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嵌められすれ違うふたり
しおりを挟むフィリオン様が部屋へ戻ってきたとき、扉の開閉さえどこか柔らかだった。
ほどなくして差し出されたのは、湯気を立てる蜂蜜入りのホットミルク。白磁のカップから立ちのぼる甘い香りが、張り詰めていた神経をわずかに緩める。
震える指でそれを受け取り、時間をかけて喉へ流し込むと、温もりが食道を伝って胸の奥へ落ちていった。声は、出ないまま。
フィリオン様はベッドの脇に腰掛け、静かに俺を見つめた。その眼差しは医師のように冷静で、それでいて主としての情が滲んでいる。
「泣いて声が枯れたというより、精神的なショックで声を失ったように見える。それほどのショックな出来事があったということだね?」
頷く。喉は沈黙したままだが、首の動きだけが答えになる。
「それは、チロの件に関わってるかい?」
首を横に振る。
「そう……そしたら、ヒューゴに関わることかい?」
その名が空気を震わせた。胸がひりつく。少しの間を置いて、小さく頷く。
「……あいつが、ロランを傷付けるようなことをしたということだね?」
その問いには、縦にも横にも、首を動かせなかった。
ヒューゴは、俺を傷付けようとしたわけじゃない。俺が勝手に部屋に踏み込み、勝手に目撃し、勝手に傷付いただけだ。そう思えば思うほど、何も言えなくなる。
沈黙を受け止めるように、フィリオン様はゆっくりと息を吐いた。
「どちらとも取れないならそれでいいよ。でももし……ヒューゴがこの部屋を訪ねてきたら、彼に会いたいと思うかい?」
その問いには、はっきりと首を横に振った。
今の俺に、彼の顔を見る勇気はない。あの瞳を前にして、平静を保てる自信など、欠片もない。
彼の前で無様に涙をこぼす姿など、見られたくない。見せたくない。
「分かった。もしもあいつが君を探して私のところへ来たとしても、追い返すから安心して。ロランは、私が守るよ。だって君は、私の家令なのだから」
穏やかな笑みとともに、指先が俺の髪をすく。その仕草は優しく、揺らいだ心を包み込むようだった。
俺は、口の形だけで「ありがとうございます」と伝える。音にはならない感謝。
フィリオン様は、柔らかく目を細めた。ちゃんと届いたのだと、その眼差しが教えてくれていた。声を失ったままの俺を、静かな温もりが包んでいた。
しかし――フィリオン様の言葉は、まるで言霊になったかのようだった。
静まり返っていた部屋に、ドンッ、ドンッ、と鈍く重い音が響く。壁を伝い、床を震わせるような衝撃。
怒りと焦りを孕んだそれは、フィリオン様の部屋の扉をぶち破らんばかりの勢いで叩きつけられている。
「ロランちゃん!」
自分の名を叫ぶ声が、微かに扉越しに届いた。その声を聞いた瞬間、全身が強張る。喉がひくりと痙攣し、呼吸が浅くなる。
「噂していたら早速そのときが来てしまったようだ」
フィリオン様は苦笑にも似た声音でそう言い、だが目は冷静かつ、冷徹だった。
「大丈夫、きちんとあいつは追い返すから。ロランはここで横になって待っていて」
優しく、だが有無を言わせぬ手つきで、俺の体を布団へと沈める。背中が柔らかな寝具に触れる。逃げ場を失った鼓動が、胸の内側を叩く。
そしてフィリオン様は立ち上がり、寝室を出ていった。扉が開く。
その一瞬、叩きつける音が剥き出しのまま耳に飛び込んできた。まるで木材ではなく、俺の心臓そのものを殴りつけているかのような衝撃。
息が詰まる。
扉が閉まると音は一気にくぐもり、厚い壁の向こうへと遠ざかる。けれど鼓動だけは収まらない。
布団の上で、俺は身じろぎもできずに天井を見つめる。叫ぶ声は聞こえない。ただ、荒々しい衝突の余韻だけが、空気を震わせている気がした。
来てしまった。そう思った瞬間、胸の奥で何かがきゅっと縮む。
会いたくないはずなのに。会えば壊れてしまいそうなのに。それでも、どこかで嬉しいと感じてしまっている自分がいる。そのことがまた、悔しい。
入り口の扉が開け放たれたのだろう。にわかに空気がざわめき、先ほどまでの静けさが嘘のように砕け散る。
声はくぐもっている。だが、怒気を孕んだそれは壁を震わせ、言葉のひとつひとつがはっきりと耳に届いた。
「アイツがいんだろ!離せ!てめぇのとこになんか、アイツを置いておくわけねぇだろーが!」
荒々しい声。理性の鎖を引きちぎったような響き。
「そのロランがお前には会いたくないと言っている。迷惑だ。さっさと帰ってくれ」
フィリオン様の声は、対照的に静かだった。冷たい水面のように、波ひとつ立たせない。
「てめぇがやったことはお見通しなんだよ!ふざけんなよ!このクズがッ!」
床板を踏み鳴らす音。押し返す気配。ぶつかり合う緊張が、壁越しに伝わってくる。
「なにを言ってるんだい?お前は頭に血がのぼりすぎている。一旦冷やした方がいい」
「うるせぇ!アイツを出せ!おい!ロランちゃん!いんだろ!話がしてぇから顔を出せ!」
――ロランちゃん。
その呼び方に、項がひりつく。
壁一枚隔てた向こうで、ヒューゴの怒声がぶつかり、弾かれ、なおも食い下がる。距離はあるはずなのに、声だけがやけに近い。
どうしてそんなに怒っているのか、理解できなかった。怒っているのも、傷付いているのも、俺のほうだ。
ヒューゴの冤罪を晴らそうと、必死に頭を巡らせ、時間を削り、あの緑色の糸の正体を突き止めようとしているあいだ、彼は、欲に溺れていたのではないのか。
胸の奥に澱のようなものが沈む。今さら、なにを話すことがあるというのだ。弁解か。否定か。それとも、あの怒りの矛先を向けるためか。
布団の中で指先が震える。会いたくない。でも、声が遠ざかることにも、なぜか胸が軋む。
壁の向こうでぶつかり合うふたりの気配が、俺の心を真っ二つに引き裂こうとしていた。
ほどなくして、廊下からドタバタと荒々しい音が響いた。何かがぶつかり、押し合い、床を擦るような気配。
次の瞬間、ふっと怒声が途切れる。やがて、重い扉の閉まる音がした。それは先ほどまでの喧騒が嘘だったかのような、秒針の音さえ躊躇うような、張り詰めた静寂だった。
俺は、無意識のうちに止めていた息を吐き出す。胸いっぱいに空気を吸い込み、ゆっくりと吐く。強張っていた肩が、ようやくわずかに落ちた。
寝室の扉が開く。フィリオン様が戻ってきた。
整えられているはずの髪が、わずかに乱れている。襟元も僅かに歪んでいて、押し問答の激しさを物語っていた。
俺は身を起こさず、視線だけで問いかける。
――大丈夫ですか。
彼はそれを受け取り、安心させるように微笑んだ。
「怖かっただろう?ごめんね、すぐにあいつを追い返せなくて。警備員が騒ぎを聞き付けてヒューゴを引き剥がしてくれたから、もう大丈夫だよ」
その声音は穏やかで、先ほどまでの緊張を感じさせない。
ヒューゴと顔を合わせずに済んだ。その事実に、胸の奥がほっと緩む。だが同時に、別の思いが頭をもたげる。
あの騒ぎだ。きっと問題視される。また指導室に軟禁させられるのではないか。その可能性を想像すると、胸の奥がざわついた。
けれど――それも、いいのかもしれない。
指導室なら、勝手に女を連れ込むこともできない。ひとりきりで、頭を冷やすにはちょうどいい場所だ。反省するには、あそこが相応しい。
そう思い直したはずなのに。胸の奥には、消えきらない何かが残っていた。
安堵と心配と、まだ言葉にならない感情が、静かに絡まり合っている。
フィリオン様の微笑みが、その揺らぎを包むように、穏やかにそこにあった。
***
警備員に両腕を掴まれ、部屋から引きずり出されるその瞬間。フィリオンは、ヒューゴの耳元へ静かに身を寄せた。
「ロランは声を失った。お前のせいで」
囁きは小さい。だが、刃のように鋭く、冬の夜気よりも冷たかった。
その声音と、見下ろす眼差し。凍てつく気配に射抜かれ、ヒューゴの切れ長の目が大きく見開かれる。
――声を、失った。
言葉の意味が脳裏で結びついた瞬間、何かが弾けた。
「ッ……てめぇが仕組んだんだろーが!!!」
怒号が廊下を震わせる。だがフィリオンは振り返らない。そのまま、静かに部屋の中へと消えていく。
まるで、もうお前に用はないとでも言うように。まるで、勝敗は決したのだと告げるように。
ヒューゴの奥歯が、ぎり、と音を立てた。歯が欠けるのではないかと思うほど、強く噛み締める。
その軋む音を間近で聞いた警備員が、思わず目を泳がせる。
そしてヒューゴは、再び扉へ突進しようとした。だがすぐに、ふたりの警備員が全体重をかけて押さえ込む。なおも暴れる身体を、力任せに引きずる。
床を擦る靴音。荒い呼吸。低く唸る獣のような声。騒ぎを聞きつけた教師たちが駆け寄り、次々と腕を掴む。縄が回され、力尽くで拘束される。
その顔を見た瞬間、教師たちは言葉を失った。
憤怒。
焦燥。
狂気にも似た光。
これまでに見たことのない表情だった。理性の檻を叩き壊し、むき出しになった本能。
ヒューゴは、遠ざかっていくフィリオンの部屋の扉を、鋭く睨みつけた。
まるで今にも、その場にいる全員を噛み殺すと言わんばかりに。
喉の奥から漏れる低い唸り声は、もはや人のものとは思えない。それは、傷つき、追い詰められた獰猛な獣そのものだった。
5人がかりで、ようやくその身体を縛り上げる。それでもなお、ヒューゴの視線だけは、最後まで扉から外れなかった。
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