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初恋の人
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「ごめんなさい」
その一言で、初恋は見事に砕け散った。茂三郎は涙を堪えてリュックを背負うと、そのまま海外へと旅立った。なぜ自分がフラれたのか、その理由もわからないまま…。
「って、気にならないの?」
孫の言葉に、茂三郎は笑った。
「気になるも何も。単にタイプじゃなかったんだろう」
茂三郎にとって、初恋の記憶は甘く苦い思い出だった。
15歳の茂三郎は、集団就職で初めて東京へ行った。勤め先の工場では、朝から晩まで働いた。さみしいとか、帰りたいなんて事は言えない時代だった。
そんな茂三郎の唯一の救いが、工場近くの喫茶店で働く『スミちゃん』に会う事だった。喫茶店の一人娘で、小柄で明るい女性だった。顔を見る度にドキドキして、最初は言葉さえろくに話せなかった。
「可愛かったなぁ。最近のアイドルなんて、目ではないな」
「まさかぁ」
孫の健一は、おそらく祖父が初恋の人を美化しているのだろうと思った。が、アルバムに一枚だけ残る写真を見た瞬間。驚きに目を見開いた。ふっくらした頬は健康的で、大きな瞳に長いまつ毛。『スミちゃん』がデビューしたら、間違いなく彼女がトップだろう。
「スミちゃんにフラれたショックから、台湾へ行ったんだ」
「…なぜ、台湾?」
「失恋して泣いている俺にハンカチを貸してくれたのが、バァさんだ」
これこそ運命的だと茂三郎は笑った。笑いながらも、心のどこかではずっと引っ掛かっていた。なぜ、スミちゃんは急に態度を変えたのだろう。てっきり、彼女も自分を選んでくれると思っていたのに…。
「じぃちゃん。僕と、東京行かない?」
健一の提案に、茂三郎は目をパチパチさせた。
50年ぶりの東京は、何もかもが新鮮だった。工場があった場所には大きなデパートが建ち、食堂や花屋があった場所にはおしゃれなカフェやブランドショップが並んでいる。道路も整備され、明らかに良くなっている。だが、茂三郎の心はどこか虚しかった。
(新しくなるという事は、思い出が消えていくという事なんだな)
仲間と通った銭湯も、子供達が遊んでいた駄菓子屋も今はない。懐かしい景色は何一つなくなってしまった。茂三郎は、移り行く町並みと自身の姿を重ねていた。
(あの喫茶店も、もうないかもしれない)
健一がネットで調べてくれたが、該当する名前はなかった。もしかすると、もう…。そう思いながらも、茂三郎は希望を持ち続けた。万が一の可能性にかけてみた。
「確か、ここを左だったな」
記憶を頼りに喫茶店へ向かった茂三郎は、思わず目を見張った。そこには、昔と変わらない姿の喫茶店があったのだ。茂三郎は、一瞬だけ15歳の頃に戻った気がした。
「いらっしゃいませ」
中に入れば、ふっくらした女性が笑顔で出迎えてくれる。年月はたっても、その声は変わらなかった。
(スミちゃん)
茂三郎は帽子を深く被ると、健一と奥の席に座った。今ここで自分の正体を明かすのは、なんだか気まずかったから…。健一が楽しそうに茂三郎に耳打ちする。
「スミさん。今も綺麗だね」
「あ、ああ」
カウンターには知らない男性がいる。年齢的には、おそらくスミの夫なのだろう。
(幸せに、暮らしてたんだな)
それだけでもわかってホッとした。
「ねぇ、じいちゃん。これ」
「ん?」
健一に言われメニューを見た茂三郎は、驚きのあまり目を見開いた。健一がすかさずスミに質問した。
「あ、あのっ。この〈シゲちゃん定食〉って何ですか?」
「ああ。それね」
スミがクスクス笑いながら近づいてきた。目元や口元には小さなシワはあるものの、その美貌は変わらなかった。
「そのメニューはね。私の初恋の思い出なの」
「えっ」
茂三郎は思わず大声を出してしまい、慌ててうつむいた。健一が〈シゲちゃん定食〉を2つ注文する。
ほどなくして運ばれてきた〈シゲちゃん定食〉は、目玉焼きが乗ったハンバーグとピーマン多めのナポリタン。そして、トマトとキュウリのサラダ。
(俺の好物ばかりだ)
給料日の前は、いつも昼飯に困っていた。両親への仕送りと下宿代を払ったら、残った金は限られていた。そんな時に、スミちゃんはいつもこっそりとこのメニューを出してくれた。茂三郎は思い出を懐かしみながら、ハンバーグやナポリタンを口に運ぶ。こんなに時がたっても、やはり忘れないものなのだ。懐かしくて優しい味がする。
「あの、どうしてこれが初恋の思い出なんですか?」
健一が聞けば、スミがチラッとカウンターを見た。マスターはニコニコしながら、スミに話をするように勧める。
「私がまだ17歳の時、シゲちゃんという人と出会ったの。細いけど力持ちで、ハーモニカが得意だったわ」
スミの視線が窓の外へ向く。
「昔はね、あそこに駄菓子屋さんがあったのよ。よく梅ジャムせんべいを買ったわ」
そう話すスミは、まるで10代の乙女のようだった。
「…その人とは、どうなったんですか?」
健一の言葉に、スミが一瞬だけ表情を変えた。笑顔だが、目がとても寂しそうだった。
「お別れしたの。だって、その人には幸せになってほしかったから」
(え?)
茂三郎は驚いた。
「幸せに?」
健一が聞くと、スミが笑顔で頷く。
「一人娘の私は、この店を継ぐ事が決まっていたの。でも、その人は早く田舎に帰りたいといつも言っていたわ…」
スミの言葉に、茂三郎はある事を思い出した。都会に馴染めなかった茂三郎は、スミに故郷の話を聞かせた。田舎の良さや、友人達とのくだらない思い出。スミがニコニコ聞いてくれたから、てっきり田舎についてきてくれると思っていた。
「あの人は優しいから、私が言えば、きっとここに残ったでしょう。それは、嫌だったの。私のために、我慢してほしくなかった」
スミはその後、喫茶店で働く青年と結婚し子供を3人もうけたそうだ。だが、どうしても初恋の『シゲちゃん』が忘れられなくてメニューにその名を残した。
「あの、いいんですか?」
健一が遠慮がちにマスターに問えば、スミがフフッと笑う。
「良いのよ。だって彼は、全部知っていて私を選んでくれたんだもの」
熟年カップルとは思えないぐらい、2人はラブラブらしい。結局、茂三郎は正体を言えなかった。
知らなかった。
自分の何気ない一言が、スミを苦しめ追い詰めていた事に…。あの頃、スミの笑顔が減ったのはこのためだったのだ。別れを告げたのは、優しさからだった。
食事を平らげ、茂三郎は健一と店を後にしようとした。
「全部で3586円になります」
「はい」
茂三郎が5000円札を出せば、スミが手早くお釣を用意する。茂三郎の手のひらに小銭を乗せながら…。
「また来てね。シゲちゃん」
スミがとびっきりの笑顔を見せる。
「スミちゃん。気付いてたのかい?」
「当たり前よ。お店に入ってきた時から、バレバレよ」
スミが茂三郎の手をしっかり握る。
「会えて嬉しかったわ」
「俺も、嬉しかったよ。ありがとう」
その光景を見ていた健一は、思わず声をあげそうになった。ほんの一瞬だけ、2人が十代の頃に戻ったように見えた。
その一言で、初恋は見事に砕け散った。茂三郎は涙を堪えてリュックを背負うと、そのまま海外へと旅立った。なぜ自分がフラれたのか、その理由もわからないまま…。
「って、気にならないの?」
孫の言葉に、茂三郎は笑った。
「気になるも何も。単にタイプじゃなかったんだろう」
茂三郎にとって、初恋の記憶は甘く苦い思い出だった。
15歳の茂三郎は、集団就職で初めて東京へ行った。勤め先の工場では、朝から晩まで働いた。さみしいとか、帰りたいなんて事は言えない時代だった。
そんな茂三郎の唯一の救いが、工場近くの喫茶店で働く『スミちゃん』に会う事だった。喫茶店の一人娘で、小柄で明るい女性だった。顔を見る度にドキドキして、最初は言葉さえろくに話せなかった。
「可愛かったなぁ。最近のアイドルなんて、目ではないな」
「まさかぁ」
孫の健一は、おそらく祖父が初恋の人を美化しているのだろうと思った。が、アルバムに一枚だけ残る写真を見た瞬間。驚きに目を見開いた。ふっくらした頬は健康的で、大きな瞳に長いまつ毛。『スミちゃん』がデビューしたら、間違いなく彼女がトップだろう。
「スミちゃんにフラれたショックから、台湾へ行ったんだ」
「…なぜ、台湾?」
「失恋して泣いている俺にハンカチを貸してくれたのが、バァさんだ」
これこそ運命的だと茂三郎は笑った。笑いながらも、心のどこかではずっと引っ掛かっていた。なぜ、スミちゃんは急に態度を変えたのだろう。てっきり、彼女も自分を選んでくれると思っていたのに…。
「じぃちゃん。僕と、東京行かない?」
健一の提案に、茂三郎は目をパチパチさせた。
50年ぶりの東京は、何もかもが新鮮だった。工場があった場所には大きなデパートが建ち、食堂や花屋があった場所にはおしゃれなカフェやブランドショップが並んでいる。道路も整備され、明らかに良くなっている。だが、茂三郎の心はどこか虚しかった。
(新しくなるという事は、思い出が消えていくという事なんだな)
仲間と通った銭湯も、子供達が遊んでいた駄菓子屋も今はない。懐かしい景色は何一つなくなってしまった。茂三郎は、移り行く町並みと自身の姿を重ねていた。
(あの喫茶店も、もうないかもしれない)
健一がネットで調べてくれたが、該当する名前はなかった。もしかすると、もう…。そう思いながらも、茂三郎は希望を持ち続けた。万が一の可能性にかけてみた。
「確か、ここを左だったな」
記憶を頼りに喫茶店へ向かった茂三郎は、思わず目を見張った。そこには、昔と変わらない姿の喫茶店があったのだ。茂三郎は、一瞬だけ15歳の頃に戻った気がした。
「いらっしゃいませ」
中に入れば、ふっくらした女性が笑顔で出迎えてくれる。年月はたっても、その声は変わらなかった。
(スミちゃん)
茂三郎は帽子を深く被ると、健一と奥の席に座った。今ここで自分の正体を明かすのは、なんだか気まずかったから…。健一が楽しそうに茂三郎に耳打ちする。
「スミさん。今も綺麗だね」
「あ、ああ」
カウンターには知らない男性がいる。年齢的には、おそらくスミの夫なのだろう。
(幸せに、暮らしてたんだな)
それだけでもわかってホッとした。
「ねぇ、じいちゃん。これ」
「ん?」
健一に言われメニューを見た茂三郎は、驚きのあまり目を見開いた。健一がすかさずスミに質問した。
「あ、あのっ。この〈シゲちゃん定食〉って何ですか?」
「ああ。それね」
スミがクスクス笑いながら近づいてきた。目元や口元には小さなシワはあるものの、その美貌は変わらなかった。
「そのメニューはね。私の初恋の思い出なの」
「えっ」
茂三郎は思わず大声を出してしまい、慌ててうつむいた。健一が〈シゲちゃん定食〉を2つ注文する。
ほどなくして運ばれてきた〈シゲちゃん定食〉は、目玉焼きが乗ったハンバーグとピーマン多めのナポリタン。そして、トマトとキュウリのサラダ。
(俺の好物ばかりだ)
給料日の前は、いつも昼飯に困っていた。両親への仕送りと下宿代を払ったら、残った金は限られていた。そんな時に、スミちゃんはいつもこっそりとこのメニューを出してくれた。茂三郎は思い出を懐かしみながら、ハンバーグやナポリタンを口に運ぶ。こんなに時がたっても、やはり忘れないものなのだ。懐かしくて優しい味がする。
「あの、どうしてこれが初恋の思い出なんですか?」
健一が聞けば、スミがチラッとカウンターを見た。マスターはニコニコしながら、スミに話をするように勧める。
「私がまだ17歳の時、シゲちゃんという人と出会ったの。細いけど力持ちで、ハーモニカが得意だったわ」
スミの視線が窓の外へ向く。
「昔はね、あそこに駄菓子屋さんがあったのよ。よく梅ジャムせんべいを買ったわ」
そう話すスミは、まるで10代の乙女のようだった。
「…その人とは、どうなったんですか?」
健一の言葉に、スミが一瞬だけ表情を変えた。笑顔だが、目がとても寂しそうだった。
「お別れしたの。だって、その人には幸せになってほしかったから」
(え?)
茂三郎は驚いた。
「幸せに?」
健一が聞くと、スミが笑顔で頷く。
「一人娘の私は、この店を継ぐ事が決まっていたの。でも、その人は早く田舎に帰りたいといつも言っていたわ…」
スミの言葉に、茂三郎はある事を思い出した。都会に馴染めなかった茂三郎は、スミに故郷の話を聞かせた。田舎の良さや、友人達とのくだらない思い出。スミがニコニコ聞いてくれたから、てっきり田舎についてきてくれると思っていた。
「あの人は優しいから、私が言えば、きっとここに残ったでしょう。それは、嫌だったの。私のために、我慢してほしくなかった」
スミはその後、喫茶店で働く青年と結婚し子供を3人もうけたそうだ。だが、どうしても初恋の『シゲちゃん』が忘れられなくてメニューにその名を残した。
「あの、いいんですか?」
健一が遠慮がちにマスターに問えば、スミがフフッと笑う。
「良いのよ。だって彼は、全部知っていて私を選んでくれたんだもの」
熟年カップルとは思えないぐらい、2人はラブラブらしい。結局、茂三郎は正体を言えなかった。
知らなかった。
自分の何気ない一言が、スミを苦しめ追い詰めていた事に…。あの頃、スミの笑顔が減ったのはこのためだったのだ。別れを告げたのは、優しさからだった。
食事を平らげ、茂三郎は健一と店を後にしようとした。
「全部で3586円になります」
「はい」
茂三郎が5000円札を出せば、スミが手早くお釣を用意する。茂三郎の手のひらに小銭を乗せながら…。
「また来てね。シゲちゃん」
スミがとびっきりの笑顔を見せる。
「スミちゃん。気付いてたのかい?」
「当たり前よ。お店に入ってきた時から、バレバレよ」
スミが茂三郎の手をしっかり握る。
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