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被っているのは仮面か、罪か
しおりを挟むどうして好きになった人の大切な人を、傷つけようなどと、思えるのか。俺には、理解できなかった。
だが、ピートの嫉妬に油を注いだのは、他でもないヒューゴだった。本人は、何も知らない。ただ彼女の隣に立っていただけだ。
けれどその存在が、幼い少年の胸を焼いた。小さな火種は、誰にも気付かれないまま、何年も消えずに燻り続けた。炎は内側から彼を焦がし、形を変え、やがて膨大な憎悪へと育った。
もし、誰かが気付いていたら。もし、その炎に水を注いでやれる存在がいたなら。彼は、道を踏み外さずにすんだのだろうか。
3年半、同室者としてすぐ隣で眠っていた俺は、その存在になれなかった。
「だが、どうやってヒューゴ・ファレルに毒を盛るかがなかなか思い付かなかった。自分の作った料理しか口にしない男に毒を盛るのは、至難の技だと分かっていたが……」
嫌な予感が、背骨を伝う。ピートの視線が、ゆっくりと俺を捉える。その目の奥に、冷たい計算が光る。
やめてくれ。その先を、言わないでくれ。お願いだから。
「――ロランを使えば、毒を混ぜることが出来るかもしれないと考えた」
頭の奥が、真っ白になる。聞きたくなかった。そんなこと。
過去に一度、義姉を使ってヒューゴを殺そうとした男が。人を変え、同じ手口を繰り返そうとしていたというのか。
あれほど後悔を口にしながら。あれほど彼女の死を悼みながら。また、誰かを、俺を、駒にしようとしたのか。
「でも……どのくらいの量で致死量になるのか、一度実験をしなければと思った」
その声は、平坦だった。感情の起伏が、すっと消えている。
「次は、間違ってロランが口にしないよう、ひとり分の致死量を確かめるために……チロを使って実験した」
空気が、凍る。
チロ。小さな命。逃げ出そうと、生きようと、必死に暴れた尊い子。
「けれど一度目は失敗に終わった。何も知らない、お前とフィリオン様が助けてしまったから。でも二度目で、やっと成功した」
ピートの顔は、無表情に戻っていた。
さきほどまで、義姉を語るときに見せていた、痛みを滲ませた人間らしい顔は、どこにもない。
能面のような顔。まるで、感情を切り離したかのように。声も、どこか遠い。自分のことではないとでも言うように、淡々と台詞を読み上げているだけの響き。
その落差が、胸を打つ。小さな違和感が、心臓の奥を叩く。これは、本当に後悔している男の顔なのか。それとも、憎しみによって削り取られた、空洞なのか。
もしくは――なにかを、隠そうとしているのか。
「これがチロを殺した理由だ」
ピートは、淡々と言った。
「人間を実験台にするわけにはいかないだろ?けれど、お前が毎週世話しに通っているフクロウの存在を思い出して、使えると思ったんだ。おかげで、致死量が分かって感謝してる」
その瞬間、血が逆流した。視界の端が赤く染まる。怒りで、全身が震えた。
そんなことのために。そんな、計算のために。チロの命は奪われたのか。小さな体で必死に羽ばたき、生きようとしたあの命が。
喉の奥まで怒号がせり上がる。殴りかかってやりたい。叫び散らしてやりたい。
けれど――頭のどこかで、冷たい声が囁く。
何かが、おかしい。
「恨むなら俺を恨め。突き出せ」
投げやりにも聞こえる言葉。覚悟を決めた者のようでいて、どこか他人事のようでもある。
「……神に忠誠を誓って、お祈りしてるというのも…」
掠れて震える声で問いかける。
「それも全部、嘘だったの?修道士を目指すためじゃなくて、フィリオン様に近づくためにこの学園に入ったなら……修道士になりたい、も全部嘘だったの?」
一瞬の沈黙。そして。
「そうだ」
迷いのない返答。
「むしろ俺は、神なんてくそくらえだと思っている」
吐き捨てるように。
「神がいたなら、聖人のような彼女を助けてくれたはずだから。俺が親に捨てられることもなかったはずだから」
その目に、鋭い光が宿る。神を憎む目。
だが同時に――神の存在を、どこかで信じている目でもあった。
いなければ憎むこともできない。救いを期待したからこそ、裏切られたと感じる。彼は、神を否定しながら、縋っていたのかもしれない。
憎むことで。冒涜することで。存在を確かめるように。
修道士を目指すと語り、祈りを捧げ、信仰深い顔をして。その裏で、神を呪い続けていた。
その執念。その歪み。
深さも、重さも、計り知れない。
怒りは消えない。チロの命は戻らない。
けれど、目の前の男は――ただの怪物ではなかった。
壊れたまま、立ち尽くしている。
信じたものを失い、憎しみにしがみついて生き延びた、哀れな人間。
それでも。それでも、許されるわけがない。
胸の奥で、怒りと悲しみと、言いようのない違和感が、ぐちゃぐちゃに絡み合っていた。
何かが、まだ引っかかっている。ピートの告白は、あまりにも整いすぎている気がした。
「フィ、フィリオン様は……関係、してるの?」
「フィリオン様は、俺の計画を何も知らない」
ピートは、即座に否定した。
「フィリオン様を追いかけてこの学園にきたのに、話しかけることなんてできなかった。遠くから眺めて、どんな人物なのかを噂で聞く。それだけで――彼女が彼に恋をした理由が、よく分かった」
視線が、どこか遠くを見る。
憧れとも、羨望ともつかない、複雑な色。
「このままひっそりと、彼女の想いを背負った気になって、遠くから眺められればいいと……それで満足していた」
それは、救いだったのかもしれない。彼女の愛した人を、同じ空の下で見られること。
それだけで、罪を抱えた自分を赦せる気がしたのだろうか。
「それがまさか……フィリオン様のほうから、接触してくるなんて」
わずかに、口元が歪む。
「ロラン、お前のことを知るために、あの方は俺に近付いてきてくれた。お前のおかげだ。ありがとう」
世界一、虚しい感謝だった。胸の奥が、空洞になる。俺のおかげ?そんな言葉で、何を埋めようというのか。
「それからは、ロランのことを報告するために、この場所を使った」
足元の石床を、ピートは見下ろす。
「朝のお祈りだと言って毎朝いなくなっていたのは、ここでこの腕輪に向かって、彼女と会話するためだった。朝のお祈りなんて、本当はない。俺が彼女との時間を作りたくて、お前を騙すためについた、嘘だ」
嘘。すべて、嘘。
けれど、彼女との時間を、誰にも邪魔されたくなかった気持ちは、分からなくもない。それは嘘というより、秘め事に近い。
朝、静かに部屋を出ていく背中を、俺は何度も見送った。足音を、気配を、祈りの言葉を、信じていた。その先で、腕輪に向かって語りかけていたなんて、何も知らずに。
「でも、その時間のおかげで、誰にも怪しまれず、お前にも気付かれずにフィリオン様と接触することができた」
淡々とした声。俺は、知らぬ間に、橋にされていたのか。
「フィリオン様は、本当に俺からロランのことを知りたかっただけだ。俺の過去も計画も、何も知らない」
その言葉だけは、嘘ではないと信じたい。
「そのうち、お前とヒューゴ・ファレルが近付いていくにつれ……フィリオン様の雰囲気が変わった。穏やかな笑顔がなくなり、冷たい瞳をすることが増えた」
わずかに、眉が寄る。
「――あの男を殺せば、彼女の愛したフィリオン様を笑顔にすることが出来る。ならばやはり、必ずやり遂げなければと思った」
静かな決意。歪んだ献身。彼は、本気でそう信じていたのだ。
ヒューゴを殺すことが。復讐を果たすことが。フィリオン様を、そして彼女の記憶を、救うことになると。
愛は、いつからこんな形になってしまったのだろう。守るためのはずの想いが、奪うことを正当化する。罪を重ねることで、誰かの笑顔を作れると信じてしまう。
目の前の男は、壊れている。だがその壊れ方は、あまりにも人間らしかった。
俺は、ただ立ち尽くす。怒りも、悲しみも、裏切られた痛みも。すべてが胸の中で渦巻きながら、声にならない。
朝の光が、腕輪の糸を淡く照らしていた。まるで、その歪んだ決意を祝福するかのように。
「でもやり遂げる前に、お前に見つかってしまったなら……もう、終わりだ。フィリオン様に大切にされているお前の口を封じることも出来ない。……自白、してくる」
あまりにも静かな声だった。怒りも、焦りもない。ただ、すべてを諦めた人間の響き。
唐突に立ち上がったピートは、床に散らばったベラドンナをひとつずつ拾い上げ、小箱へと戻していく。
黒紫の実が、乾いた音を立てて木箱の中に転がった。蓋を閉める指先は、驚くほど丁寧で、震えていなかった。
小箱は壊れていない。壊れていたのは――。
「悪かったな。今までずっと騙してて。チロを奪ってしまって」
低く落ちる声。
「俺はずっと、ロランが羨ましかった。家族に恵まれ、フィリオン様の特別を貰い、極悪人の俺を疑うことも知らない純粋なお前が」
言葉が、胸に突き刺さる。
立ち尽くす俺の前に、小箱を抱えたピートが歩み寄る。数センチ高い位置にあるその顔を、涙で歪んだ視界越しに見上げた。彼の目も、濡れていた。
「俺も……ロランのような人生を、送りたかったわ」
かすれた声。そして、力なく笑う。
それは嘲笑でも、自嘲でもなく、ただ叶わなかった夢を見送るような笑みだった。
俺は、何の言葉もかえせなかった。なんて言ったらいいのか、何を言えばいいのか、分からなかった。言葉を探すには、時間が足りなかった。
踵を返す背中は、やけに小さく見えた。裏口の扉が開き、冷たい外気が一瞬流れ込む。
次の瞬間――バタン。
重い音が響いた。
その響きは、まるで彼の人生に下された判決のようだった。
足の力が抜け、俺はその場に崩れ落ちた。ひとりで抱えるには、あまりにも重い過去だった。
それをピートは、幼いころからずっと、たったひとりで抱え込んできたのだ。
間違いを叱ってくれる大人も、正しさへ導いてくれる家族も、彼の瞳の奥に巣食う闇に気づいてくれる友も。
誰ひとり、いなかった。
だから彼は、闇から闇へと転がり落ちた。足場を失うたびに、さらに深い場所へ。
救いの手を掴むことを知らないまま。闇の先にあったのは光ではなく、また次の闇。ただ、暗がりの面積だけが広がっていく。
それでも――もし、ほんの少しでも。誰かが彼の手を掴んでいたなら。その人生は、違う色をしていたのだろうか。
床に落ちた涙が、静かに染みを広げていく。もう戻らない時間のように。
増えていく涙の染みを、俺はただ呆然と見つめていた。じわり、と広がる濃淡。まるで心の奥に滲み出した疑念のようだった。
そのときだった。小さな違和感が、胸の奥で息を吹き返したのは。
『鳥の死骸や動物の目玉がくり取られたようなものが送られてきた』
『自分の思いを受け入れなければヒューゴを殺す、と書かれた文が届いた』
――あれは、一体何だったのだ?
ピートの口から語られた彼女の姿と、どうしても重ならない。まるで、別人だ。
恋に狂っていた――それは、あり得るのかもしれない。髪の毛で編んだ腕輪。爪を混ぜたクッキー。
常軌を逸している。だがそれは、歪んだ恋のおまじないだったのかもしれない。自分の一部を捧げ、想いを繋ぎ止めようとする、幼く純粋な願掛け。
けれど、命を脅しの道具にする?義弟の死を取引材料にする?他人の罪を被り、地位も家も尊厳も捨てた人間が?ヒューゴを、脅迫の材料に?
あり得ない。ピートの話を聞いた後では、なおさらだ。胸の奥で、ひとつの疑惑がゆっくりと形を成す。
もし――もし、それらがすべて、フィリオン様の、嘘だったとしたら。俺を、ヒューゴの心に近付けさせないための、嘘。
思考が冷えていく。いや、違う。思考が冷えているのではない。冴えているのだ。もうひとつ、引っかかることがある。
ベラドンナ。子供のころから目にして、扱い方も熟知していたはずのピートが、致死量を知らないなんてことが、あり得るのか。
チロを犠牲に実験をするなんて、そんな回りくどい真似をするだろうか。収穫すら難しくなった貴重なベラドンナを、実験台に二度も使うだろうか。
一度目のあのとき。偶然にも、フィリオン様がそこにいて。偶然にも、彼の応急処置は完璧で。チロは命を救われた。
そして、彼への恐怖も違和感も、尊敬と感謝に塗り替えられた。かつての彼の言葉が甦る。
『今はヒューゴの色が多くても、いずれ君は私の色に染まる。私の元に帰ってくるよ』
ぞくり、と背筋が震える。あれは予言だったのか。それとも、確信だったのか。
もし、すべてが、ヒューゴから俺を取り戻すための、計画だったとしたら。
ヒューゴにかけられた冤罪も、俺たちを引き離すための、仕組まれた舞台だったとしたら。
そして、ピートはその駒。彼の罪を被り、闇へ沈もうとしているだけだとしたら。義姉が、かつて誰かの罪を背負ったように。
チロが死んだと告げた苦渋の表情が、本当は後悔の色だったとしたら。俺がチロを大切に世話していたと知っていたピート。本当は、命令されたから仕方なく、やったのだとしたら。
胸が強く締めつけられる。涙の染みは、もう乾き始めている。だが疑念は、乾かない。むしろ、広がっていく。
もし、真実がそこにあるなら。俺は今、とてつもなく大きなものを見落としている。
ピートは、本当に加害者なのか。それとも――誰かの、盾なのか。
扉の向こうへ消えた背中が、脳裏に焼きつく。間に合うのか。いや、間に合わせなければならない。
もし彼が、またひとりで闇へ落ちようとしているのなら。今度こそ。
今度こそ、手を伸ばさなければならない。
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