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新年のお願いの答え
しおりを挟む昼休憩が終わる少し前、エヴァドネ様はやることがあるからと先に部屋を出ていった。出る直前、その視線が、一瞬だけ俺とフィリオン様のあいだをなぞった気がした。
もしかしたら、俺が話したがっていることを、察してくれたのかもしれない。そう思うと、彼女の気遣いと察しの良さに脱帽する。
ふたりきりとなった今なら、と思い、俺は今日の放課後にふたりきりで話したいことがあるから時間を作ってほしい旨をフィリオン様に伝えると、彼は快く了承してくれた。
そして、放課後。
約束の時間きっかりに、俺は彼の部屋の前に立っていた。扉をノックする指先が、かすかに震える。
ノックをして声をかけると、扉が内側から開く。彼は柔らかな笑みで俺を迎えた。
「よく来たね、ロラン」
その表情は、どこまでも穏やかだった。
新年のあの夜に見せた、熱を孕んだ眼差しも、抑揚のないどろりとした声も、そこには欠片も見当たらない。まるで何もなかったかのように。
そのことに、安堵すべきなのか、それとも――。
胸の奥に小さな違和感が灯る。
俺は一歩、部屋の中へ足を踏み入れた。
「嬉しいな、ロランから話がしたいと言ってくれるなんて」
「お時間を取って頂き、ありがとうございます」
「ロランのためならいくらでも時間なんて作るよ。それで、どうしたんだい?チロの事件で気になることや相談事でも?」
暖炉前のソファに向かい合うように座り、彼が優雅に足を組むのを見つめる。俺は膝の上で拳をふたつ作り、ぎゅ、と力を込めて首を振った。
「いえ。今日はチロのことではなく―――年越しパーティーの帰り道にした話の続きをしに参りました」
俺が彼の涙黒子を見ながらそう言うと、その涙黒子は弧を描いた。彼の目が細まる。それに怯えそうになる心に鞭を打ち、言葉を続けた。
「まだ、俺の"お願い"を聞いて下さるのかどうか、お返事を頂いていなかったことを思い出しまして……良かったら今、お聞かせ願えますか?」
俺の問いに、彼は複雑な表情を返した。笑いかけようとしたのだけど、なにか強い、大きな感情に、それを邪魔されたような。
しばらく、息遣いだけがやけに大きく響く、真空のような時間が流れた。
視線で押し相撲をしているような錯覚を起こしそうになった瞬間、空気に弛みが出る。彼が口を開く前兆だった。
「もし、私の答えが"否"だった場合は、どうするつもりかな」
「……残念ではありますが、誠に勝手ながら、フィリオン様の家令を辞退させて頂きたく思います」
半分嘘、半分本心だった。
出来れば、喜んでくれた兄たちのためにも、俺を気にかけ、可愛がってくれているエヴァドネ様のためにも、自分の将来の安定のためにも、フィリオン様の家令でいることに越したことはない。
しかし、ただひとり、強く反対しているのがヒューゴだ。性欲処理の道具として使われていた男の家令になるなど、彼は決して許さないだろう。
性的なことは要求しないと断言して貰えれば、もしかしたらヒューゴも渋々納得してくれるかもしれない。
ヒューゴとフィリオン様の確執を考えたら、たとえお願いを聞いてもらったとしてもヒューゴは納得しないかもしれない可能性はまだまだ高いが。
それでも、ヒューゴの心配を取り除くに越したことはなかった。
「もし私の家令を辞退したら、君は将来、どうするつもりなんだい?」
「…それは何も考えてませんが……まだ時間もありますし、家令科の全行程を修了するのに残り3年です。その中でゆっくり考えたいと思っています」
「果たして君を家令にしてくれる貴族の家はあるかな?もう君は、年越しパーティーの場で私の家令だと周知されていることを忘れたかい?伯爵家を蹴るなんて、どんな傲慢な人間なのか、どんな訳ありなのかと嫌煙されるだろうね」
盲点をつかれ、唖然とする。俺はなんだか、大きな鉄の玉でも呑まされたような気分だった。
どう考えても、彼の言う通りだった。むしろなぜそんなことも忘れていられたのか。自分の愚鈍さに呆れ果てる。
「……」
「ロラン、今の君はチロのことで思考力が鈍り、本来なら気付けることも見落としてしまうような精神状態なんだよ。だから、何も自分を責めることはないし、自分に呆れる必要もない」
「…お、れは…ただ…」
「大丈夫。この私が君の"お願い"を聞かないわけないだろう?ロランは性的なことが苦手なのだとよく分かったよ。だからもうあんなことはしない。君が嫌がるようなことはしないと約束するよ」
「え…?ほ、本当ですか?」
「もちろん。ごめんね、変なことをしてしまって。ただ私は君を気持ちよくしてあげたかっただけなんだ。自分の欲ではなく、君の欲を発散させようと思っただけ。
ロランがそれを必要としないのなら、する意味もないからしないよ。だからこれからも、私の家令として、そばにいてくれるね?」
「は、はい…!ありがとうございます!」
やはりフィリオン様は、話せば分かってくれるお方だったのだと思い直す。
きっとあの夜の異様な様子は、ヒューゴに数々のものを奪われてきた彼にとって、俺を奪われないための必死の抵抗だったのかもしれない。俺をヒューゴに奪われることを、恐れたのかもしれない。
彼の目に、ヒューゴに連れられて逃げていく俺の背中はどう映っていたのだろうか。
もしかしたら、彼を深く傷付けてしまっていたのかもしれないと、今になって考え付く。
「あの……今さらですが、あの日の深夜、突然逃げ出してしまい、大変失礼致しました…!」
ソファから勢いよく立ち上がり、机にぶつけそうな勢いで頭を下げる。すると俺の丸い頭部に、ぽん、とあたたかな掌が置かれた。
「君が私の元に戻ってきてくれたならそれでいい。私の家令として、一生そばにいてくれるのなら……それ以上に望むことは、何もないよ」
綿毛のようにふわりと降りる声。冷えた指先を温める湯気のような声。
俺は、やっと胸の蟠りがとれ、ほっと安堵の息を洩らした。これで心置きなく、彼の家令になれる。
――ヒューゴを説得することが出来れば、の話だが。
どうやってヒューゴを怒らせずに説得出来るだろうか、という思考に切り替わり、そしてすぐにそれよりも先に真犯人を見つけなければ、という思いに変わる。
真犯人を突き止めなければ、ヒューゴに自由は与えられず、最悪、正式に彼が犯人とされてしまう可能性がある。
フィリオン様が健全な家令として俺を見てくれるのなら、やはり真犯人について相談してみようかと思い始めた時にはもう、口を開いていた。
「それで……フィリオン様は、チロをあんな目にあわせた犯人の人物像について、どう思われますか?」
「そうだね、わざわざ毒物を使って何の利益にもならないチロを殺めたのは、チロを実験台にして本命は他にいるとか、さらにまだ犯行を続ける可能性が高いと思う」
「や、やっぱりそう思われますか!?…俺も、そうではないかと思っていたんです。それで…」
男爵家で聞いたことを話してしまいそうになるが、寸でのところで思い止まった。あの話は絶対口外してはいけなかったことを思い出し、うっかり口を滑らせそうになった自分に冷や汗が出る。
「それで?」
「え、えっと……ヒューゴが犯人だと思われている今の状況が、俺はとても嫌で。何としてでも、真犯人を見つけたいんです」
「……ロラン、気持ちは分かるがそれは危険だ。犯人はチロだけでは満足せず、誰か別の人間を狙っているかもしれない。毒もどのくらい所持しているかも分からない。
犯人の痕跡が残りにくく、簡単に殺せる毒を扱う犯人が、君が嗅ぎ回っていることを知ったら……間違いなく矛先は君に向く。頼むから、危険なことはしないでほしい」
「それは…分かっているんですが…でも、このままではヒューゴが冤罪に…っ」
「大丈夫。私が教師たちにはからって、ヒューゴ以外の人間で犯行時間に怪しい人物がいなかったか、調べてもらうよ。ヒューゴの目撃証言をしているという生徒についても、調べてみよう」
「本当ですか!?あ、ありがとうございます…!」
フィリオン様の言葉は、まるで出口の見えない迷路に差し込む一筋の光のように思えた。一気に出口が近付いた気がして、胸が希望に満ちる。
「だからロランは、真犯人に目を付けられないように、目立たずに大人しくしておくように。君に魔の手が伸びることだけは絶対に阻止したいから」
「…分かりました」
緑色の糸のことを思い出しながら、頷いていた。
手元にあったら手懸かりとしてフィリオン様に見せることが出来たのに、もうそれは封筒の中で今ごろ馬車に揺られているはずだ。
これを知られたら、まだ学園外には公せず学園内だけでおさめようとしているのに大事な証拠品を外に出したと思われ、厳罰は免れないだろう。
そうなったら、必ずフィリオン様の迷惑にも繋がる。今さらになって、とんでもないことをしてしまったのだと気付いたが、もう遅い。
もしかしたら、本当にただの糸くずで、たまたま世話係の誰かが服の裾を引っかけたのかもしれないし、小屋を調べた教師や警備員の物の可能性もある。
あの糸の正体さえ分かればおのずと答えは出るだろう。何の糸かも分からず証拠品だと騒ぐのは、新たな冤罪を生むかもしれない。
フィリオン様に話すのは、糸の正体が証拠品の可能性が高いと分かってからでも大丈夫だろうと思い、俺は兄たちの返事が来るまで、自分の中だけに閉まっておくことに決めた。
この決断が、後々、大きな分岐点となる。
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