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第一章
美しく完璧な執事は、少年から愛を教わる
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(どうしよう…っ)
見た事のない道を、陽太はただひたすらに走った。本来なら友人と逃げるはずだった道。だが、待ち合わせ場所に友人の姿はなかった。もしかして、見つかってしまったのだろうか。アクシデントがあったのだろうか。それとも…。
(裏切った、のかな?)
心の奥がズキンとする。だが、それならそれで良かった。友人が無事なら、それで良かったのだ。
「いたぞっ」
遠くから男の声が聞こえてくる。陽太は、凸凹した道を転がるように走った。雨が降った後のため、地面がかなりぬかるんでいて走りづらい。ズルッと足元が滑り身体が傾く。
「うわっ」
小柄な陽太の身体は、枯れ葉のように転がっていった。意識が遠のくなか、誰かの声を聞いた気がした。その声は、とても優しかったがとても寂しそうだった。
「だ…れ…?」
声の主を確かめようとしたものの、陽太の意識はそこで途切れてしまった。それからどれぐらい時間がたったのか、気がつけば辺りは明るくなっていた。
(い、生きてる)
見上げれば、かなりの崖から落ちたことがわかった。
「とにかく、ここを離れなきゃ…」
男達に見つかれば、今度こそ自由など得られない。痛めた左足を引きずりながら、陽太はなんとか先へと進んだ。不意に鮮やかな花が咲き乱れる庭園が見えてくる。
「すごい…」
陽太には、名前もわからない花ばかりだ。追われている事も身体の痛みさえも忘れて、陽太は庭園の美しさにただただ見惚れた。
「何者だ?」
冷たく無機質な男の声に、陽太は肩を竦める。振り向けば、長身の男が立っていた。いつからいたのか、男の気配など微塵も感じなかった。
「あ、あの…っ」
恐ろしく美しい男だった。細面の輪郭に、切れ長の瞳。亜麻色のやや長めの髪が、風にサラサラとなびいている。シワ1つない燕尾服を身につけ、腰には銀の懐中時計が下げられていた。一目で、住む世界が違う人間なのだと陽太にはわかった。知らず、声が掠れる。
「あの、道に迷ってしまって」
「迷う?」
男が訝しげに眉を寄せる。それもそうだろう。周辺は山道に囲まれている。こんな夜遅くに、薄手の着物で歩く者はいない。だが、陽太にはそんな言い訳しか考えられなかったのだ。
「怪我をしてるのか?」
男の指摘で、陽太は自分が怪我をしている事を思い出した。膝やふくらはぎは擦りむけていて、薄っすらと血が滲んでいる。思い出した途端、ヒリッとした痛みを感じる。
「中に入りなさい」
玄関の中に手招きされ、陽太はかなり戸惑った。だが、行く宛も帰る場所も陽太にはない。男の言葉は、陽太にとっては嬉しいものだった。
(俺、これからどうすればいいんだろう)
浮かぶのは、空っぽになった家の中。陽太を温かく迎えてくれると思っていた笑顔はどこにもなかった。陽太は、腕で目元を擦ると泣くまいと唇を噛み締めた。泣くと余計惨めな気持ちになる。
待つこと数分。男が戻ってきた。
「今日からここで働くように」
「え?」
陽太には、男の言葉がわからなかった。
「旦那様の命令だ。ここで使用人として働くようにと」
「なんで俺がっ?」
「いいから来い」
何がなんだかわからないまま、陽太は台所へと連れていかれた。小さな椅子に座るように言われる。
「膝を出せ」
「え?」
「早くしろ」
男は片膝をつくと、着物の裾を左右に開き膝の傷を手当てする。男の指が微かに肌に触れた瞬間。陽太は反射的に立ち上がった。消したくても消せない記憶が、ゾワゾワと背筋を這い上がってくる。
「や、やめろっ」
青ざめて逃げようとすれば、男は陽太をヒョイッと抱き上げて再び椅子に座らせた。
「じっとしていろ。手当てができない」
男は特に気分を害した風はなかった。擦りむいてうっすら血が滲んだ膝やふくらはぎに手際よく薬を塗って包帯を巻いていく。ケガをしていたため、他の傷には気付かなかったようだ。陽太はホッと安堵の息を吐いた。
手当てが終わると、水色の真新しい着物が渡される。
「これに着替えろ」
「お、俺。まだ働くなんて言ってないぞっ」
陽太はここに長居するつもりなどなかった。追手が来る前に、ここを発たなくてはならないのだ。慌てて立ち上がろうとすれば、やんわりと肩を押さえられる。
「せめて怪我がよくなるまではいろ。ここは安全だ」
冷たいと思っていた声には、僅かだが優しさが感じられた。陽太の心から、警戒心がほんの少しだけ薄れる。
「名前は?」
「…陽太」
「年は?」
「17になった」
戸惑いながらも答えれば、男がほんの少しだけ笑みを浮かべた。それは、ドキッとするぐらい美しくて優しい笑みだった。
「私の名前は小野智樹。ここは、平野聡真様のお屋敷だ」
陽太は、初めてここの主の名前を知った。そして、奇妙なことに気がつく。こんな広い屋敷なのに、智樹以外の使用人がいないのだ。家具も少なく、屋敷の中はガランとしていた。
(そういえば、あの声…)
崖から落ちている時に、不思議な声を聞いた。いや、聞いたような気がした。だが、その声は智樹のものではない。もっと繊細で、まるでガラス細工のような声だった。
「空き部屋があるから使いなさい。狭いが、寝るだけなら十分だ」
そう言われて通された和室は、6畳ほどあった。使っていないという割には、どこもかしこも掃除が行き届いている。陽太にとっては、贅沢すぎるぐらいの部屋だった。知らず足が竦む。
「あの、やっぱり出て行くよ。ここは、俺なんかのいる場所じゃない」
いきなりの展開に、陽太の心が追いつかなかった。あまりにもうまくいきすぎて、逆に不安になってくるのだ。そんな陽太に、智樹は優しい眼差しを向けた。
「遠慮しなくていい。後で布団を持ってくる」
智樹は部屋を出て行った。残された部屋の中で、陽太は自分の身体を抱き締めた。カタカタと小刻みに身体が震えてくる。
「大丈夫。ここには、『あいつ』はいない。大丈夫だ」
陽太は、何度も何度も自身に言い聞かせた。そうでもしなければ、身体が震えて仕方ない。
陽太は、部屋の片隅で膝を抱えるとそのままジッと過ごした。
陽太を部屋に残した後。足音を立てないように、智樹は奥の部屋へと向かった。そして、襖の前で膝をつく。
「旦那様」
この家の主である平野聡真は、1日中この屋敷で過ごしている。誰とも会わず、誰とも会話もしない。智樹以外とは…。こんな生活を、2人はもう何年も繰り返している。
「なぜ、陽太を屋敷に?」
智樹には謎だった。陽太を雇うように進言したのは聡真だ。だが、陽太には特別秀でたものはない。それに、陽太は訳ありだと見た。そんな少年を屋敷に入れれば、聡真に害が及ぶかもしれない。気紛れな主には慣れているが、さすがにこれは我慢ならなかった。
智樹が文句を言おうと口を開いた瞬間。スッと1枚の便箋が隙間から差し出される。
『あの子は。何かから逃げているようだった。悪い子でないぐらいお前にもわかるだろう?
しばらく面倒を見てあげなさい』
智樹は気づかれないようにため息を吐いた。人と接することを嫌う聡真。最近では、智樹とさえ筆談でしか会話はしない。だが、誰よりも優しくて人の心には敏感だった。
もう1枚、便箋が廊下に滑り出てくる。
『智樹のためにもいいと思うよ』
智樹には、その意味がわからなかった。
「私のため?」
思慮深く、常に最善の策を考えている聡真。聡真が言うなら、おそらくそうなのだろう。智樹は、陽太の顔を思い浮かべた。
17歳と言っていたが、見た目的にはまだ15歳といったところだ。ふっくらとした輪郭に、ツヤツヤとした黒髪。少女のような面差しだが、凛とした強さを感じる瞳。ただ、その瞳が何かに怯えているのが気になる。
(一体、何に怯えているのだろう)
そこまで考えて、智樹はハッと我に返った。気がつけば陽太の事ばかり気にしている。
(私とした事が…)
智樹は生まれながらに執事としての教育を受けてきた。主の事以外、考えてはならないのだ。智樹は、らしくない自分の考えに苦笑を浮かべた。どんな事情であれ、聡真にとって害となると判断したなら容赦なく叩き出す。智樹は改めて気を引き締めた。
ガチャンッという大きな音に、智樹はそっと眉をしかめる。振り向けば、割れた小皿を片付けている小さな背中が見えた。
「全く、お前ときたら何をやらせても駄目だな」
智樹の言葉に、陽太がビクッと肩を揺らした。
陽太が使用人として平野家に来てから、かれこれ1ヶ月がたとうとしていた。だが、不器用な陽太は何をやらせてもことごとく失敗して役には立っていない。いや、むしろ智樹の仕事を増やす存在となっていた。
草むしりをさせれば貴重な植物まで雑草と間違えて引っこ抜くし、玄関を掃除させれば飾ってあった高価な絵にまで水をかける始末だ。だが、一生懸命やっている陽太の姿はなぜか智樹の胸を騒がせた。
「ここは私が片付けておくから、旦那様に朝食を運んできなさい」
「うんっ」
嬉しそうに頷いた陽太が、お盆を手に聡真のいる部屋へと向かう。
(早いものだな)
最初のうちは、まるで野生動物のように警戒心が強かった陽太。だが、次第に警戒心は薄れてきて笑顔も増えてきた。そして、その笑顔は智樹の心をざわめかせて仕方ない。
(この気持ちは、なんだ?)
智樹は、これまで喜怒哀楽を出さないように教育を受けてきた。なのに、陽太の一挙手一投足が気になって仕方ない。
この気持ちの正体が、智樹にはどうしてもわからなかった。ただ1つ言えるのは、陽太にはずっと笑っていてほしい。それだけだった。
陽太は、お膳を平行に保ちながら長い長い廊下を進んだ。突き当たりが聡真の部屋で、近づくとお香のいい香りがする。
「旦那様。陽太です」
正座をして声をかけてから、静かに障子を開ける。そして、お膳だけを室内に置いて静かに襖を閉めた。様々なドジをして智樹を怒らせた陽太だが、これだけは完璧にできた。
「今日は、鮭の切り身と大根の煮付け。それと、梅干し入りの卵焼きです」
智樹にすら滅多にその姿を見せることはないというこの家の主。だが、陽太は聡真の事が大好きだった。なぜなら、行くあてのない陽太に居場所をくれた人物だからだ。それに、いつも優しい言葉をくれる。
「では、俺はこれで…」
お辞儀をして去ろうとすれば、便箋がスッと流れてくる。そこには、漢字が苦手な陽太のために、平仮名が多く並んだ短い文面が並んでいた。
『仕事にはなれたかい?
智樹は、やさしくしてくれるか?
こまったことがあったら、なんでも言いなさい。
ほしいものがあったら、智樹に言うといい』
陽太は、文面から滲み出る優しさに涙が溢れそうになった。
「困った事は、ありません。美味しいご飯が食べれて、こんな上等な着物を着せてもらって。これ以上の贅沢はありません」
この屋敷に来てからというもの、陽太は優しさに包まれた生活をしていた。豪華な食事や高価な着物だけではない。聡真と智樹の優しさが、何よりも嬉しかったのだ。
「智樹には、毎日怒られています。あっ、意地悪されてるわけじゃないですっ。とっても優しくしてもらっています」
智樹は無口だが、とても優しい。この1ヶ月でそれがよくわかった。
陽太がそっと胸元に手を置く。そこには、守り袋が入っている。守り袋の中には、智樹が結んでくれた包帯が今だに入っていた。智樹に名を呼ばれる度に、優しくされる度に嬉しさで一杯になる。だが、優しくされればされるほど、ある記憶が甦ってくるのも事実だ。それは、誰にも知られたくないおぞましい記憶。もし、聡真や智樹に知られたらどうなるのだろう。どんな風に自分を見るのだろう。それがとても怖かった。
特に、智樹には知られたくなかった。大好きだから。知られて、嫌われたくなかった。陽太の胸が切なく軋む。
「本当は、俺、旦那様にも智樹にも、優しくされるような人間じゃ、ないんです。本当は、ここにいちゃ駄目なんです。駄目なのに、どうしようもなく、ここに居たいんです…っ」
言っているうちに、ポロポロと涙が落ちてきた。これまで、どんな事をされても泣かなかったのに、涙が止まらなかった。
再び便箋が流れてくる。
『泣くことはないよ。
私も、智樹もお前が大好きだ。
たとえ、お前の過去がどうであれ関係ないよ。
お前の笑い声が、この家に希望をくれたんだ。
ずっと、ここにいておくれ』
陽太は嬉しさからますます涙をこぼした。聡真は知らないはずなのに、陽太の過去など知っているはずがないのに、こうして気持ちを汲んでくれる。欲しい言葉をくれるのだ。
「ありがとう…ございま…す」
肩を震わせながら、陽太は声を出さずに泣き続けた。嫌われたくない。他の誰に嫌われても、聡真と智樹には嫌われたくない。陽太は、それだけを願った。
(どういう意味だ?)
立ち聞きするつもりはなかったが、智樹は陽太の言葉を聞いてしまった。陽太が何を隠しているのか気になって仕方がない。
そして、ポロポロと涙をこぼし続ける陽太を見て、ひどく胸が騒いだ。
(この感情はなんだろう)
智樹は、5歳の頃からずっと聡真の執事になるために生きてきた。聡真の執事として彼を支えられることを、何よりも喜びとしていた。だが、陽太が来てからというもの、その考えが変わってきていた。
(私は、どうかしている)
陽太に、ずっとここにいてほしい。なにもできなくていいから、側にいてほしい。そう思っている自分がいた。聡真には抱いたことがない、暖かく優しい感情が心を満たしていく。陽太に触れる度に、もっと触れたくなる。この気持ちの正体を、智樹はどうしても知りたかった。
(私らしくないな)
智樹は、泣き続ける陽太が気になりながらも、そっとその場を離れた。
その日の夜。陽太の部屋の前を通りかかった智樹は、微かに聞こえる声にそっと襖を開けた。そこには、布団をすっぽり被った陽太がいる。どうやら、うなされているらしい。
「陽太?おい、陽太?」
声をかけて身体を揺すれば、うっすらと目が開く。が、その途端。
「うわぁぁぁっ」
陽太がまるで脱兎のごとく逃げ出したのだ。部屋の隅でガタガタと震える姿は尋常ではない。智樹が触れようとすれば、手足をバタつかせて暴れる始末だ。
「私だ。陽太」
声をかければ、ピタッと陽太の動きが止まる。
「智樹?」
震える声で名前か呼ばれる。智樹は、慎重に陽太を抱き締めた。怖がらせないように、できるだけそっと…。
「ああ。私だ」
すると、陽太がものすごい力で抱き返してくる。
「怖いっ、怖いよっ。あいつが来るっ。あいつがっ」
「落ち着けっ。おいっ、陽太っ」
智樹には、何がなんだかわからなかった。たた、陽太が何者かに怯えていることだけは確かだ。
守ってやりたかった。陽太を脅かす者がいるなら、許すことなどできなかった。
だが、今は陽太を落ち着かせるのが先だ。
智樹が、腕の中で震え続ける陽太に口付ける。それしかないと思ったのだ。ピタッと陽太の動きが止まる。
「な、んで?」
唇を離せば、驚いたような陽太の顔があった。ドングリのような大きく丸い瞳が、涙に濡れて光っている。不謹慎だが、なんて美しい泣き顔だと思った。
これが、恋というものだと智樹はやっとわかった。胸を騒がせ、心を締め付けるこの感情。それは、相手を愛し欲するがゆえだったのだ。
「お前が好きだ。なぜかわからないが、お前の事が愛しくてならない」
智樹は、急に不安になった。同性の自分が好きだと言ったとして、陽太が受け入れてくれるとは限らない。
「私が、嫌いか?」
恐る恐る尋ねれば、細い腕が背中に回る。
「…俺も、智樹が好き」
それは、本来なら嬉しい告白のはずだ。だが、陽太の声は暗く沈み今にも消えそうだった。
「でも、駄目だ」
ゆっくりと陽太が離れる。智樹の心を冷たい風が通りすぎていった。
「なぜ?」
互いに好きなら問題ないと言えば、陽太が首を左右に振る。
「俺のことを知ったら、智樹は俺を嫌いになるよ」
陽太の声は、全てを諦めているような声だった。
「なぜ?」
「俺は、綺麗な身体じゃないから」
陽太が微笑む。まるで泣いているように…。
「俺の名前は、中島陽太っていうんだ」
陽太は、これまでのことを話し始めた。
中島家は、両親と祖父母、そして10人の子供という大家族だった。家計は大変だったが、家族はとても仲がよく、陽太は弟や妹の面倒を見ていた。そこに、ある男が来て陽太を奉公に出すように言ってきたのだ。
「黒川家の者だと言ってた」
「黒川家?」
智樹がピクッと反応する。その名前は、智樹も知っていた。あまり、いい噂は聞かない。特に、一人息子の芳太郎については。
「大きな旅館を経営しているんだ。そこで働けば、かなりの給金をくれるって。俺は行きたくなかった」
当初は、両親も奉公には反対だった。だが、大金を積まれた父親はその考えを変えた。陽太は無理矢理奉公に出されたのだ。
「旅館の掃除や、お客さんの荷物を運ぶのが仕事だって聞いてたんだ」
そこまで話して、陽太はギュッと拳を握った。その手が小刻みに震えている。
「でも、違った。旅館の一番奥の部屋に連れて行かれて、俺は、あいつに…」
黒川芳太郎は、怯える陽太を強引に抱いた。それから、毎夜のごとく陽太はオモチャのように扱われたのだ。
「ただ抱かれるだけじゃない。俺は…」
男に抱かれて感じる身体にされた。生きていくにはそれしかなかったが、その事実は陽太の心を壊していった。
「嫌で嫌で、友達と脱走したんだ。でも、そいつとはぐれちゃって…。でも、やっと家まで着いたんだ」
だが、そこには誰もいなかった。優しかった両親も祖父母も、懐いてくれた弟や妹達も誰も陽太を待っていてはくれなかった。
まるで逃げるように出て行ったと、近所の人が教えてくれた。
「そこに追手が現れて、俺は逃げる事しかできなかったんだ」
クシャクシャと顔を歪ませて陽太が泣き出す。しゃくりあげる陽太をあやすように胸に抱き寄せた智樹は、額や瞼にキスを落とした。智樹の胸の奥からどんどん愛しさが溢れてくる。陽太を心の底から大切にしたいと思った。
「忘れろ。私が、お前の側にいる」
「無理だよ…っ」
陽太が智樹の腕の中から逃げようともがく。智樹は強くその身体を抱き締めながら、何度も愛を囁いた。だが、陽太は信じようとしなかった。いや、陽太は自身を嫌悪しているのだ。
陽太は誰よりも綺麗だ。それを教えてやりたかった。智樹は、陽太に深く口づけるとそのまま布団に押し倒す。
「これからお前を抱く。いいか?」
尋ねながら、智樹は陽太に口づけた。
静かな室内に、小さな喘ぎ声が響く。智樹は、陽太に深く口付けながら、その身体を優しく撫でる。言葉よりも、身体で教える方がいいと考えたからだ。
「駄目…っ」
浴衣の帯を解くと、すがるように陽太が訴えてくる。薄闇のなかでも怯えてることがわかる漆黒の瞳。
「智樹に、見られたくない」
そこには、嫌悪ではなく不安感が強く表れていた。
何度も大丈夫だと言い聞かせて、智樹がゆっくりと浴衣を左右に開く。肌には、あちこち傷があった。きちんと治療されなかったのか、かなり古いものもある。智樹は、何も聞かずにその1つ1つに舌を這わせた。ビクッと陽太の腰が震える。
「あっ、はぁっ」
動物が傷を舐める姿によく似ていると思った。こうして舐めることで、陽太の心の傷も治るといいと思いながら、智樹は胸や脇腹に残る傷を丁寧に舐めていく。
「んっ、んんっ」
唇を固く結び、喘ぎ声を抑えようとする陽太がいじらしくて仕方なかった。智樹は、指でそのふっくらと柔らかな唇をなぞった。
「声を聞かせてくれないか。お前の声は、とてもかわいい」
「あっ、はぁっ、やっ、あっ」
指を滑らせて、ごく自然に性器に触れる。それだけで、若く敏感な身体は反応し形を変えていく。軽く指で扱きながら、胸の小さな飾りを口に含めば、陽太がこらえきれないというような声を上げ、身体を強ばらせる。
やがて、智樹の指の間から生暖かい液体がこぼれ落ちた。
「ごめんな、さいっ。ごめんなさい…っ」
両手で顔を覆って、陽太が再び泣き始める。その様子から察するに、おそらく射精することを禁じられていたのだろう。智樹は、慰めるように涙で濡れた頬にキスをすると、陽太の手を自分の下半身に導いた。いきなり太く熱いものに触れたことで、陽太が驚いた顔をする。
「謝ることはない。男は皆、こうなるんだ」
握らせると、オズオズというように陽太の指が動く。拙く、ぎこちない指の動きにさえ、智樹は感じた。やがて、智樹は陽太の指で絶頂を迎える。
「私も、同じだろ?」
智樹の艶っぽい表情に、陽太が頬を染める。智樹の指が、優しく陽太の秘部を弄った。
「やぁ…っ」
身体が強張るのは仕方がないことだった。陽太には、乱暴にされた記憶しかないのだ。陽太がカタカタと震えていれば、スッと智樹が陽太から離れた。
「あ…」
陽太は焦った。きっと、自分は智樹に嫌われたのだ。だが、すぐに智樹は戻ってきて、無防備に晒された陽太の尻の間に指を潜り込ませる。
「あっ、なにっ。冷たっ」
ヌルリとした感触に驚けば、椿油だと教えてくれた。
「やっ、あっ、はあっ、あっ」
こんな感覚は初めてだった。長い指がゆっくり中を擦りあげる度に、陽太の全身を甘い熱が駆け巡る。智樹の指が2本、3本と増やされ、奥までゆっくり広げられ、陽太の腰が跳ね上がった。
「力を抜くんだ。大丈夫。傷つけたりしないから」
「ん」
智樹自身がゆっくりと中へと押し入ってきた瞬間。陽太はしっかりと智樹にしがみついた。
「んんっ、はあっ、あっ、んっ、智樹っ、俺変だっ、こんなの、変だよぉ」
こんなの、自分ではないみたいだ。あんなに嫌悪していた行為が、今はたまらなく気持ちがいい。前を弄られながら激しく突かれ、陽太は快感の波に呑みこまれる。
「あっ、んっ、んんっ、はぁっ」
智樹の腰の動きが激しくなっていく。
智樹の熱が身体の奥に叩きつけられるのを感じながら、陽太もすべてを放った。
智樹の腕に抱かれ、優しく髪を撫でられ、陽太はゆっくりと目を閉じる。
こんなに安心できる場所は、他にないと思いながら。
「旦那様。朝食のお時間です」
智樹がスッとお盆を中へ入れる。
「今朝は、鯖の塩焼きとアサリの味噌汁。それと、茄子と厚揚げの煮物に、豆ご飯です」
頭を下げて去ろうとすれば、便箋がスッと流れてくる。
『今朝は陽太ではないのだね。
あまり可愛いからといって、無体なことをするんじゃないよ。
日頃は無口なお前が、あんなに情熱的な男とは思わなかった』
文面を読んだ智樹は、らしくなく咳き込んだ。部屋はかなり離れていたため、聡真に知られるとは思っていなかった。
室内から、久々に聡真の楽しそうな笑い声が聞こえてくる。
そして、再び便箋が流れてきた。
『大切にしなさい。お前にとってのかけがえのない人を』
智樹は、そっと便箋を胸に抱いた。
「はい。旦那様」
智樹は、まだ部屋で寝ている陽太の寝顔を思い出し、優しい笑みを口許に浮かべた。こんなにも誰かを愛おしいと思ったのは、初めての事だった。
見た事のない道を、陽太はただひたすらに走った。本来なら友人と逃げるはずだった道。だが、待ち合わせ場所に友人の姿はなかった。もしかして、見つかってしまったのだろうか。アクシデントがあったのだろうか。それとも…。
(裏切った、のかな?)
心の奥がズキンとする。だが、それならそれで良かった。友人が無事なら、それで良かったのだ。
「いたぞっ」
遠くから男の声が聞こえてくる。陽太は、凸凹した道を転がるように走った。雨が降った後のため、地面がかなりぬかるんでいて走りづらい。ズルッと足元が滑り身体が傾く。
「うわっ」
小柄な陽太の身体は、枯れ葉のように転がっていった。意識が遠のくなか、誰かの声を聞いた気がした。その声は、とても優しかったがとても寂しそうだった。
「だ…れ…?」
声の主を確かめようとしたものの、陽太の意識はそこで途切れてしまった。それからどれぐらい時間がたったのか、気がつけば辺りは明るくなっていた。
(い、生きてる)
見上げれば、かなりの崖から落ちたことがわかった。
「とにかく、ここを離れなきゃ…」
男達に見つかれば、今度こそ自由など得られない。痛めた左足を引きずりながら、陽太はなんとか先へと進んだ。不意に鮮やかな花が咲き乱れる庭園が見えてくる。
「すごい…」
陽太には、名前もわからない花ばかりだ。追われている事も身体の痛みさえも忘れて、陽太は庭園の美しさにただただ見惚れた。
「何者だ?」
冷たく無機質な男の声に、陽太は肩を竦める。振り向けば、長身の男が立っていた。いつからいたのか、男の気配など微塵も感じなかった。
「あ、あの…っ」
恐ろしく美しい男だった。細面の輪郭に、切れ長の瞳。亜麻色のやや長めの髪が、風にサラサラとなびいている。シワ1つない燕尾服を身につけ、腰には銀の懐中時計が下げられていた。一目で、住む世界が違う人間なのだと陽太にはわかった。知らず、声が掠れる。
「あの、道に迷ってしまって」
「迷う?」
男が訝しげに眉を寄せる。それもそうだろう。周辺は山道に囲まれている。こんな夜遅くに、薄手の着物で歩く者はいない。だが、陽太にはそんな言い訳しか考えられなかったのだ。
「怪我をしてるのか?」
男の指摘で、陽太は自分が怪我をしている事を思い出した。膝やふくらはぎは擦りむけていて、薄っすらと血が滲んでいる。思い出した途端、ヒリッとした痛みを感じる。
「中に入りなさい」
玄関の中に手招きされ、陽太はかなり戸惑った。だが、行く宛も帰る場所も陽太にはない。男の言葉は、陽太にとっては嬉しいものだった。
(俺、これからどうすればいいんだろう)
浮かぶのは、空っぽになった家の中。陽太を温かく迎えてくれると思っていた笑顔はどこにもなかった。陽太は、腕で目元を擦ると泣くまいと唇を噛み締めた。泣くと余計惨めな気持ちになる。
待つこと数分。男が戻ってきた。
「今日からここで働くように」
「え?」
陽太には、男の言葉がわからなかった。
「旦那様の命令だ。ここで使用人として働くようにと」
「なんで俺がっ?」
「いいから来い」
何がなんだかわからないまま、陽太は台所へと連れていかれた。小さな椅子に座るように言われる。
「膝を出せ」
「え?」
「早くしろ」
男は片膝をつくと、着物の裾を左右に開き膝の傷を手当てする。男の指が微かに肌に触れた瞬間。陽太は反射的に立ち上がった。消したくても消せない記憶が、ゾワゾワと背筋を這い上がってくる。
「や、やめろっ」
青ざめて逃げようとすれば、男は陽太をヒョイッと抱き上げて再び椅子に座らせた。
「じっとしていろ。手当てができない」
男は特に気分を害した風はなかった。擦りむいてうっすら血が滲んだ膝やふくらはぎに手際よく薬を塗って包帯を巻いていく。ケガをしていたため、他の傷には気付かなかったようだ。陽太はホッと安堵の息を吐いた。
手当てが終わると、水色の真新しい着物が渡される。
「これに着替えろ」
「お、俺。まだ働くなんて言ってないぞっ」
陽太はここに長居するつもりなどなかった。追手が来る前に、ここを発たなくてはならないのだ。慌てて立ち上がろうとすれば、やんわりと肩を押さえられる。
「せめて怪我がよくなるまではいろ。ここは安全だ」
冷たいと思っていた声には、僅かだが優しさが感じられた。陽太の心から、警戒心がほんの少しだけ薄れる。
「名前は?」
「…陽太」
「年は?」
「17になった」
戸惑いながらも答えれば、男がほんの少しだけ笑みを浮かべた。それは、ドキッとするぐらい美しくて優しい笑みだった。
「私の名前は小野智樹。ここは、平野聡真様のお屋敷だ」
陽太は、初めてここの主の名前を知った。そして、奇妙なことに気がつく。こんな広い屋敷なのに、智樹以外の使用人がいないのだ。家具も少なく、屋敷の中はガランとしていた。
(そういえば、あの声…)
崖から落ちている時に、不思議な声を聞いた。いや、聞いたような気がした。だが、その声は智樹のものではない。もっと繊細で、まるでガラス細工のような声だった。
「空き部屋があるから使いなさい。狭いが、寝るだけなら十分だ」
そう言われて通された和室は、6畳ほどあった。使っていないという割には、どこもかしこも掃除が行き届いている。陽太にとっては、贅沢すぎるぐらいの部屋だった。知らず足が竦む。
「あの、やっぱり出て行くよ。ここは、俺なんかのいる場所じゃない」
いきなりの展開に、陽太の心が追いつかなかった。あまりにもうまくいきすぎて、逆に不安になってくるのだ。そんな陽太に、智樹は優しい眼差しを向けた。
「遠慮しなくていい。後で布団を持ってくる」
智樹は部屋を出て行った。残された部屋の中で、陽太は自分の身体を抱き締めた。カタカタと小刻みに身体が震えてくる。
「大丈夫。ここには、『あいつ』はいない。大丈夫だ」
陽太は、何度も何度も自身に言い聞かせた。そうでもしなければ、身体が震えて仕方ない。
陽太は、部屋の片隅で膝を抱えるとそのままジッと過ごした。
陽太を部屋に残した後。足音を立てないように、智樹は奥の部屋へと向かった。そして、襖の前で膝をつく。
「旦那様」
この家の主である平野聡真は、1日中この屋敷で過ごしている。誰とも会わず、誰とも会話もしない。智樹以外とは…。こんな生活を、2人はもう何年も繰り返している。
「なぜ、陽太を屋敷に?」
智樹には謎だった。陽太を雇うように進言したのは聡真だ。だが、陽太には特別秀でたものはない。それに、陽太は訳ありだと見た。そんな少年を屋敷に入れれば、聡真に害が及ぶかもしれない。気紛れな主には慣れているが、さすがにこれは我慢ならなかった。
智樹が文句を言おうと口を開いた瞬間。スッと1枚の便箋が隙間から差し出される。
『あの子は。何かから逃げているようだった。悪い子でないぐらいお前にもわかるだろう?
しばらく面倒を見てあげなさい』
智樹は気づかれないようにため息を吐いた。人と接することを嫌う聡真。最近では、智樹とさえ筆談でしか会話はしない。だが、誰よりも優しくて人の心には敏感だった。
もう1枚、便箋が廊下に滑り出てくる。
『智樹のためにもいいと思うよ』
智樹には、その意味がわからなかった。
「私のため?」
思慮深く、常に最善の策を考えている聡真。聡真が言うなら、おそらくそうなのだろう。智樹は、陽太の顔を思い浮かべた。
17歳と言っていたが、見た目的にはまだ15歳といったところだ。ふっくらとした輪郭に、ツヤツヤとした黒髪。少女のような面差しだが、凛とした強さを感じる瞳。ただ、その瞳が何かに怯えているのが気になる。
(一体、何に怯えているのだろう)
そこまで考えて、智樹はハッと我に返った。気がつけば陽太の事ばかり気にしている。
(私とした事が…)
智樹は生まれながらに執事としての教育を受けてきた。主の事以外、考えてはならないのだ。智樹は、らしくない自分の考えに苦笑を浮かべた。どんな事情であれ、聡真にとって害となると判断したなら容赦なく叩き出す。智樹は改めて気を引き締めた。
ガチャンッという大きな音に、智樹はそっと眉をしかめる。振り向けば、割れた小皿を片付けている小さな背中が見えた。
「全く、お前ときたら何をやらせても駄目だな」
智樹の言葉に、陽太がビクッと肩を揺らした。
陽太が使用人として平野家に来てから、かれこれ1ヶ月がたとうとしていた。だが、不器用な陽太は何をやらせてもことごとく失敗して役には立っていない。いや、むしろ智樹の仕事を増やす存在となっていた。
草むしりをさせれば貴重な植物まで雑草と間違えて引っこ抜くし、玄関を掃除させれば飾ってあった高価な絵にまで水をかける始末だ。だが、一生懸命やっている陽太の姿はなぜか智樹の胸を騒がせた。
「ここは私が片付けておくから、旦那様に朝食を運んできなさい」
「うんっ」
嬉しそうに頷いた陽太が、お盆を手に聡真のいる部屋へと向かう。
(早いものだな)
最初のうちは、まるで野生動物のように警戒心が強かった陽太。だが、次第に警戒心は薄れてきて笑顔も増えてきた。そして、その笑顔は智樹の心をざわめかせて仕方ない。
(この気持ちは、なんだ?)
智樹は、これまで喜怒哀楽を出さないように教育を受けてきた。なのに、陽太の一挙手一投足が気になって仕方ない。
この気持ちの正体が、智樹にはどうしてもわからなかった。ただ1つ言えるのは、陽太にはずっと笑っていてほしい。それだけだった。
陽太は、お膳を平行に保ちながら長い長い廊下を進んだ。突き当たりが聡真の部屋で、近づくとお香のいい香りがする。
「旦那様。陽太です」
正座をして声をかけてから、静かに障子を開ける。そして、お膳だけを室内に置いて静かに襖を閉めた。様々なドジをして智樹を怒らせた陽太だが、これだけは完璧にできた。
「今日は、鮭の切り身と大根の煮付け。それと、梅干し入りの卵焼きです」
智樹にすら滅多にその姿を見せることはないというこの家の主。だが、陽太は聡真の事が大好きだった。なぜなら、行くあてのない陽太に居場所をくれた人物だからだ。それに、いつも優しい言葉をくれる。
「では、俺はこれで…」
お辞儀をして去ろうとすれば、便箋がスッと流れてくる。そこには、漢字が苦手な陽太のために、平仮名が多く並んだ短い文面が並んでいた。
『仕事にはなれたかい?
智樹は、やさしくしてくれるか?
こまったことがあったら、なんでも言いなさい。
ほしいものがあったら、智樹に言うといい』
陽太は、文面から滲み出る優しさに涙が溢れそうになった。
「困った事は、ありません。美味しいご飯が食べれて、こんな上等な着物を着せてもらって。これ以上の贅沢はありません」
この屋敷に来てからというもの、陽太は優しさに包まれた生活をしていた。豪華な食事や高価な着物だけではない。聡真と智樹の優しさが、何よりも嬉しかったのだ。
「智樹には、毎日怒られています。あっ、意地悪されてるわけじゃないですっ。とっても優しくしてもらっています」
智樹は無口だが、とても優しい。この1ヶ月でそれがよくわかった。
陽太がそっと胸元に手を置く。そこには、守り袋が入っている。守り袋の中には、智樹が結んでくれた包帯が今だに入っていた。智樹に名を呼ばれる度に、優しくされる度に嬉しさで一杯になる。だが、優しくされればされるほど、ある記憶が甦ってくるのも事実だ。それは、誰にも知られたくないおぞましい記憶。もし、聡真や智樹に知られたらどうなるのだろう。どんな風に自分を見るのだろう。それがとても怖かった。
特に、智樹には知られたくなかった。大好きだから。知られて、嫌われたくなかった。陽太の胸が切なく軋む。
「本当は、俺、旦那様にも智樹にも、優しくされるような人間じゃ、ないんです。本当は、ここにいちゃ駄目なんです。駄目なのに、どうしようもなく、ここに居たいんです…っ」
言っているうちに、ポロポロと涙が落ちてきた。これまで、どんな事をされても泣かなかったのに、涙が止まらなかった。
再び便箋が流れてくる。
『泣くことはないよ。
私も、智樹もお前が大好きだ。
たとえ、お前の過去がどうであれ関係ないよ。
お前の笑い声が、この家に希望をくれたんだ。
ずっと、ここにいておくれ』
陽太は嬉しさからますます涙をこぼした。聡真は知らないはずなのに、陽太の過去など知っているはずがないのに、こうして気持ちを汲んでくれる。欲しい言葉をくれるのだ。
「ありがとう…ございま…す」
肩を震わせながら、陽太は声を出さずに泣き続けた。嫌われたくない。他の誰に嫌われても、聡真と智樹には嫌われたくない。陽太は、それだけを願った。
(どういう意味だ?)
立ち聞きするつもりはなかったが、智樹は陽太の言葉を聞いてしまった。陽太が何を隠しているのか気になって仕方がない。
そして、ポロポロと涙をこぼし続ける陽太を見て、ひどく胸が騒いだ。
(この感情はなんだろう)
智樹は、5歳の頃からずっと聡真の執事になるために生きてきた。聡真の執事として彼を支えられることを、何よりも喜びとしていた。だが、陽太が来てからというもの、その考えが変わってきていた。
(私は、どうかしている)
陽太に、ずっとここにいてほしい。なにもできなくていいから、側にいてほしい。そう思っている自分がいた。聡真には抱いたことがない、暖かく優しい感情が心を満たしていく。陽太に触れる度に、もっと触れたくなる。この気持ちの正体を、智樹はどうしても知りたかった。
(私らしくないな)
智樹は、泣き続ける陽太が気になりながらも、そっとその場を離れた。
その日の夜。陽太の部屋の前を通りかかった智樹は、微かに聞こえる声にそっと襖を開けた。そこには、布団をすっぽり被った陽太がいる。どうやら、うなされているらしい。
「陽太?おい、陽太?」
声をかけて身体を揺すれば、うっすらと目が開く。が、その途端。
「うわぁぁぁっ」
陽太がまるで脱兎のごとく逃げ出したのだ。部屋の隅でガタガタと震える姿は尋常ではない。智樹が触れようとすれば、手足をバタつかせて暴れる始末だ。
「私だ。陽太」
声をかければ、ピタッと陽太の動きが止まる。
「智樹?」
震える声で名前か呼ばれる。智樹は、慎重に陽太を抱き締めた。怖がらせないように、できるだけそっと…。
「ああ。私だ」
すると、陽太がものすごい力で抱き返してくる。
「怖いっ、怖いよっ。あいつが来るっ。あいつがっ」
「落ち着けっ。おいっ、陽太っ」
智樹には、何がなんだかわからなかった。たた、陽太が何者かに怯えていることだけは確かだ。
守ってやりたかった。陽太を脅かす者がいるなら、許すことなどできなかった。
だが、今は陽太を落ち着かせるのが先だ。
智樹が、腕の中で震え続ける陽太に口付ける。それしかないと思ったのだ。ピタッと陽太の動きが止まる。
「な、んで?」
唇を離せば、驚いたような陽太の顔があった。ドングリのような大きく丸い瞳が、涙に濡れて光っている。不謹慎だが、なんて美しい泣き顔だと思った。
これが、恋というものだと智樹はやっとわかった。胸を騒がせ、心を締め付けるこの感情。それは、相手を愛し欲するがゆえだったのだ。
「お前が好きだ。なぜかわからないが、お前の事が愛しくてならない」
智樹は、急に不安になった。同性の自分が好きだと言ったとして、陽太が受け入れてくれるとは限らない。
「私が、嫌いか?」
恐る恐る尋ねれば、細い腕が背中に回る。
「…俺も、智樹が好き」
それは、本来なら嬉しい告白のはずだ。だが、陽太の声は暗く沈み今にも消えそうだった。
「でも、駄目だ」
ゆっくりと陽太が離れる。智樹の心を冷たい風が通りすぎていった。
「なぜ?」
互いに好きなら問題ないと言えば、陽太が首を左右に振る。
「俺のことを知ったら、智樹は俺を嫌いになるよ」
陽太の声は、全てを諦めているような声だった。
「なぜ?」
「俺は、綺麗な身体じゃないから」
陽太が微笑む。まるで泣いているように…。
「俺の名前は、中島陽太っていうんだ」
陽太は、これまでのことを話し始めた。
中島家は、両親と祖父母、そして10人の子供という大家族だった。家計は大変だったが、家族はとても仲がよく、陽太は弟や妹の面倒を見ていた。そこに、ある男が来て陽太を奉公に出すように言ってきたのだ。
「黒川家の者だと言ってた」
「黒川家?」
智樹がピクッと反応する。その名前は、智樹も知っていた。あまり、いい噂は聞かない。特に、一人息子の芳太郎については。
「大きな旅館を経営しているんだ。そこで働けば、かなりの給金をくれるって。俺は行きたくなかった」
当初は、両親も奉公には反対だった。だが、大金を積まれた父親はその考えを変えた。陽太は無理矢理奉公に出されたのだ。
「旅館の掃除や、お客さんの荷物を運ぶのが仕事だって聞いてたんだ」
そこまで話して、陽太はギュッと拳を握った。その手が小刻みに震えている。
「でも、違った。旅館の一番奥の部屋に連れて行かれて、俺は、あいつに…」
黒川芳太郎は、怯える陽太を強引に抱いた。それから、毎夜のごとく陽太はオモチャのように扱われたのだ。
「ただ抱かれるだけじゃない。俺は…」
男に抱かれて感じる身体にされた。生きていくにはそれしかなかったが、その事実は陽太の心を壊していった。
「嫌で嫌で、友達と脱走したんだ。でも、そいつとはぐれちゃって…。でも、やっと家まで着いたんだ」
だが、そこには誰もいなかった。優しかった両親も祖父母も、懐いてくれた弟や妹達も誰も陽太を待っていてはくれなかった。
まるで逃げるように出て行ったと、近所の人が教えてくれた。
「そこに追手が現れて、俺は逃げる事しかできなかったんだ」
クシャクシャと顔を歪ませて陽太が泣き出す。しゃくりあげる陽太をあやすように胸に抱き寄せた智樹は、額や瞼にキスを落とした。智樹の胸の奥からどんどん愛しさが溢れてくる。陽太を心の底から大切にしたいと思った。
「忘れろ。私が、お前の側にいる」
「無理だよ…っ」
陽太が智樹の腕の中から逃げようともがく。智樹は強くその身体を抱き締めながら、何度も愛を囁いた。だが、陽太は信じようとしなかった。いや、陽太は自身を嫌悪しているのだ。
陽太は誰よりも綺麗だ。それを教えてやりたかった。智樹は、陽太に深く口づけるとそのまま布団に押し倒す。
「これからお前を抱く。いいか?」
尋ねながら、智樹は陽太に口づけた。
静かな室内に、小さな喘ぎ声が響く。智樹は、陽太に深く口付けながら、その身体を優しく撫でる。言葉よりも、身体で教える方がいいと考えたからだ。
「駄目…っ」
浴衣の帯を解くと、すがるように陽太が訴えてくる。薄闇のなかでも怯えてることがわかる漆黒の瞳。
「智樹に、見られたくない」
そこには、嫌悪ではなく不安感が強く表れていた。
何度も大丈夫だと言い聞かせて、智樹がゆっくりと浴衣を左右に開く。肌には、あちこち傷があった。きちんと治療されなかったのか、かなり古いものもある。智樹は、何も聞かずにその1つ1つに舌を這わせた。ビクッと陽太の腰が震える。
「あっ、はぁっ」
動物が傷を舐める姿によく似ていると思った。こうして舐めることで、陽太の心の傷も治るといいと思いながら、智樹は胸や脇腹に残る傷を丁寧に舐めていく。
「んっ、んんっ」
唇を固く結び、喘ぎ声を抑えようとする陽太がいじらしくて仕方なかった。智樹は、指でそのふっくらと柔らかな唇をなぞった。
「声を聞かせてくれないか。お前の声は、とてもかわいい」
「あっ、はぁっ、やっ、あっ」
指を滑らせて、ごく自然に性器に触れる。それだけで、若く敏感な身体は反応し形を変えていく。軽く指で扱きながら、胸の小さな飾りを口に含めば、陽太がこらえきれないというような声を上げ、身体を強ばらせる。
やがて、智樹の指の間から生暖かい液体がこぼれ落ちた。
「ごめんな、さいっ。ごめんなさい…っ」
両手で顔を覆って、陽太が再び泣き始める。その様子から察するに、おそらく射精することを禁じられていたのだろう。智樹は、慰めるように涙で濡れた頬にキスをすると、陽太の手を自分の下半身に導いた。いきなり太く熱いものに触れたことで、陽太が驚いた顔をする。
「謝ることはない。男は皆、こうなるんだ」
握らせると、オズオズというように陽太の指が動く。拙く、ぎこちない指の動きにさえ、智樹は感じた。やがて、智樹は陽太の指で絶頂を迎える。
「私も、同じだろ?」
智樹の艶っぽい表情に、陽太が頬を染める。智樹の指が、優しく陽太の秘部を弄った。
「やぁ…っ」
身体が強張るのは仕方がないことだった。陽太には、乱暴にされた記憶しかないのだ。陽太がカタカタと震えていれば、スッと智樹が陽太から離れた。
「あ…」
陽太は焦った。きっと、自分は智樹に嫌われたのだ。だが、すぐに智樹は戻ってきて、無防備に晒された陽太の尻の間に指を潜り込ませる。
「あっ、なにっ。冷たっ」
ヌルリとした感触に驚けば、椿油だと教えてくれた。
「やっ、あっ、はあっ、あっ」
こんな感覚は初めてだった。長い指がゆっくり中を擦りあげる度に、陽太の全身を甘い熱が駆け巡る。智樹の指が2本、3本と増やされ、奥までゆっくり広げられ、陽太の腰が跳ね上がった。
「力を抜くんだ。大丈夫。傷つけたりしないから」
「ん」
智樹自身がゆっくりと中へと押し入ってきた瞬間。陽太はしっかりと智樹にしがみついた。
「んんっ、はあっ、あっ、んっ、智樹っ、俺変だっ、こんなの、変だよぉ」
こんなの、自分ではないみたいだ。あんなに嫌悪していた行為が、今はたまらなく気持ちがいい。前を弄られながら激しく突かれ、陽太は快感の波に呑みこまれる。
「あっ、んっ、んんっ、はぁっ」
智樹の腰の動きが激しくなっていく。
智樹の熱が身体の奥に叩きつけられるのを感じながら、陽太もすべてを放った。
智樹の腕に抱かれ、優しく髪を撫でられ、陽太はゆっくりと目を閉じる。
こんなに安心できる場所は、他にないと思いながら。
「旦那様。朝食のお時間です」
智樹がスッとお盆を中へ入れる。
「今朝は、鯖の塩焼きとアサリの味噌汁。それと、茄子と厚揚げの煮物に、豆ご飯です」
頭を下げて去ろうとすれば、便箋がスッと流れてくる。
『今朝は陽太ではないのだね。
あまり可愛いからといって、無体なことをするんじゃないよ。
日頃は無口なお前が、あんなに情熱的な男とは思わなかった』
文面を読んだ智樹は、らしくなく咳き込んだ。部屋はかなり離れていたため、聡真に知られるとは思っていなかった。
室内から、久々に聡真の楽しそうな笑い声が聞こえてくる。
そして、再び便箋が流れてきた。
『大切にしなさい。お前にとってのかけがえのない人を』
智樹は、そっと便箋を胸に抱いた。
「はい。旦那様」
智樹は、まだ部屋で寝ている陽太の寝顔を思い出し、優しい笑みを口許に浮かべた。こんなにも誰かを愛おしいと思ったのは、初めての事だった。
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