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過去まで伸びた重い真実
しおりを挟むピートの目が、見開かれていた。普段はほとんど開いているのか分からないほどの細い垂れ目。それが、限界まで引き裂かれたように開いている。
だが、見ているのは俺ではない。俺の胸元に抱え込んだ、小箱に視線が落とされていた。
ぞくり、と背筋が粟立つ。俺は咄嗟に後ずさった。石床に靴底が擦れる。しかし次の瞬間、ピートは距離を詰めていた。
外套の裾が翻り、一直線に小箱へと手が伸びる。反射的に、俺は小箱を掴んだまま腕を背中へ回した。
奪わせない。その動きに、ピートの目が、きゅぅ、と細まる。ほとんど閉じている。瞳孔は見えない。
それなのに、まるで刃先を喉元に突きつけられているような、足首に重い鎖を巻きつけられたような、逃げ場を失う視線。
「あーあ、見つけちゃったんだ」
聞いたことのない声だった。同じ声帯のはずなのに、別人のようだ。
普段から淡々としているはずの声音が、さらに削ぎ落とされている。温度も、抑揚もない。感情の起伏が完全に取り払われた、機械的な声。
ぞわり、と鳥肌が立つ。
「なんで調べたりなんかしちゃうかなぁ。引っ掻けた腕輪の糸も見つけて、お兄さんたちに送って調べさせるなんてよくやったな」
あまりにも無機質。透明で、冷たさすら感じない。怒りも焦りも驚きもない。ただ事実を読み上げるだけのような声。それが、何よりも不気味だった。
心臓が、嫌な音を立てる。知られている。俺が糸を見つけたことも。兄たちに送ったことも。
恐らく、部屋に戻ったら俺がおらず、彼の机周りを調べた痕跡を見つけたのだ。そして、兄たちから送られてきた手紙を読まれた。同封していた、糸くずと共に。
俺は、ピートを睨みつけた。喉は沈黙したまま。それでも、唇だけが動く。どうして、と声にならない問いを投げ掛ける。だが彼には、はっきり伝わったらしい。
「どうして、か……」
ピートはわずかに首を傾ける。その仕草だけ見れば、いつもの同室者のままだ。
「なぁロラン、俺が憎いか?」
淡々とした声。感情のない確認。
「憎いよな。お前が大切に世話してきたチロを、俺が殺したんだから」
その言葉が、空気を裂いた。
分かっていた。疑っていた。証拠も、見つけた。
だが……本人の口から、はっきりと告げられる「殺した」という事実は、まるで別物だった。
胃が裏返る。胸の奥に、どす黒い絶望が一気に流れ込む。視界が揺れる。世界の輪郭が崩れ、白も黒も混ざり合っていく。思考が、理解を拒む。キーン、と耳鳴りがした。
呼吸がうまくできない。それでも、ピートの声だけは、やけに鮮明に聞こえる。
「でも賢いお前なら、もう分かってるよな?」
一歩、距離が詰まる。逃げ場がさらに狭まる。
「チロに毒を盛ったのは、その効能を確かめるためだと」
言葉が、刃物のように落ちてくる。
「本来の目的は……ヒューゴ・ファレルに使うためだと」
――ドン。
鈍器で殴られたような衝撃が、頭の奥で弾けた。
ヒューゴ。その名が、雷鳴のように響く。
チロは、実験。ただの、確認。本命は、ヒューゴ。
膝が笑う。それでも、小箱だけは離さない。怒りが、絶望を押しのける。声は出ない。だが、喉の奥で叫びが燃え上がる。
目の前の男は、もはや同室者ではない。
冷たい光を宿した瞳の奥に、底の見えない闇が広がっている。俺は、震える体でそれを見返した。
「……っ!」
どれだけ耳鳴りがしても。
どれだけ世界が歪んでも。
この瞬間だけは、目を逸らしてはいけない。
「……ふ、ざけるな……っ!!!」
喉を裂くような声が、教会の静寂を引き裂いた。
自分でも信じられないほど、掠れている。砂を噛んだような、がさがさの音。
それでも、怒りだけは、はっきりと乗っていた。絶望を押し退けて、無理やり喉をこじ開けるようにして、声が戻った。
「な、んで…チロを…っ…」
息が詰まる。喉が焼ける。小箱が手から滑り落ち、冷たい地面に中身が散らばる。
ドン、と拳をピートの胸に叩きつける。胸元を掴みあげ、揺らしながら、昨夜から胸の内側を巡っていた言葉をぶつける。
「なんで、ヒューゴを殺そうとするの!?なんのために!?なんで、なんでピートが…そんなことをする必要が…あったんだよぉ……っ…!」
言葉が途中で崩れる。声にならない音が混ざる。胸が締めつけられ、呼吸がうまくできない。
視界が滲む。熱いものが、一気に込み上げてくる。止めようと、唇を強く噛みしめる。けれど無駄だった。
涙が、溢れる。ぽろり、なんて可愛いものじゃない。決壊した蛇口のように、どばどばと零れ落ちる。頬を、顎を、濡らして滴る。
悔しい。
悲しい。
許せない。
チロの尊い命を踏みにじり、ヒューゴを殺そうとした理由が、目の前の男の中にある。なのに、理解できない。
どうして。どうしてお前なんだ。
教会の冷たい空気の中、俺の嗚咽だけが震えていた。それでも俺は、涙で歪む視界のまま、ピートを睨み続けた。答えを、吐かせるために。
ピートは、ふらりとよろめいた。糸が切れた人形のように、力なく。そのまま教会の長椅子に腰を下ろす。
いや、座ったというより、崩れ落ちた、という方が近い。背を丸め、両手をだらりと垂らす姿は、まるでこれから神に懺悔を捧げる罪人のようだった。
だが、その横顔に悔恨の色はない。ただ、淡々としている。
「チロだけじゃない」
静かな声が、空気を震わせる。
「俺は7年前、ヒューゴ・ファレルに毒を盛った」
時間が、止まる。7年前。ヒューゴが倒れ、命を落としかけたあの事件。
「……あいつの、義姉を使って」
心臓が嫌な音を立てる。
あのとき義弟に毒を盛ったと疑われ、勘当されたあと、自ら命を絶ったとされていた人。
そして。
ピートは、ほんのわずかに目を伏せた。
「―――その義姉も、俺が殺した」
言葉が、落ちた。重く、あまりにも呆気なく。
息が、止まった。肺が動かない。涙も、止まる。あまりの衝撃に、思考が白く塗りつぶされる。
これは現実か?
それとも、悪夢か?
教会の石壁。差し込む冬の光。冷たい床に沈んでいる小箱。すべてが、急に遠くなる。
ヒューゴを狙った犯人が、まだどこかにいることは分かっていた。
だが、ヒューゴの義姉が――自ら命を絶ったとされていた彼女が――殺されていた?しかも、目の前の男に?
現実味がない。言葉だけが浮いている。
過去の出来事が、今この瞬間と繋がる。真実が過去にまで足を伸ばす。絶望と混乱を引き連れて。
世界が、ぐらりと傾いた。
俺は立っているはずなのに、足元が崩れ落ちていくようだった。
目の前のピートは、静かに座っている。懺悔者の姿をして。
けれど、その告白は、救いではなく――すべてを、壊すためのものだった。
「俺は南部の孤児院出身だ。親には赤ん坊の頃、捨てられた」
ピートは静かに語り始めた。焦点の合わない、遠い目。まるで今この教会ではなく、過去の風景を見ているかのように。
「俺たちの孤児院は貧しかった。その日の食事を確保することでギリギリなくらいに。だが数ヵ月に一度、炊き出しをしに来てくれる女性がいた。それが……あの男の義姉だった」
淡々とした声。
だがその奥に、微かに混じる何かがあった。
「男爵家令嬢だというのに、貧困層が多い南部地方にわざわざ通い、あらゆる場所で手作りのご飯を無料で差し出す彼女を、俺は女神だと思った」
冬の光が、彼の横顔を照らす。
「幼いながらに、俺は彼女に恋をした」
――恋。
あの、ピートが。神経質で、したたかで、恋など無縁そうで。神にしか興味がないとでも顔に書いてあるような男が。恋を。
「その時の俺は、髪は伸びっぱなしで、薄汚い服を着て、顔にも全身にも汚れがついているような見た目だった。こんな俺が彼女とどうこうなろうとは思っていなかった」
かすかに、口元が歪む。
笑いとも、自嘲ともつかない形。
「けれど、いつでも優しく笑いかけてくれて、温かくて美味しいご飯をくれる彼女と言葉を交わせるだけで、幸せだった。彼女は俺を弟のように可愛がってくれたんだ」
その人物像は、ヒューゴが語ってくれた義姉そのものだった。
明るくて、優しくて、少し世話焼きで。誰に対しても、分け隔てなく温かい。胸が、きりりと痛む。
「それがいつからか、彼女は新しく出来た義理の弟と来るようになった」
声の温度が、ほんの少しだけ下がる。
「変わらず俺にも優しく明るい彼女だった。けれど、義弟と来るようになってからは、どう見ても彼が特別だと分かるほど、俺への態度と違った」
ピートの指が、膝の上でわずかに強く握られる。
「義弟に向かって、うまく器によそれたら頭を撫で、ぶっきらぼうな顔で人に渡さず笑いなさい、と言う顔は、日だまりのようにあたたかかった」
日だまり。
その言葉が、やけに柔らかく響く。
「ふたりの姉弟は、血の繋がりはないはずなのに、まるで本物の兄弟のようで、義弟が羨ましくて羨ましくて……憎たらしかった」
静かな告白。
「彼女をとられたと、俺は思い込んだ」
その言葉が、胸に刺さる。俺は、何も言えなかった。胸が、痛い。その感情を、俺は知っている。
恋と、嫉妬。切っても切れない糸で絡み合う、あの苦しい感情。
フィリオン様の優しさ。誰にでも与えられる優しさに、自分に与えられるものと意味のない比較をしたこと。
ヒューゴの寝顔。ヒューゴの隣にいた下着姿の女。あのときの、胸を引き裂くような感覚。
口の中に、じわりと苦味が広がる。嫉妬は、人を狂わせる。
だが、だからといって。
だからといって――。
俺は唇を強く噛みしめた。
ピートの語る過去が、理解できる部分があるからこそ。その先に続く罪が、なおさら重くのしかかってきた。
「それから俺は、ヒューゴ・ファレルを消したくて仕方がなくなった。彼を消して彼女の弟になろうだなんて思っていない。
ただ――彼女の隣に、さも当然のように家族の顔をして立つ少年が、憎くて仕方なかった。だから、消してしまえと思った」
吐き出された言葉は、冷たく乾いているのに、その奥には焼けただれたような執着が滲んでいる。
ここにも、恋に狂った男がひとり、いた。
「どうやってバレずに殺せるか考えた末……俺のいない場所で毒殺すればいいと思った。ちょうど孤児院の裏手の山には、ベラドンナがよく生えていた」
ピートの視線が、ふと足元へ落ちる。冷たい地面に箱から飛び出した、ベラドンナ。艶やかな黒紫の実は、知らなければ甘い果実にしか見えない。
「ベラドンナの実はブルーベリーとよく似ていて、間違って食べないようにときつく教えられていた。だから、毒性についてはよく知っていた」
地面に散らばった実を見下ろす。
確かに知らなければ、手を伸ばしてしまいそうなほど、ブルーベリーに似ている色だ。
「炊き出しに来た場所であいつを毒殺すれば、俺はもちろん孤児院や村の人間が疑われる。だから、あいつが家で毒を飲むように……彼女を使った」
その一言に、空気が凍る。声は静かだが、かすかに悲痛が混じっていた。
今さら悔いているのか、それとも自分の愚かさを噛み締めているのか。
「彼女に贈り物だと言って、ベラドンナを粉末状にし、調味料に見せかけて渡した。これはきっと義弟さんが好きになる味だと思うから、と」
淡々とした説明。だが、その裏にある計算の冷酷さに、背筋が寒くなる。
「若い女性が飲むとアレルギー反応が出る可能性もあるから、あなたは決して口にしないように、とも言い聞かせた」
なんて、卑劣な。
守るように装いながら、彼女だけを安全圏に置くように見せかけて。
「彼女は……なんの疑いもなく、それを嬉しそうに受け取った」
その光景が、ありありと浮かぶ。顔は分からないのに、想像できてしまう優しく微笑む彼女。善意を疑うことなど知らない瞳。
ヒューゴが語ってくれた、義姉を失った日の話。悲痛に満ちた横顔。後悔と悔しさ、そして復讐心に取り憑かれた、あの目。
「そして俺の思惑通り、彼女は自分で作った料理にその粉をふりかけ、それを……ヒューゴ・ファレルが口にした」
言葉が、落ちる。重く、取り返しのつかない事実として。
あぁ、なんてことだ。
彼女が疑われた理由が、ようやく分かった。
疑われるもなにも――彼女自身の手で、毒を盛ってしまったのだ。それが毒だと知らぬままに。信じたままに。
「けれど、彼女がふりかけた量が少なかったからか、あいつは昏睡状態になるだけで、死にやしなかった」
その言い草に怒りが沸く。拳を強く握り締める。
「挙げ句に……彼女は、すぐに気付いたはずだ。俺が渡した粉が毒だったのだと。自分のせいで、義弟を殺しかけたのだと」
唇が、わなわなと震える。そのときの彼女の心を想像する。大切な家族を、自分の手で傷つけたと知った瞬間。
絶望。自責。崩れ落ちる世界。
胸が張り裂けそうになる。
そして――もし、この真実をヒューゴが知ったら。
義姉は自殺ではなかったと知る代わりに、自分がどうして毒を口にしたのか、毒を口にして倒れたあと、彼女がどんな思いでいたのかを知ってしまう。
救いになるのか。それとも、新たな地獄になるのか。あまりに重い真実が、胸にのしかかる。
過去は、もう変えられない。けれど、その重みだけが、今この場に、確かに存在していた。
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