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ボーイミーツガールもの
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石畳の隙間に溜まった泥水が、少年の足音とともに跳ねた。王都の賑わいから離れた貧民街。古びた建物が軒を連ね、そこに生きる者たちの息遣いが低く響く。風が吹けば煮えたぎったスープの匂いと、鉄の錆びた臭いが混じり合い、そこに暮らす者たちの過酷な日々を物語っていた。
レオンは身を縮め、通りの影に潜む。獲物を狙う獣の目をしていた。腹が減っている。体の芯から力が抜け、手足が鉛のように重い。最後にまともな食事をしたのはいつだったか。思い出せないほど遠い昔のことのようだった。
市場の喧騒が近づく。露店には香ばしいパン、肉を焼く匂い、甘い果実の香りが漂っている。どれも彼には手の届かないものだった。
「――今だ」
レオンは細い腕を伸ばし、果物屋の台から林檎をひとつ掴んだ。しかし、その瞬間、鋭い声が響いた。
「おい、待て!」
店主の叫びに、市場の空気が揺れた。
レオンは反射的に駆け出した。全速力で石畳を蹴り、狭い路地へと滑り込む。足音が後を追ってくる。だが、彼はこの街の隅々を知り尽くしていた。脇道に入り、木箱を飛び越え、塀の隙間をくぐる。心臓が高鳴る。鼓動が耳に響く。
そして、次の角を曲がった瞬間――何かにぶつかった。
衝撃に後方へ倒れ込む。林檎は手を離れ、地面に転がった。視界に映ったのは、白いドレスの裾。
「……?」
目を上げた先にいたのは、少女だった。
金糸のような髪が陽光に輝き、澄んだ碧眼がレオンを見つめていた。王都の貴族の者だと、一目で分かるほど気品に満ちた姿。
「君……大丈夫?」
少女はそう言いながら、レオンの前に膝をついた。驚きに固まる彼を前に、少女は転がった林檎を拾い上げた。そして、そっと彼の手に押し戻す。
「これ、落としたでしょう?」
「……なんで」
問いかける声はかすれていた。なぜ、貴族の娘が、自分のような貧民の少年に優しくするのか。
だが、その答えを探す間もなく、背後から怒声が近づいてきた。
「いたぞ! そいつだ!」
振り返れば、怒りに燃えた果物屋の男が、護衛の兵士を連れてこちらへと向かってくる。
レオンは反射的に逃げようとした。しかし、少女がその腕を掴んだ。
「逃げなくても大丈夫よ」
その言葉に驚く間もなく、少女は兵士たちの前に立った。
「お待ちなさい。この少年を捕まえるつもりですか?」
「お嬢様、これは――」
「この果物、彼が盗んだ証拠は?」
少女の声は柔らかいが、どこか抗えぬ力を持っていた。兵士も店主も、その気迫に気圧されるように口をつぐむ。
「私は見ました。彼は果物を拾っただけ。それを盗みと言うなら、私が代金を払いますわ」
少女は静かにそう言い、腰の袋から銀貨を差し出した。
店主はそれを受け取りながらも、納得がいかない様子で舌打ちをする。しかし、貴族の娘が言うのなら仕方がない。そう悟ると、渋々その場を後にした。
レオンはその光景を呆然と見ていた。彼を庇う者など、今まで誰一人としていなかったからだ。
「君、名前は?」
少女が微笑む。その笑顔は、陽の光のように眩しかった。
「……レオン」
「私はエリシア。よろしくね、レオン」
そう言って差し出された手を、彼はしばらく見つめた後、おずおずと握り返した。
その瞬間、彼の運命が音を立てて動き出したのだった。
レオンは未だに信じられない思いで、少女――エリシアの後を歩いていた。
先ほどの出来事が幻だったのではないかと、何度も自分の手を握り直してみた。だが、まだそこにエリシアの温もりが残っている気がして、彼はますます困惑した。
「ねえ、レオン。君、どこに住んでいるの?」
彼女は歩きながら、楽しげに尋ねた。
「……こんなところで貴族が歩き回るなよ」
答えになっていないと分かっていたが、レオンはぶっきらぼうに言った。貴族の娘が貧民街に入り込むなんて、正気の沙汰ではない。誰かに見つかれば、彼女の立場も危うくなるだろう。
しかし、エリシアは気にした様子もなく笑った。
「心配してくれてるの? でも、私は時々こうして市場に来るの。王都の外の人たちがどんな暮らしをしているのか、知っておきたくて」
「そんなことして何になるんだよ」
レオンは思わず吐き捨てた。貴族がどれだけ庶民の暮らしを知ろうと、結局は自分たちの生活は何も変わらない。彼女がどんな気持ちでここに来たのかは知らないが、気まぐれに過ぎないのではないか。
しかし、エリシアはレオンの視線をしっかりと受け止めた。
「私、君のことをもっと知りたいの」
「……なんで」
「なんとなく、そんな気がするの」
その言葉は、レオンにとって理解しがたいものだった。
彼女のような高貴な身分の者が、なぜ自分のような下層の少年に興味を持つのか。その理由が分からず、胸の奥がざわつく。
「ねえ、レオン。もし良ければ、もう少し話せない?」
「……俺にはそんな暇ないんだ」
それは嘘だった。彼は本当は、彼女の言葉をもっと聞きたいと思っていた。しかし、自分が何者であるかを知れば、どうせ彼女も遠ざかるだろう。そう考えると、彼は素直になることができなかった。
「そう……でも、また会えるよね?」
エリシアは寂しげな微笑みを浮かべた。
その表情に、レオンは何かを感じた。彼女もまた、孤独を抱えているのではないか――そんな気がしたのだ。
だが、その考えを振り払うように、レオンは身を翻して人混みの中へと紛れ込んだ。
エリシアがどんな思いで彼を見送ったのか、その時のレオンには分からなかった。
それから数日が経った。
レオンは貧民街の片隅で、いつものように空腹を抱えながら生き延びていた。しかし、エリシアの言葉が頭から離れなかった。
「私、君のことをもっと知りたいの」
貴族がそんなことを言うなんて、一体どういうつもりだったのか。
彼女の笑顔を思い出すたびに、心のどこかが疼いた。
その日もレオンは市場をふらついていた。すると、ふと視線を感じた。
「……!」
振り返ると、そこには見覚えのある金の髪があった。
エリシアがこちらを見ていた。
「また会えたわね、レオン」
彼女は微笑みながら近づいてきた。その様子はまるで、彼の居場所を知っていたかのようだった。
「……なんでここにいる」
「君がまた来るんじゃないかって思って」
彼女はどこか得意げに言った。
レオンはため息をついた。どうしてこの娘は、こんなに自分に関わろうとするのか。
「君、お腹空いてない?」
その一言に、レオンは思わず動きを止めた。
「ほら、これ」
エリシアは小さな包みを差し出した。中には焼き立てのパンと果実が入っていた。
レオンはそれを見つめた。貴族の施しを受けるのは癪だったが、正直なところ、彼の体は食べ物を欲していた。
「……いいのか」
「もちろん。友達でしょう?」
レオンはその言葉に驚いた。
友達――そんなもの、彼にはいなかった。少なくとも、今まで生きてきた中で、自分を友達だと言ってくれた者は。
エリシアの瞳はまっすぐだった。そこに偽りは感じられない。
レオンはためらいながらも、そっとパンを受け取った。そして、ゆっくりと口に運んだ。
甘くて、温かかった。
それは、彼がこれまでに食べたどの食事よりも、美味しく感じられた。
エリシアは嬉しそうに微笑んだ。
「また会えるよね、レオン」
彼はその言葉に、かすかに頷いた。
夜の帳が王都を包み込む頃、レオンは貧民街の片隅でひとり膝を抱えていた。
昼間にエリシアと再び会い、彼女から食べ物をもらった。暖かいパンと果実。それを口にした時、なぜだか分からないが涙がこぼれそうになった。
自分はそんなものを求めていない。そんなはずはないのに、あの温かさが胸に刺さった。
「……俺は、何をやってるんだ」
呟いた言葉は夜闇に溶けて消えた。
レオンの耳に、遠くで酒場の喧騒が響く。酔った男たちの笑い声、怒号、割れる瓶の音。貧民街の夜は、いつもそんな音に満ちていた。
「よお、レオン」
不意に背後から声がかかった。
振り向くと、そこには数人の男たちが立っていた。汚れた服、鋭い目つき――貧民街を仕切る悪党どもだ。
「最近、ちょっといいモン食ってんじゃねえか?」
レオンは身をこわばらせた。エリシアからもらったパンを食べているところを見られたのか。
「どこから盗んできたんだ?」
男の一人がニヤリと笑う。
「……関係ねえだろ」
「関係あるさ。てめえ、この街で生きていくなら、俺たちの許可がいるんだよ」
レオンは歯を食いしばった。この街では、強い者が弱い者を食い物にする。それが当たり前だった。
男たちはじりじりと間合いを詰める。レオンは逃げ道を探した。しかし、すでに周囲を囲まれている。
「お前に一つ仕事をやるよ」
男のリーダー格が低い声で言った。
「……仕事?」
「王都の貴族の娘を誘い出して、俺たちに引き渡せ」
レオンの脳裏に、エリシアの笑顔が浮かんだ。
「……嫌だ」
「は?」
「そんなこと、絶対にしねえ」
その瞬間、拳が飛んできた。
頬に衝撃が走る。レオンは地面に転がった。
「なめてんのか、ガキが」
男たちが笑う。
「貴族の娘と仲良くしてるんだろう? お前がその気になれば簡単なはずだ」
レオンは唇を噛んだ。
「……ふざけんな」
「なら、ここでくたばるか?」
男たちはナイフを取り出した。その刃が、月明かりに鈍く光る。
レオンは息を詰めた。このままでは殺される――。
その時だった。
「やめなさい!」
凛とした声が闇を切り裂いた。
レオンも男たちも驚いて振り向く。そこに立っていたのは、エリシアだった。
「……エリシア!?」
彼女の姿を見た瞬間、レオンの心臓が跳ねた。
だが、彼女がここにいるのは、明らかに危険だった。
「貴族のお嬢さんが何の用だ?」
男たちはにやりと笑う。
「レオンを放しなさい!」
エリシアは真っ直ぐに男たちを睨みつけた。その眼差しは、まるで王家の者のような威厳を帯びていた。
「ほう……なかなか気の強い嬢ちゃんだ」
男たちは面白がるように笑う。しかし、次の瞬間――。
「やめろ!!」
レオンが叫び、エリシアの手を掴んで駆け出した。
「待て!」
男たちの怒声が響く。しかし、レオンは振り向かなかった。
エリシアの手を握りしめたまま、暗闇の中を駆け抜けた。
石畳を蹴り、細い路地を抜ける。彼はこの街の隅々まで知っていた。だからこそ、逃げ道を見つけるのも速かった。
やがて二人は人気のない広場に飛び込んだ。
「はぁ……はぁ……」
レオンは荒い息を吐きながら、エリシアを振り返った。
「なんで……なんで来たんだよ!」
彼女は息を切らせながらも、真っ直ぐにレオンを見つめた。
「君が危ないと思ったから!」
その言葉に、レオンは言葉を失った。
「私は……君を助けたかった」
エリシアの瞳には、確かな意志が宿っていた。
レオンはそれを見て、心の奥底にあった氷が溶けるような気がした。
「……バカかよ」
彼は小さく呟いた。
こんなにも無防備で、真っ直ぐな彼女を見て、どうしようもなく胸が締め付けられた。
「……ありがとう」
それは、レオンが今まで誰にも言ったことのない言葉だった。
エリシアは微笑んだ。
「また、会いましょうね、レオン」
彼は、今度こそ素直に頷いた。
この瞬間から、二人の運命は確かに絡み合い、決してほどけることのない絆となっていった。
翌日、レオンは夜の出来事を反芻しながら、貧民街の外れにある廃墟の屋根に座っていた。
昨夜のエリシアの言葉が、何度も脳裏にこだまする。
「私は……君を助けたかった」
そんなことを言われたのは、生まれて初めてだった。
今までの彼の人生において、人はただ利用するか、見捨てるかのどちらかだった。誰もが自分のことだけを考え、弱い者は踏みつけられる。それがこの街の掟だった。
だが、エリシアは違った。
彼女は何の見返りも求めず、ただ「君を助けたい」と言った。
「……何なんだよ、お前は」
レオンは頭を抱えた。
エリシアのような貴族の娘が、自分のような身分の者に本気で関わるはずがない。そう思いたかった。だが、彼女の瞳の輝きは、本物だった。
「……わけがわからねえ」
ふと、遠くから馬の蹄の音が聞こえた。
レオンは顔を上げる。
見下ろせば、通りの先に美しく飾られた馬車が止まっていた。王都の貴族の者しか乗れないような豪華な作り。
そして、馬車の扉が開き――そこから降り立ったのは、エリシアだった。
レオンは息を呑んだ。
彼女は、昨日と変わらぬ優雅さで、まっすぐにこちらを見上げた。
「やっぱり、ここにいたのね」
「……何でまた来たんだ」
レオンは跳び降りて、エリシアの前に立った。
彼女は微笑んだ。
「君と話したくて」
「……俺と?」
「ええ。昨日、ちゃんとお礼を言えなかったから」
「礼?」
「私を逃がしてくれたでしょう? あのままなら、私も危険だったかもしれない。でも、君は私の手を引いて、必死で走ってくれた」
レオンは言葉に詰まった。
「それに……君が本当は、優しい人だって分かったから」
「……違う」
レオンは思わず否定した。
「俺はそんな高尚な理由で、お前を助けたわけじゃねえ。あのままだと、俺まで巻き込まれると思っただけだ」
「ふふ、そう?」
エリシアは微笑んだ。
その微笑みが、なぜかレオンの心を揺さぶった。
「それでも……私は君に会えてよかったと思ってるの」
「……お前、本当にバカだな」
レオンは額を押さえた。
これ以上、この娘に関わるのはやめた方がいい。そう思うのに、彼女の言葉を聞くと、なぜか心の奥が温かくなる。
「ねえ、レオン」
エリシアがそっと囁くように言った。
「君、読み書きはできる?」
レオンは驚いて彼女を見た。
「……は?」
「もし、できないなら、私が教えてあげるわ」
「……何でそんなことを」
「君がもっと世界を知ることができたら、きっと、今とは違う未来が見えると思うから」
レオンは絶句した。
彼女は本気で、自分のことを考えているのか。
「……俺には関係ねえ」
「本当に?」
エリシアは優しく問いかけた。
「君は、本当はもっと色々なことを知りたいんじゃない?」
レオンは唇を噛んだ。
自分の生まれ。なぜ自分がこの街にいるのか。本当の家族はどこにいるのか。
知りたい。
ずっと、知りたかった。
だが、それを口に出すことはできなかった。
「……俺には関係ない」
レオンはそう言い残し、背を向けた。
エリシアは何も言わなかった。ただ、彼の背中を見つめていた。
しかし、その日を境に、レオンの中に小さな変化が生まれていた。
エリシアの言葉が、彼の心に小さな火を灯していた。
その火が、やがて彼を大きな運命へと導くことになる――彼はまだ、そのことを知らなかった。
レオンは一人、夜の王都を歩いていた。
エリシアの言葉が頭から離れない。
「君がもっと世界を知ることができたら、きっと、今とは違う未来が見えると思うから」
彼女は何を考えているのか。なぜ貴族である彼女が、こんな自分に手を差し伸べようとするのか。
考えれば考えるほど、答えは見つからなかった。
「……くそっ」
レオンは舌打ちをした。
どこか苛立っている自分に気づく。
彼女の言葉が心に響いているのが分かる。それが、無性に腹立たしかった。
「何が、未来が見えるだよ……」
だが、その時。
「おい、そこのガキ」
突然、背後から低い声がかかった。
レオンは振り向いた。
闇の中に数人の影が立っている。
「……あんたらは」
レオンは警戒を強めた。
貧民街を仕切るならず者どもとは違う。彼らは黒い外套を纏い、明らかに只者ではない雰囲気を放っていた。
「お前に用がある」
「俺に?」
「そうだ。……お前のことを調べてみたら、少し面白い話が出てきてな」
レオンは眉をひそめた。
「何の話だよ」
男は不敵に笑う。
「お前、どこで生まれたか知っているのか?」
その言葉に、レオンの心臓が跳ねた。
「……何?」
「自分の出自を考えたことはあるか? その金の髪、澄んだ瞳……どう見ても、この貧民街で生まれ育った者のものじゃない」
レオンは無意識に拳を握った。
「俺が何だって言うんだ」
「お前の本当の親はな――」
その言葉が続く前に、レオンは即座に動いた。
話を聞く気はなかった。
今さら何を言われようと、俺は俺だ――。
男たちの隙を突いて駆け出す。
だが、一瞬の遅れが命取りだった。
「捕えろ!」
男の声が響いた瞬間、何者かが背後から飛びかかった。
「ぐっ……!」
レオンは地面に押し倒される。
身体を縛られ、動けなくなった。
「クソッ……離せ!」
男たちは冷笑を浮かべた。
「お前には、王都の真実を教えてやる」
レオンの目の前が、ゆっくりと暗闇に沈んでいった――。
「……レオン?」
翌朝、エリシアは王宮の庭園で、彼が来るのを待っていた。
しかし、彼は現れなかった。
「……どうしたのかしら」
彼女の胸に、不安が広がっていった。
それが、レオンの運命を大きく変える事件の幕開けだった。
目を覚ました時、レオンは見知らぬ部屋にいた。
暗い石造りの壁、燭台の炎が揺れる。どこか地下にいるような気がした。
「……どこだ、ここは」
身体を動かそうとしたが、両手は後ろで縛られていた。
「お目覚めか?」
低く響く声。
レオンが顔を上げると、そこには昨夜の黒い外套の男がいた。
「お前をこんなところに閉じ込めて、何が目的だよ」
レオンは睨みつけた。
男は不敵に笑った。
「お前の"本当の"居場所を教えてやるためさ」
「……何?」
「お前がずっと知らずにいた、お前自身の正体をな」
レオンの眉が寄る。
「くだらねえ話なら聞く気はねえ」
「くだらないかどうかは、お前が判断することだ」
男は静かに言った。
「……お前は王家の血を引いている」
レオンの心臓が跳ねた。
「……何を言ってやがる」
「お前の母親は、かつてこの王国の王妃だった」
言葉の意味を理解するのに、時間がかかった。
王妃?
自分の母親が?
「ふざけんな」
レオンは怒鳴った。
「俺はただの貧民だ! そんなはずが――」
「ならば、なぜお前はこの国の貴族とも異なる美しい金髪を持ち、深い碧眼をしている?」
男の言葉が、胸の奥に突き刺さる。
「お前の母親は、王の側室だった。しかし、正妃との争いの末に王宮を追われた。そして、お前は……生まれてすぐに、闇に葬られたはずだった」
「……っ!」
レオンの頭がぐらついた。
自分が、そんな運命のもとに生まれていた?
「だが、ある者の手によってお前は救われた。そして貧民街へと隠された」
「……そんな話、信じると思うのかよ」
レオンは絞り出すように言った。
「なら、確かめるか?」
男が懐から取り出したものを、レオンは息を呑んで見つめた。
――それは、小さな紋章だった。
黄金に輝くその紋章には、王家の象徴である獅子の紋が刻まれていた。
「これは、お前の母が残したものだ」
レオンの中で、何かが崩れ始めた。
「……俺が、本当に王家の血を……?」
「お前は王の隠された息子――"失われた王子"だ」
その言葉が、静かに、だが確実にレオンの心を貫いた。
その頃、エリシアは必死にレオンを探していた。
「……レオン、一体どこにいるの?」
焦燥感が胸を締め付ける。
彼女の知らぬところで、レオンの運命が大きく動いていることに、彼女はまだ気づいていなかった。
「失われた王子」
その言葉が、レオンの胸に鋭く突き刺さった。
「……俺が、王家の血を引いている?」
信じられなかった。
貧民街で生き、飢え、這いずるようにして生きてきた自分が――王の息子?
「ふざけるな……そんなこと、あるわけがねえ」
だが、男は静かにレオンを見つめていた。
「事実を受け入れられないのは当然だ。しかし、お前がどれだけ否定しようと、血は変えられん」
レオンは拳を握った。
そんな話、受け入れられるはずがない。
だが、心のどこかで理解してしまっていた。
――なぜ、自分の容姿がこの街の誰とも違うのか。
――なぜ、自分の生まれについて、誰も何も語らなかったのか。
すべてが、繋がっていく。
「……それで、何が望みだ?」
レオンは低く言った。
「俺を王宮に連れていくつもりか? "失われた王子"とやらを、王の前に引きずり出してどうする?」
男は微かに笑った。
「お前は、王の庶子として認められるかもしれん。だが、それだけでは終わらん」
レオンは眉をひそめる。
「どういう意味だ」
「お前の存在を知った者は、多くがこう考えるだろう――『王位を狙うつもりではないか』と」
その言葉に、レオンの背筋が冷えた。
「俺は……そんなつもりじゃねえ」
「そうだろう。だが、それを信じる者は少ない」
男は淡々と言葉を紡いだ。
「お前が王家の血を持つと知れた時点で、お前は王都の勢力争いに巻き込まれることになる」
レオンは唇を噛んだ。
自分が何者なのかを知ることで、危険が増す。
それが王家というものの現実なのか。
「……俺に、選択肢はねえのか?」
男は少しだけ目を細めた。
「お前には、選ぶ権利がある。だが、どの道を選んでも、波乱は避けられん」
レオンは深く息を吐いた。
その時――
「レオン!!」
鋭い声が、地下室の扉の向こうから響いた。
レオンの目が大きく見開かれる。
「……エリシア!?」
扉が激しく叩かれる音。
「いるんでしょう!? 開けなさい!!」
「……ちっ、やっかいな娘が来たな」
男は舌打ちをしながら、立ち上がる。
レオンの心臓が早鐘を打つ。
エリシアが来た。
どうして?
なぜ、こんな危険な場所に……?
だが、彼女の声が響くたびに、レオンの中の迷いが薄れていく気がした。
「エリシア……!」
扉の向こうで叫ぶ彼女に、レオンはただひたすら手を伸ばした――。
「レオン!!」
エリシアの叫びが地下の薄暗い空間に響く。
扉を叩く音が何度も鳴り響き、レオンの心臓は締め付けられるように脈打った。
「エリシア……バカかよ、なんで来たんだ……!」
レオンは縛られた手を必死にもがいた。
一方、黒い外套の男は冷静だった。
「……お前を探してここまで来たのか。なるほど、あの娘は本気でお前を案じているようだな」
「当たり前だろ……!」
レオンは歯を食いしばった。
なぜエリシアがここまでしてくれるのか。彼はまだ答えを出せないままでいた。
だが、彼女がここに来た以上、巻き込まれるのは避けられない。
――絶対に、守らなければならない。
レオンは体の力を振り絞り、縄を引きちぎらんとした。
「無駄だ。お前一人ではどうしようもない」
男は低く言い、ゆっくりと扉に向かう。
「どうするつもりだ……!」
「安心しろ。王家の娘を傷つけるつもりはない。だが――」
男が手を伸ばし、扉を開けた瞬間――
「――っ!!」
エリシアが勢いよく飛び込んできた。
彼女は短剣を手にしていた。
「……レオンを返しなさい!」
その瞳には、迷いがなかった。
レオンは衝撃を受けた。
こんな場所まで来るだけでも危険だったのに、彼女は自ら剣を握り、戦おうとしている。
「エリシア……」
「大丈夫、レオン」
彼女は息を切らしながらも、まっすぐに彼を見つめていた。
「私は、君を絶対に取り戻す」
その言葉が、レオンの心を強く揺さぶった。
「……っ!」
レオンの体が熱くなる。
彼は両腕に最後の力を込め、縄を強引に引きちぎった。
「おおおおお!!」
バリッという音とともに縄が弾け飛ぶ。
レオンはすぐさまエリシアの手を掴んだ。
「行くぞ、エリシア!!」
彼女は頷き、二人は一気に駆け出した。
黒い外套の男たちが動く。
だが、レオンは知っていた。
この暗闇の中をどう逃げればいいのか。
「こっちだ!!」
二人は狭い通路を駆け抜けた。
背後で男たちの声が響く。
「逃がすな!!」
「くそっ、数が多すぎる……!」
レオンは息を荒くしながら、それでも走り続けた。
だが、その時――
「待ちなさい!!」
エリシアが突然足を止めた。
「何やってんだ、早く……!」
「ここで終わらせるわ」
レオンは驚いて彼女を見た。
彼女の手には、王家の紋章が刻まれた小さな水晶が握られていた。
「これは……?」
エリシアは深呼吸し、力強く叫んだ。
「――王の名のもとに命じます!! この場から退きなさい!!」
その瞬間――
水晶が輝き、辺り一面に光が満ちた。
男たちは光に包まれ、一瞬、動きを止めた。
「……今よ、レオン!!」
レオンは彼女の手を引き、再び駆け出した。
出口が近い。
あと少し――
そして――
二人はついに、夜の街へと飛び出した。
レオンは息を切らしながら振り返る。
黒い外套の男たちは、もう追ってこなかった。
エリシアの力で、振り切ることができたのだ。
「……助かった、のか?」
レオンはまだ信じられないように呟いた。
エリシアは微笑んだ。
「ええ、そうね」
レオンは彼女を見つめた。
「……お前、バカだな」
エリシアはクスリと笑う。
「君のためなら、私は何度でもバカになるわ」
レオンの胸が、熱くなった。
この娘は、本当に……信じられないほどまっすぐだ。
「……ありがとな」
初めて、素直にその言葉を口にした。
エリシアは柔らかく微笑み、レオンの手を握った。
二人は、月明かりの下、そっと手を重ねたまま、夜の王都に消えていった。
そして――
レオンは、ついに決意した。
自分の正体を知り、逃げるのではなく。
この運命に向き合うことを――。
月が王都の石畳を青白く照らす夜、レオンとエリシアは静かな屋敷の庭に立っていた。ここはエリシアの家――彼女の父、ハロルド公爵が暮らす館である。
「……本当に、大丈夫なのか?」
レオンは小さく囁いた。
「ええ、大丈夫よ」
エリシアは微笑む。その表情には、不安よりも確信が宿っていた。
「お父様なら、きっと話を聞いてくださるわ」
レオンは息を飲んだ。
ハロルド公爵――王に忠誠を誓う名門の貴族。彼がこの話をどう受け止めるかが、レオンの未来を決める。
エリシアは屋敷の扉を開いた。
「お父様、お願いがあります」
中では、恰幅のいい初老の男が彼女を待っていた。
「エリシア……その男は誰だ?」
「彼の名前はレオン。貧民街で育ったの。でも……彼は王の血を引く人なの」
一瞬、空気が張り詰めた。
「……何を言っている?」
公爵の声が低く響く。
「証拠はあるのか?」
レオンは懐から、黒い外套の男が見せた紋章を取り出した。
それを見た公爵の目がわずかに揺らぐ。
「これは……!」
エリシアが一歩踏み出した。
「お父様、私は彼を信じます」
レオンは拳を握る。
「俺は……俺が王家の血を引くなんて、今も信じられねえ。でも、知りたいんだ。自分が何者なのかを」
公爵は深く息を吐いた。
「……話を聞こう」
レオンとエリシアは顔を見合わせ、静かに頷いた。
数時間後――
「……そうか」
話を聞き終えた公爵は、目を閉じたまま考え込んでいた。
やがて、ゆっくりと口を開く。
「レオン、私はお前が王家の血を引いている可能性を否定しない。しかし、これが表沙汰になれば、お前は必ず命を狙われることになる」
レオンは唇を噛んだ。
それは分かっていた。
「だが、もしお前が自らの正統性を証明し、王宮に認められたならば――」
「……俺は、王になれるのか?」
公爵は厳しい視線を向ける。
「簡単な話ではない」
「じゃあ、どうすれば……」
「お前が正真正銘、王の血を引く者であることを示す"試練"がある」
レオンは眉をひそめた。
「試練……?」
「古の剣――《王の証》を手に入れるのだ」
エリシアが息を呑む。
「《王の証》……伝説の剣?」
「そうだ。王家に認められる者だけが手にすることができる剣だ」
レオンは拳を握った。
「それを手に入れれば、俺が王家の人間だと証明できるのか?」
「そういうことだ。しかし、容易いことではない。その剣は、王宮の奥深く、"試練の間"に封じられている」
レオンは黙り込む。
王宮に忍び込む?
そんなこと、どう考えても無茶だ。
「……なら、俺はそこへ行く」
エリシアが驚いたようにレオンを見た。
「レオン、本気なの?」
「俺は、もう逃げねえ。自分が何者なのか、この手で証明する」
公爵はレオンの瞳を見つめ、静かに頷いた。
「ならば、手を貸そう」
レオンはその言葉に目を見開いた。
「俺を、助けてくれるのか……?」
「エリシアがここまで信じる者だ。私も賭けてみよう」
レオンは、胸の奥から熱いものがこみ上げてくるのを感じた。
「……ありがとう」
公爵は立ち上がる。
「急ぐぞ。王宮に忍び込むには、今夜が好機だ」
レオンは深く頷いた。
これが、彼の運命を決める最後の試練となる――。
夜の王宮は、静寂に包まれていた。
月明かりが大理石の回廊を淡く照らし、冷たい風がカーテンを揺らす。
レオン、エリシア、そしてハロルド公爵の一行は、影のように王宮の奥深くへと忍び込んでいた。
「王宮の守りは厳重だ。だが、《試練の間》に通じる道は、昔から密かに残されている」
公爵の案内のもと、彼らは迷路のような廊下を進んだ。
レオンの胸は高鳴る。
――この先に、俺の答えがある。
やがて、重厚な扉の前にたどり着いた。
「ここが、《試練の間》だ」
公爵が低く告げる。
レオンは扉を押した。
冷たい石の感触が手に伝わる。
――ギィ……。
扉がゆっくりと開かれる。
そこに広がっていたのは、広大な空間。
中央には、輝く剣が一本、鎮座していた。
「……あれが、《王の証》……」
エリシアが息を呑む。
レオンは剣を見つめ、ゆっくりと歩を進めた。
しかし――
「――試す者よ。我が力を示せ」
突然、空間に響く重々しい声。
光が渦を巻き、巨大な騎士の幻影が現れた。
「……試練か」
レオンは剣を抜いた。
騎士は、無言のまま剣を振り下ろす。
衝撃波が床を砕いた。
「くそっ……!」
レオンは跳び退る。
だが、怯むわけにはいかない。
「レオン!」
エリシアの叫びが聞こえる。
――俺は、ここで証明する。
レオンは全力で駆け、幻影の騎士へと斬りかかった。
剣がぶつかり合い、火花が散る。
一撃、また一撃――。
そして――
「……終わりだ!!」
レオンの剣が騎士の胸を貫いた。
幻影が消え、静寂が戻る。
レオンは息を整え、ゆっくりと《王の証》へ手を伸ばした。
――その瞬間。
剣が淡く光り、レオンの手へと吸い込まれるように馴染んだ。
「……やった」
エリシアが涙ぐんで微笑む。
公爵も静かに頷いた。
「これで、お前が王の血を引く者であることが証明された」
レオンは剣を握りしめる。
「……でも、俺はまだ迷ってる」
「迷う?」
「俺が王になりたいのか……それとも、ただ自分が何者かを知りたかっただけなのか」
エリシアがそっとレオンの手を取った。
「答えを見つけるのは、これからよ」
レオンはエリシアの瞳を見つめ、静かに頷いた。
「……そうだな」
数日後――
レオンは正式に王宮へと迎えられた。
だが、彼は王位を望まなかった。
「俺は、王になりたいわけじゃない。でも、この国を守るために戦うことはできる」
彼は、《王の証》を握りしめ、新たな道を歩み始めた。
エリシアは微笑みながら、彼の隣に立っていた。
「これからも、一緒に歩んでくれるか?」
「もちろんよ」
二人の手は、しっかりと結ばれていた。
――これは、王になることを選ばなかった王子と、高貴なる少女が紡いだ、新たな物語の始まりだった。
レオンは身を縮め、通りの影に潜む。獲物を狙う獣の目をしていた。腹が減っている。体の芯から力が抜け、手足が鉛のように重い。最後にまともな食事をしたのはいつだったか。思い出せないほど遠い昔のことのようだった。
市場の喧騒が近づく。露店には香ばしいパン、肉を焼く匂い、甘い果実の香りが漂っている。どれも彼には手の届かないものだった。
「――今だ」
レオンは細い腕を伸ばし、果物屋の台から林檎をひとつ掴んだ。しかし、その瞬間、鋭い声が響いた。
「おい、待て!」
店主の叫びに、市場の空気が揺れた。
レオンは反射的に駆け出した。全速力で石畳を蹴り、狭い路地へと滑り込む。足音が後を追ってくる。だが、彼はこの街の隅々を知り尽くしていた。脇道に入り、木箱を飛び越え、塀の隙間をくぐる。心臓が高鳴る。鼓動が耳に響く。
そして、次の角を曲がった瞬間――何かにぶつかった。
衝撃に後方へ倒れ込む。林檎は手を離れ、地面に転がった。視界に映ったのは、白いドレスの裾。
「……?」
目を上げた先にいたのは、少女だった。
金糸のような髪が陽光に輝き、澄んだ碧眼がレオンを見つめていた。王都の貴族の者だと、一目で分かるほど気品に満ちた姿。
「君……大丈夫?」
少女はそう言いながら、レオンの前に膝をついた。驚きに固まる彼を前に、少女は転がった林檎を拾い上げた。そして、そっと彼の手に押し戻す。
「これ、落としたでしょう?」
「……なんで」
問いかける声はかすれていた。なぜ、貴族の娘が、自分のような貧民の少年に優しくするのか。
だが、その答えを探す間もなく、背後から怒声が近づいてきた。
「いたぞ! そいつだ!」
振り返れば、怒りに燃えた果物屋の男が、護衛の兵士を連れてこちらへと向かってくる。
レオンは反射的に逃げようとした。しかし、少女がその腕を掴んだ。
「逃げなくても大丈夫よ」
その言葉に驚く間もなく、少女は兵士たちの前に立った。
「お待ちなさい。この少年を捕まえるつもりですか?」
「お嬢様、これは――」
「この果物、彼が盗んだ証拠は?」
少女の声は柔らかいが、どこか抗えぬ力を持っていた。兵士も店主も、その気迫に気圧されるように口をつぐむ。
「私は見ました。彼は果物を拾っただけ。それを盗みと言うなら、私が代金を払いますわ」
少女は静かにそう言い、腰の袋から銀貨を差し出した。
店主はそれを受け取りながらも、納得がいかない様子で舌打ちをする。しかし、貴族の娘が言うのなら仕方がない。そう悟ると、渋々その場を後にした。
レオンはその光景を呆然と見ていた。彼を庇う者など、今まで誰一人としていなかったからだ。
「君、名前は?」
少女が微笑む。その笑顔は、陽の光のように眩しかった。
「……レオン」
「私はエリシア。よろしくね、レオン」
そう言って差し出された手を、彼はしばらく見つめた後、おずおずと握り返した。
その瞬間、彼の運命が音を立てて動き出したのだった。
レオンは未だに信じられない思いで、少女――エリシアの後を歩いていた。
先ほどの出来事が幻だったのではないかと、何度も自分の手を握り直してみた。だが、まだそこにエリシアの温もりが残っている気がして、彼はますます困惑した。
「ねえ、レオン。君、どこに住んでいるの?」
彼女は歩きながら、楽しげに尋ねた。
「……こんなところで貴族が歩き回るなよ」
答えになっていないと分かっていたが、レオンはぶっきらぼうに言った。貴族の娘が貧民街に入り込むなんて、正気の沙汰ではない。誰かに見つかれば、彼女の立場も危うくなるだろう。
しかし、エリシアは気にした様子もなく笑った。
「心配してくれてるの? でも、私は時々こうして市場に来るの。王都の外の人たちがどんな暮らしをしているのか、知っておきたくて」
「そんなことして何になるんだよ」
レオンは思わず吐き捨てた。貴族がどれだけ庶民の暮らしを知ろうと、結局は自分たちの生活は何も変わらない。彼女がどんな気持ちでここに来たのかは知らないが、気まぐれに過ぎないのではないか。
しかし、エリシアはレオンの視線をしっかりと受け止めた。
「私、君のことをもっと知りたいの」
「……なんで」
「なんとなく、そんな気がするの」
その言葉は、レオンにとって理解しがたいものだった。
彼女のような高貴な身分の者が、なぜ自分のような下層の少年に興味を持つのか。その理由が分からず、胸の奥がざわつく。
「ねえ、レオン。もし良ければ、もう少し話せない?」
「……俺にはそんな暇ないんだ」
それは嘘だった。彼は本当は、彼女の言葉をもっと聞きたいと思っていた。しかし、自分が何者であるかを知れば、どうせ彼女も遠ざかるだろう。そう考えると、彼は素直になることができなかった。
「そう……でも、また会えるよね?」
エリシアは寂しげな微笑みを浮かべた。
その表情に、レオンは何かを感じた。彼女もまた、孤独を抱えているのではないか――そんな気がしたのだ。
だが、その考えを振り払うように、レオンは身を翻して人混みの中へと紛れ込んだ。
エリシアがどんな思いで彼を見送ったのか、その時のレオンには分からなかった。
それから数日が経った。
レオンは貧民街の片隅で、いつものように空腹を抱えながら生き延びていた。しかし、エリシアの言葉が頭から離れなかった。
「私、君のことをもっと知りたいの」
貴族がそんなことを言うなんて、一体どういうつもりだったのか。
彼女の笑顔を思い出すたびに、心のどこかが疼いた。
その日もレオンは市場をふらついていた。すると、ふと視線を感じた。
「……!」
振り返ると、そこには見覚えのある金の髪があった。
エリシアがこちらを見ていた。
「また会えたわね、レオン」
彼女は微笑みながら近づいてきた。その様子はまるで、彼の居場所を知っていたかのようだった。
「……なんでここにいる」
「君がまた来るんじゃないかって思って」
彼女はどこか得意げに言った。
レオンはため息をついた。どうしてこの娘は、こんなに自分に関わろうとするのか。
「君、お腹空いてない?」
その一言に、レオンは思わず動きを止めた。
「ほら、これ」
エリシアは小さな包みを差し出した。中には焼き立てのパンと果実が入っていた。
レオンはそれを見つめた。貴族の施しを受けるのは癪だったが、正直なところ、彼の体は食べ物を欲していた。
「……いいのか」
「もちろん。友達でしょう?」
レオンはその言葉に驚いた。
友達――そんなもの、彼にはいなかった。少なくとも、今まで生きてきた中で、自分を友達だと言ってくれた者は。
エリシアの瞳はまっすぐだった。そこに偽りは感じられない。
レオンはためらいながらも、そっとパンを受け取った。そして、ゆっくりと口に運んだ。
甘くて、温かかった。
それは、彼がこれまでに食べたどの食事よりも、美味しく感じられた。
エリシアは嬉しそうに微笑んだ。
「また会えるよね、レオン」
彼はその言葉に、かすかに頷いた。
夜の帳が王都を包み込む頃、レオンは貧民街の片隅でひとり膝を抱えていた。
昼間にエリシアと再び会い、彼女から食べ物をもらった。暖かいパンと果実。それを口にした時、なぜだか分からないが涙がこぼれそうになった。
自分はそんなものを求めていない。そんなはずはないのに、あの温かさが胸に刺さった。
「……俺は、何をやってるんだ」
呟いた言葉は夜闇に溶けて消えた。
レオンの耳に、遠くで酒場の喧騒が響く。酔った男たちの笑い声、怒号、割れる瓶の音。貧民街の夜は、いつもそんな音に満ちていた。
「よお、レオン」
不意に背後から声がかかった。
振り向くと、そこには数人の男たちが立っていた。汚れた服、鋭い目つき――貧民街を仕切る悪党どもだ。
「最近、ちょっといいモン食ってんじゃねえか?」
レオンは身をこわばらせた。エリシアからもらったパンを食べているところを見られたのか。
「どこから盗んできたんだ?」
男の一人がニヤリと笑う。
「……関係ねえだろ」
「関係あるさ。てめえ、この街で生きていくなら、俺たちの許可がいるんだよ」
レオンは歯を食いしばった。この街では、強い者が弱い者を食い物にする。それが当たり前だった。
男たちはじりじりと間合いを詰める。レオンは逃げ道を探した。しかし、すでに周囲を囲まれている。
「お前に一つ仕事をやるよ」
男のリーダー格が低い声で言った。
「……仕事?」
「王都の貴族の娘を誘い出して、俺たちに引き渡せ」
レオンの脳裏に、エリシアの笑顔が浮かんだ。
「……嫌だ」
「は?」
「そんなこと、絶対にしねえ」
その瞬間、拳が飛んできた。
頬に衝撃が走る。レオンは地面に転がった。
「なめてんのか、ガキが」
男たちが笑う。
「貴族の娘と仲良くしてるんだろう? お前がその気になれば簡単なはずだ」
レオンは唇を噛んだ。
「……ふざけんな」
「なら、ここでくたばるか?」
男たちはナイフを取り出した。その刃が、月明かりに鈍く光る。
レオンは息を詰めた。このままでは殺される――。
その時だった。
「やめなさい!」
凛とした声が闇を切り裂いた。
レオンも男たちも驚いて振り向く。そこに立っていたのは、エリシアだった。
「……エリシア!?」
彼女の姿を見た瞬間、レオンの心臓が跳ねた。
だが、彼女がここにいるのは、明らかに危険だった。
「貴族のお嬢さんが何の用だ?」
男たちはにやりと笑う。
「レオンを放しなさい!」
エリシアは真っ直ぐに男たちを睨みつけた。その眼差しは、まるで王家の者のような威厳を帯びていた。
「ほう……なかなか気の強い嬢ちゃんだ」
男たちは面白がるように笑う。しかし、次の瞬間――。
「やめろ!!」
レオンが叫び、エリシアの手を掴んで駆け出した。
「待て!」
男たちの怒声が響く。しかし、レオンは振り向かなかった。
エリシアの手を握りしめたまま、暗闇の中を駆け抜けた。
石畳を蹴り、細い路地を抜ける。彼はこの街の隅々まで知っていた。だからこそ、逃げ道を見つけるのも速かった。
やがて二人は人気のない広場に飛び込んだ。
「はぁ……はぁ……」
レオンは荒い息を吐きながら、エリシアを振り返った。
「なんで……なんで来たんだよ!」
彼女は息を切らせながらも、真っ直ぐにレオンを見つめた。
「君が危ないと思ったから!」
その言葉に、レオンは言葉を失った。
「私は……君を助けたかった」
エリシアの瞳には、確かな意志が宿っていた。
レオンはそれを見て、心の奥底にあった氷が溶けるような気がした。
「……バカかよ」
彼は小さく呟いた。
こんなにも無防備で、真っ直ぐな彼女を見て、どうしようもなく胸が締め付けられた。
「……ありがとう」
それは、レオンが今まで誰にも言ったことのない言葉だった。
エリシアは微笑んだ。
「また、会いましょうね、レオン」
彼は、今度こそ素直に頷いた。
この瞬間から、二人の運命は確かに絡み合い、決してほどけることのない絆となっていった。
翌日、レオンは夜の出来事を反芻しながら、貧民街の外れにある廃墟の屋根に座っていた。
昨夜のエリシアの言葉が、何度も脳裏にこだまする。
「私は……君を助けたかった」
そんなことを言われたのは、生まれて初めてだった。
今までの彼の人生において、人はただ利用するか、見捨てるかのどちらかだった。誰もが自分のことだけを考え、弱い者は踏みつけられる。それがこの街の掟だった。
だが、エリシアは違った。
彼女は何の見返りも求めず、ただ「君を助けたい」と言った。
「……何なんだよ、お前は」
レオンは頭を抱えた。
エリシアのような貴族の娘が、自分のような身分の者に本気で関わるはずがない。そう思いたかった。だが、彼女の瞳の輝きは、本物だった。
「……わけがわからねえ」
ふと、遠くから馬の蹄の音が聞こえた。
レオンは顔を上げる。
見下ろせば、通りの先に美しく飾られた馬車が止まっていた。王都の貴族の者しか乗れないような豪華な作り。
そして、馬車の扉が開き――そこから降り立ったのは、エリシアだった。
レオンは息を呑んだ。
彼女は、昨日と変わらぬ優雅さで、まっすぐにこちらを見上げた。
「やっぱり、ここにいたのね」
「……何でまた来たんだ」
レオンは跳び降りて、エリシアの前に立った。
彼女は微笑んだ。
「君と話したくて」
「……俺と?」
「ええ。昨日、ちゃんとお礼を言えなかったから」
「礼?」
「私を逃がしてくれたでしょう? あのままなら、私も危険だったかもしれない。でも、君は私の手を引いて、必死で走ってくれた」
レオンは言葉に詰まった。
「それに……君が本当は、優しい人だって分かったから」
「……違う」
レオンは思わず否定した。
「俺はそんな高尚な理由で、お前を助けたわけじゃねえ。あのままだと、俺まで巻き込まれると思っただけだ」
「ふふ、そう?」
エリシアは微笑んだ。
その微笑みが、なぜかレオンの心を揺さぶった。
「それでも……私は君に会えてよかったと思ってるの」
「……お前、本当にバカだな」
レオンは額を押さえた。
これ以上、この娘に関わるのはやめた方がいい。そう思うのに、彼女の言葉を聞くと、なぜか心の奥が温かくなる。
「ねえ、レオン」
エリシアがそっと囁くように言った。
「君、読み書きはできる?」
レオンは驚いて彼女を見た。
「……は?」
「もし、できないなら、私が教えてあげるわ」
「……何でそんなことを」
「君がもっと世界を知ることができたら、きっと、今とは違う未来が見えると思うから」
レオンは絶句した。
彼女は本気で、自分のことを考えているのか。
「……俺には関係ねえ」
「本当に?」
エリシアは優しく問いかけた。
「君は、本当はもっと色々なことを知りたいんじゃない?」
レオンは唇を噛んだ。
自分の生まれ。なぜ自分がこの街にいるのか。本当の家族はどこにいるのか。
知りたい。
ずっと、知りたかった。
だが、それを口に出すことはできなかった。
「……俺には関係ない」
レオンはそう言い残し、背を向けた。
エリシアは何も言わなかった。ただ、彼の背中を見つめていた。
しかし、その日を境に、レオンの中に小さな変化が生まれていた。
エリシアの言葉が、彼の心に小さな火を灯していた。
その火が、やがて彼を大きな運命へと導くことになる――彼はまだ、そのことを知らなかった。
レオンは一人、夜の王都を歩いていた。
エリシアの言葉が頭から離れない。
「君がもっと世界を知ることができたら、きっと、今とは違う未来が見えると思うから」
彼女は何を考えているのか。なぜ貴族である彼女が、こんな自分に手を差し伸べようとするのか。
考えれば考えるほど、答えは見つからなかった。
「……くそっ」
レオンは舌打ちをした。
どこか苛立っている自分に気づく。
彼女の言葉が心に響いているのが分かる。それが、無性に腹立たしかった。
「何が、未来が見えるだよ……」
だが、その時。
「おい、そこのガキ」
突然、背後から低い声がかかった。
レオンは振り向いた。
闇の中に数人の影が立っている。
「……あんたらは」
レオンは警戒を強めた。
貧民街を仕切るならず者どもとは違う。彼らは黒い外套を纏い、明らかに只者ではない雰囲気を放っていた。
「お前に用がある」
「俺に?」
「そうだ。……お前のことを調べてみたら、少し面白い話が出てきてな」
レオンは眉をひそめた。
「何の話だよ」
男は不敵に笑う。
「お前、どこで生まれたか知っているのか?」
その言葉に、レオンの心臓が跳ねた。
「……何?」
「自分の出自を考えたことはあるか? その金の髪、澄んだ瞳……どう見ても、この貧民街で生まれ育った者のものじゃない」
レオンは無意識に拳を握った。
「俺が何だって言うんだ」
「お前の本当の親はな――」
その言葉が続く前に、レオンは即座に動いた。
話を聞く気はなかった。
今さら何を言われようと、俺は俺だ――。
男たちの隙を突いて駆け出す。
だが、一瞬の遅れが命取りだった。
「捕えろ!」
男の声が響いた瞬間、何者かが背後から飛びかかった。
「ぐっ……!」
レオンは地面に押し倒される。
身体を縛られ、動けなくなった。
「クソッ……離せ!」
男たちは冷笑を浮かべた。
「お前には、王都の真実を教えてやる」
レオンの目の前が、ゆっくりと暗闇に沈んでいった――。
「……レオン?」
翌朝、エリシアは王宮の庭園で、彼が来るのを待っていた。
しかし、彼は現れなかった。
「……どうしたのかしら」
彼女の胸に、不安が広がっていった。
それが、レオンの運命を大きく変える事件の幕開けだった。
目を覚ました時、レオンは見知らぬ部屋にいた。
暗い石造りの壁、燭台の炎が揺れる。どこか地下にいるような気がした。
「……どこだ、ここは」
身体を動かそうとしたが、両手は後ろで縛られていた。
「お目覚めか?」
低く響く声。
レオンが顔を上げると、そこには昨夜の黒い外套の男がいた。
「お前をこんなところに閉じ込めて、何が目的だよ」
レオンは睨みつけた。
男は不敵に笑った。
「お前の"本当の"居場所を教えてやるためさ」
「……何?」
「お前がずっと知らずにいた、お前自身の正体をな」
レオンの眉が寄る。
「くだらねえ話なら聞く気はねえ」
「くだらないかどうかは、お前が判断することだ」
男は静かに言った。
「……お前は王家の血を引いている」
レオンの心臓が跳ねた。
「……何を言ってやがる」
「お前の母親は、かつてこの王国の王妃だった」
言葉の意味を理解するのに、時間がかかった。
王妃?
自分の母親が?
「ふざけんな」
レオンは怒鳴った。
「俺はただの貧民だ! そんなはずが――」
「ならば、なぜお前はこの国の貴族とも異なる美しい金髪を持ち、深い碧眼をしている?」
男の言葉が、胸の奥に突き刺さる。
「お前の母親は、王の側室だった。しかし、正妃との争いの末に王宮を追われた。そして、お前は……生まれてすぐに、闇に葬られたはずだった」
「……っ!」
レオンの頭がぐらついた。
自分が、そんな運命のもとに生まれていた?
「だが、ある者の手によってお前は救われた。そして貧民街へと隠された」
「……そんな話、信じると思うのかよ」
レオンは絞り出すように言った。
「なら、確かめるか?」
男が懐から取り出したものを、レオンは息を呑んで見つめた。
――それは、小さな紋章だった。
黄金に輝くその紋章には、王家の象徴である獅子の紋が刻まれていた。
「これは、お前の母が残したものだ」
レオンの中で、何かが崩れ始めた。
「……俺が、本当に王家の血を……?」
「お前は王の隠された息子――"失われた王子"だ」
その言葉が、静かに、だが確実にレオンの心を貫いた。
その頃、エリシアは必死にレオンを探していた。
「……レオン、一体どこにいるの?」
焦燥感が胸を締め付ける。
彼女の知らぬところで、レオンの運命が大きく動いていることに、彼女はまだ気づいていなかった。
「失われた王子」
その言葉が、レオンの胸に鋭く突き刺さった。
「……俺が、王家の血を引いている?」
信じられなかった。
貧民街で生き、飢え、這いずるようにして生きてきた自分が――王の息子?
「ふざけるな……そんなこと、あるわけがねえ」
だが、男は静かにレオンを見つめていた。
「事実を受け入れられないのは当然だ。しかし、お前がどれだけ否定しようと、血は変えられん」
レオンは拳を握った。
そんな話、受け入れられるはずがない。
だが、心のどこかで理解してしまっていた。
――なぜ、自分の容姿がこの街の誰とも違うのか。
――なぜ、自分の生まれについて、誰も何も語らなかったのか。
すべてが、繋がっていく。
「……それで、何が望みだ?」
レオンは低く言った。
「俺を王宮に連れていくつもりか? "失われた王子"とやらを、王の前に引きずり出してどうする?」
男は微かに笑った。
「お前は、王の庶子として認められるかもしれん。だが、それだけでは終わらん」
レオンは眉をひそめる。
「どういう意味だ」
「お前の存在を知った者は、多くがこう考えるだろう――『王位を狙うつもりではないか』と」
その言葉に、レオンの背筋が冷えた。
「俺は……そんなつもりじゃねえ」
「そうだろう。だが、それを信じる者は少ない」
男は淡々と言葉を紡いだ。
「お前が王家の血を持つと知れた時点で、お前は王都の勢力争いに巻き込まれることになる」
レオンは唇を噛んだ。
自分が何者なのかを知ることで、危険が増す。
それが王家というものの現実なのか。
「……俺に、選択肢はねえのか?」
男は少しだけ目を細めた。
「お前には、選ぶ権利がある。だが、どの道を選んでも、波乱は避けられん」
レオンは深く息を吐いた。
その時――
「レオン!!」
鋭い声が、地下室の扉の向こうから響いた。
レオンの目が大きく見開かれる。
「……エリシア!?」
扉が激しく叩かれる音。
「いるんでしょう!? 開けなさい!!」
「……ちっ、やっかいな娘が来たな」
男は舌打ちをしながら、立ち上がる。
レオンの心臓が早鐘を打つ。
エリシアが来た。
どうして?
なぜ、こんな危険な場所に……?
だが、彼女の声が響くたびに、レオンの中の迷いが薄れていく気がした。
「エリシア……!」
扉の向こうで叫ぶ彼女に、レオンはただひたすら手を伸ばした――。
「レオン!!」
エリシアの叫びが地下の薄暗い空間に響く。
扉を叩く音が何度も鳴り響き、レオンの心臓は締め付けられるように脈打った。
「エリシア……バカかよ、なんで来たんだ……!」
レオンは縛られた手を必死にもがいた。
一方、黒い外套の男は冷静だった。
「……お前を探してここまで来たのか。なるほど、あの娘は本気でお前を案じているようだな」
「当たり前だろ……!」
レオンは歯を食いしばった。
なぜエリシアがここまでしてくれるのか。彼はまだ答えを出せないままでいた。
だが、彼女がここに来た以上、巻き込まれるのは避けられない。
――絶対に、守らなければならない。
レオンは体の力を振り絞り、縄を引きちぎらんとした。
「無駄だ。お前一人ではどうしようもない」
男は低く言い、ゆっくりと扉に向かう。
「どうするつもりだ……!」
「安心しろ。王家の娘を傷つけるつもりはない。だが――」
男が手を伸ばし、扉を開けた瞬間――
「――っ!!」
エリシアが勢いよく飛び込んできた。
彼女は短剣を手にしていた。
「……レオンを返しなさい!」
その瞳には、迷いがなかった。
レオンは衝撃を受けた。
こんな場所まで来るだけでも危険だったのに、彼女は自ら剣を握り、戦おうとしている。
「エリシア……」
「大丈夫、レオン」
彼女は息を切らしながらも、まっすぐに彼を見つめていた。
「私は、君を絶対に取り戻す」
その言葉が、レオンの心を強く揺さぶった。
「……っ!」
レオンの体が熱くなる。
彼は両腕に最後の力を込め、縄を強引に引きちぎった。
「おおおおお!!」
バリッという音とともに縄が弾け飛ぶ。
レオンはすぐさまエリシアの手を掴んだ。
「行くぞ、エリシア!!」
彼女は頷き、二人は一気に駆け出した。
黒い外套の男たちが動く。
だが、レオンは知っていた。
この暗闇の中をどう逃げればいいのか。
「こっちだ!!」
二人は狭い通路を駆け抜けた。
背後で男たちの声が響く。
「逃がすな!!」
「くそっ、数が多すぎる……!」
レオンは息を荒くしながら、それでも走り続けた。
だが、その時――
「待ちなさい!!」
エリシアが突然足を止めた。
「何やってんだ、早く……!」
「ここで終わらせるわ」
レオンは驚いて彼女を見た。
彼女の手には、王家の紋章が刻まれた小さな水晶が握られていた。
「これは……?」
エリシアは深呼吸し、力強く叫んだ。
「――王の名のもとに命じます!! この場から退きなさい!!」
その瞬間――
水晶が輝き、辺り一面に光が満ちた。
男たちは光に包まれ、一瞬、動きを止めた。
「……今よ、レオン!!」
レオンは彼女の手を引き、再び駆け出した。
出口が近い。
あと少し――
そして――
二人はついに、夜の街へと飛び出した。
レオンは息を切らしながら振り返る。
黒い外套の男たちは、もう追ってこなかった。
エリシアの力で、振り切ることができたのだ。
「……助かった、のか?」
レオンはまだ信じられないように呟いた。
エリシアは微笑んだ。
「ええ、そうね」
レオンは彼女を見つめた。
「……お前、バカだな」
エリシアはクスリと笑う。
「君のためなら、私は何度でもバカになるわ」
レオンの胸が、熱くなった。
この娘は、本当に……信じられないほどまっすぐだ。
「……ありがとな」
初めて、素直にその言葉を口にした。
エリシアは柔らかく微笑み、レオンの手を握った。
二人は、月明かりの下、そっと手を重ねたまま、夜の王都に消えていった。
そして――
レオンは、ついに決意した。
自分の正体を知り、逃げるのではなく。
この運命に向き合うことを――。
月が王都の石畳を青白く照らす夜、レオンとエリシアは静かな屋敷の庭に立っていた。ここはエリシアの家――彼女の父、ハロルド公爵が暮らす館である。
「……本当に、大丈夫なのか?」
レオンは小さく囁いた。
「ええ、大丈夫よ」
エリシアは微笑む。その表情には、不安よりも確信が宿っていた。
「お父様なら、きっと話を聞いてくださるわ」
レオンは息を飲んだ。
ハロルド公爵――王に忠誠を誓う名門の貴族。彼がこの話をどう受け止めるかが、レオンの未来を決める。
エリシアは屋敷の扉を開いた。
「お父様、お願いがあります」
中では、恰幅のいい初老の男が彼女を待っていた。
「エリシア……その男は誰だ?」
「彼の名前はレオン。貧民街で育ったの。でも……彼は王の血を引く人なの」
一瞬、空気が張り詰めた。
「……何を言っている?」
公爵の声が低く響く。
「証拠はあるのか?」
レオンは懐から、黒い外套の男が見せた紋章を取り出した。
それを見た公爵の目がわずかに揺らぐ。
「これは……!」
エリシアが一歩踏み出した。
「お父様、私は彼を信じます」
レオンは拳を握る。
「俺は……俺が王家の血を引くなんて、今も信じられねえ。でも、知りたいんだ。自分が何者なのかを」
公爵は深く息を吐いた。
「……話を聞こう」
レオンとエリシアは顔を見合わせ、静かに頷いた。
数時間後――
「……そうか」
話を聞き終えた公爵は、目を閉じたまま考え込んでいた。
やがて、ゆっくりと口を開く。
「レオン、私はお前が王家の血を引いている可能性を否定しない。しかし、これが表沙汰になれば、お前は必ず命を狙われることになる」
レオンは唇を噛んだ。
それは分かっていた。
「だが、もしお前が自らの正統性を証明し、王宮に認められたならば――」
「……俺は、王になれるのか?」
公爵は厳しい視線を向ける。
「簡単な話ではない」
「じゃあ、どうすれば……」
「お前が正真正銘、王の血を引く者であることを示す"試練"がある」
レオンは眉をひそめた。
「試練……?」
「古の剣――《王の証》を手に入れるのだ」
エリシアが息を呑む。
「《王の証》……伝説の剣?」
「そうだ。王家に認められる者だけが手にすることができる剣だ」
レオンは拳を握った。
「それを手に入れれば、俺が王家の人間だと証明できるのか?」
「そういうことだ。しかし、容易いことではない。その剣は、王宮の奥深く、"試練の間"に封じられている」
レオンは黙り込む。
王宮に忍び込む?
そんなこと、どう考えても無茶だ。
「……なら、俺はそこへ行く」
エリシアが驚いたようにレオンを見た。
「レオン、本気なの?」
「俺は、もう逃げねえ。自分が何者なのか、この手で証明する」
公爵はレオンの瞳を見つめ、静かに頷いた。
「ならば、手を貸そう」
レオンはその言葉に目を見開いた。
「俺を、助けてくれるのか……?」
「エリシアがここまで信じる者だ。私も賭けてみよう」
レオンは、胸の奥から熱いものがこみ上げてくるのを感じた。
「……ありがとう」
公爵は立ち上がる。
「急ぐぞ。王宮に忍び込むには、今夜が好機だ」
レオンは深く頷いた。
これが、彼の運命を決める最後の試練となる――。
夜の王宮は、静寂に包まれていた。
月明かりが大理石の回廊を淡く照らし、冷たい風がカーテンを揺らす。
レオン、エリシア、そしてハロルド公爵の一行は、影のように王宮の奥深くへと忍び込んでいた。
「王宮の守りは厳重だ。だが、《試練の間》に通じる道は、昔から密かに残されている」
公爵の案内のもと、彼らは迷路のような廊下を進んだ。
レオンの胸は高鳴る。
――この先に、俺の答えがある。
やがて、重厚な扉の前にたどり着いた。
「ここが、《試練の間》だ」
公爵が低く告げる。
レオンは扉を押した。
冷たい石の感触が手に伝わる。
――ギィ……。
扉がゆっくりと開かれる。
そこに広がっていたのは、広大な空間。
中央には、輝く剣が一本、鎮座していた。
「……あれが、《王の証》……」
エリシアが息を呑む。
レオンは剣を見つめ、ゆっくりと歩を進めた。
しかし――
「――試す者よ。我が力を示せ」
突然、空間に響く重々しい声。
光が渦を巻き、巨大な騎士の幻影が現れた。
「……試練か」
レオンは剣を抜いた。
騎士は、無言のまま剣を振り下ろす。
衝撃波が床を砕いた。
「くそっ……!」
レオンは跳び退る。
だが、怯むわけにはいかない。
「レオン!」
エリシアの叫びが聞こえる。
――俺は、ここで証明する。
レオンは全力で駆け、幻影の騎士へと斬りかかった。
剣がぶつかり合い、火花が散る。
一撃、また一撃――。
そして――
「……終わりだ!!」
レオンの剣が騎士の胸を貫いた。
幻影が消え、静寂が戻る。
レオンは息を整え、ゆっくりと《王の証》へ手を伸ばした。
――その瞬間。
剣が淡く光り、レオンの手へと吸い込まれるように馴染んだ。
「……やった」
エリシアが涙ぐんで微笑む。
公爵も静かに頷いた。
「これで、お前が王の血を引く者であることが証明された」
レオンは剣を握りしめる。
「……でも、俺はまだ迷ってる」
「迷う?」
「俺が王になりたいのか……それとも、ただ自分が何者かを知りたかっただけなのか」
エリシアがそっとレオンの手を取った。
「答えを見つけるのは、これからよ」
レオンはエリシアの瞳を見つめ、静かに頷いた。
「……そうだな」
数日後――
レオンは正式に王宮へと迎えられた。
だが、彼は王位を望まなかった。
「俺は、王になりたいわけじゃない。でも、この国を守るために戦うことはできる」
彼は、《王の証》を握りしめ、新たな道を歩み始めた。
エリシアは微笑みながら、彼の隣に立っていた。
「これからも、一緒に歩んでくれるか?」
「もちろんよ」
二人の手は、しっかりと結ばれていた。
――これは、王になることを選ばなかった王子と、高貴なる少女が紡いだ、新たな物語の始まりだった。
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