ちゃんとしたい私たち

篠宮華

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恋人

9.仕事

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「おはようございます」

 勤務開始時刻10分前。このくらいの時間になると、半分以上の社員が出勤している。
 もうお仕事モードになっている人もいれば、まだなんとなくぼーっとしている様子の人も。
 正面のデスクの山崎くんは、出勤はしているようだったが席にはいなかった。

「若菜先輩、おはようございまーす!」
「おはよう。元気だね」

 朝からなかなかのハイテンションで話しかけて来た亜由美ちゃんは、しかし、すぐに声を潜めて耳打ちするように言う。

「そういえば昨日、大丈夫でした?」
「何が?」
「何がって…山崎先輩ですよ。なんか帰りがけに呼び止められてたじゃないですか」
「あー…」

 意外と見られているものだ。
 亜由美ちゃんは「私のせいで面倒なことになってたりしたらほんとに申し訳ないです…」ともじもじする。
 でも、山崎くんには無理だとはっきり告げたし、もしまた何かあるようなら然るべき対応をするとも伝えた。宏隆にも包み隠さず全て話してあるから、それほど心配はしていない。

「まあ、大丈夫だよ」

 曖昧に微笑んでからパソコンを立ち上げて今日のタスクを確認する。今日は出来るだけ…いや、絶対に残業しないで退勤できるように優先順位を決めていかなくてはいけない。
 飲み物を買いに休憩スペースの自販機に向かうと、「あ、私も行きます!」と亜由美ちゃんがついてきた。

「なんか今日、若菜先輩 いい匂いしますね」
「え…そ、そう?」
「髪のアレンジも可愛いし…もしかしてデートですか?」
「デート…なのかな?」
「…疑問形なんですか?」

 朝 宏隆の提案を聞いてから、いつもはあまりつけない香水をつけてみた。それから、着替える時間はなかったから、会社に早めに着いたついでに髪をアップにしてまとめ直してみたのだ。
 言われてみれば、外で待ち合わせをしてどこかへ行くのは付き合いだしてからは初めてだ。そのことに気付くと、なんだか新鮮ではある。

「若菜先輩って綺麗なのに恋バナとかあんまり興味なさそうっていうか、男の人の気配なかったけど、ここ最近は 彼氏的ないい方とうまくいってるんだろうなあってすごいわかります」
「そ、そうかな?」
「やっぱり恋をするとより一層綺麗になるんですねぇ…」

 自分ではそんなつもりはなかったので、しみじみと、そしてうっとりとそんな風に言われ、返答に困ってしまう。
 そんなこんなしているうちに始業時刻直前になってしまったのでデスクに戻ると、正面の席には山崎くんの姿があった。

「おはよ」
「おはよう」

 小さく挨拶を交わし、それぞれがパソコンのモニターに視線を向ける。
 粛々と業務にあたる雰囲気にやや安堵していると、隣の席の亜由美ちゃんが「あっ、間違えちゃった」などと言いながら席を立った。
 何を間違えたのだろうと、横からチラリとパソコンのモニターを覗き込もうとした時。

「野々村」

 それはあまりにも小さくて、一瞬誰の声かわからなかったけれど、「野々村」ともう一度名前を呼ばれて、山崎くんだとようやく気付く。

「…何?」
「昨日、ごめん。悪かった」
「…あー…うん」
「ちゃんと反省したから」

 それから、山崎くんは、パソコンのモニターごしに私を見つめて、「ごめん」ともう一度言った。偶然にも周りに私達以外はいない。個室で二人きりになるのは私が応じないと思ったのだろう。話すタイミングを見計らったのかもしれない。

「仕事仲間としては、頼りにしてる」
「え、頼りにしてもらえてんの?俺」
「うん、貴重な同期だから。でもそれ以外ではちょっと…ない、かな」

 変に期待を持たせるのもよくないかと思いそう言うと、山崎くんは「ずばっとふってもらえて助かるわ」と小さく笑った。
 仕事に支障が出るのは嫌だったから、変に拗れたり、普通に会話ができなくなったりしなくてよかった。内心そんな風に思っていると、「あのさ」と山崎くんは切り出す。

「野々村の相手って…どんな人?」
「どんなって…普通の人だけど」
「…えー…?普通か…?」
「どういうこと?」

 山崎くんが何を言いたいのかよくわからず、眉間に皺を寄せると、彼はやや慌てたように「いや、ごめん。気にしなくていいから」などと言う。

「付き合い長いの?」
「うん、まあ。幼馴染みだし」
「そっか…すごいな」

 すごいのだろうか。しかしなんだかあまり会話が続かなくなってきたので、仕事モードに戻ることにする。
 すると、亜由美ちゃんが泣きそうな顔になりながら帰って来た。

「プリンターの用紙 無理矢理引っ張ったらエラーになっちゃって戻らないんですけどちょっと見てもらえませんか…!」

 朝の元気とは打って変わった様子で しょんぼりしているので「一緒に見てみよう」と席を立つ。

「あー、ほらここ。カバーが浮いちゃってる」
「わ、ほんとだ!」
「わかりづらいよねこれ」

 しっかりはまっていなかった蓋を締め直し、再起動したことで正常に動き始めたプリンターを前に、亜由美ちゃんはぺこぺこと頭を下げる。

「すいません…ありがとうございます!」
「故障じゃなくてよかったね」
「うう…若菜先輩優しすぎます…!リアルに若菜先輩がいなかったら、私仕事頑張れないときあります。女神様的な存在なんで」
「さすがにそれは大袈裟すぎるよ」

 プリンターの音に負けないような大きな声で「ほんとですから!」と熱弁する亜由美ちゃんと席に戻ると、デスクに何やら見覚えのないファイルが置かれている。
 貼られた付箋には「本当にごめん、急ぎのやつです。月曜までにお願いしたい」と部長の署名と共に書かれていた。月曜までにと書いてはあるけれど、今日は金曜日。ということは、今日中に終わらなければ休日出勤しなくてはならなくなってしまうということだろうか。
 流石に無茶振り過ぎる と部長の姿を探すも、出張で出てしまっているようだ。この時間に既にいないということは、朝、オフィスに顔だけ出したということだろうか。
 メールを確認すると、「先方に急な納期の前倒しを頼まれた。野々村にしか任せられない。ごめん!お願い!」というような主旨の、まるで泣きつくようなメッセージが送られてきていた。

「こういうのはもうちょっと前もって言ってほしかったなぁ…」
「なんかあったんですか?」
「これ、来週頭までにって」
「えっ!これ全部!?部長は…ええー!出張ー…!?」

 ホワイトボードを見た亜由美ちゃんは「若菜先輩が仕事出来るからって誠意が足りない!」などとぷんぷんしている。
 確かにかなり頑張らないと終わらないだろう。定時退勤は無理だなと溜息をつくと、亜由美ちゃんが言う。

「私に回せるやつ、ください」
「え?」
「若菜先輩のデートを、部長の無茶振りに邪魔させません。私が代わりにやっても大丈夫そうな仕事はバンバン回してください」

 にかっと笑って「プリンターも直ったので!日頃の感謝を伝えるチャンスです!」と言う彼女を見て、絶望していた気持ちが少し和らぐ。

「ありがとう。でもとりあえず亜由美ちゃんは自分の仕事を頑張って」
「うぅっ…若菜先輩、どこまでもいい人…!」

 イレギュラーな仕事ではあるけれど、初めてやることではないから多分大丈夫だろう。
 「でもでも、私が自分の仕事を早く終えられたら若菜先輩のサポートに回れるってことですよね!よし!」と気合いを入れている亜由美ちゃんを横目に、自分も早く取り掛からねばとパソコンに向かう。
 すると、正面から声を掛けられる。

「なんか立て込んでんの?」
「え?」
「仕事。部長がファイル置いてくの見たから」
「あっ、そうなんです!部長がひどいんですよー!山崎先輩、今抱えてるのあります?」
「あるけど大丈夫だよ。野々村、今日なんか予定あるんだろ?手伝うよ」
「え、いや…でも…」

 自分の予定のためにそこまでしてもらうのは申し訳ない。「あ、ペン置いてきちゃった!」「効率重視!」などと忙しなく動き回る亜由美ちゃんを横目に、しかし、山崎くんはなんということはないように続ける。

「仕事仲間としては、頼りにしてるんだろ」
「……」
「野々村?」
「…今、初めて山崎くんすごいなって思った」
「初めてかよ」

 がっかりしたように言ってから、それでも山崎くんは「いろいろ共有かけといて」と笑った。

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