短篇集

睦月遥

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ボーイミーツガールもの

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石畳の隙間に溜まった泥水が、少年の足音とともに跳ねた。王都の賑わいから離れた貧民街。古びた建物が軒を連ね、そこに生きる者たちの息遣いが低く響く。風が吹けば煮えたぎったスープの匂いと、鉄の錆びた臭いが混じり合い、そこに暮らす者たちの過酷な日々を物語っていた。

レオンは身を縮め、通りの影に潜む。獲物を狙う獣の目をしていた。腹が減っている。体の芯から力が抜け、手足が鉛のように重い。最後にまともな食事をしたのはいつだったか。思い出せないほど遠い昔のことのようだった。

市場の喧騒が近づく。露店には香ばしいパン、肉を焼く匂い、甘い果実の香りが漂っている。どれも彼には手の届かないものだった。

「――今だ」

レオンは細い腕を伸ばし、果物屋の台から林檎をひとつ掴んだ。しかし、その瞬間、鋭い声が響いた。

「おい、待て!」

店主の叫びに、市場の空気が揺れた。

レオンは反射的に駆け出した。全速力で石畳を蹴り、狭い路地へと滑り込む。足音が後を追ってくる。だが、彼はこの街の隅々を知り尽くしていた。脇道に入り、木箱を飛び越え、塀の隙間をくぐる。心臓が高鳴る。鼓動が耳に響く。

そして、次の角を曲がった瞬間――何かにぶつかった。

衝撃に後方へ倒れ込む。林檎は手を離れ、地面に転がった。視界に映ったのは、白いドレスの裾。

「……?」

目を上げた先にいたのは、少女だった。

金糸のような髪が陽光に輝き、澄んだ碧眼がレオンを見つめていた。王都の貴族の者だと、一目で分かるほど気品に満ちた姿。

「君……大丈夫?」

少女はそう言いながら、レオンの前に膝をついた。驚きに固まる彼を前に、少女は転がった林檎を拾い上げた。そして、そっと彼の手に押し戻す。

「これ、落としたでしょう?」

「……なんで」

問いかける声はかすれていた。なぜ、貴族の娘が、自分のような貧民の少年に優しくするのか。

だが、その答えを探す間もなく、背後から怒声が近づいてきた。

「いたぞ! そいつだ!」

振り返れば、怒りに燃えた果物屋の男が、護衛の兵士を連れてこちらへと向かってくる。

レオンは反射的に逃げようとした。しかし、少女がその腕を掴んだ。

「逃げなくても大丈夫よ」

その言葉に驚く間もなく、少女は兵士たちの前に立った。

「お待ちなさい。この少年を捕まえるつもりですか?」

「お嬢様、これは――」

「この果物、彼が盗んだ証拠は?」

少女の声は柔らかいが、どこか抗えぬ力を持っていた。兵士も店主も、その気迫に気圧されるように口をつぐむ。

「私は見ました。彼は果物を拾っただけ。それを盗みと言うなら、私が代金を払いますわ」

少女は静かにそう言い、腰の袋から銀貨を差し出した。

店主はそれを受け取りながらも、納得がいかない様子で舌打ちをする。しかし、貴族の娘が言うのなら仕方がない。そう悟ると、渋々その場を後にした。

レオンはその光景を呆然と見ていた。彼を庇う者など、今まで誰一人としていなかったからだ。

「君、名前は?」

少女が微笑む。その笑顔は、陽の光のように眩しかった。

「……レオン」

「私はエリシア。よろしくね、レオン」

そう言って差し出された手を、彼はしばらく見つめた後、おずおずと握り返した。

その瞬間、彼の運命が音を立てて動き出したのだった。

レオンは未だに信じられない思いで、少女――エリシアの後を歩いていた。

先ほどの出来事が幻だったのではないかと、何度も自分の手を握り直してみた。だが、まだそこにエリシアの温もりが残っている気がして、彼はますます困惑した。

「ねえ、レオン。君、どこに住んでいるの?」

彼女は歩きながら、楽しげに尋ねた。

「……こんなところで貴族が歩き回るなよ」

答えになっていないと分かっていたが、レオンはぶっきらぼうに言った。貴族の娘が貧民街に入り込むなんて、正気の沙汰ではない。誰かに見つかれば、彼女の立場も危うくなるだろう。

しかし、エリシアは気にした様子もなく笑った。

「心配してくれてるの? でも、私は時々こうして市場に来るの。王都の外の人たちがどんな暮らしをしているのか、知っておきたくて」

「そんなことして何になるんだよ」

レオンは思わず吐き捨てた。貴族がどれだけ庶民の暮らしを知ろうと、結局は自分たちの生活は何も変わらない。彼女がどんな気持ちでここに来たのかは知らないが、気まぐれに過ぎないのではないか。

しかし、エリシアはレオンの視線をしっかりと受け止めた。

「私、君のことをもっと知りたいの」

「……なんで」

「なんとなく、そんな気がするの」

その言葉は、レオンにとって理解しがたいものだった。

彼女のような高貴な身分の者が、なぜ自分のような下層の少年に興味を持つのか。その理由が分からず、胸の奥がざわつく。

「ねえ、レオン。もし良ければ、もう少し話せない?」

「……俺にはそんな暇ないんだ」

それは嘘だった。彼は本当は、彼女の言葉をもっと聞きたいと思っていた。しかし、自分が何者であるかを知れば、どうせ彼女も遠ざかるだろう。そう考えると、彼は素直になることができなかった。

「そう……でも、また会えるよね?」

エリシアは寂しげな微笑みを浮かべた。

その表情に、レオンは何かを感じた。彼女もまた、孤独を抱えているのではないか――そんな気がしたのだ。

だが、その考えを振り払うように、レオンは身を翻して人混みの中へと紛れ込んだ。

エリシアがどんな思いで彼を見送ったのか、その時のレオンには分からなかった。

それから数日が経った。

レオンは貧民街の片隅で、いつものように空腹を抱えながら生き延びていた。しかし、エリシアの言葉が頭から離れなかった。

「私、君のことをもっと知りたいの」

貴族がそんなことを言うなんて、一体どういうつもりだったのか。

彼女の笑顔を思い出すたびに、心のどこかが疼いた。

その日もレオンは市場をふらついていた。すると、ふと視線を感じた。

「……!」

振り返ると、そこには見覚えのある金の髪があった。

エリシアがこちらを見ていた。

「また会えたわね、レオン」

彼女は微笑みながら近づいてきた。その様子はまるで、彼の居場所を知っていたかのようだった。

「……なんでここにいる」

「君がまた来るんじゃないかって思って」

彼女はどこか得意げに言った。

レオンはため息をついた。どうしてこの娘は、こんなに自分に関わろうとするのか。

「君、お腹空いてない?」

その一言に、レオンは思わず動きを止めた。

「ほら、これ」

エリシアは小さな包みを差し出した。中には焼き立てのパンと果実が入っていた。

レオンはそれを見つめた。貴族の施しを受けるのは癪だったが、正直なところ、彼の体は食べ物を欲していた。

「……いいのか」

「もちろん。友達でしょう?」

レオンはその言葉に驚いた。

友達――そんなもの、彼にはいなかった。少なくとも、今まで生きてきた中で、自分を友達だと言ってくれた者は。

エリシアの瞳はまっすぐだった。そこに偽りは感じられない。

レオンはためらいながらも、そっとパンを受け取った。そして、ゆっくりと口に運んだ。

甘くて、温かかった。

それは、彼がこれまでに食べたどの食事よりも、美味しく感じられた。

エリシアは嬉しそうに微笑んだ。

「また会えるよね、レオン」

彼はその言葉に、かすかに頷いた。

夜の帳が王都を包み込む頃、レオンは貧民街の片隅でひとり膝を抱えていた。

昼間にエリシアと再び会い、彼女から食べ物をもらった。暖かいパンと果実。それを口にした時、なぜだか分からないが涙がこぼれそうになった。

自分はそんなものを求めていない。そんなはずはないのに、あの温かさが胸に刺さった。

「……俺は、何をやってるんだ」

呟いた言葉は夜闇に溶けて消えた。

レオンの耳に、遠くで酒場の喧騒が響く。酔った男たちの笑い声、怒号、割れる瓶の音。貧民街の夜は、いつもそんな音に満ちていた。

「よお、レオン」

不意に背後から声がかかった。

振り向くと、そこには数人の男たちが立っていた。汚れた服、鋭い目つき――貧民街を仕切る悪党どもだ。

「最近、ちょっといいモン食ってんじゃねえか?」

レオンは身をこわばらせた。エリシアからもらったパンを食べているところを見られたのか。

「どこから盗んできたんだ?」

男の一人がニヤリと笑う。

「……関係ねえだろ」

「関係あるさ。てめえ、この街で生きていくなら、俺たちの許可がいるんだよ」

レオンは歯を食いしばった。この街では、強い者が弱い者を食い物にする。それが当たり前だった。

男たちはじりじりと間合いを詰める。レオンは逃げ道を探した。しかし、すでに周囲を囲まれている。

「お前に一つ仕事をやるよ」

男のリーダー格が低い声で言った。

「……仕事?」

「王都の貴族の娘を誘い出して、俺たちに引き渡せ」

レオンの脳裏に、エリシアの笑顔が浮かんだ。

「……嫌だ」

「は?」

「そんなこと、絶対にしねえ」

その瞬間、拳が飛んできた。

頬に衝撃が走る。レオンは地面に転がった。

「なめてんのか、ガキが」

男たちが笑う。

「貴族の娘と仲良くしてるんだろう? お前がその気になれば簡単なはずだ」

レオンは唇を噛んだ。

「……ふざけんな」

「なら、ここでくたばるか?」

男たちはナイフを取り出した。その刃が、月明かりに鈍く光る。

レオンは息を詰めた。このままでは殺される――。

その時だった。

「やめなさい!」

凛とした声が闇を切り裂いた。

レオンも男たちも驚いて振り向く。そこに立っていたのは、エリシアだった。

「……エリシア!?」

彼女の姿を見た瞬間、レオンの心臓が跳ねた。

だが、彼女がここにいるのは、明らかに危険だった。

「貴族のお嬢さんが何の用だ?」

男たちはにやりと笑う。

「レオンを放しなさい!」

エリシアは真っ直ぐに男たちを睨みつけた。その眼差しは、まるで王家の者のような威厳を帯びていた。

「ほう……なかなか気の強い嬢ちゃんだ」

男たちは面白がるように笑う。しかし、次の瞬間――。

「やめろ!!」

レオンが叫び、エリシアの手を掴んで駆け出した。

「待て!」

男たちの怒声が響く。しかし、レオンは振り向かなかった。

エリシアの手を握りしめたまま、暗闇の中を駆け抜けた。

石畳を蹴り、細い路地を抜ける。彼はこの街の隅々まで知っていた。だからこそ、逃げ道を見つけるのも速かった。

やがて二人は人気のない広場に飛び込んだ。

「はぁ……はぁ……」

レオンは荒い息を吐きながら、エリシアを振り返った。

「なんで……なんで来たんだよ!」

彼女は息を切らせながらも、真っ直ぐにレオンを見つめた。

「君が危ないと思ったから!」

その言葉に、レオンは言葉を失った。

「私は……君を助けたかった」

エリシアの瞳には、確かな意志が宿っていた。

レオンはそれを見て、心の奥底にあった氷が溶けるような気がした。

「……バカかよ」

彼は小さく呟いた。

こんなにも無防備で、真っ直ぐな彼女を見て、どうしようもなく胸が締め付けられた。

「……ありがとう」

それは、レオンが今まで誰にも言ったことのない言葉だった。

エリシアは微笑んだ。

「また、会いましょうね、レオン」

彼は、今度こそ素直に頷いた。

この瞬間から、二人の運命は確かに絡み合い、決してほどけることのない絆となっていった。

翌日、レオンは夜の出来事を反芻しながら、貧民街の外れにある廃墟の屋根に座っていた。

昨夜のエリシアの言葉が、何度も脳裏にこだまする。

「私は……君を助けたかった」

そんなことを言われたのは、生まれて初めてだった。

今までの彼の人生において、人はただ利用するか、見捨てるかのどちらかだった。誰もが自分のことだけを考え、弱い者は踏みつけられる。それがこの街の掟だった。

だが、エリシアは違った。

彼女は何の見返りも求めず、ただ「君を助けたい」と言った。

「……何なんだよ、お前は」

レオンは頭を抱えた。

エリシアのような貴族の娘が、自分のような身分の者に本気で関わるはずがない。そう思いたかった。だが、彼女の瞳の輝きは、本物だった。

「……わけがわからねえ」

ふと、遠くから馬の蹄の音が聞こえた。

レオンは顔を上げる。

見下ろせば、通りの先に美しく飾られた馬車が止まっていた。王都の貴族の者しか乗れないような豪華な作り。

そして、馬車の扉が開き――そこから降り立ったのは、エリシアだった。

レオンは息を呑んだ。

彼女は、昨日と変わらぬ優雅さで、まっすぐにこちらを見上げた。

「やっぱり、ここにいたのね」

「……何でまた来たんだ」

レオンは跳び降りて、エリシアの前に立った。

彼女は微笑んだ。

「君と話したくて」

「……俺と?」

「ええ。昨日、ちゃんとお礼を言えなかったから」

「礼?」

「私を逃がしてくれたでしょう? あのままなら、私も危険だったかもしれない。でも、君は私の手を引いて、必死で走ってくれた」

レオンは言葉に詰まった。

「それに……君が本当は、優しい人だって分かったから」

「……違う」

レオンは思わず否定した。

「俺はそんな高尚な理由で、お前を助けたわけじゃねえ。あのままだと、俺まで巻き込まれると思っただけだ」

「ふふ、そう?」

エリシアは微笑んだ。

その微笑みが、なぜかレオンの心を揺さぶった。

「それでも……私は君に会えてよかったと思ってるの」

「……お前、本当にバカだな」

レオンは額を押さえた。

これ以上、この娘に関わるのはやめた方がいい。そう思うのに、彼女の言葉を聞くと、なぜか心の奥が温かくなる。

「ねえ、レオン」

エリシアがそっと囁くように言った。

「君、読み書きはできる?」

レオンは驚いて彼女を見た。

「……は?」

「もし、できないなら、私が教えてあげるわ」

「……何でそんなことを」

「君がもっと世界を知ることができたら、きっと、今とは違う未来が見えると思うから」

レオンは絶句した。

彼女は本気で、自分のことを考えているのか。

「……俺には関係ねえ」

「本当に?」

エリシアは優しく問いかけた。

「君は、本当はもっと色々なことを知りたいんじゃない?」

レオンは唇を噛んだ。

自分の生まれ。なぜ自分がこの街にいるのか。本当の家族はどこにいるのか。

知りたい。

ずっと、知りたかった。

だが、それを口に出すことはできなかった。

「……俺には関係ない」

レオンはそう言い残し、背を向けた。

エリシアは何も言わなかった。ただ、彼の背中を見つめていた。

しかし、その日を境に、レオンの中に小さな変化が生まれていた。

エリシアの言葉が、彼の心に小さな火を灯していた。

その火が、やがて彼を大きな運命へと導くことになる――彼はまだ、そのことを知らなかった。

レオンは一人、夜の王都を歩いていた。

エリシアの言葉が頭から離れない。

「君がもっと世界を知ることができたら、きっと、今とは違う未来が見えると思うから」

彼女は何を考えているのか。なぜ貴族である彼女が、こんな自分に手を差し伸べようとするのか。

考えれば考えるほど、答えは見つからなかった。

「……くそっ」

レオンは舌打ちをした。

どこか苛立っている自分に気づく。

彼女の言葉が心に響いているのが分かる。それが、無性に腹立たしかった。

「何が、未来が見えるだよ……」

だが、その時。

「おい、そこのガキ」

突然、背後から低い声がかかった。

レオンは振り向いた。

闇の中に数人の影が立っている。

「……あんたらは」

レオンは警戒を強めた。

貧民街を仕切るならず者どもとは違う。彼らは黒い外套を纏い、明らかに只者ではない雰囲気を放っていた。

「お前に用がある」

「俺に?」

「そうだ。……お前のことを調べてみたら、少し面白い話が出てきてな」

レオンは眉をひそめた。

「何の話だよ」

男は不敵に笑う。

「お前、どこで生まれたか知っているのか?」

その言葉に、レオンの心臓が跳ねた。

「……何?」

「自分の出自を考えたことはあるか? その金の髪、澄んだ瞳……どう見ても、この貧民街で生まれ育った者のものじゃない」

レオンは無意識に拳を握った。

「俺が何だって言うんだ」

「お前の本当の親はな――」

その言葉が続く前に、レオンは即座に動いた。

話を聞く気はなかった。

今さら何を言われようと、俺は俺だ――。

男たちの隙を突いて駆け出す。

だが、一瞬の遅れが命取りだった。

「捕えろ!」

男の声が響いた瞬間、何者かが背後から飛びかかった。

「ぐっ……!」

レオンは地面に押し倒される。

身体を縛られ、動けなくなった。

「クソッ……離せ!」

男たちは冷笑を浮かべた。

「お前には、王都の真実を教えてやる」

レオンの目の前が、ゆっくりと暗闇に沈んでいった――。

「……レオン?」

翌朝、エリシアは王宮の庭園で、彼が来るのを待っていた。

しかし、彼は現れなかった。

「……どうしたのかしら」

彼女の胸に、不安が広がっていった。

それが、レオンの運命を大きく変える事件の幕開けだった。

目を覚ました時、レオンは見知らぬ部屋にいた。

暗い石造りの壁、燭台の炎が揺れる。どこか地下にいるような気がした。

「……どこだ、ここは」

身体を動かそうとしたが、両手は後ろで縛られていた。

「お目覚めか?」

低く響く声。

レオンが顔を上げると、そこには昨夜の黒い外套の男がいた。

「お前をこんなところに閉じ込めて、何が目的だよ」

レオンは睨みつけた。

男は不敵に笑った。

「お前の"本当の"居場所を教えてやるためさ」

「……何?」

「お前がずっと知らずにいた、お前自身の正体をな」

レオンの眉が寄る。

「くだらねえ話なら聞く気はねえ」

「くだらないかどうかは、お前が判断することだ」

男は静かに言った。

「……お前は王家の血を引いている」

レオンの心臓が跳ねた。

「……何を言ってやがる」

「お前の母親は、かつてこの王国の王妃だった」

言葉の意味を理解するのに、時間がかかった。

王妃?

自分の母親が?

「ふざけんな」

レオンは怒鳴った。

「俺はただの貧民だ! そんなはずが――」

「ならば、なぜお前はこの国の貴族とも異なる美しい金髪を持ち、深い碧眼をしている?」

男の言葉が、胸の奥に突き刺さる。

「お前の母親は、王の側室だった。しかし、正妃との争いの末に王宮を追われた。そして、お前は……生まれてすぐに、闇に葬られたはずだった」

「……っ!」

レオンの頭がぐらついた。

自分が、そんな運命のもとに生まれていた?

「だが、ある者の手によってお前は救われた。そして貧民街へと隠された」

「……そんな話、信じると思うのかよ」

レオンは絞り出すように言った。

「なら、確かめるか?」

男が懐から取り出したものを、レオンは息を呑んで見つめた。

――それは、小さな紋章だった。

黄金に輝くその紋章には、王家の象徴である獅子の紋が刻まれていた。

「これは、お前の母が残したものだ」

レオンの中で、何かが崩れ始めた。

「……俺が、本当に王家の血を……?」

「お前は王の隠された息子――"失われた王子"だ」

その言葉が、静かに、だが確実にレオンの心を貫いた。

その頃、エリシアは必死にレオンを探していた。

「……レオン、一体どこにいるの?」

焦燥感が胸を締め付ける。

彼女の知らぬところで、レオンの運命が大きく動いていることに、彼女はまだ気づいていなかった。


「失われた王子」

その言葉が、レオンの胸に鋭く突き刺さった。

「……俺が、王家の血を引いている?」

信じられなかった。

貧民街で生き、飢え、這いずるようにして生きてきた自分が――王の息子?

「ふざけるな……そんなこと、あるわけがねえ」

だが、男は静かにレオンを見つめていた。

「事実を受け入れられないのは当然だ。しかし、お前がどれだけ否定しようと、血は変えられん」

レオンは拳を握った。

そんな話、受け入れられるはずがない。

だが、心のどこかで理解してしまっていた。

――なぜ、自分の容姿がこの街の誰とも違うのか。
――なぜ、自分の生まれについて、誰も何も語らなかったのか。

すべてが、繋がっていく。

「……それで、何が望みだ?」

レオンは低く言った。

「俺を王宮に連れていくつもりか? "失われた王子"とやらを、王の前に引きずり出してどうする?」

男は微かに笑った。

「お前は、王の庶子として認められるかもしれん。だが、それだけでは終わらん」

レオンは眉をひそめる。

「どういう意味だ」

「お前の存在を知った者は、多くがこう考えるだろう――『王位を狙うつもりではないか』と」

その言葉に、レオンの背筋が冷えた。

「俺は……そんなつもりじゃねえ」

「そうだろう。だが、それを信じる者は少ない」

男は淡々と言葉を紡いだ。

「お前が王家の血を持つと知れた時点で、お前は王都の勢力争いに巻き込まれることになる」

レオンは唇を噛んだ。

自分が何者なのかを知ることで、危険が増す。

それが王家というものの現実なのか。

「……俺に、選択肢はねえのか?」

男は少しだけ目を細めた。

「お前には、選ぶ権利がある。だが、どの道を選んでも、波乱は避けられん」

レオンは深く息を吐いた。

その時――

「レオン!!」

鋭い声が、地下室の扉の向こうから響いた。

レオンの目が大きく見開かれる。

「……エリシア!?」

扉が激しく叩かれる音。

「いるんでしょう!? 開けなさい!!」

「……ちっ、やっかいな娘が来たな」

男は舌打ちをしながら、立ち上がる。

レオンの心臓が早鐘を打つ。

エリシアが来た。

どうして?

なぜ、こんな危険な場所に……?

だが、彼女の声が響くたびに、レオンの中の迷いが薄れていく気がした。

「エリシア……!」

扉の向こうで叫ぶ彼女に、レオンはただひたすら手を伸ばした――。

「レオン!!」

エリシアの叫びが地下の薄暗い空間に響く。

扉を叩く音が何度も鳴り響き、レオンの心臓は締め付けられるように脈打った。

「エリシア……バカかよ、なんで来たんだ……!」

レオンは縛られた手を必死にもがいた。

一方、黒い外套の男は冷静だった。

「……お前を探してここまで来たのか。なるほど、あの娘は本気でお前を案じているようだな」

「当たり前だろ……!」

レオンは歯を食いしばった。

なぜエリシアがここまでしてくれるのか。彼はまだ答えを出せないままでいた。

だが、彼女がここに来た以上、巻き込まれるのは避けられない。

――絶対に、守らなければならない。

レオンは体の力を振り絞り、縄を引きちぎらんとした。

「無駄だ。お前一人ではどうしようもない」

男は低く言い、ゆっくりと扉に向かう。

「どうするつもりだ……!」

「安心しろ。王家の娘を傷つけるつもりはない。だが――」

男が手を伸ばし、扉を開けた瞬間――

「――っ!!」

エリシアが勢いよく飛び込んできた。

彼女は短剣を手にしていた。

「……レオンを返しなさい!」

その瞳には、迷いがなかった。

レオンは衝撃を受けた。

こんな場所まで来るだけでも危険だったのに、彼女は自ら剣を握り、戦おうとしている。

「エリシア……」

「大丈夫、レオン」

彼女は息を切らしながらも、まっすぐに彼を見つめていた。

「私は、君を絶対に取り戻す」

その言葉が、レオンの心を強く揺さぶった。

「……っ!」

レオンの体が熱くなる。

彼は両腕に最後の力を込め、縄を強引に引きちぎった。

「おおおおお!!」

バリッという音とともに縄が弾け飛ぶ。

レオンはすぐさまエリシアの手を掴んだ。

「行くぞ、エリシア!!」

彼女は頷き、二人は一気に駆け出した。

黒い外套の男たちが動く。

だが、レオンは知っていた。

この暗闇の中をどう逃げればいいのか。

「こっちだ!!」

二人は狭い通路を駆け抜けた。

背後で男たちの声が響く。

「逃がすな!!」

「くそっ、数が多すぎる……!」

レオンは息を荒くしながら、それでも走り続けた。

だが、その時――

「待ちなさい!!」

エリシアが突然足を止めた。

「何やってんだ、早く……!」

「ここで終わらせるわ」

レオンは驚いて彼女を見た。

彼女の手には、王家の紋章が刻まれた小さな水晶が握られていた。

「これは……?」

エリシアは深呼吸し、力強く叫んだ。

「――王の名のもとに命じます!! この場から退きなさい!!」

その瞬間――

水晶が輝き、辺り一面に光が満ちた。

男たちは光に包まれ、一瞬、動きを止めた。

「……今よ、レオン!!」

レオンは彼女の手を引き、再び駆け出した。

出口が近い。

あと少し――

そして――

二人はついに、夜の街へと飛び出した。

レオンは息を切らしながら振り返る。

黒い外套の男たちは、もう追ってこなかった。

エリシアの力で、振り切ることができたのだ。

「……助かった、のか?」

レオンはまだ信じられないように呟いた。

エリシアは微笑んだ。

「ええ、そうね」

レオンは彼女を見つめた。

「……お前、バカだな」

エリシアはクスリと笑う。

「君のためなら、私は何度でもバカになるわ」

レオンの胸が、熱くなった。

この娘は、本当に……信じられないほどまっすぐだ。

「……ありがとな」

初めて、素直にその言葉を口にした。

エリシアは柔らかく微笑み、レオンの手を握った。

二人は、月明かりの下、そっと手を重ねたまま、夜の王都に消えていった。

そして――

レオンは、ついに決意した。

自分の正体を知り、逃げるのではなく。

この運命に向き合うことを――。


月が王都の石畳を青白く照らす夜、レオンとエリシアは静かな屋敷の庭に立っていた。ここはエリシアの家――彼女の父、ハロルド公爵が暮らす館である。

「……本当に、大丈夫なのか?」

レオンは小さく囁いた。

「ええ、大丈夫よ」

エリシアは微笑む。その表情には、不安よりも確信が宿っていた。

「お父様なら、きっと話を聞いてくださるわ」

レオンは息を飲んだ。

ハロルド公爵――王に忠誠を誓う名門の貴族。彼がこの話をどう受け止めるかが、レオンの未来を決める。

エリシアは屋敷の扉を開いた。

「お父様、お願いがあります」

中では、恰幅のいい初老の男が彼女を待っていた。

「エリシア……その男は誰だ?」

「彼の名前はレオン。貧民街で育ったの。でも……彼は王の血を引く人なの」

一瞬、空気が張り詰めた。

「……何を言っている?」

公爵の声が低く響く。

「証拠はあるのか?」

レオンは懐から、黒い外套の男が見せた紋章を取り出した。

それを見た公爵の目がわずかに揺らぐ。

「これは……!」

エリシアが一歩踏み出した。

「お父様、私は彼を信じます」

レオンは拳を握る。

「俺は……俺が王家の血を引くなんて、今も信じられねえ。でも、知りたいんだ。自分が何者なのかを」

公爵は深く息を吐いた。

「……話を聞こう」

レオンとエリシアは顔を見合わせ、静かに頷いた。

数時間後――

「……そうか」

話を聞き終えた公爵は、目を閉じたまま考え込んでいた。

やがて、ゆっくりと口を開く。

「レオン、私はお前が王家の血を引いている可能性を否定しない。しかし、これが表沙汰になれば、お前は必ず命を狙われることになる」

レオンは唇を噛んだ。

それは分かっていた。

「だが、もしお前が自らの正統性を証明し、王宮に認められたならば――」

「……俺は、王になれるのか?」

公爵は厳しい視線を向ける。

「簡単な話ではない」

「じゃあ、どうすれば……」

「お前が正真正銘、王の血を引く者であることを示す"試練"がある」

レオンは眉をひそめた。

「試練……?」

「古の剣――《王の証》を手に入れるのだ」

エリシアが息を呑む。

「《王の証》……伝説の剣?」

「そうだ。王家に認められる者だけが手にすることができる剣だ」

レオンは拳を握った。

「それを手に入れれば、俺が王家の人間だと証明できるのか?」

「そういうことだ。しかし、容易いことではない。その剣は、王宮の奥深く、"試練の間"に封じられている」

レオンは黙り込む。

王宮に忍び込む?

そんなこと、どう考えても無茶だ。

「……なら、俺はそこへ行く」

エリシアが驚いたようにレオンを見た。

「レオン、本気なの?」

「俺は、もう逃げねえ。自分が何者なのか、この手で証明する」

公爵はレオンの瞳を見つめ、静かに頷いた。

「ならば、手を貸そう」

レオンはその言葉に目を見開いた。

「俺を、助けてくれるのか……?」

「エリシアがここまで信じる者だ。私も賭けてみよう」

レオンは、胸の奥から熱いものがこみ上げてくるのを感じた。

「……ありがとう」

公爵は立ち上がる。

「急ぐぞ。王宮に忍び込むには、今夜が好機だ」

レオンは深く頷いた。

これが、彼の運命を決める最後の試練となる――。


夜の王宮は、静寂に包まれていた。

月明かりが大理石の回廊を淡く照らし、冷たい風がカーテンを揺らす。

レオン、エリシア、そしてハロルド公爵の一行は、影のように王宮の奥深くへと忍び込んでいた。

「王宮の守りは厳重だ。だが、《試練の間》に通じる道は、昔から密かに残されている」

公爵の案内のもと、彼らは迷路のような廊下を進んだ。

レオンの胸は高鳴る。

――この先に、俺の答えがある。

やがて、重厚な扉の前にたどり着いた。

「ここが、《試練の間》だ」

公爵が低く告げる。

レオンは扉を押した。

冷たい石の感触が手に伝わる。

――ギィ……。

扉がゆっくりと開かれる。

そこに広がっていたのは、広大な空間。

中央には、輝く剣が一本、鎮座していた。

「……あれが、《王の証》……」

エリシアが息を呑む。

レオンは剣を見つめ、ゆっくりと歩を進めた。

しかし――

「――試す者よ。我が力を示せ」

突然、空間に響く重々しい声。

光が渦を巻き、巨大な騎士の幻影が現れた。

「……試練か」

レオンは剣を抜いた。

騎士は、無言のまま剣を振り下ろす。

衝撃波が床を砕いた。

「くそっ……!」

レオンは跳び退る。

だが、怯むわけにはいかない。

「レオン!」

エリシアの叫びが聞こえる。

――俺は、ここで証明する。

レオンは全力で駆け、幻影の騎士へと斬りかかった。

剣がぶつかり合い、火花が散る。

一撃、また一撃――。

そして――

「……終わりだ!!」

レオンの剣が騎士の胸を貫いた。

幻影が消え、静寂が戻る。

レオンは息を整え、ゆっくりと《王の証》へ手を伸ばした。

――その瞬間。

剣が淡く光り、レオンの手へと吸い込まれるように馴染んだ。

「……やった」

エリシアが涙ぐんで微笑む。

公爵も静かに頷いた。

「これで、お前が王の血を引く者であることが証明された」

レオンは剣を握りしめる。

「……でも、俺はまだ迷ってる」

「迷う?」

「俺が王になりたいのか……それとも、ただ自分が何者かを知りたかっただけなのか」

エリシアがそっとレオンの手を取った。

「答えを見つけるのは、これからよ」

レオンはエリシアの瞳を見つめ、静かに頷いた。

「……そうだな」

数日後――

レオンは正式に王宮へと迎えられた。

だが、彼は王位を望まなかった。

「俺は、王になりたいわけじゃない。でも、この国を守るために戦うことはできる」

彼は、《王の証》を握りしめ、新たな道を歩み始めた。

エリシアは微笑みながら、彼の隣に立っていた。

「これからも、一緒に歩んでくれるか?」

「もちろんよ」

二人の手は、しっかりと結ばれていた。

――これは、王になることを選ばなかった王子と、高貴なる少女が紡いだ、新たな物語の始まりだった。

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