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混沌たるクラースの船編

51 ポップコフィンでランチ

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 そうと決まれば、早速行動に移すだけだ。私はオフィスのドアから顔を覗かせて、注意深く周辺をチェックした。クラースさんとロケインが、何やら楽しそうに話しながら、研究所のエントランスへと向かって歩いていくのが見えた。

 よし、良いぞ。私はそっとオフィスから抜け出して、カウンターのところにいるリンが、夢中でネットを閲覧しているのを確認すると、彼女に見つからないように、そのまま物音を立てずに身を屈ませて歩き、エントランスから外へ出た。

 久々の一人の太陽!うえええええい!それもそうだ、よく考えれば、家に帰れば奴がいる。家を出ても奴がいる。行きも帰りも隣には奴がいる。そんな状態が続いていたのだ。愛し合う二人がずっと一緒に暮らすのだって我慢ならないというのに、我々はよくここまで一緒に居られたものだ。

 陽の光が、なんとも清々しい!勢いよく深呼吸をした私は、久しぶりにポップコフィンのパンケーキを食べに行こうと決断した!あの店は外観も店内の装飾も、可愛らしいピンク色をしており、ポップな雰囲気なので、何となくジェーンと行きづらかったのだ。

 よし、そうと決まれば善は急げだ!私は早歩きでその場を去り、街へと向かった。大通りを進んで行くと、アスファルトに太陽の光が反射して、目が痛くなった。これすらも楽しいと感じる私は、精神的に相当キテいたに違いない。

 陽気な気分で、ユークタワービルの前の広場を通り過ぎていく。やはりこの辺りまで来ると、観光客で賑わっていた。その人混みをすり抜けて、ヤシの木が立ち並ぶ、ポレポレ商店街の方へと向かう。そこにポップコフィンがあった。ホイップクリームとショートケーキが付いた、可愛い看板だった。

 話題で人気のお店だからか、やはり店の前には、列が出来ていた。私もその最後尾に並び、外から店の中を覗いた。この辺りの学生さん達や、OL姿のお姉さん達で賑わっている。私も出来れば誰かと来たかったが、リンはいつもカウンターのところで持参のお弁当を食べるし、アリスはケイト先生と一緒にどっか行くし、それ以外に友達はいない……。と、兎に角!ここのパンケーキだけ食べられれば良いのだ!

「お待たせ致しました、エリオット様ですね、こちらへどうぞ!」

 考え事をしていたら、思ったよりも早く案内された。フリルがフリフリしている、ピンク色のメイド服を着たウェイトレスさんに付いて、店内へと進んでいく。テーブル席を紹介された時に、笑顔の店員さんと目が合って、つい軽く会釈をしてしまった。……少し緊張する。

 テーブルの上にあるメニューを開いた。さあどれにしようか。ランチタイムだから、お得なセットが何と、五百カペラで食べられる。わーお。しかも六種類とは……これは悩んでしまう。素早くここまで来たことで、お昼休みはまだ五十分と、ゆっくり食べる時間がある。私がどれにしようか冊子を見て悩んでいると、店内がにわかに騒つき始めた。

 顔をあげてみると、前の席の学生二人組が、一定の方向をチラチラ見ては、興奮した様子でコソコソ話をしている。私がその方向を見ようとしたが、ちょうどドリンクバーのエリアが射線上にあり、よくその方向を見ることが出来なかった。

 今度は左隣の席から、きゃっと女性の声が聞こえたので、チラッと見ると、隣のOLさん達も先ほどの方向を見て、何か楽しげに話していた。よく見れば、周りの席にいる殆どの女性達が、そちらにキラキラした視線を向けていた。

 ああ、またか。ユークアイランドでは、劇場俳優さんや有名人も普通に出歩いているので、たまにこうして騒ついたりするのだ。私は元々、有名人には興味が無く、この現象も毎度のことなので気にせず、オーダーをしようと、テーブルのボタンを押した。あとは暇つぶしにウォッフォンを……と思ったが、それは置いてきたんだった。あとはどうしよう、とりあえずメニューを見て過ごすことにした。

「やばいやばい……来たよ!」

 前の席にいる学生さん達の声が聞こえた。やばいって言ったって、ただの人ではないか。だが少しだけ、ちょっとだけ、誰が店内に入ってきたのか、気になることは気になる。そんなに有名な人なら、私も見ようかと顔をあげた時に、とある人物が、私の目の前に立っていた。

「ああ、ここにいましたね。」

 真顔のジェーンだった。ストライプのシャツに、グレーのベストを合わせた、さらさらロングヘアーの……ただのジェーンだった。彼は私の目の前の椅子に座り、やや荒々しく私のウォッフォンをテーブルに投げ置いた。

 そう言えば、有名人は何処だろう、再び、辺りを見回してみるが、皆が熱のこもった視線を向けているのは、何と、私の目の前にいるジェーンに対してだった。
 え?彼が来たから騒ついたのか?え?

「キルディア、」ジェーンが呆れた声を放った。私は彼を見た。「私をこうなどと、二度と考えないことですね。」

「え?あ、ああ……ごめんなさい。でも、え?何で、この場所が分かったの?」

 と、聞いた時にウェイトレスさんが来てくれた。何故か彼女もジェーンを見て、少し興奮している様子だった。私はその彼女に、メニューを指差しながら言った。

「あ、えっとBセットで。」

 するとジェーンが眼鏡のレンズをハンカチで拭きながら言った。

「私も同じものをください。あとブラックコーヒーをお願いします。」

「はい!かしこまりました!……あの!」

 その時、驚く事が起きた。ウェイトレスさんが、ジェーンに色紙とペンを差し出したのだ。何で彼がサインをせがまれているのか、私は口をあんぐりと開けて、放心状態になってしまった。ジェーンはというと、眼鏡を掛け終えて目を丸くして、差し出された色紙を見ている。ウェイトレスさんは少し屈んで、ジェーンの顔を覗き見ながら、キラキラした笑顔で彼に聞いた。

「劇場の俳優さんですか?それともモデルさんとかですよね?是非、サインを頂きたいんですけど……お店に飾りたいので!」

 え?何で?
 ジェーンは事情を理解したのか、笑いを少しだけ漏らしながら、手を振った。

「私はただの科学者ですよ。ですからこれは、本当の俳優さんに渡してあげてください。」

 ジェーンにそう言われたウェイトレスさんは顔を上げ、少し離れたところに立ってこちらを見ていた、店長らしきウェイター姿の男性を見た。何やら二人は熱心にジェスチャーをし合い、それが終わると、彼女はまたジェーンに色紙を渡そうとした。

「科学者さんなのですね!それでもいいので、是非サインをお願いします!記念になりますから!」

 戸惑った様子のジェーンが私を見た。多分どうするべきか判断を仰いでいるのだろう。まあ、いいんじゃないですかね。適当に私が頷くと、ジェーンはウェイトレスさんが差し出している色紙とペンを受け取った。

「承知致しました。名前を記入すれば、よろしいですか?」

「はい!」

 ジェーンはテーブルの上に色紙を置くと、ペンで自分の名前を書き始めた。志願書にあった達筆な彼のサインと同じものだ。こうして彼が字を書いているのを見るのは、最初の頃にスコピオ博士のレポートを簡潔にしてもらった時以来だった。いつ見ても、見事な字である。ジェーンは書き終えると、ウェイトレスさんに渡した。彼女は笑顔で受け取った。

「ありがとうございます!料理は少々お待ちくださいませ!」

 彼女が去った後も、周りの視線がジェーンにチラチラ向けられる。たまに私に向けられるのは少し敵意のこもったものであるのには間違いない。長年の戦いで養われた勘がそう言っている。間違いない。

「サイトの閲覧履歴を。」

「え?何?」

「位置測定なしで、ここに辿り着いた理由です。タージュ博士との話が長引いたので、急いでオフィスに戻ると、あなたの姿は無く、あなたのデスクにウォッフォンが置いてありました。これは位置測定を逃れる為。つまり、私から距離を置く為に、そうしたのだと理解しました。ウォッフォンが手元にある以上、位置測定は使用出来ないので、ならばと思い、あなたのPCを少し触りました。サイトの閲覧履歴から推測し、ポップコフィンへの関心が高まっていると分かり、こちらに参りました。質問はありますか?」

「結構あるけど、一番の疑問は、私のPCのパスコードをどうやって解除したのか、そして閲覧履歴を、どうやって調べたのか、なんだけど。」

「それでは一番の疑問ではありません。疑問が二つ存在しています。」

「う、もうそれはいいとして、答えてよ。」

「PCを開いてしまえば、閲覧履歴など簡単に見ることが出来ます。パスコードをハックする方法は秘密です。」

 恐ろしい男、もうPCで下手に検索するのはやめよう……。それに私はジェーンのPCを覗き見るのを思い止まったというのに、彼は遠慮無しに見ちゃうのね。じゃあ今度から私も彼のPCを見よう……。

「そ、そう。じゃあもう一つ聞くね。何でここまで来たの?」

 ジェーンはテーブルの上に置いたままだった私のウォッフォンを手に取り、私の手首に付けてくれた。何をしても、何を話しても彼は無表情だ。

「これが無くては、支払いが出来ないでしょう?」

「あ、そうだった。助かった……。うん。ジェーン、置いて行ってごめんなさい。こういう店、一人じゃないと来れないかと思って。」

 すると、彼が伏し目がちになり、掠れた声で言った。

「……私が居ては、こういう店は来られませんか?」

 彼らしくない、しおらしい声色に少し驚いてしまい、固唾を飲んでしまった。そういう訳じゃないけど、そういう訳だけど。ああ、どう答えていいか迷い、少しして彼を見ると、また見たことの無い彼がそこに居た。上目遣いでこちらを見ていたのだ。その甘える子犬ちゃんのような態度は一体何なんだろう、困惑した。

 気がつくと周りの席にいる女性達が、私たちの様子を見て判断したのか、私のことをひどい奴だと言わんばかりの表情で睨んでいた。私は焦った。

「い、いや、ジェーンがほら、嫌がるかなと思って。だってほら、ここは女の人が好みそうなお店だし、ジェーンはどちらかというと男でしょ?」

「ふん」と、今度は今までの上目遣いが嘘だったかのように、私を見下すように顎を上げた。一体彼はどうなってるの。「遠慮せずに何でも仰ってください。私はあなたとなら、どんな店でもどこでお昼を食べようと構いません。しかし置いていくなら一言貰いたい。前日までに。そうすれば適当に、弁当箱にヤモリの唐揚げでも入れて「分かったから!分かった……置いて行かないよ今度から。だからもう、怒らないで。」

 その時、ウェイトレスさんがランチパンケーキセットを運んで来てくれた。ふわふわのパンケーキに、カットされたパインと、バナナと、生クリームが盛り付けられている。それと隣にはエッグプディングが添えられていた。

「……怒る?私は怒ってはいませんよ。なるほどこれは、女性は好きそうですね。」

「ジェーン、今日は置いて行ってごめんなさい。それにこのランチも、ご飯っぽく無くて。」

 いただきます、をして二人で食べ始めた。何だかもう既に、こうして誰かと一緒にご飯を食べるのは、ジェーンが一番多い気がする。実は孤独だった私にとって、もしかしたら彼は、ありがたい存在なのかも知れない。

「いえ、」ジェーンが一口サイズのパンケーキを頬張りながら言った。「私は甘いものを好みます。これは中々美味しいので、また二人で来ましょう。」

「甘いもの好きだったの?それは良かった!うん、美味しいから、また来ようね。」

 私が笑顔を彼に向けると、目が合った彼はすぐに目を逸らして、そしてもう一度私を見た。何だか私と目を合わせるのが難しそうな、戸惑った表情をしている。不思議に思った私が笑顔を辞めた時に、彼が消え入りそうな小声で言った。

「パンケーキ、今度あなたが作ってください。」

「何でよ……戻ったら、カタリーナさんに作って貰えばいいのに。」

 私が冗談でそう言うと、ジェーンは少し悲しそうに微笑んだ。私はハッとして、ジェーンに聞こえるように小声で言った。

「だ、大丈夫だよ、絶対にジェーンの世界に帰れるから。ごめんね……。」

「そうではありません。」

「え?」

「いえ……何でもありません。食べましょう。はい、美味しいです。」

 彼は微笑みながら、またパンケーキを口に含んだ。心なしか、彼の目は少し悲しげだった。
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