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エピソード1
【前編】氷の副社長は、深夜の給湯室でだけ牙を剥く
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「……やり直し」
低い、温度のない声が静まり返ったフロアに響く。 差し出された修正資料は、私の手元に戻ることなく、デスクの端に無造作に置かれた。
瀬戸(せと)副社長。34歳。 端正な顔立ちと冷徹な仕事ぶりから、社内では『氷壁(ひょうへき)』と渾名(あだな)されている。 私の直属の上司であり、最も苦手な男だ。
「明日の朝までに。できるな、結衣」 「……はい。失礼します」
名字ではなく名前で呼ばれるのは、彼がこの会社のオーナー一族だからだろうか。 それとも、単に私を「所有物」か何かのように見下しているからだろうか。
時計の針は、夜の11時を回ろうとしている。 窓の外では、叩きつけるような雨が窓ガラスを濡らしていた。
カツ、カツ、と瀬戸さんの靴音が遠ざかり、副社長室のドアが閉まる。 私は大きく溜息をつき、熱を持った目元を指で押さえた。
(……あんな言い方、しなくてもいいのに)
胸の奥がチリチリと痛む。 悔しさと、それから……彼に見つめられた時に一瞬だけ跳ねてしまった心臓が、ひどく疎ましかった。
深夜のオフィスは、不気味なほど静かだ。 サーバーの稼働音と、激しい雨音だけが、私の焦りを煽る。
喉が、妙に渇く。 気分転換に、私は給湯室へ向かった。
薄暗い廊下を歩き、センサーライトが点灯する給湯室へ入る。 インスタントのドリップバッグをカップにセットし、お湯を注ぐ。 立ち上るコーヒーの香りに、ようやく強張っていた肩の力が少しだけ抜けた、その時。
――背後で、気配がした。
「コーヒーか」
「っ……!」
心臓が口から飛び出すかと思った。 振り返ると、いつの間にか瀬戸さんが入り口に立っていた。
ジャケットを脱ぎ、白いシャツの腕を捲り上げた姿。 普段の隙のないスーツ姿よりも、剥き出しの「男」を感じさせて、私は息を呑む。
「あ、あの……副社長も、いかがですか?」
動揺を隠そうと、上ずった声で尋ねる。 けれど彼は答えない。 無言のまま、一歩、また一歩と、狭い給湯室の中に足を踏み入れてくる。
逃げ場のない空間。 瀬戸さんの体温と、微かな香水の匂いが、コーヒーの香りを塗りつぶしていく。
「結衣」
至近距離で呼ばれ、背中が給湯台に当たる。 彼は私のすぐ横に手を突き、私を閉じ込めるようにして顔を近づけた。
「仕事が終わるまで、帰さないと言ったら……どうする?」
冷徹だったはずの瞳に、見たこともない暗い熱が宿っている。 向けられた視線の鋭さに、私の身体は、蛇に睨まれた蛙のように硬直した。
逃げなきゃいけないのに。 彼の大きな手が、私の腰にゆっくりと回される。
熱い。 指先が触れた場所から、火がつくように熱くなっていく。
「副社長、ここ、は……」
拒絶の言葉は、彼の唇が私の耳元に触れた瞬間に、甘い吐息へと変わって消えた。
「……黙れ。今は、部下の顔をするな」
耳を噛むような掠れた声。 ハラハラとするような緊張感と、ゾクゾクとするような期待が、私の中で激しく渦巻き始めた。
低い、温度のない声が静まり返ったフロアに響く。 差し出された修正資料は、私の手元に戻ることなく、デスクの端に無造作に置かれた。
瀬戸(せと)副社長。34歳。 端正な顔立ちと冷徹な仕事ぶりから、社内では『氷壁(ひょうへき)』と渾名(あだな)されている。 私の直属の上司であり、最も苦手な男だ。
「明日の朝までに。できるな、結衣」 「……はい。失礼します」
名字ではなく名前で呼ばれるのは、彼がこの会社のオーナー一族だからだろうか。 それとも、単に私を「所有物」か何かのように見下しているからだろうか。
時計の針は、夜の11時を回ろうとしている。 窓の外では、叩きつけるような雨が窓ガラスを濡らしていた。
カツ、カツ、と瀬戸さんの靴音が遠ざかり、副社長室のドアが閉まる。 私は大きく溜息をつき、熱を持った目元を指で押さえた。
(……あんな言い方、しなくてもいいのに)
胸の奥がチリチリと痛む。 悔しさと、それから……彼に見つめられた時に一瞬だけ跳ねてしまった心臓が、ひどく疎ましかった。
深夜のオフィスは、不気味なほど静かだ。 サーバーの稼働音と、激しい雨音だけが、私の焦りを煽る。
喉が、妙に渇く。 気分転換に、私は給湯室へ向かった。
薄暗い廊下を歩き、センサーライトが点灯する給湯室へ入る。 インスタントのドリップバッグをカップにセットし、お湯を注ぐ。 立ち上るコーヒーの香りに、ようやく強張っていた肩の力が少しだけ抜けた、その時。
――背後で、気配がした。
「コーヒーか」
「っ……!」
心臓が口から飛び出すかと思った。 振り返ると、いつの間にか瀬戸さんが入り口に立っていた。
ジャケットを脱ぎ、白いシャツの腕を捲り上げた姿。 普段の隙のないスーツ姿よりも、剥き出しの「男」を感じさせて、私は息を呑む。
「あ、あの……副社長も、いかがですか?」
動揺を隠そうと、上ずった声で尋ねる。 けれど彼は答えない。 無言のまま、一歩、また一歩と、狭い給湯室の中に足を踏み入れてくる。
逃げ場のない空間。 瀬戸さんの体温と、微かな香水の匂いが、コーヒーの香りを塗りつぶしていく。
「結衣」
至近距離で呼ばれ、背中が給湯台に当たる。 彼は私のすぐ横に手を突き、私を閉じ込めるようにして顔を近づけた。
「仕事が終わるまで、帰さないと言ったら……どうする?」
冷徹だったはずの瞳に、見たこともない暗い熱が宿っている。 向けられた視線の鋭さに、私の身体は、蛇に睨まれた蛙のように硬直した。
逃げなきゃいけないのに。 彼の大きな手が、私の腰にゆっくりと回される。
熱い。 指先が触れた場所から、火がつくように熱くなっていく。
「副社長、ここ、は……」
拒絶の言葉は、彼の唇が私の耳元に触れた瞬間に、甘い吐息へと変わって消えた。
「……黙れ。今は、部下の顔をするな」
耳を噛むような掠れた声。 ハラハラとするような緊張感と、ゾクゾクとするような期待が、私の中で激しく渦巻き始めた。
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