではなく、過剰なほどの心配。そう思えば、彼の言葉のすべてが、少しだけ違って見えた。
「それで、あの……チロの事件は今、どうなっているんでしょうか?」
「…君にはまた酷な話をすることになるけど…大丈夫かい?少し休んでからでも話は…」
「いえ、聞きたいです。教えて下さい」
「……分かった」
俺の内に固まった決意を感じ取ったのだろうか。
彼は一度、言葉を切った。わずかな沈黙のあと、瞳に冗談めいた色は消え、真剣な光だけが宿る。そのまなざしのまま、彼は静かに語り始めた。
――昨夜、複数の生徒から通報があった。チロの小屋がある石壁の外で、大きな物音がした、と。
騒ぎを聞きつけた生徒の中には、物珍しさと好奇心に駆られ、石壁の外へ行こうとした者もいたという。そのとき彼らは見た。
鉄柵の向こうから、ひどく慌てた様子で、学園の敷地内へと駆け戻ってくるヒューゴの姿を。
本来、鉄柵の前にいるはずの警備員は、その場にいなかった。別の場所で不審者らしき影を見たという通報が入り、持ち場を離れていたのだそうだ。
ヒューゴが逃げてきた、その先に何があるのか。確かめようと、複数の生徒が小屋のそばへ向かった。そこで彼らが目にしたのは、地に伏した、チロの亡骸だった。
羽は小刻みに痙攣し、体はすでに冷えきっていた。一目で、毒を飲まされたのだと分かる状態だったという。
居合わせた生徒の一人が医務室の先生を呼びに走ったが、駆けつけたときには、チロはすでに息を引き取っていた。
複数の生徒が、はっきりとヒューゴが逃げ去る姿を目撃していた。その状況証拠が重なり、彼は――第一容疑者となったのだ、と。
「……そんな」
「複数の生徒の中には優等生と言われる生徒もいて、証言は確かなようでね……私も、ヒューゴがやっただなんて、信じられなかったんだが…ひとりふたりでなく、何人も目撃者がいたとなると、否定するのも厳しい状況なんだ」
「ひゅ、ヒューゴは?ヒューゴはどうしているんですか?どこにいるんですか?」
「すぐに教師によって身柄を押さえられ、今は指導室で事情聴取に応じているそうだ。ただ、一貫して否定していて、怒声を浴びせながら暴れまわっているようだ」
話の内容を聞くかぎり、状況だけを並べれば、限りなくヒューゴが黒に近いことは否定できなかった。誰の目から見ても疑わしい。そう判断されても仕方のない材料が、揃いすぎている。
それでも、ヒューゴ自身が否定している。その事実ひとつだけで、俺の中では結論が揺らぐことはなかった。やはり、ヒューゴではない。
彼に、チロを害する動機など存在しない。むしろ、素行が悪いと噂されがちな彼だからこそ、罪を着せるには都合がよかったのではないか。そう考えた方が、胸の奥にすとんと落ちた。
なによりも、俺は知っている。ヒューゴが、そんなことをする人間ではないと。
疑う理由より、信じる理由の方が、はるかに多かった。そして俺は、彼を信じていた。
「…ヒューゴが否定しているのなら、俺も彼ではないと断言できます。ヒューゴは絶対に犯人じゃない。誰かに罪を着せられたに決まっています」
「――でも、複数の目撃証言があるんだよ?彼が走ってきた先に小屋があり、その前でチロは倒れていた。しかも痙攣していたのなら、毒を盛られて比較的すぐのことだ。小屋に辿り着く出口は鉄柵のみ。他に犯人がいたなら、犯人はどこへ消えたことになる?」
「そ、それは……分からないですけど、でも俺はヒューゴではないと信じます!ヒューゴが犯人でないと証明もしたいし、チロを手にかけた真犯人を探したいです。力を、お貸し頂けませんか?」
俺は、縋るようにフィリオン様の手を握り返し、その顔を見つめた。指先に伝わる温もりに、今にもほどけそうな心を必死につなぎ止める。
共に、真犯人を突き止めたい。かりにも、フィリオン様にとってヒューゴは異母兄弟なのだ。血の繋がりがある以上、彼の心にも同じ願いが芽生えているはずだと、俺は信じた。
きっと、心優しい彼なら分かってくれる。そう信じて、希望という名の細い糸を手繰り寄せるように、俺はフィリオン様の手にぎゅっと力を込めた。
「―――」
小さく、彼が口の中だけで、なにかを言ったような気がした。瞳に影が落ちたようにも思えて、一瞬、ギクリと身を強張らせる。
しかしそれはすぐに彼の微笑みによって身間違いだったと思わされた。彼は俺の手の上にもう一方の手を重ね、力を込めた。痛いほどに。
「もちろんだよ。私もヒューゴがやっただなんて、信じていない。確かにあいつは粗暴で口が悪くて遊び人だけど、尊い命を奪うような非道な真似まではしないはずだ」
――遊び人。その言葉に、一瞬、胸が詰まった。
脳裏に浮かぶのは、空き教室から出てきた、男女ふたりの影。乱れた服装と、過去の彼の発言。刹那、信じてきたものが静かに揺らぎ、足元が不安定になるのを感じた。
それでも俺は、必死に踏みとどまる。たとえヒューゴが、俺にキスをしたその唇で……ほかの女に、触れていたとしても。
それと、チロの件は、まったくの別物だ。混同するな。揺らぐな。
自分の心にそう言い聞かせるように、俺はフィリオン様の答えを聞いて、心底嬉しいとでも言うような笑みを浮かべた。
胸の奥に走った一瞬の揺らぎは、その奥深くに押し隠して。
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