【完結】俺の好きな人は誰にでも優しい。

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怒りと焦りの渦中にいるヒューゴ

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***

 ヒューゴは、ひどい焦りのただ中にいた。
 瞼を持ち上げた瞬間、視界に飛び込んできたのはロランの姿。3日ぶりに見る顔だった。

 胸が跳ねる。安堵と、嬉しさと――そして、あの日、苛立ちをぶつけたまま別れてしまった気まずさ。
 複雑な感情を抱えたまま、それでもヒューゴは笑いかけた。だがすぐに、肌を刺すような違和感が走る。

 ――知らない匂い。嗅いだことのない、甘ったるい匂い。いや、眠る前に一瞬、嗅いだような気もする。
 それよりも何より、自分の部屋にはないはずの、ロラン以外の他人の気配。そして、凍りついたロランの顔。

 その視線の意味を辿るより先に、ヒューゴは自分の隣へと目を向けた。そこにいたのは、下着姿の女。見覚えがあるような、ないような顔。だが正直、女の顔などいちいち覚えていない。
 それよりも、自分の部屋にロラン以外を招き入れた覚えなどない。明らかに異常な状況に、ヒューゴの眉が深く寄る。

「誰だ、てめぇ」

 そう吐き捨てようとした、その瞬間。
 勢いよく駆け出す足音。はっと顔を上げたときには、さっきまで目の前にいたロランの姿はもうなかった。
 廊下へと響く、ばたばたと慌ただしい足音。そして、バンッ、と強く閉じられる扉。それが、彼が逃げ出したことを物語っていた。

 ヒューゴは一瞬、唖然とする。だが「なぜ逃げたのか」と考える暇もなく、視界に映る現状を冷静に認識し、血の気が引いた。

 部屋に入ってきたロラン。ベッドの上の自分。その隣には、下着姿の女。……どう見ても、事後だ。
 腹の底から、どす黒い焦りが突き上げる。

「ふざけんなッ……!」

 反射的に、女を足で蹴飛ばした。女は短い悲鳴を上げ、ベッドから転げ落ちる。ヒューゴはすぐに立ち上がり、ロランを追おうとする。
 だが、足がふらついた。視界が揺れる。床が近づき、無様につんのめって倒れ込む。
 吐き気が込み上げる。眩暈がぐらりと世界を歪める。力が、入らない。

「……んだ、これ…」

 喉がひりつく。何が起きている?どうしてこんな状況になっている?混乱の中、ヒューゴは必死に記憶を手繰り寄せる。

 昨夜、眠る前……何を飲んだ?誰といた?いや、誰もいなかったはずだ。
 扉がノックされ、出たら見張りの警備員がいた。明日から謹慎が解除されるから日常に戻れ、と言われた。
 そしてその後……それからの記憶がない。断片的な映像が浮かんでは、霧のように消えていく。
 掴めない。何も、思い出せない。焦りだけが、胸を締めつけていた。

 はっきりしているのは、ロランが確実に誤解をしたであろうことだけだ。早く追いかけて説明をしなければ、手遅れになる予感があった。

「ちょっと!何すんのよ!ヒューゴから部屋に来いって手紙をくれたんじゃない!」

 うるさいくらいの女の金切り声。うわんと混ざり合って、 まるで空気全体が鳴動しているような。甲高いその音の中に、ヒューゴは先ほどから別の音を聞いていた。
 警報だ。人には聞こえない警報。ヒューゴの胸の中にだけ響く、微かなその音。――悪い予感。

 子供の頃からそうだった。ヒューゴの胸の奥には、得たいの知れない小さな何かが棲んでいて、ふとしたときに、こうして声を上げる。
 そして、それに耳を貸さなかったとき。ヒューゴは決まって後悔することになるのだった。あの声を聞いていればよかったと。

 義姉のときもそうだった。毒を盛られて倒れる少し前、ヒューゴのために料理を作って持ってきてくれた義姉。その瞬間、警報装置が起動したのだ。
 壊れた笛のような、赤子の泣き声のような、耳には聞こえない微かな音が、胸の奥で鳴り響いていた。そしてそれは次第に人間の言葉へと変わっていった。ヒューゴに向かって執拗に訴える声に変わっていった。
 食べてはいけない、それを食べるな――しかし無視をして、あんなことになった。目が覚めたときには、義姉の姿はもう、どこにもなかった。

「同じ女を二度抱かないはずのヒューゴから誘いが来たから、私を特別にしてくれるのかと思ったのに!何よこの仕打ちは!」

 けたたましく鳴り響く警報音に負けじと女の金切り声。それは、ヒューゴの怒りを最大限まで引き出すには、あまりにも十分だった。

「………ぇ」
「彼氏とも別れたのよ!?なのに部屋に来てみたらヒューゴは寝てるし!だから起きるまで隣で待ってた私の時間を返してよ!」
「……せぇ」
「そっちから誘ったんだから今すぐ私を抱きなさいよ!謹慎してたらしいし、鍵まで開けて待ってたんだから、あなたも溜まってたんでしょ!?」
「…るせぇ」
「怪しい香まで焚いて!ヤる気満々だったんでしょ!?なんで突き落とすのよ!」

 ヒューゴの怒りが、ついに堰を切った。低く唸るように押し殺していた感情が、女の金切り声を引き金に、爆ぜる。

「うるせぇ!!!」

 その一声は、ただの怒鳴り声ではなかった。胸の奥で煮えたぎっていた激情が、喉を焼きながら噴き出した叫びだった。
 壁に跳ね返った怒号が、室内を叩きつけるように反響する。
 握りしめた拳は白く、血管が浮き上がり、今にも何かを叩き壊しそうなほどに震える。瞳は獣のように鋭く、理性と怒りの境界線でぎりぎり踏みとどまっていた。

 それは拒絶でもあり、威嚇でもあった。
 その中に、はめられた悔しさと、気付けなかった怒りと、どうしようもない焦燥が混ざり合った、むき出しの叫びだった。
 その瞬間、ヒューゴという男の奥底が、隠しようもなく露わになった。

「てめぇが誰だかもオレは知らねーよ!意味分かんねーことばっか言ってねぇでさっさと出てけ!!二度とオレの前にそのブサイクなツラ見せんな!!!」

 喉が裂けるほどの怒号だった。怒りを叩きつけるような声に、空気がびりりと震える。
 女は一瞬、打たれたように固まった。しかしすぐに、顔を真っ赤に染め、散らばった衣服をかき集める。
 乱暴に、だが震える指で簡易的に身を包むと、こちらを振り返ることもなく、逃げるように扉へ駆けた。

 扉が荒々しく閉まる音が、静まり返った部屋に重く落ちる。ヒューゴはその場に立ち尽くしたまま、荒い呼吸を繰り返した。
 大声を張り上げたせいか、頭の奥がくらりと揺れる。視界が白く滲み、吐き気が込み上げた。

「――クソッ…」

 額を押さえ、強く頭を振る。ぐらつく意識を無理やり引き戻すように。
 それでも立ち上がれたのは、怒りが身体を支えたからかもしれない。膝に力を込め、ヒューゴはゆっくりと窓辺へ歩み寄る。そして、勢いよく窓を押し開いた。

 冬の空気が、一気に流れ込む。鋭い冷気が頬を打ち、火照った肌を容赦なく冷やす。
 室内に淀んでいた、甘ったるく、どこかまとわりつくような見知らぬ匂いが、外へと押し出されていく。
 冷気とともに、煙のように薄れていくそれ。深く息を吸い込む。肺の奥まで刺すような冷たさが満ちる。胸の奥に溜まっていた濁りが、少しずつ洗われていく感覚。

 やがて視界の白みが引き、輪郭がはっきりと戻ってくる。冷えた空気か、それとも怒りが抜けたからか。
 ヒューゴはゆっくりと目を閉じ、再び開いた。その瞳には、さきほどまでの激情ではなく、研ぎ澄まされた静かな光が宿っていた。

「あんのクズ野郎……オレを嵌めやがったな…ッ」

 吐き捨てるような低い声。口から土の玉でも吐き出すような言い方で、殺す、と付け加えた。
 怒りはまだ胸の奥で燻っているが、先ほどのような爆発ではない。芯のある、冷えた怒りだ。

 ヒューゴは目を細める。
 激情の中で浴びせられた女の言葉が、ひとつひとつ脳裏に浮かび上がる。甘ったるい匂いの中で聞いた断片的な台詞。違和感。辻褄の合わなさ。

 自分の名で女をこの部屋に呼び寄せたこと。警備に金を握らせ、意識を奪われた自分。焚かれていた、あの妙に甘い香。
 そして――ベッドの上で眠る自分と女、その光景をロランに見せる算段。

 そこまで組み上げられた筋書き。偶然であるはずがない。たまたまで出来るはずもない。仕組まれていた。最初から。
 ヒューゴの中で、点と点が静かに結びついていく。少し前の記憶を思い出す。

 ロランに初めて自分の作った弁当を食べさせた空き教室で昼寝をしていたら、突如入り込む人の気配があった。
 目を開ければ服をはだけさせた女がヒューゴの上に乗り掛かろうとしており、慌ててその体を突き飛ばしたということがあった。
 その時の女も訳の分からないことを言っていたが、さっきの女と同じようなことを言っていたような気もする。

 以前のヒューゴならば、面倒だと思いつつも適当に相手をしていただろう。
 しかしなぜか、ロランに近付いてからというもの、女に食指が動かなくなってしまった。何も楽しくない、何の飢えも満たされない、ただただ面倒な行為。
 そう思うようになってしまってからというもの、遊び人の名が嘘のように、ヒューゴの頭の中はいつだって、ロランのことでいっぱいだった。

 その理由がなぜなのかは、分からない。考えようとすることがなぜか、恐ろしかったから。
 ただロランの顔を見てロランのそばにいたい。ヒューゴを突き動かすには、それだけの欲望があれば、十分だった。

 しかしそんなヒューゴの行動が、あの男には目障りで仕方がなかったのだろう。
 あの男の家令をやめるよう、ロランを説得されることが怖かったのだろう。
 自分よりロランと仲を深めるヒューゴのことが、気に食わなくて仕方がなかったんだろう。

 こんな回りくどい真似を思いつくのも。警備を動かせるだけの金と影響力を持つのも。自分の行動を把握し、ロランの動向まで読めるのも。

 ―――あの男しか、いない。

 他に思い浮かぶ顔はない。いや、思い浮かべる余地すらない
 ヒューゴの拳が、音もなく強く握られる。関節が白くなり、爪が掌に食い込む。

 凍り付いたロランの表情が、脳裏に焼き付いて離れない。あの瞬間の、何も言わず、ただ静かに凍りついた瞳。その光景を思い出すたび、奥歯がぎり、と軋んだ。

 この唇で。ロランに触れた、この唇で。他の女にも同じことをしたのだと、そう誤解されたかもしれない。その可能性が、胸の奥を抉る。

 悔しさ。そして焦りに襲われる。喉の奥が焼けるように熱い。
 違うと叫びたい。触れていない、何もしていないと、今すぐにでも掴まえて言い切りたい。

 だが――あの光景を、どう説明する?
 ベッドの上で意識を失っていた自分と、衣服の乱れた女。甘ったるい匂いが充満した部屋。
 言葉を並べたところで、言い訳にしか聞こえないのではないか。必死になればなるほど、情けなく映るのではないか。
 幻滅されたくない。嫌われたくない。
 その思いが、喉元まで込み上げた言葉を押し戻す。足を踏み出そうとする衝動を、縛りつける。

 どうすればいい。焦りだけが胸の内で膨れ上がり、まともな思考を押し潰していく。
 けれどこういう時こそ、衝動に任せて動けば、きっとまた何かを間違える。
 強引に迫れば、追い詰めれば、ロランの傷をさらに抉るだけかもしれない。

 ヒューゴは、拳をゆっくりと開いた。これ以上、ロランを苦しめたくない。その一心だけが、かろうじて彼を踏みとどまらせていた。
 しかし、それも長くは続かなかった。傷付いたロランがフィリオンの元に行く可能性を考えると、目の前が真っ赤になった。
 傷付き、心に出来てしまった隙間に、再びロランの初恋が入り込んでしまうのではないかという恐怖が、濁流のように押し寄せてきた。

 もし、初恋だったフィリオンに優しくされて心が揺れていたら。もし、慰めるように抱き締められていたら。もし、傷を舐めるように体に触れられていたら。

「ありえねぇ……」

 そんなこと、あってはならない。またロランがフィリオンに触れられるなんて、冗談じゃない。
 キスをしたときに見える、あの潤んだ瞳も、湿った吐息も、艶やかな表情も。自分以外が見るなんて、あり得ない。絶対に許さない。

 怒りは、もはや炎ではなく刃だった。静かに、確実に、標的を定めている。

「……ぜってぇ、ロランちゃんはやらねぇ」

 低く呟いた声は、冬の冷気に溶けることなく、鋭く空気を裂いた。

***


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