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4『コンプレックス』
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母の日が近くなってきているので、店舗のバックヤードで宇野ちゃんと三浦さんとポップを作っていた。
真っ赤なカーネーションをイメージして、画用紙で作っていく。まるで保育園の先生みたいな作業だなと思いつつ、ハサミを入れていた。
今日はあまりお客さんが来ないのんびりした日だ。
「なんかお疲れ気味だね、宇野ちゃん」
三浦さんが心配そうに声をかけると「ええ、彼が元気すぎて」と恥ずかしがらずに言う。
「彼、年下だっけ?」
「3つです。可愛いけど元気すぎて」
この手の話題になると私は貝になる。
経験がないので話題に入っていけない。
「へぇ。いいじゃん。発散できそうで」
「一晩で5回ですよ。参りますって。入れることができれば男は満足なんですかね?」
「若いうちはそうかもね」
「えー……。たまには、年上に優しくされたいって思っちゃいます」
――天宮が作家として花開くために……経験してみない?
千場店長の破廉恥発言を思い出して顔が熱くなってきた。
「ところで天宮さんって、経験あるの?」
「えっ」
唐突過ぎる三浦さんの質問に言葉を詰まらせてしまう。
宇野ちゃんも興味津々に視線を向けてきた。
「……いや、あの」
「なんか、天宮さんってそう言うの苦手そう。バージンなんでしょ?」
「……はい……」
俯きながら小さな声で返事をすると「仕事しろー」と在庫置き場から声が聞こえて弾かれるように顔を上げた。
すると千場店長が出てきて、後ろには郷田さんまで立っていた。
嘘……聞かれてたの?
「男性もいるんだから……な?」
さわやかな笑みを浮かべながら千場店長は店に出ていく。郷田さんと一瞬目が合って頭に血が上る思いをした。
「うわ、聞かれてたんだ―……恥ずかしい」
宇野ちゃんは顔を真っ赤にして舌をペロッと出した。
私は恥ずかしいところじゃない。
郷田さんに聞かれてしまって絶望感が襲ってきた。
バージンって面倒くさいとか聞くし。
こんなんじゃ一生、恋愛なんて無理かもしれない。
自分が処女ということにコンプレックスを抱いてしまい仕事中もつい、ぼんやりしてしまった。
窓に飾られたポップを見て小さなため息をつく。
早番だったため仕事を終えて家に着くと、料理をしようと考えた。
美味しいものを食べて元気を付けたい。
油揚げと大根の煮付けを作り、魚を焼いて夕食を済ませる。
バラエティー番組をついつい見そうになってしまうが、時間がもったいない。テレビを消してパソコンへ向かう。
新作のプロットを作ろうかな。気合いを入れてWordを立ち上げる。
今度はどんな話にしようか?
新人OLが通勤電車で一目惚れをして、とあることがきっかけでふたりの間が急接近。んーじゃあ、とあるきっかけはなにがいいかな。
頭の中で色々なシーンを思い浮かべながら、浮かんだシーンをパソコンに打ち込んでいく。
キスシーンは……こっそり電車の中でとか。うーん。唐突過ぎない自然なキスシーンを書きたいな……。
そんなことを考えていると、千場店長のキスを思い出した。優しく入り込んできて、激しくなっていく舌の動きを想像すると、妙な気持ちになる。
首筋に滑り落ちてきたキスは、唇が当てられたところから火がつきそうなくらい熱かった。頭を両手で抱えて唸る私。
「うー……」
千場店長のことを記憶から消し去りたい。
小説の妄想タイムまで千場店長が頭から離れない。
もうっ。頭をブンブン振る。
「キャラクターはどうしようかなぁ」
浮かぶ時はすぐに思いつくのに、今日はなかなか浮かんでこない。
こういう時、過去の恋を題材にする作家さんも多いのだけど、あいにく……私は恋愛をしたことがない。
素敵だなって思うことはあったけど。
気分が乗らずに何気なくインターネットに繋いだ。
オンライン作家さんの小説を読んだりしていると、巡り巡って自分の作品が販売されているページに辿り着いた。
あまり見ないようにしているレビューを何気なくクリックしてしまう。
『エッチな小説を楽しみに読んでいますが、この作者さんの小説は全くエロくない。ただ挿入までの過程を書いているにすぎない。もっとリアルに書けないのだろうか?』
マウスのスクロールする指を止めた。
レビューには様々な意見があるから真に受けないようにしている。
もちろん、感想としてはありがたく思うし、次回作にいかせていければと思っている。
人それぞれ受け止め方も違うし仕方がないことだが、悪い評価をつけている読者さんはそろって性描写がリアルじゃないと書いてあった。
――天宮が作家として花開くために……経験してみない?
千場店長の言葉が鮮明に浮かんでくる。
私だって経験してみたいと思っているけど、相手がいないの。焦り始めているのも事実だ。もっと自分が明るい性格になれたらいいのに。
画面に向かっていても思いつかないから、気分を変えるためにもノートを持って深夜2時までやっているカフェに行くことにした。
カフェについてキャラメルマキアートを注文し、端っこの席に座った。
しばらく思いついたことをノートに文字を書いていく。なんとなーくイメージが浮かんできた。
今回は女性が年上で若い後輩社員に翻弄される話にしよう。
よし、いいぞ。
でも、またふっと思い出してしまう。
――天宮が作家として花開くために……経験してみない?
……経験があれば、もっとリアルな小説を書けるのに……。
ある程度大枠が浮かんで一息ついた頃、テーブルに置いてあったスマホがブルブルと震えた。あまりにもしつこいから電話だ。
誰かを確認すると千場店長だった。
席から離れて入り口に行って電話に出る。
「はい」
『お前っ!なんではやく出ないんだ?……ん?あれ騒がしい。こんな遅くにどこほっつき歩いてんだ?』
電話に出た途端、早速束縛がはじまる。
「ちょっと……お茶です」
『はあ?こんな時間に?誰と?』
「千場店長には関係ないことです」
はやく席に戻りたいから、強い口調で言ってやる。
『関係ないだと?』
あーもう!
なんで私の上司はしつこいんだろうっ!!
「家の近くのス○バです!次の小説のことをゆっくり考えたかったんです……」
心が不安定で泣きそうになり声が詰まった。
『彩歩……?』
「とにかく、心配は不要です!」
電話を切った。
電源もそのまま落とす。
ハァーと小さくため息をついて席に戻ると、氷が溶けて味が薄まっていた。しばらくそこでぼうっとして妄想にふける。
気持ちが落ち着かなくてカフェを出る。
外は、肌寒い。
もう、春なのに。
空を見上げると、星がひとつだけ見えた。
私が小説だけ書いて食べていくのはかなり難しいことだろう。
この大きな空に浮かぶあの輝く星のように、たった一握りの人間だけが叶う夢だ。
それでも、電子書籍を出させてもらっているだけ幸せだと思わなきゃ。
私には書くことしか生き甲斐がない。
友達と呼べる人も少ないし、家族だっていない。私を大事に思ってくれる人なんていない。
ああ、どうして今日はこんな落ち込んでしまうのだろう。
せめて……読者さん楽しめるように、エッチシーンをリアルに書きたい。
読んでくれる人がいるから頑張れるのに、満足を提供できないなんて……。
「おい」
千場店長が目の前にいきなり現れた。
「千場……店長……」
「心配だから、来たんだ。お前、電源切っちゃうから」
息が上がっているようだ。
心配して来てくれたのだろうか。
「なんか、元気ない気がしてた。会社の時もさっきの電話も」
誰かに心配なんてされたことがなくて動揺してしまう。
本当は嬉しいくせに素直になれない。
「……バカじゃないですか?」
「はあ?」
「私には理解できません。心配して走ってくるとか、高校生みたい。あぁ、バッカみたい」
なんだか、真っ直ぐ過ぎる千場店長にムカッとして暴言を吐く。
落ち込んだような表情をしたが、すぐに開き直ったかのようにニヤッと笑顔を向けてきた。
「バカだよ、俺。で?」
「……」
何も言い返せなくなって唇を噛んだ。
――彩歩。人には優しく接しなさい。感謝するんだよ。
お婆ちゃんの教えが頭の中に浮かぶ。
店長は、私を心配してくれたんだよね。
感謝しなきゃいけない。
お婆ちゃん、ごめんね。私、もっと優しくしてあげなきゃいけないよね。
一歩、二歩と近づいていく。
そして、背の高い千場店長を見上げる。
「千場店長、ご心配おかけして申し訳ありませんでした」
「あ?いや、べつに」
いきなり素直になったから、あっけらかんとした顔をしている。
「……人と関わるのが苦手なんです。逃避するために小説を書き始めました。でも、小説に出てくるのは人間ばかりなんですよね。私ってこうやって矛盾している変な人間なんです」
涙がポロッと一粒こぼれ落ちる。
「だから……だから、いまだに経験がないんです」
「それがコンプレックスになって元気がなかったのか……」
納得したように呟いた千場店長は、私を優しく抱きしめてくれた。
さっきまですごく寒かったのに、いまは温かい。身体が火照ってくる。
「お前の身体……冷たいな」
千場店長の手は私の頬に触れた。
「風邪ひくぞ」
頬をぷにぷにされて、くすっと笑う。
千場店長の優しさに心が折れそうになる。
「さ、帰ろうか」
「……」
私の手をひいて歩き出した。
千場店長の言葉が頭から離れない。
――……経験してみない?
きっとこの先、恋をして誰かと愛し合うことなんてないだろう。交換条件で千場店長は私に束縛してくるが、いつかは飽きられるかもしれない。
となると、男性と触れ合う機会もないまま一生を終える可能性だってある。
「しょ、処女って面倒くさいって……あれ、本当なんですか?」
ふいに出た言葉に千場店長は、ピタッと歩みを止めた。
そして、私を一瞥する。
何事もなかったかのように再び歩き出す。
「好きな人なら……面倒くさいとか考えないだろ」
千場店長はバージンの人と付き合ったことがないんだった。
質問されても困ってしまうか。
再び沈黙が流れる。
千場店長はどんな風に胸を揉んで、その頂きを舐めるのだろう。ぼんやり考えながら歩いていると、自宅近くの道だということに気がついた。
「上がりたいけど、どーせダメだろ」
マンションの近くまで来たところで千場店長が呟く。
「ダメ、です……」
「わかった。じゃあ、帰る」
優しい声で囁くように言うと、頭をポンポンと撫でてきた。
その手を私の頭に置いたままじっと見つめてくる――。
そのせいか、ドキンと心臓が跳ねた。
私――……千場店長になら、抱かれてもいい。
苦手だけど、嫌いじゃない。
むしろ、恋焦がれている相手とセックスしたら、心まで欲しくなってしまうかもしれない。
「お茶……飲んでいかれますか?」
「いいのか?」
コクリと頷く。
そして、意を決し私は千場店長を見つめた。
「千場店長、私を女にしてください」
「は?」
千場店長のこんなに間抜けな顔は初めて見た。
たしかに、驚かせることを言ったかもしれない。
千場店長は私を交換条件と言って利用しているのだから、私だって利用させてもらっても罪にはならないだろう。
「本気なのか?」
「はい」
真っ直ぐ千場店長を見つめる。
一度決めたことは貫きたい。
首の後ろに手を回して、困ったような表情で見下ろしてきた。
「んー……」
「ダメですか?」
「いいけど。てか、大歓迎だけど……」
視線を宙に浮かせた後、ピタリと私に視線を合わせた。
「じゃあ、俺の家でするか」
悩んでいたのは、どこでするかと言うことらしい。
「明日、お互いに早番だし。俺の家のほうが会社から近いからゆっくりできるだろ。きっとヘトヘトになるだろうし」
くすっと笑った。
わざと、やらしい言い方しなくたっていいのに。
「お泊りセット取りに行ってから、タクシーで行くぞ」
*
私は、寝室にあるクローゼットから着替えを出した。
気配を感じて振り向くと千場店長はタンスを見ていた。
おばあちゃんとお母さんの写真がある。
「勝手に寝室に入ってこないでください」
「手、合わせていいか?」
「え?」
千場店長はタンスの前に正座をすると、背筋をピンと張って手を合わせた。
遺影のような写真じゃなく普通の写真立てなのに、なんで亡くなっていることを知っているのだろう。
履歴書を見たからかな。
振り向いた千場店長は「準備できたか?」と聞いてくる。
「もう少しです」
「はやくしろ」
リビングに行ってソファーにどかっと座った。
準備を終えて千場店長の元に行くと、千場店長はテーブルにおいてあった茶封筒を手にした。
なんだろうと思いふっと見ると、落選して戻ってきた原稿の講評だった。
「だ、だめっ」
奪い取る。
「夢に向かって頑張ってるんだな」
「……っ」
あまりにも温かい笑みを向けられて困った。
胸がズキンとして苦しくなる。
「夢、叶うといいな」
すごく優しい目。声。私は不覚にもキュンしてしまった。
「よし、行くか」
真っ赤なカーネーションをイメージして、画用紙で作っていく。まるで保育園の先生みたいな作業だなと思いつつ、ハサミを入れていた。
今日はあまりお客さんが来ないのんびりした日だ。
「なんかお疲れ気味だね、宇野ちゃん」
三浦さんが心配そうに声をかけると「ええ、彼が元気すぎて」と恥ずかしがらずに言う。
「彼、年下だっけ?」
「3つです。可愛いけど元気すぎて」
この手の話題になると私は貝になる。
経験がないので話題に入っていけない。
「へぇ。いいじゃん。発散できそうで」
「一晩で5回ですよ。参りますって。入れることができれば男は満足なんですかね?」
「若いうちはそうかもね」
「えー……。たまには、年上に優しくされたいって思っちゃいます」
――天宮が作家として花開くために……経験してみない?
千場店長の破廉恥発言を思い出して顔が熱くなってきた。
「ところで天宮さんって、経験あるの?」
「えっ」
唐突過ぎる三浦さんの質問に言葉を詰まらせてしまう。
宇野ちゃんも興味津々に視線を向けてきた。
「……いや、あの」
「なんか、天宮さんってそう言うの苦手そう。バージンなんでしょ?」
「……はい……」
俯きながら小さな声で返事をすると「仕事しろー」と在庫置き場から声が聞こえて弾かれるように顔を上げた。
すると千場店長が出てきて、後ろには郷田さんまで立っていた。
嘘……聞かれてたの?
「男性もいるんだから……な?」
さわやかな笑みを浮かべながら千場店長は店に出ていく。郷田さんと一瞬目が合って頭に血が上る思いをした。
「うわ、聞かれてたんだ―……恥ずかしい」
宇野ちゃんは顔を真っ赤にして舌をペロッと出した。
私は恥ずかしいところじゃない。
郷田さんに聞かれてしまって絶望感が襲ってきた。
バージンって面倒くさいとか聞くし。
こんなんじゃ一生、恋愛なんて無理かもしれない。
自分が処女ということにコンプレックスを抱いてしまい仕事中もつい、ぼんやりしてしまった。
窓に飾られたポップを見て小さなため息をつく。
早番だったため仕事を終えて家に着くと、料理をしようと考えた。
美味しいものを食べて元気を付けたい。
油揚げと大根の煮付けを作り、魚を焼いて夕食を済ませる。
バラエティー番組をついつい見そうになってしまうが、時間がもったいない。テレビを消してパソコンへ向かう。
新作のプロットを作ろうかな。気合いを入れてWordを立ち上げる。
今度はどんな話にしようか?
新人OLが通勤電車で一目惚れをして、とあることがきっかけでふたりの間が急接近。んーじゃあ、とあるきっかけはなにがいいかな。
頭の中で色々なシーンを思い浮かべながら、浮かんだシーンをパソコンに打ち込んでいく。
キスシーンは……こっそり電車の中でとか。うーん。唐突過ぎない自然なキスシーンを書きたいな……。
そんなことを考えていると、千場店長のキスを思い出した。優しく入り込んできて、激しくなっていく舌の動きを想像すると、妙な気持ちになる。
首筋に滑り落ちてきたキスは、唇が当てられたところから火がつきそうなくらい熱かった。頭を両手で抱えて唸る私。
「うー……」
千場店長のことを記憶から消し去りたい。
小説の妄想タイムまで千場店長が頭から離れない。
もうっ。頭をブンブン振る。
「キャラクターはどうしようかなぁ」
浮かぶ時はすぐに思いつくのに、今日はなかなか浮かんでこない。
こういう時、過去の恋を題材にする作家さんも多いのだけど、あいにく……私は恋愛をしたことがない。
素敵だなって思うことはあったけど。
気分が乗らずに何気なくインターネットに繋いだ。
オンライン作家さんの小説を読んだりしていると、巡り巡って自分の作品が販売されているページに辿り着いた。
あまり見ないようにしているレビューを何気なくクリックしてしまう。
『エッチな小説を楽しみに読んでいますが、この作者さんの小説は全くエロくない。ただ挿入までの過程を書いているにすぎない。もっとリアルに書けないのだろうか?』
マウスのスクロールする指を止めた。
レビューには様々な意見があるから真に受けないようにしている。
もちろん、感想としてはありがたく思うし、次回作にいかせていければと思っている。
人それぞれ受け止め方も違うし仕方がないことだが、悪い評価をつけている読者さんはそろって性描写がリアルじゃないと書いてあった。
――天宮が作家として花開くために……経験してみない?
千場店長の言葉が鮮明に浮かんでくる。
私だって経験してみたいと思っているけど、相手がいないの。焦り始めているのも事実だ。もっと自分が明るい性格になれたらいいのに。
画面に向かっていても思いつかないから、気分を変えるためにもノートを持って深夜2時までやっているカフェに行くことにした。
カフェについてキャラメルマキアートを注文し、端っこの席に座った。
しばらく思いついたことをノートに文字を書いていく。なんとなーくイメージが浮かんできた。
今回は女性が年上で若い後輩社員に翻弄される話にしよう。
よし、いいぞ。
でも、またふっと思い出してしまう。
――天宮が作家として花開くために……経験してみない?
……経験があれば、もっとリアルな小説を書けるのに……。
ある程度大枠が浮かんで一息ついた頃、テーブルに置いてあったスマホがブルブルと震えた。あまりにもしつこいから電話だ。
誰かを確認すると千場店長だった。
席から離れて入り口に行って電話に出る。
「はい」
『お前っ!なんではやく出ないんだ?……ん?あれ騒がしい。こんな遅くにどこほっつき歩いてんだ?』
電話に出た途端、早速束縛がはじまる。
「ちょっと……お茶です」
『はあ?こんな時間に?誰と?』
「千場店長には関係ないことです」
はやく席に戻りたいから、強い口調で言ってやる。
『関係ないだと?』
あーもう!
なんで私の上司はしつこいんだろうっ!!
「家の近くのス○バです!次の小説のことをゆっくり考えたかったんです……」
心が不安定で泣きそうになり声が詰まった。
『彩歩……?』
「とにかく、心配は不要です!」
電話を切った。
電源もそのまま落とす。
ハァーと小さくため息をついて席に戻ると、氷が溶けて味が薄まっていた。しばらくそこでぼうっとして妄想にふける。
気持ちが落ち着かなくてカフェを出る。
外は、肌寒い。
もう、春なのに。
空を見上げると、星がひとつだけ見えた。
私が小説だけ書いて食べていくのはかなり難しいことだろう。
この大きな空に浮かぶあの輝く星のように、たった一握りの人間だけが叶う夢だ。
それでも、電子書籍を出させてもらっているだけ幸せだと思わなきゃ。
私には書くことしか生き甲斐がない。
友達と呼べる人も少ないし、家族だっていない。私を大事に思ってくれる人なんていない。
ああ、どうして今日はこんな落ち込んでしまうのだろう。
せめて……読者さん楽しめるように、エッチシーンをリアルに書きたい。
読んでくれる人がいるから頑張れるのに、満足を提供できないなんて……。
「おい」
千場店長が目の前にいきなり現れた。
「千場……店長……」
「心配だから、来たんだ。お前、電源切っちゃうから」
息が上がっているようだ。
心配して来てくれたのだろうか。
「なんか、元気ない気がしてた。会社の時もさっきの電話も」
誰かに心配なんてされたことがなくて動揺してしまう。
本当は嬉しいくせに素直になれない。
「……バカじゃないですか?」
「はあ?」
「私には理解できません。心配して走ってくるとか、高校生みたい。あぁ、バッカみたい」
なんだか、真っ直ぐ過ぎる千場店長にムカッとして暴言を吐く。
落ち込んだような表情をしたが、すぐに開き直ったかのようにニヤッと笑顔を向けてきた。
「バカだよ、俺。で?」
「……」
何も言い返せなくなって唇を噛んだ。
――彩歩。人には優しく接しなさい。感謝するんだよ。
お婆ちゃんの教えが頭の中に浮かぶ。
店長は、私を心配してくれたんだよね。
感謝しなきゃいけない。
お婆ちゃん、ごめんね。私、もっと優しくしてあげなきゃいけないよね。
一歩、二歩と近づいていく。
そして、背の高い千場店長を見上げる。
「千場店長、ご心配おかけして申し訳ありませんでした」
「あ?いや、べつに」
いきなり素直になったから、あっけらかんとした顔をしている。
「……人と関わるのが苦手なんです。逃避するために小説を書き始めました。でも、小説に出てくるのは人間ばかりなんですよね。私ってこうやって矛盾している変な人間なんです」
涙がポロッと一粒こぼれ落ちる。
「だから……だから、いまだに経験がないんです」
「それがコンプレックスになって元気がなかったのか……」
納得したように呟いた千場店長は、私を優しく抱きしめてくれた。
さっきまですごく寒かったのに、いまは温かい。身体が火照ってくる。
「お前の身体……冷たいな」
千場店長の手は私の頬に触れた。
「風邪ひくぞ」
頬をぷにぷにされて、くすっと笑う。
千場店長の優しさに心が折れそうになる。
「さ、帰ろうか」
「……」
私の手をひいて歩き出した。
千場店長の言葉が頭から離れない。
――……経験してみない?
きっとこの先、恋をして誰かと愛し合うことなんてないだろう。交換条件で千場店長は私に束縛してくるが、いつかは飽きられるかもしれない。
となると、男性と触れ合う機会もないまま一生を終える可能性だってある。
「しょ、処女って面倒くさいって……あれ、本当なんですか?」
ふいに出た言葉に千場店長は、ピタッと歩みを止めた。
そして、私を一瞥する。
何事もなかったかのように再び歩き出す。
「好きな人なら……面倒くさいとか考えないだろ」
千場店長はバージンの人と付き合ったことがないんだった。
質問されても困ってしまうか。
再び沈黙が流れる。
千場店長はどんな風に胸を揉んで、その頂きを舐めるのだろう。ぼんやり考えながら歩いていると、自宅近くの道だということに気がついた。
「上がりたいけど、どーせダメだろ」
マンションの近くまで来たところで千場店長が呟く。
「ダメ、です……」
「わかった。じゃあ、帰る」
優しい声で囁くように言うと、頭をポンポンと撫でてきた。
その手を私の頭に置いたままじっと見つめてくる――。
そのせいか、ドキンと心臓が跳ねた。
私――……千場店長になら、抱かれてもいい。
苦手だけど、嫌いじゃない。
むしろ、恋焦がれている相手とセックスしたら、心まで欲しくなってしまうかもしれない。
「お茶……飲んでいかれますか?」
「いいのか?」
コクリと頷く。
そして、意を決し私は千場店長を見つめた。
「千場店長、私を女にしてください」
「は?」
千場店長のこんなに間抜けな顔は初めて見た。
たしかに、驚かせることを言ったかもしれない。
千場店長は私を交換条件と言って利用しているのだから、私だって利用させてもらっても罪にはならないだろう。
「本気なのか?」
「はい」
真っ直ぐ千場店長を見つめる。
一度決めたことは貫きたい。
首の後ろに手を回して、困ったような表情で見下ろしてきた。
「んー……」
「ダメですか?」
「いいけど。てか、大歓迎だけど……」
視線を宙に浮かせた後、ピタリと私に視線を合わせた。
「じゃあ、俺の家でするか」
悩んでいたのは、どこでするかと言うことらしい。
「明日、お互いに早番だし。俺の家のほうが会社から近いからゆっくりできるだろ。きっとヘトヘトになるだろうし」
くすっと笑った。
わざと、やらしい言い方しなくたっていいのに。
「お泊りセット取りに行ってから、タクシーで行くぞ」
*
私は、寝室にあるクローゼットから着替えを出した。
気配を感じて振り向くと千場店長はタンスを見ていた。
おばあちゃんとお母さんの写真がある。
「勝手に寝室に入ってこないでください」
「手、合わせていいか?」
「え?」
千場店長はタンスの前に正座をすると、背筋をピンと張って手を合わせた。
遺影のような写真じゃなく普通の写真立てなのに、なんで亡くなっていることを知っているのだろう。
履歴書を見たからかな。
振り向いた千場店長は「準備できたか?」と聞いてくる。
「もう少しです」
「はやくしろ」
リビングに行ってソファーにどかっと座った。
準備を終えて千場店長の元に行くと、千場店長はテーブルにおいてあった茶封筒を手にした。
なんだろうと思いふっと見ると、落選して戻ってきた原稿の講評だった。
「だ、だめっ」
奪い取る。
「夢に向かって頑張ってるんだな」
「……っ」
あまりにも温かい笑みを向けられて困った。
胸がズキンとして苦しくなる。
「夢、叶うといいな」
すごく優しい目。声。私は不覚にもキュンしてしまった。
「よし、行くか」
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彼女が高木書店で働きはじめたのは、3年ほど前から。
短大卒業後、不動産会社で営業事務をしていたが、同期の、親会社の重役令嬢からいじめに近い嫌がらせを受け、逃げるように会社を辞めた過去があった。
そのことは優紀の心に小さいながらも深い傷をつけた。
人付き合いを恐れるようになった優紀は、それ以来、つぶれかけの本屋で人の目につかない質素な生活に安んじていた。
一方、高木書店の目と鼻の先に、優紀の兄の幼なじみで、大企業の社長令息にしてカリスマ美容師の香坂玲伊が〈リインカネーション〉という総合ビューティーサロンを経営していた。
玲伊は優紀より4歳年上の29歳。
優紀も、兄とともに玲伊と一緒に遊んだ幼なじみであった。
店が近いこともあり、玲伊はしょっちゅう、優紀の本屋に顔を出していた。
子供のころから、かっこよくて優しかった玲伊は、優紀の初恋の人。
その気持ちは今もまったく変わっていなかったが、しがない書店員の自分が、カリスマ美容師にして御曹司の彼に釣り合うはずがないと、その恋心に蓋をしていた。
そんなある日、優紀は玲伊に「自分の店に来て」言われる。
優紀が〈リインカネーション〉を訪れると、人気のファッション誌『KALEN』の編集者が待っていた。
そして「シンデレラ・プロジェクト」のモデルをしてほしいと依頼される。
「シンデレラ・プロジェクト」とは、玲伊の店の1周年記念の企画で、〈リインカネーション〉のすべての施設を使い、2~3カ月でモデルの女性を美しく変身させ、それを雑誌の連載記事として掲載するというもの。
優紀は固辞したが、玲伊の熱心な誘いに負け、最終的に引き受けることとなる。
はじめての経験に戸惑いながらも、超一流の施術に心が満たされていく優紀。
そして、玲伊への恋心はいっそう募ってゆく。
玲伊はとても優しいが、それは親友の妹だから。
そんな切ない気持ちを抱えていた。
プロジェクトがはじまり、ひと月が過ぎた。
書店の仕事と〈リインカネーション〉の施術という二重生活に慣れてきた矢先、大問題が発生する。
突然、編集部に上層部から横やりが入り、優紀は「シンデレラ・プロジェクト」のモデルを下ろされることになった。
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