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なにも気付けなかった
しおりを挟む冷たい地面の上に、小箱が転がっている。無様に、打ち捨てられたまま。その蓋は、開けてはならないものだったのかもしれない。
中に眠っていたものは、まるで禁断の果実のように、黒紫の色を濃く滲ませながら存在を主張している。
小さな実だ。指先で摘めてしまうほどの。それなのに――どうしてこんなにも重く見えるのだろう。どうしてこんなにも、恐ろしいのだろう。
「これはあくまで予想だが……」
ピートの声が、ひどく遠く聞こえる。
「義弟を自分の手で殺してしまいそうになった彼女は、自責の念にかられたはずだ。そして、犯人が俺だと気付いていながら……彼女は俺に疑いが向かないよう、罪を被ったんだと思う」
喉がひくりと鳴る。
「だから勘当宣告まで受け入れた。貴族でなくなったとしても、幼い俺に疑いが向かないように、男爵家から去ることを決めた」
貴族の娘が、身分を捨てる。それがどれほどの決断か、想像もつかない。名も、家も、未来も。すべてを手放して。
「彼女は死ぬ気なんてなかった。だって、俺に手紙が届いたから。勘当されたから孤児院で一緒に過ごそうって。俺はとても嬉しくて、その日を待ちわびていた。だがきっと、それは義弟を殺し損ねた俺を見張るためだったのだと今は思う」
ピートに届いていたという手紙。彼女が未来を生きる意思があった。その事実は、ヒューゴの希望になるだろうか。
『フィリオン様お許しを。あなたを愛したのが大きな過ちでした。自分の罪を償います。さよなら』
そう残されていたという遺書。これは、死へ向かうためのものではなく、罪を被って別の場所で生きる意志を残した、最後の恋文だったのかもしれない。
「けれど……俺が義弟を殺そうとするはずがないと、信じたい気持ちもあったはずだ」
ピートの声が、わずかに揺れる。
「もしかしたら、別の毒物が紛れ込んだのかもしれない。そう思った彼女は、きっと俺を信じて……屋敷を出る前に確認しようと、ベラドンナの粉末を口にした」
その言葉に、息が止まる。
信じた。疑いながらも、信じた。
彼女の父親の言葉が、脳裏に蘇る。
『刻まれて粉末になっていたものが娘の机の中で見つかり、不自然に使われた形跡があった』
点と点が、無慈悲に繋がっていく。
「俺を信じる気持ちが――致死量の毒を、彼女に飲ませた」
信頼が、刃になった。愛情が、毒になった。
彼女は、毒だと疑いながらも、最後までピートを信じたのだ。だから口にした。
だから、死んだ。
「そして彼女は死に……自殺で処理された」
あまりにも、あまりにも悲しい真実だった。
自責に耐えきれず、恋に狂って命を絶ったと、誰もが思った。そう思われることを、彼女は受け入れた。
自分の名誉が傷つくことよりも。家族に誤解されることよりも。幼い少年をひとり、守ることを選んだ。
最後まで。
最後まで、信じたからこそ起きた悲劇。
もし彼女が、ほんの少しでも疑いを強く持っていたなら。もし、ほんの少しでも自分を優先していたなら。この結末は、違っていたのだろうか。
黒紫の実が、やけに鮮やかに目に焼きつく。禁断の果実。それを口にしたのは、罪人ではない。
信じることをやめなかった、ただひとりの優しい人だった。家族に疑われ、勘当されてもなお、生きようとしていた人だった。
胸の奥が、軋む。
悲しみと、やり場のない怒りと、どうしようもない苦しさが絡み合って、息をするのもつらい。
信じるということが、こんなにも残酷な結果を招くなんて。
世界は、あまりにも理不尽だった。
「彼女が毒で自殺したと知らされたとき……俺は、絶望した」
ピートの声は、ひび割れた陶器のように脆かった。
「目の前が真っ暗になった。なんで、と彼女を責めた。けれど彼女の真意を察した俺は、なんてことをしてしまったんだと、後悔の念にかられた。……俺も、彼女の後を追おうと思った」
もしそのとき、彼が本当に命を絶っていたなら、真実は永遠に闇の中だっただろう。
彼女は"恋に狂って自殺した愚かな女"として名を汚し、ヒューゴは"裏切られた哀れな弟"のまま生き、そしてこの男の罪は、誰にも知られぬまま土に還ったはずだ。
けれど、その名は、俺が払拭する。
「彼女が死んでから、知ったんだ。……彼女は、伯爵家の令息に恋をしていたと。それはもう、深く、熱烈な恋をしていたと知った」
ピートの目には、映っていなかった彼女の一面。
誰かを想い、頬を染め、胸を高鳴らせるひとりの女性としての姿。
彼女もまた、ピートの知らない世界を持っていた。
「彼女が死ぬ前に、彼に会いに行ったと知り……俺は、死ぬことをやめた。彼女が好きになった男が、どんな人物なのか……知りたくなったから」
その瞬間、胸の奥で何かが繋がる。
ピートとフィリオン様の関係。
なぜピートが、彼にあれほどまでに忠実だったのか。なぜ、命令を疑いもせず受け入れていたのか。
まさか――。
「でも、南部地方の孤児院にいる俺では、北部地方の伯爵家のことなんて、掴める情報はたかが知れていた。彼と会う機会なんて、もちろんない。だから、知る術がなかった。……けれど」
一瞬だけ、彼の目に熱が灯る。
「フィリオン様がこの学園に入学したと知った。ここなら、どんな身分の人間でも試験に合格すれば入学できる。この学園しか、彼に接触する方法はないと思った」
それが、始まりだったのだ。
罪を背負った少年が、死ぬ代わりに選んだ道。
「俺が好きになった彼女が……俺の罪を被り、俺のせいで死んだ彼女が好きになった男が、どれほどの人なのか……知りたかった」
その動機は、復讐ではなかった。憎しみでもない。
嫉妬か。羨望か。それとも、彼女が愛した男を知ることで、彼女に少しでも近付きたかったのか。
なんてことだ。
確かにフィリオン様は、ピートの存在を知らなかった。けれど、ピートは、ずっと知っていたのだ。
彼の名も、身分も、歩く姿も。影を踏みたいほど強く、執着するように。
彼女の愛した男。
彼女が最期に会いに行った男。
彼女の心を射止めた男。
その背中を、追い続けていた。
愛と罪と後悔が、歪んだ形で絡み合いながら、彼は、生きることを選んだ。
彼女を奪った男を見るために。彼女を失わせた自分を、見つめ続けるために。
ピートが、そっとジャケットのポケットに手を入れた。何かを探るように、指先がわずかに動く。やがて握られていた拳が、ゆっくりと開かれた。
その掌の上にあったのは――あの腕輪だった。
緑と桃色の糸で編まれた、少し解れのある、小さな腕輪。朝の光を受けて、淡い色が柔らかく滲む。
「これは、彼女が俺に作ってくれたんだ」
その声は、これまででいちばん静かだった。
「腕輪を作る練習をしていて、うまく出来たからと……俺にくれたものだ」
練習。
その一言が、胸に刺さる。
ピートは、慈しむような目で腕輪を見下ろしていた。まるで壊れ物を扱うように、指先でそっと撫でる。窓から差し込む朝の光が、彼の横顔を白く照らす。
罪を告白した男の顔ではない。ただ、大切な思い出を抱える少年の顔だった。
練習。
その言葉で、もう一つの腕輪を思い出す。
髪の毛で編まれたという、腕輪。
忌々しそうに、嫌悪を滲ませながら吐き捨てたフィリオン様の横顔。あの美しい顔が、歪んでいた。触れたくもないとでも言うように。
彼に渡すために編まれた、想いの結晶。その練習台として出来上がったのが、この腕輪だったのだろう。おこぼれ。本命のための、試作品。
それでも、ピートは、これまで何よりも大切にしてきたのだ。
擦り切れた糸の一本一本に、彼女の指の温もりを感じるかのように。
彼女が大切にしてほしかった想い人は、きっと……触れることもなく、呆気なく、捨てたのだろう。胸が、ひどく痛む。
ひとりは、練習の腕輪を宝物のように抱き続け。ひとりは、本命の腕輪を汚らわしいもののように遠ざけた。
同じ想いから生まれたはずの腕輪が、こんなにも違う結末を辿るなんて。
ピートの指が、わずかに震える。
幼い少年は、この腕輪を貰ったとき、なにも知らなかった。彼女の想いが、どこへ向いていたのか。彼女が本当に願っていた未来が、どんな形だったのか。
それでも彼は、その小さな腕輪を握りしめる。失ったものを、せめて形だけでも手元に残すかのように。
「この腕輪は、成長した俺の腕にはもうはまらない。長さが明らかに足りない。けれど……これまでずっと、この腕輪が俺の生きる証だった」
掌の上の緑と桃色が、朝日に透ける。
自嘲じみた笑み。諦めの色が濃く滲んだ声音。
「けれど、チロを殺すために向かった小屋で――」
その言葉に、胸が強く打つ。
「暴れて外に逃げ出そうとしたチロを追いかけたときに、ポケットに入れていたこれが少しはみ出ていて…それを引っ掻けてしまった。まさかそれが……お前に真実を明かすきっかけになるとはな。皮肉なもんだよ」
暴れたのか。チロは、最後まで生きようとして、逃げ出そうとして、必死に抗っていたのか。
その光景を想像した瞬間、何かが崩れ落ちた。苦しくて、息が詰まる。俺は思わず口許を覆う。
涙が、止まらない。ぼたぼたと、地面に落ちていく。
「彼女が亡くなってから、俺はたまに悪夢を見るようになった。俺が彼女を殺す夢だ。それはさまざまな方法で、毎回違う場所だったけれど……」
一瞬、言葉が途切れる。
「最後は必ず、彼女に笑いかけられるんだ」
笑顔。責めるでもなく、怒るでもなく。ただ、優しく。
「それがあまりに苦しくて辛くて……俺は、誰かを憎んでいなければ正気を保てなかった。そしてその矛先が、ヒューゴ・ファレルだった」
重い名。
「……あいつさえいなければ、俺は彼女に毒を渡さなかった。あいつさえいなければ、彼女が死ぬこともなかった。あいつさえいなければ、俺の人生は狂わなかった」
震える声。
「それは今までも、今でもずっと……そう思っている」
その姿が、ヒューゴに重なって見えた。
大好きな義姉を失い、憎しみの矛先をフィリオン様へと向けていた彼。復讐心に取り憑かれ、それを生きる理由にしていた彼。
そして今、目の前にいるピートもまた、自分の罪の重さを抱えるには、あまりにも体が小さすぎた。幼い肩で背負うには、あまりにも重い。だから、誰かを憎むことで均衡を保った。
そうでもしなければ、膝から崩れ落ちてしまいそうだったのだ。
憎しみは、支えだ。復讐は、杖だ。
間違っていると分かっていても、それがなければ彼らは立てなかったのだ。歩けなかったのだ。
俺は涙で滲む視界のまま、ピートを見る。
彼も、ヒューゴも。守れなかったものを抱えて、壊れたまま立っている。憎しみで、ようやく形を保ちながら。
朝の光は、容赦なく差し込んでいた。罪も、後悔も、憎しみも。すべてを、白日の下に晒すように。
「俺はこの学園に入学してフィリオン様を遠くから眺めていた。彼女もこんな気持ちだったのだろうかと自分と重ねて。そして1年後、ヒューゴ・ファレルが入学してきたと知った。知ると同時に……必ず彼を殺そうと思った」
息が、止まる。
「あのとき死に損なっただけで、本当はとっくに死ぬ予定だったんだから。もう一度、殺してやろうと」
なんて身勝手な理由。なんて哀れな憎悪。なんておぞましい殺意。胸の奥が、ぞわりと粟立つ。
「殺し方は最初から決めていた。あの時と同じく、ベラドンナを使ってやろうと思った。彼女があいつのせいで死んだのと同じ方法で……痕跡が残りにくい毒で、確実に仕留めてやろうと決心した」
復讐は、過去の焼き直し。同じ毒で、同じように。まるで歪んだ供養のように。
俺は、ピートの同室者だった。同じ部屋で眠り、同じ空間で笑い、何気ない会話を交わしてきた。
それなのに。彼の闇に、なにひとつ気付いていなかった。いや――気付こうとすら、していなかった。
「毎年必ず、年末年始休暇に故郷の孤児院に帰省した。子供たちの面倒を見る傍ら、夜な夜なベラドンナを探した」
夜の山を歩く、ひとりの影。冬の気配が混じる冷たい空気の中で、毒を探し続ける姿が思い浮かぶ。
「けれど近年、南部地方も昔は降らなかった雪が降るようになり、年中咲いていたはずのベラドンナが見つかりにくくなった」
最近の大雪が、脳裏に浮かぶ。確かに、北部の冬も年々厳しさを増している。それが、南部にも及んでいたのか。自然の変化は、彼の計画を遅らせていた。
「ヒューゴ・ファレルは医者になるためにわざわざ男爵家の養子になった男だ。粉末状でなければ、気付かれてしまう」
冷静な分析。
「だが粉末にするには、それなりの量が必要だった。ただ潰せば粉になるわけじゃない。刃物で刻んで、湿っていない部分を取り出して、棒で擦らなければ粉状にはならない」
そこまで、考えていたのか。
そこまで、準備していたのか。
「だから決定的な量を集めるまで、毎年、帰るたびに探した。そしてついに今年……やっと、数回失敗しても安心できるほどの量がたまった」
今年。あの帰省。
俺とは違い、ピートは毎年きちんと故郷に帰っていた。俺は、ただ「おかえり」と、いつも通りに部屋で迎えていた。何も変わらない顔をした彼の帰りを。
彼が孤児院出身だということも、その手に毒を蓄えながら戻ってきていたことも、知らずに。
同じ天井を見上げ、同じ空気を吸いながら、彼は殺意を育てていた。俺は、それに気付かなかった。気付けなかった。
積み重ねられた年月が、いま俺の心と記憶に、牙を剥いていた。
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