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Ⅳ
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あの時からかもしれない。
僕は幸せの形が分からなくなっていた。
ずっと心の中にあったはずの幸せ。
僕の苦しさとともに紡がれてきたはずの幸せ。
彼女とともにあったはずの幸せ。
それが一瞬にして形を変えた。
あったはずの未来はいつの間にか夢になっていて、積み上げてきたはずの過去は遠い昔のことのように思えて…。
でも、彼女の言葉だけが呪いのように頭から離れない。
「忘れないで、忘れないで、忘れないで、忘れないで」
彼女の微笑みが張り付いて、どんどん形を変えていく。
曲がって、歪んで、捻れて、混ざって、また笑って、笑って、笑って。
「もうやめてくれ」
「君のままでいてくれ」
記憶の中の君の形が分からなくなっていく。
ぽっかりと空いた心に闇が入り込んで、記憶に影を作っていく。
僕はただ逃げるように外へ駆け出した。
無我夢中で走る。顔に張り付いてくる風が鬱陶しくて、手で薙ぎ払う。
彼女が住んでいた家の隣を通って
彼女と一緒に帰った河川敷を横切って
彼女と通うはずだった大学が視界の横を流れていく
長い間、カーテンのしまった一軒家
地面の上でへばりついて、汚れた桜の花びら
世界はその意味を知ろうとしない
でも、僕だけがその意味を知っている
誰もいない海辺
まだそこに彼女がいるように思えた
確かな君はきっとそこにいる
そんな確信が僕にはあった
潮風に乗ってツンと鼻を刺した匂い。
その白い花びらに導かれるように、風にレースが揺れたのがわかった。
「咲良」
名前を呼んでも彼女は振り返らなかった。
波が引いていく。
彼女は僕とは反対の方向へ歩き出す。
「咲良っ」
必死に追いかけた。
今更、手を伸ばした。
波に足をとられて、転げ落ちる。
頭に滲む痛みが視界を歪めた。
それでも、手を伸ばした。
僕には耐えられない。
苦しさが幸せを蝕んでいく。
その重みから、幸せの形を保っていられない。
忘れたくないのに、勝手に記憶が形を変えていく。
付随していたはずの気持ちを引き剥がして、裏を黒く塗りつぶしていく。
この苦しみの中で、今の僕はきっと生きられなかった。
この世界は違和感で溢れている。
あらゆる矛盾が変に混ざりあって、ぶつかり合って、それでも存在している。
どれだけ期待したって裏切られ、期待していない時に限って与えてくる。
苦しさの中にも幸せがあって、幸せの中にも苦しみがある。
世界は単純な形をしていない。
複雑に入り交じって、形のない何かを作っている。
形のない何かを感じ、そして縋るようにして、皆生きている。
でも、僕という存在は単純な形でしか生きられなかった。
苦しみと幸せは共存できないし、一定の形だけが安心感を支えていた。
だから、単純な世界を望んだ。
苦しみのない、幸せしかない世界。
見たいものだけ見て、見たくないものには蓋をする。
そうやって形を整えていく。
都合のいいように切り取っては、上手く縫い合わせていく。
彼女との幸せを保つ唯一の方法だった。
僕の足も彼女を追いかけるように自然と動き出す。
冷たいはずの海水が体に染み込んで、馴染んでいく
彼女が向こうで待っている気がした。
僕はやっと自然になれるのかもしれない。
脳裏に浮かんでは消えていく過去の自分。
いつだって逃げてきた。
嫌なものは僕の中から切り離していた。
でも、この世界から逃げることは出来なかった。
期待なんて都合のいいセリフを吐いて、何度も自分にこの世界における己の存在定義を問いた。
そして、今やっとわかった。
「最初からこの世界に居場所なんてない」
彼女と過した日々が思い出されては消えていく。
きっと、この世界にはその思い出すら置いておける場所がない。僕たちが生きるにはこの世界は狭すぎたのかもしれない。
体が暖かさに包まれるような感覚だった。
どこかで感じたことがあるような安心感。
きっとそれは僕が求めていたもの。
急に意識が遠くなる。
深海のさらに奥へ沈んでいくように、目の前の光が遠ざかっていく。
僕は目を閉じた。
僕の視界は真っ黒になった。
僕は幸せの形が分からなくなっていた。
ずっと心の中にあったはずの幸せ。
僕の苦しさとともに紡がれてきたはずの幸せ。
彼女とともにあったはずの幸せ。
それが一瞬にして形を変えた。
あったはずの未来はいつの間にか夢になっていて、積み上げてきたはずの過去は遠い昔のことのように思えて…。
でも、彼女の言葉だけが呪いのように頭から離れない。
「忘れないで、忘れないで、忘れないで、忘れないで」
彼女の微笑みが張り付いて、どんどん形を変えていく。
曲がって、歪んで、捻れて、混ざって、また笑って、笑って、笑って。
「もうやめてくれ」
「君のままでいてくれ」
記憶の中の君の形が分からなくなっていく。
ぽっかりと空いた心に闇が入り込んで、記憶に影を作っていく。
僕はただ逃げるように外へ駆け出した。
無我夢中で走る。顔に張り付いてくる風が鬱陶しくて、手で薙ぎ払う。
彼女が住んでいた家の隣を通って
彼女と一緒に帰った河川敷を横切って
彼女と通うはずだった大学が視界の横を流れていく
長い間、カーテンのしまった一軒家
地面の上でへばりついて、汚れた桜の花びら
世界はその意味を知ろうとしない
でも、僕だけがその意味を知っている
誰もいない海辺
まだそこに彼女がいるように思えた
確かな君はきっとそこにいる
そんな確信が僕にはあった
潮風に乗ってツンと鼻を刺した匂い。
その白い花びらに導かれるように、風にレースが揺れたのがわかった。
「咲良」
名前を呼んでも彼女は振り返らなかった。
波が引いていく。
彼女は僕とは反対の方向へ歩き出す。
「咲良っ」
必死に追いかけた。
今更、手を伸ばした。
波に足をとられて、転げ落ちる。
頭に滲む痛みが視界を歪めた。
それでも、手を伸ばした。
僕には耐えられない。
苦しさが幸せを蝕んでいく。
その重みから、幸せの形を保っていられない。
忘れたくないのに、勝手に記憶が形を変えていく。
付随していたはずの気持ちを引き剥がして、裏を黒く塗りつぶしていく。
この苦しみの中で、今の僕はきっと生きられなかった。
この世界は違和感で溢れている。
あらゆる矛盾が変に混ざりあって、ぶつかり合って、それでも存在している。
どれだけ期待したって裏切られ、期待していない時に限って与えてくる。
苦しさの中にも幸せがあって、幸せの中にも苦しみがある。
世界は単純な形をしていない。
複雑に入り交じって、形のない何かを作っている。
形のない何かを感じ、そして縋るようにして、皆生きている。
でも、僕という存在は単純な形でしか生きられなかった。
苦しみと幸せは共存できないし、一定の形だけが安心感を支えていた。
だから、単純な世界を望んだ。
苦しみのない、幸せしかない世界。
見たいものだけ見て、見たくないものには蓋をする。
そうやって形を整えていく。
都合のいいように切り取っては、上手く縫い合わせていく。
彼女との幸せを保つ唯一の方法だった。
僕の足も彼女を追いかけるように自然と動き出す。
冷たいはずの海水が体に染み込んで、馴染んでいく
彼女が向こうで待っている気がした。
僕はやっと自然になれるのかもしれない。
脳裏に浮かんでは消えていく過去の自分。
いつだって逃げてきた。
嫌なものは僕の中から切り離していた。
でも、この世界から逃げることは出来なかった。
期待なんて都合のいいセリフを吐いて、何度も自分にこの世界における己の存在定義を問いた。
そして、今やっとわかった。
「最初からこの世界に居場所なんてない」
彼女と過した日々が思い出されては消えていく。
きっと、この世界にはその思い出すら置いておける場所がない。僕たちが生きるにはこの世界は狭すぎたのかもしれない。
体が暖かさに包まれるような感覚だった。
どこかで感じたことがあるような安心感。
きっとそれは僕が求めていたもの。
急に意識が遠くなる。
深海のさらに奥へ沈んでいくように、目の前の光が遠ざかっていく。
僕は目を閉じた。
僕の視界は真っ黒になった。
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