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第六話 おうちデート
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「お、美味しすぎる…」
「あ、ほんとですか。よかった」
また何か大きな仕事を任されて立て込んでいるらしいと風の噂で聞いた金曜日。
連絡をすると「全く問題ないんで明日は朝飯軽めにして、お腹空かせて来てください」と、いつものスタンプ付きで返事があり、予定通りに会うことになった今日、土曜日。
さっきまでキッチンでてきぱき動いていた矢野くんは、私の前で牛肉のしぐれ煮を口に運んだ。
「確かに結構美味い」
「結構じゃないよ!とっても美味しいです!」
インターホンを押す前から美味しそうな匂いが漂っていたけれど、ローテーブルの上に並べられた数々の料理には思わず声を上げてしまった。普段から本気で自炊してる人の手際のよさと完成度だった。
「作ってもらって、食べるばっかりでごめんね」
「いいですよ。そもそも俺が料理を振る舞うってことで来てもらったんだし。俺の方こそ、調子に乗ってちょっと作り過ぎました」
自分も手料理を持って行こうと思って、材料も購入していたのだけれど、前日に緊張してしまって眠れなくなり、寝坊したというのが本当のところ。はじめはなんだかカッコ悪くて申し訳なく思ったけれど。到底太刀打ち出来ないようなハイレベルの料理を口に運びながら、持ってこなくて正解だったかもなんて思ってしまう。
「お部屋もすごい片付いてるし…昨日もあんなに忙しかった上に残業までしてたはずなのに一体いつ…」
「そりゃ彼女が家に遊びに来るってなって、掃除しないやついないでしょ。気合い入れたんです」
矢野くんの2DKの部屋には、以前彼が熱を出した時に一度だけ来たことがあって、そのときも散らかっていたわけではなかったけれど、今日はさらに整然としていた。グレーで統一されている家具は清潔感があって、無機質な雰囲気を漂わせるほど。本棚と、大きめのソファとローテーブル。近くに置かれた大きなクッションはあまり使われていないように見える。
「あ、でも潔癖症とかじゃないですよ。家事が好きなだけ。ほら、基本インドアですから俺」
「知ってる」
読書が好きで、お気に入りのラノベが原作のアニメをBlu-rayボックスで揃えているような人だ。笑った私に「でも美緒先輩もでしょ」と言ってから、矢野くんははっとしたような表情になる。
「どうしたの?」
「そのー…美緒‘先輩’っていう言い方、どうにかしたくて」
持っていた箸を揃えてテーブルに置き、無造作に置いたままだったダークグリーンのエプロンを畳みながら、斜め向かいで矢野くんは姿勢を正す。
「付き合ってるのに‘先輩’呼びはちょっとなんか残念な感じしません?」
「あー、たしかに。じゃあこれからは私も名前で呼ぼうかな」
「え…そんなさらっと………でもまあ、そうか。そうですよね」
矢野くん…直人くんは「あなたってそういう人ですもんね」と笑いながら頭を掻いて、私の顔をじっと見てから、小さな声で名前を呼ぶ。
「…美緒さん」
「…はい」
ちょっと照れたような様子を見てこちらまで恥ずかしくなったのを誤魔化すように、私は箸を進めた。
「美味しそうに食べますね」
「だって矢野くん…じゃなくて直人くんの料理、本当に美味しいから」
「そう言ってもらえると、作ったかいがあります」
「今度、矢…な、直人くんに作り方教えてほしいなあ」
「あのー美緒さん、ほんと無理しなくていいです」
簡単に「名前で呼ぶ」なんて言っておきながら何度も呼び間違える私を見て、堪えられなくなったように笑いながら矢野くんはローテーブルに置かれた麦茶を飲む。
「下の名前で呼ばないとどうにもならないような関係を目指していくんで」
「ん?う、うん」
どういうことなのかいまいちよくわからなかったけれど、とりあえず曖昧に頷いておく。矢野くんは「だから逆に今は‘矢野くん’で。まあ俺は名前で呼ばせてもらいますけど」と、慣れたように手を伸ばし、私の近くにあったグラスをとってポットから麦茶を注ぐ。結構世話焼きというか、尽くす人なのかもと思いながら、麦茶がなみなみと注がれたそれを受け取ろうと手を伸ばした。すると。
「ね、美緒さん」
「ん?」
「大好きです」
にっこり微笑みながら言われて、持っていた箸を取り落としそうになる。
呼び方が変わることに関してはそのうちに慣れていくと思うけれど、この唐突な‘恋人っぽい空気‘には、これから先もきっと慣れないなと心底思う。でも、決して嫌ではないということを伝えたくて、一生懸命返す。
「私も…です」
それを聞いて矢野くんは「敬語もそのうちなくしていきたいけど、今の感じ嫌いじゃないんですよね」と言いながら、ほうれん草のおひたしを口に運ぶ。
「とりあえず食べましょ。残ったら持って帰ってもらってもいいんで」
「え!そんな至れり尽くせり…」
胃袋を掴まれた感をひしひしと感じる。
でも、お喋りが弾んで、箸も進んで、結局料理はほとんど残らなかった。
「あ、ほんとですか。よかった」
また何か大きな仕事を任されて立て込んでいるらしいと風の噂で聞いた金曜日。
連絡をすると「全く問題ないんで明日は朝飯軽めにして、お腹空かせて来てください」と、いつものスタンプ付きで返事があり、予定通りに会うことになった今日、土曜日。
さっきまでキッチンでてきぱき動いていた矢野くんは、私の前で牛肉のしぐれ煮を口に運んだ。
「確かに結構美味い」
「結構じゃないよ!とっても美味しいです!」
インターホンを押す前から美味しそうな匂いが漂っていたけれど、ローテーブルの上に並べられた数々の料理には思わず声を上げてしまった。普段から本気で自炊してる人の手際のよさと完成度だった。
「作ってもらって、食べるばっかりでごめんね」
「いいですよ。そもそも俺が料理を振る舞うってことで来てもらったんだし。俺の方こそ、調子に乗ってちょっと作り過ぎました」
自分も手料理を持って行こうと思って、材料も購入していたのだけれど、前日に緊張してしまって眠れなくなり、寝坊したというのが本当のところ。はじめはなんだかカッコ悪くて申し訳なく思ったけれど。到底太刀打ち出来ないようなハイレベルの料理を口に運びながら、持ってこなくて正解だったかもなんて思ってしまう。
「お部屋もすごい片付いてるし…昨日もあんなに忙しかった上に残業までしてたはずなのに一体いつ…」
「そりゃ彼女が家に遊びに来るってなって、掃除しないやついないでしょ。気合い入れたんです」
矢野くんの2DKの部屋には、以前彼が熱を出した時に一度だけ来たことがあって、そのときも散らかっていたわけではなかったけれど、今日はさらに整然としていた。グレーで統一されている家具は清潔感があって、無機質な雰囲気を漂わせるほど。本棚と、大きめのソファとローテーブル。近くに置かれた大きなクッションはあまり使われていないように見える。
「あ、でも潔癖症とかじゃないですよ。家事が好きなだけ。ほら、基本インドアですから俺」
「知ってる」
読書が好きで、お気に入りのラノベが原作のアニメをBlu-rayボックスで揃えているような人だ。笑った私に「でも美緒先輩もでしょ」と言ってから、矢野くんははっとしたような表情になる。
「どうしたの?」
「そのー…美緒‘先輩’っていう言い方、どうにかしたくて」
持っていた箸を揃えてテーブルに置き、無造作に置いたままだったダークグリーンのエプロンを畳みながら、斜め向かいで矢野くんは姿勢を正す。
「付き合ってるのに‘先輩’呼びはちょっとなんか残念な感じしません?」
「あー、たしかに。じゃあこれからは私も名前で呼ぼうかな」
「え…そんなさらっと………でもまあ、そうか。そうですよね」
矢野くん…直人くんは「あなたってそういう人ですもんね」と笑いながら頭を掻いて、私の顔をじっと見てから、小さな声で名前を呼ぶ。
「…美緒さん」
「…はい」
ちょっと照れたような様子を見てこちらまで恥ずかしくなったのを誤魔化すように、私は箸を進めた。
「美味しそうに食べますね」
「だって矢野くん…じゃなくて直人くんの料理、本当に美味しいから」
「そう言ってもらえると、作ったかいがあります」
「今度、矢…な、直人くんに作り方教えてほしいなあ」
「あのー美緒さん、ほんと無理しなくていいです」
簡単に「名前で呼ぶ」なんて言っておきながら何度も呼び間違える私を見て、堪えられなくなったように笑いながら矢野くんはローテーブルに置かれた麦茶を飲む。
「下の名前で呼ばないとどうにもならないような関係を目指していくんで」
「ん?う、うん」
どういうことなのかいまいちよくわからなかったけれど、とりあえず曖昧に頷いておく。矢野くんは「だから逆に今は‘矢野くん’で。まあ俺は名前で呼ばせてもらいますけど」と、慣れたように手を伸ばし、私の近くにあったグラスをとってポットから麦茶を注ぐ。結構世話焼きというか、尽くす人なのかもと思いながら、麦茶がなみなみと注がれたそれを受け取ろうと手を伸ばした。すると。
「ね、美緒さん」
「ん?」
「大好きです」
にっこり微笑みながら言われて、持っていた箸を取り落としそうになる。
呼び方が変わることに関してはそのうちに慣れていくと思うけれど、この唐突な‘恋人っぽい空気‘には、これから先もきっと慣れないなと心底思う。でも、決して嫌ではないということを伝えたくて、一生懸命返す。
「私も…です」
それを聞いて矢野くんは「敬語もそのうちなくしていきたいけど、今の感じ嫌いじゃないんですよね」と言いながら、ほうれん草のおひたしを口に運ぶ。
「とりあえず食べましょ。残ったら持って帰ってもらってもいいんで」
「え!そんな至れり尽くせり…」
胃袋を掴まれた感をひしひしと感じる。
でも、お喋りが弾んで、箸も進んで、結局料理はほとんど残らなかった。
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