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あのキスさえなければ
しおりを挟む喉奥に押し込めていたはずの言葉が、慟哭となって堰を切ったように溢れ出た。
絶対に、口にしたくなかった。自分の中だけで腐らせて、なかったことにするはずだったのに。
壁についた手が、ずり、と音を立てて滑り落ちる。爪が壁を掻き、力なく落ちていく。膝が折れ、身体が床へと崩れた。
気付けば、地面は固さを取り戻し、その冷たさを否応なく伝えてくる。これが現実なのだと、突きつけるように。
俺は壁に頭を凭れさせ、目をぎゅっと閉じた。声にならない嗚咽が、喉の奥で震える。
苦しい。ただ、ひたすらに苦しい。
年越しパーティーのダンスタイムで、初恋を終わらせた。その直後、別の新たな恋の芽が芽吹いてきまった。
終わりの土の中から、また芽が出た。小さく、頼りなく、それでも確かに息づく芽。
見なかったことにしようとしたのに、気づけば伸びていた。伸びてしまったのなら仕方がないと受け入れ、大切にあたためてしまった。
一度、恋の痛みを知ったはずなのに。
どうしてまた、同じ穴に落ちる。
なんて愚かで、哀れで、学習能力のない頭。
涙が止まらない。視界が滲み、呼吸が乱れる。
立ち上がらなければいけないのに。ヒューゴの冤罪を晴らすための糸が、机の引き出しで眠っているというのに。
確かめなければ。進まなければ。
それなのに。
もう、あの緑色の糸くずなんて、どうでもいいとすら思えてしまう。
たかが。たかが、あんなこと。たったそれだけで、チロへの贖罪さえ無に返してしまいそうになる自分が、許せない。
情けない。弱い。自暴自棄になりかけている自分に、激しく苛立つ。
そして俺をこんなふうにしたヒューゴに、ひどく苛立つ。八つ当たりだ。
とんだお門違いの感情だと、分かっているのに。分かっているのに、止められない。
胸の奥で、ぐしゃぐしゃに絡まった糸のように、怒りと悲しみと後悔がもつれ合う。
俺はただ、床に崩れたまま泣いた。止まらない涙が、冷たい床を濡らし続ける。
何もかもが痛くて、それでも、まだ好きだと気づいてしまう自分が、いちばん痛かった。
「……ロラン」
不意に、背後から名を呼ばれた。びくり、と肩が跳ねる。涙に濡れて重くなった瞼を、ゆっくりと持ち上げる。
視界の先には、誰もいない。けれど声は、はっきりと聞こえた。聞き慣れた、低く落ち着いた声音。それが誰のものか、考えるまでもなく分かってしまう。
ヒューゴでは、ない。その事実が胸に落ちた瞬間、自分でも驚くほどの落胆が込み上げた。
ああ……俺は、あの状況を見てもなお、彼が追いかけてくることを、どこかで期待していたのか。こんなにも惨めな姿を晒しているくせに。
喉の奥が熱くなる。新しい涙が、また視界を歪ませる。
振り向けない。こんな顔を、見せられるわけがない。頬はぐしゃぐしゃで、目は腫れ、呼吸は乱れている。情けなくて、みっともなくて、どうしようもない。
背後の気配が、静かに近づく。
名を呼んだ声の主は、きっと俺の様子に気づいている。それでも無理に触れようとはしない、その距離が余計に苦しい。
俺は壁に額を押しつけたまま、唇を噛む。
これ以上、崩れたくない。それなのに、胸の奥はぐらぐらと揺れている。呼吸が浅くなる。
振り向けないまま、ただ肩だけが小さく震えていた。
「……可哀想に。なにかとても……悲しいことが、あったんだね」
聞き間違えようのない声だった。切なさを含んだ、フィリオン様の、優しい声。
その響きが鼓膜を震わせた刹那、喉の奥がじり、と焼ける。さっきまで無理やり押し込めていた涙が、また溢れそうになる。
胸が詰まる。息がうまく吸えない。
足音が、ゆっくりと近づいてくる。そして、その気配が俺のすぐそばに落ちた。
そっと、壊れ物に触れるみたいに、彼の掌が、俺の頭に添えられる。撫でるでもなく、押さえつけるでもなく、ただ、そこに「いる」と伝えるような触れ方。
もう片方の手が、震える肩を静かに撫でた。落ち着かせるように。強引に抱き寄せるのではなく、寄り添うように。
今にも崩れ落ちそうな背中を、そっと支えるような手つき。あたたかいその温度が、冷えきっていた身体にじわりと沁み込む。
優しい。
どうしようもなく、優しい。
そのぬくもりに触れた途端、張りつめていた糸がまた軋む。息が震える。こらえていた嗚咽が、喉の奥で小さく漏れた。
こんなふうに触れられたら。こんな声で、可哀想だなんて言われたら。
強がる理由が、ひとつずつ剥がれていく。俺は顔を伏せたまま、肩を震わせる。
彼の掌の温度が、逃げ場のない現実の中で、たったひとつの救いみたいに感じられてしまって。
それがまた、どうしようもなく、苦しかった。
「大丈夫。私に隠さなくていい。どんな顔も、どんな弱さも、どんな愚かさも……ロランのすべてを、私が受け止めるよ。ひとりで泣かないで。泣くのなら、私の胸の中で泣いてほしい」
最後の音が空気に溶けきるより早く、俺は身体を捻っていた。考えるより先に、動いていた。
飛び込むように彼の胸へ額を押しつける。すると、喉の奥に堰き止めていたものが決壊した。
「……っ、あ…」
言葉にならない声が、慟哭になって溢れる。うわん、うわん、と子どもみたいに。みっともないと分かっているのに、止められない。
フィリオン様の腕が、背中に回る。優しく、けれど確かな力で、しっかりと抱き締められる。
逃がさないように。崩れ落ちないように。その温度が、じかに伝わってくる。
あたたかく包まれる感覚に、さらに涙が溢れる。縋れる温度があること、支えてくれる腕があること。それが、こんなにも救いになるなんて。
俺は彼の胸にしがみつきながら、ぼろぼろと泣き続けた。
やはり、この人は。俺の、初恋の人。
思い出にした、好きになった、優しい初恋の人。
今はもう、主従の関係以上にはなれないと分かっている。けれど、主従は強い絆で結ばれる。彼となら、それができると、そう、今は思える。
彼の知らなかった一面を知った。優しさだけではない顔を見た。それでも、尊敬は消えなかった。
むしろチロの件も、今回のことも経て、彼への信頼は深まるばかりだ。
胸に顔を埋めたまま、嗚咽を零す。家令としては、あまりにも不出来だ。けれど今だけは。
今だけは、甘えたかった。
それを見透かしたかのように、彼の腕の力が強まる。「大丈夫」と、言葉にせずに伝えるように。
ぎゅ、と。痛いくらいに、強く。
その圧迫が、現実に繋ぎ止める錨のようで。
俺はその腕の中で、声が枯れるまで泣き続けた。
***
意識が、ゆっくりと水面へ浮かび上がる。
深い場所から引き上げられるみたいに、重たい身体が現実へ戻ってくる。全身がだるく、胸の奥がひりつく。
あれだけ泣いたのだ。子どもみたいに息も乱して、縋りついて、そのまま、眠ってしまったのだろう。
薄く目を開ける。視界に映る天井は、見慣れた自室のものではない。淡い色合いの装飾、静かな気配。フィリオン様の部屋だと、すぐに分かった。
また助けられ、また迷惑をかけてしまったと、胸の奥にじわりと反省が広がる。
腫れた瞼は重く、半分ほどしか開かない。瞳だけを動かして、室内を見回す。
静まり返っていて誰もいない。そう思いかけたとき、視界の端に、人影の背を捉えた。窓辺に立つ、その姿。間違えるはずがない。
「……フィ、」
声を出そうとした。
だが、喉から出たのは、音にならない掠れた息だけだった。
ひゅ、と頼りなく空気が抜ける。自分の耳にさえ、言葉として届かない。
一瞬、何が起きたのか分からなかった。喉が、乾いているだけだろうか。もう一度、口を開く。息を吸い、声帯を震わせようとする。
「……っ」
だが、結果は同じだった。
空気が漏れるだけ。音にならない。その事実が、じわじわと理解に変わる。
―――声が、出ない。
心臓がどくんと大きく跳ねる。動揺が一気に広がり、指先が冷える。もう一度、必死に喉に力を込める。けれど、返ってくるのは、空虚な呼気だけ。
音を失った自分の身体が、急に遠いもののように感じられた。
声にはならなかった。けれど、掠れた息がわずかに空気を揺らしたのだろうか。窓辺に立っていた彼の肩が、はっと小さく跳ねる。ゆっくりと振り返ったその横顔が、こちらを捉えた。
次の瞬間には、ためらいもなく歩み寄ってくる。長い脚が、迷いなく床を踏みしめる。静かな足音が、やけに鮮明に耳へ届く。
そしてすぐ、俺が寝かされているベッドの傍らに立った。影が落ちる。視界いっぱいに、彼の顔が近づく。
「ロラン」
呼びかける声は低く、けれど確かに安堵を滲ませている。眉がわずかに下がり、心配を隠しきれない表情で、俺の顔を覗き込む。その瞳の奥にある色が、真っ直ぐに俺を映していた。
大きな掌が、そっと額に触れる。熱を測るように。壊れ物を確かめるように。
「目が覚めたんだね」
柔らかな声。それに応えようと、俺はまた口を開く。だが――やはり、音は出ない。
掠れた息だけが、彼の指先にかかる。不安が胸を締めつける。言いたいことは山ほどあるのに、喉が、それを裏切る。
俺は必死に彼を見上げた。どうか、気づいてほしい。声が出ないのだと。
焦りを宿した瞳を彼の目にぶつけると、彼は眉間に似合わない皺を寄せて、怪訝な顔をした。
「ロラン?どうしたんだい、私が分かるよね?」
もちろんだ、の意味を込めてこくりと頷く。
一度安堵した表情を浮かべたフィリオン様は、次にまた思考を働かせたような顔をして、何かを閃いたように目を見開いた。
「まさか……声が出ない?」
「っ…!」
「なんてことだ…」
最短で答えにたどり着いた彼。さすがはフィリオン様だという気持ちを込めて大きく頷くと、彼の顔は蒼白になった。
「待っていて。すぐに蜂蜜入りのホットミルクを作らせて持ってきてもらうから」
ホットミルク。その何気ない単語が、胸の奥を爪で掻き乱す。
白く甘い湯気が、記憶の底から立ちのぼる。次の瞬間、俺は追憶の海へと引きずり込まれていた。
――ヒューゴに、初めてキスをされた日のこと。
頷こうとした首が、わずかに止まる。けれど俺が反応を返すよりも早く、フィリオン様は慌ただしく部屋を出ていった。扉が閉まる音が、やけに乾いて響く。
ひとり。その事実が、余計に思考を過去へと解き放った。
あの日、ヒューゴが作ってくれたホットミルク。
白い湯気に包まれた甘い匂い。一口飲んで、舌先を火傷した。
見せろと言われ、素直に舌を出した愚かな自分。そして、唇に触れた熱。ヒューゴの唇。
あまりにも自然で、あまりにも軽やかで。
俺のファーストキスを、冗談の延長のように奪った男。あのキスさえなければ。
あのキスさえなければ、俺は間違えなかった。
あのキスさえなければ、期待なんて抱かなかった。
あのキスさえなければ、土の中に埋めたはずの芽が、光を求めて伸びることもなかった。
胸の奥で、八つ当たりじみた苛立ちが膨らむ。思い出したくもないのに、勝手に浮かぶ。ヒューゴと、見知らぬ女がベッドに横たわる光景。胸の奥が、ぎゅうと握り潰される。
俺は堪えきれず胸元を掴み、その痛みを押さえ込もうとした。だが収まらない。
やり場のない感情が、拳に宿る。どん、と鈍い音。布団に拳を叩きつける。
柔らかなはずの感触が、ひどく虚しい。それでも、胸の痛みは消えてくれなかった。
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