嘘つきな社長の容赦ない溺愛

里崎雅

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1巻

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   プロローグ


 ――先生、先生。さとる先生。一体どこにいるんですか?


 卒業生のあかしである桃色の造花を胸につけ、北山小春きたやまこはるはひたすら廊下を走り続けていた。
 卒業式後の最後のホームルームを終えると、写真を撮ろうと待っている生徒たちを残し、いつの間にか姿を消した担任教師の西岡にしおか悟。
 入学してすぐ恋に落ち、まったく脈はなかったけれど、ずっと一途に好きだった先生だ。
 高校を卒業したら、ようやく先生と生徒の関係ではなくなる。いや、元担任と元生徒という立場は一生ついて回るけど、少なくとも見えない倫理の壁は消える。

(卒業式が終わったら……告白して連絡先を教えてもらおうと思ってたのに……)

 この三年間で、小春は学校での悟の行動範囲を熟知していた。
 彼のいる可能性が一番高いのは、数学の教科担当室。その次が、進路指導室。そこにもいなかったら、職員室か図書室。
 いつもだったらとうに見つかっているはずなのに、今日はどこにもいない。
 ひしひしと迫る悪い予感を胸に、小春は今朝の悟の様子を思い出していた。


 昨夜は、卒業式への緊張と寂しさであまり眠れなかった。
 小春が赤い目を擦りながら早めに登校すると、学校は既に別れを惜しむ生徒たちでにぎわっていた。校門前では、みんなを出迎えていた悟の周りに、たくさんの生徒が集まっている。

「にっしー先生~、一緒に写真撮ろうよ」
たましいが取られるからいやです」
「きゃははっ、いいじゃん~」

 悟の写真嫌いは有名な話だったけれど、最後なんだからお願いとばかりに生徒たちが周りを取り囲んでいる。

「写真なら、最後に集合写真撮るだろ。今日はそれ一枚しか撮らない」
「にっしー先生のケチ!」
「まったく、結局三年間、お前らには『にっしー先生』って呼ばれ続けたな。西川にしかわ先生だってにっしー先生じゃないか?」
「えー、西川先生は西川先生」

 屈託くったくなく生徒たちと笑う彼の姿を見られるのも今日で最後だと思うと、小春の目に自然と涙がにじんでくる。卒業したら、今までみたいに毎日会うことはできない。

「あ、小春だー。おはよう小春!」

 みんなの輪から少し離れてたたずむ小春に、同級生が気づいて声をかけてきた。

「おはよう、北山。早いな」

 悟に柔らかな笑みを向けられ、涙腺が一気に崩壊した。

「せ、先生~……」

 いきなりポロポロと涙をこぼし始めた小春に、同級生たちが慌てて駆け寄ってくる。

「ちょっ、早い! 早いよ小春! まだ泣くとこじゃないって」
「やめてぇっ、私も泣いちゃう~!」

 笑い声とからかう声が入りまじる中、両手で目をゴシゴシと擦る小春の頭にぽんっと大きな手の平がのった。
 大きくて、じんわりと温かい手。今までも何度か、こうして頭を撫でられたことがある。

「北山は感受性が豊かだからな」
「前から思ってたけど、にっしー先生さぁ、小春にはなんか優しくない?」
「そりゃあな。北山はお前らと違って、数学がんばってたし」
「あっ、成績で生徒の扱いに差をつけるなんてー、この不良教師!」

 そんな会話をしてるうちに、先生方を職員室に集める放送が入った。悟は最後にぽんぽんと、小春の頭を二回叩いてから校舎の方へ戻って行った。

「じゃあな、また後で」

 じっと悟の背中を見送る小春の脇を、同級生たちが交互につつく。

「やっぱにっしー先生、小春に優しい気がする」
「小春、先生のことすごい追っかけてたもんねえ。こりゃ、情が移ったか?」

 同級生たちに肩を抱かれるようにして教室に入った後も、小春の涙はなかなか止まらなかった。

(やっぱり……先生とこのまま終わりだなんていやだな……)

 卒業を機に、諦めた方がいいのかもしれないと悩んだことは何度もある。けれども、そんな簡単に終わらせられる恋ならとっくに諦めていたと思う。
 式が終わったら告白して、なんとしても先生の個人的な連絡先を聞き出そう。
 小春は、密かにそう決意を固めて卒業式にのぞんだ。
 けれども――悟は最後のホームルームを終えた後、こつ然と姿を消してしまった。
 そしてそのまま彼は、『諸事情により』という納得のいかない大人の都合で、二度と小春や他の生徒たちの前に現れることはなかった。



   1


「よし、こんなもんかな」

 姿見の前でスーツ姿をチェックしてから、小春は小さく頷いた。それに合わせて、肩のすぐ上で切りそろえたセミロングの髪が揺れる。
 白いシフォン素材のブラウスに、身体にフィットした紺色のスーツ。高価ではないけれど、それなりにきちんとして見える万能品だ。これなら、不意打ちで誰かに会っても恥ずかしくない。

(まあ、誰かっていうか……悟先生なんだけどさ……)

 自嘲じちょう気味に笑い、小春は玄関に向かいパンプスに足を入れた。
 高校三年間、大好きだった西岡悟先生。
 彼がその後どうしているのか、卒業して四年経った今でも所在はまったくわからない。
 母校を何度も訪れ、悟の消息を知っているらしい副担任の西川を問い詰めたが、「もう教師でもない人の連絡先を勝手に教えられるか」と門前払いをくらっている。
「いつか悟先生と、偶然街中まちなかで会う日が来るかもしれない」なんて妄想を性懲しょうこりもなく繰り広げているけれど……そんなドラマみたいなシチュエーションが起こったためしは今まで一度もなかった。
 この春、小春は無事社会人となった。
 大学を卒業して就職した会社は、大手通信販売会社タンタンライフの本社だ。
 三ヶ月の新人研修を無事に終えて小春が配属された部署は、第一志望だった商品開発部。
 毎日が、新しく覚えることの連続で余裕なんてまったくない。けれど、やりがいはあった。
 就職に合わせて引っ越した1DKのマンション。大学の時から一人暮らしはしていたけれど、学生と社会人とでは生活のペースが随分違う。
 就職したばかりの頃は、部屋は散らかり放題で自炊もほとんどできなかったけれど、ようやく生活にも慣れ家事もこなせるようになってきた。
 傍目はためから見れば、充実した社会人一年目を送れていると思う。
 けれど慌ただしい日々にまぎれて少しずつ悟のことを思い出す頻度が減ってきた。その事実に、どこか寂しさと言いようのない焦りを感じる。
 マンションの外に出た小春は、ふと澄み切った青空を見上げた。
 ――悟先生に、もう一度会いたい。
 そう強く願い続けていたら、いつか神様はこの願いを叶えてくれるだろうか。
 馬鹿みたいだと思いつつも、小春は半ば本気でそう思っていた。


「おはよう、北山ちゃん」

 会社のエントランスに入ると、後ろからぽんっと肩を叩かれた。
 振り向くと、同じ商品開発部の先輩・鎌田かまたがにこやかに微笑んでいる。茶色の巻き髪がエレガントに揺れる、雑誌に出てくる今風OLそのもののような人だ。
 ベージュの半袖ニットに、同じくベージュのタイトスカートを合わせた彼女は、とてもおしゃれでまぶしく見える。
 目鼻立ちも上品で美人な鎌田だが、性格はさっぱりとしていて男っぽいところもあり、実に頼りになる先輩なのだ。

「おはようございます、鎌田さん」

 小春が笑顔で挨拶あいさつすると、鎌田は周囲をうかがいつつこそっとささやいてきた。

「今日、緊急で全社員出席の朝礼があるみたいよ。さっき業務用のスマホに連絡が入ってた」
「へえ……何があったんですかね?」

 呑気に答えた小春に、鎌田は眉間にしわを寄せて言う。

「やだ、知らないの? 北山ちゃん。うちの会社の合併話」
「あ、そっか! え、じゃあ……決まったんですね?」

 小春たちの勤めるタンタンライフは、通販業界の中では老舗しにせであり大手でもある。けれど、ここ数年はネット専門の通販サイトに押されて経営があまり上手うまくいっていなかったらしい。
 未だカタログ販売に固執する上層部の考えは、古すぎると陰でもしきりにささやかれている。
 このままでは経営も悪化していくだろう……と言われていた最中、複数の企業から合併という名の買収話が出ていると噂が聞こえてきた。
 経営が悪化していようとも通販業界では老舗しにせの会社だ。ネームバリューは相当なもので、それを欲しいと思う企業があるのも頷ける。
 この買収の話を、若手社員はどちらかというと好意的に受け取っているフシがあった。だが、入社したばかりの小春はそう楽観的でもいられない。

「リストラとか……やっぱり、あるんですかね……?」
「そうねえ。うちの会社、このビルだけじゃなくてセンターとか支社とか色々と分散してるじゃない? もし買収されたら、経営立て直しのために、そういうところから手をつけるかもしれないから、結果的に社員の数が減ることはあるかもね……」
「どうしよう、めちゃくちゃ不安です……」

 せっかくやりがいのある仕事ができる会社に就職したのに、こんな短期間でクビになったらたまらない。

「何言ってんの。私たちみたいな若手社員は大丈夫よ。今や、若手の労働力は貴重なんだから」

 あっけらかんと言い放った鎌田に感嘆した。そもそも商品開発部のホープと言われる彼女なら、リストラの心配など皆無だろう。

「元気出しなさい、北山ちゃん。あなたなら大丈夫よ」

 そう言って、鎌田は力強く微笑み小春の肩を叩く。

「そうでしょうかねえ……」

 小春はため息を吐きつつ、颯爽さっそうと歩く鎌田に続いて商品開発部のあるフロアへと足を踏み入れた。


 鎌田の言う通り、出社早々、社員に朝礼参加のお達しがあった。
 それからすぐに、契約社員や派遣社員も含めた社員全員が、大フロアに集められる。ある種、異様な雰囲気だ。

「合併の話、どうやらまとまったらしいな」
「大丈夫かなあ、うちの会社」
「このまま古臭い上の連中が仕切ってるよりは、ずっといいんじゃない?」

 ざわざわと周囲が話しているのを、小春は不安な面持おももちで聞いていた。
 鎌田は大丈夫と言ってくれたが、いざこうして社員全員が集められると心配になる。
 タンタンライフに就職したことを、一番喜んでくれたのは古くからこの会社の通販を愛用していた母だった。子供の頃からカタログを見ていたから、という安易な理由で受けた会社ではあったけれど、仕事内容はとても興味深かった。最近ようやく仕事の流れをつかめてきて、楽しくなってきたところだったのに。

(できればずっと、この会社でがんばりたいな……)

 自分と会社の行く末を思って暗くなっていた時、大フロアのドアが開いた。たちまち周囲の私語がぴたりとやむ。入室してきたのは、社長を筆頭とした上層部の面々だ。
 高齢の社長は硬い表情のまま壇上に上がると、おもむろに口を開く。

「えー……本日、全社員の皆さんに集まっていただいたのは……」

 入社式でも思ったが、覇気はきもやる気もない話し方だ。要点のぼけたつかみ所のない話を延々えんえんと聞かされているうちに、会社の一大事だというのについ眠気が襲ってくる。

「……要するに、会社は合併ではなく買収されたってことですかね?」

 ちっとも要領を得ない社長の話に限界が来た小春は、隣の鎌田に小声で話しかけた。すると、彼女は軽く肩をすくめて頷く。

「そうみたいね。全役員の退任を要求されてるんだから。でも社員の待遇は保証してくれるみたいだから、とりあえず私たちは安心していいと思う」
「そっか。よかった……とか言ったらだめですよね」
「いいんじゃない? ひとまずは」

 鎌田が口角を上げわずかに微笑んだのを見て、小春の胸に安堵が広がった。上層部の方々には申し訳ないけれど、この会社で変わらず働けるのは素直に嬉しい。
 ほっとすると同時に、今日の業務が気になり始める。
 確か、午前のうちに業者へ素材確認の電話を入れるよう鎌田に指示されていたはずだ。

(自分の席に戻ったら、すぐに業者に電話をかけなきゃ……)

 朝礼はいつ終わるのかとそわそわしていると、社長の長い話がようやく終わって社員たちからぱらぱらと拍手が沸き起こった。なんで拍手? と首をひねった小春に、これが社長として社員の前でする最後の挨拶あいさつだからでしょ、と鎌田がささやく。

「それよりもさ……さっき買収先の社長の画像をネットで見ちゃったんだけど」
「え?」

 心なしか、鎌田の目がキラキラと輝いている。

「だから、IT企業大手のインハートウエストの社長よ! 超イケメン! たぶん、今日来てるんじゃない?」
「はあ……そうなんですか」

 タンタンライフの合併には数社が名乗りを上げていたそうだが、ほぼ決まりかけていたのを新進気鋭のIT会社が最後にひっくり返したという話だった。

(インハートウエスト……っていうと、確かスマホのアプリとかゲームで最近すごく注目されてる会社だよね)

 企業の名前にうとい小春でも知っているくらい、有名な会社だ。
 しかし目をギラつかせる鎌田とは裏腹に、周りの男性社員たちの反応はどことなく冷たい。

「IT企業だってよ。大丈夫なのかぁ? 通販事業に手ぇ出して、他の大手サイトとか海外勢に対抗するつもりなのかな」
「無理だろ。できるわけないって」
「IT企業の社長ってだけで、胡散臭うさんくささ半端ないよな」

 少なからず嫉妬もまじっていそうなささやき声に、小春は心底どうでもよくなり天井を見上げた。

「えー、それでは正式発表前ではありますが、先方のたっての希望もあり……本日は次期社長となられる、インハートウエストの西大路にしおおじ社長においでいただいております」
「にしおおじ……なんだか、いかにも由緒正しそうな苗字ですね」
「西大路って名前、聞いたことない? ほら、デパートとか銀行とかあるでしょう。その西大路家の血筋らしいわよ、インハートウエストの社長って」
「えー、すご……ってことは、御曹司ですか?」
「直系ではないらしいけどね」

 鎌田がこんなにワクワクしているのも珍しい。よっぽど素敵な人なんだろうな……と思って小春が大フロアのドアに目をやると、そこから誰かが姿を現すところだった。

「きたきた!」

 袖を引っ張られ、鎌田と一緒になって入り口に注目する。
 気難しそうな眼鏡の男を従え、長身の男性がフロアに入ってくる。その男性を見て、小春の目がまん丸になった。

「え……」

 ぽかんと開けた唇から、間抜けな声がれる。

「ほらほら、超かっこよくない? あれがインハートウエストの社長、西大路悟よ!」
「にしおおじ……さとる……?」

 身体が固まって動かない。ただただ、ゆっくりとした足取りで壇上に上がる男性を見つめる。

「皆さん、初めまして。インハートウエスト社長の西大路悟と申します」

 うちの社長の挨拶あいさつとは打って変わり、ハキハキとしていて聞き取りやすい、低い声。だらけていた場が、ぴしっと引き締まる。
 小春はこの声を、ずっと前から知っていた。
 自信に満ちた表情で壇上から社員を見渡しているのは――小春がずっとがれてきた高校の担任教師、西岡悟その人だった。

「この度、我がインハートウエスト社はさらなる事業の拡大を目指し、通販業界大手のタンタンライフさんと、手を組ませていただくことになりました」
(え、西大路悟って……どういうこと? 西岡じゃないの?)

 突然のことに頭がついていかない。何度目を擦っても、壇上にいるのは間違いなく悟だ。

(他人の空似ってことは……ないよね。だって名前も同じだし)

 教師だった頃から他の先生たちとセンスが違うと思っていたけれど、目の前にいる悟はそれ以上だ。チャコールグレーの細身のスーツに、真っ白いワイシャツと鮮やかなブルーのネクタイ。さすがはIT企業の社長、それら全てが上質で高級そうに見える。

(悟先生……本当に?)

 夢だろうかとパチパチまばたきを繰り返してみたけれど、壇上にいる彼は消えない。ただその姿は、小春が知っている悟の姿とは随分違う。

「どうしたのよ、ぼーっとしちゃって。さては北山ちゃん、新社長があまりにかっこいいから見とれてるな?」

 鎌田に脇をつつかれ、小春は無意識に頷く。

「はい。かっこいいです、すごく」
「へ?」

 素直に認めた小春の顔を、鎌田が怪訝けげんそうにのぞき込む。
 だって、知っているのだ。あの人がどれだけかっこよくて素敵な人かってことを、自分はもうずっとずっと前から――

(も、もしかして!)

 悟は教師を辞めた後、結婚してしまったのかもしれない。西大路の令嬢の婿養子に入ったとか――
 その可能性を考えただけで、泣きそうになる。

「鎌田さんっ!」
「え、何!?」

 突然、すがりつくように腕をつかんできた小春に、鎌田が身体をこわばらせる。

「あの社長……本当に西大路の御曹司ですか? 西大路のご令嬢と結婚した婿養子とかじゃなくて……?」
「は? いきなり何言ってるの? ていうか、どこから出てきたの、その発想は」

 鎌田は急に取り乱した小春にドン引きしつつも、一応答えてくれる。

「ネットで調べた限りだけど……結婚はしてないわよ。ただインハートウエストの社長になる前は、まったく違う仕事をしてたみたいだけど」
「違う仕事……」

 その時、大フロアを盛大な拍手が包んだ。
 いつの間にか悟の挨拶あいさつは終了していて、彼は四方へ頭を下げて壇上から下りるところだった。

「西大路社長はご多忙のため、本日はこれで失礼させていただきます」

 マイクを受け取った社員の言葉に、ハッとする。
 今後の経営方針がどうなるのかわからないが、社長なんて本来簡単に会える相手じゃない。現に小春は、入社式以来、社長の姿を見たことがなかった。
 このチャンスを逃せば、また悟を見失ってしまう。
 悟が出て行ったのとほぼ同時に、小春も後ろ側のドアへ走った。

「え、どうしたの北山ちゃん!?」
「ちょっとトイレです! お腹、お腹痛くてっ」

 周囲の人が笑いながら道を空けてくれるのをいいことに、小春は勢いよくドアから廊下へ飛び出す。
 廊下に出ると、男性一人を従えた悟の後ろ姿が見えた。
 あの姿を、ずっと追いかけてきたのだ。見間違うことなんて絶対にない。

「先生!」

 その瞬間、悟の肩が小春にもはっきりわかるくらい、大きく揺れた。ゆっくりと振り向いた悟が、小春の姿を見つけて目を見開く。

「北山……か?」
「悟先生……」

 言いたいこと、聞きたいことがたくさんある。駆け寄ろうとした小春の前に、悟のかたわらに立つ眼鏡の男性が立ちふさがった。銀縁眼鏡の奥の冷たい視線にひるみ、小春の足が止まる。

「社長、この方は」

 悟は眼鏡の男性の問いかけに何も言わず、ひたいに手を当て深い息を吐いた。

(あ、この姿は高校時代に何度も見た……)

 なつかしさに胸を震わせる小春の前で、彼はすぐに表情をキリリとしたものに戻し、くるりと背を向ける。

「待って、先生っ」

 すがるように悟の背中に手を伸ばすと、銀縁眼鏡の男性に手首をつかまれる。

「社長はお忙しいんだ」
「や、どいてください! 待って、先生!」

 ここで逃してたまるかとばかりに再び大声で呼びかけると、悟は面倒くさそうにこちらを振り向いた。

「俺は、先生ではない」

 その言葉の冷たい響きに、小春の身体がこわばる。

「……おい、その手を離せ。パワハラで訴えられたらどうする」

 悟の言葉に男性が無言で小春から手を離した。

「先生……」

 再び前を向いた悟の背中にもう一度声をかけたが、彼は振り向くことなく足早に去ってしまった。
 眼鏡の男性がすぐその後を追い、小春は彼らの姿が見えなくなるまでじっと見つめ続けるしかなかった。
 これまで何度も、悟との偶然の再会を夢見てきた。
 だけど、こんな冷たい再会なんてあんまりだ。ずっと会いたいと思ってきたのに、現実は何十パターンも妄想していた再会のシチュエーションとあまりに違いすぎた。
 再会を喜ぶ間もなく現実に打ちのめされ、途方に暮れる。だがその数秒後、小春は唇を噛みしめて顔を上げた。

「……あったまきた。何が『俺は、先生ではない』よ」

 卒業式の日のホームルーム。生徒たちの前で、俺はいつまでもお前たちの先生だ――などと言ったのは、どこのどいつだ。それならこっちだって、もう生徒でなんていてやらない。

「こうなったら、何がなんでも先生を落としてやる……! 乙女の三年間……いや、七年間の想いをめんなよ!」

 いまさら大フロアに戻る気にもなれず、小春は誰もいない廊下をトイレに向かって歩きながら、両方のこぶしをきつくきつく握りしめた。


 異例の朝礼の後、各部署のあるフロアにはどこか落ち着かない雰囲気がただよっていた。
 そんな中、小春は溜まっている仕事を一心不乱に片付けていく。
 これからについて、考えたいことがたくさんある。そのためには、なんとしても昼休みまでに、自分が抱えている作業を終えてしまいたかった。

「どうするー? お昼、気分転換に外に出ようか?」

 部署のみんながぞろぞろと退室していく中、小春は一人デスクに残った。

「北山ちゃん? ランチ行かないの?」
「あ、今日はそこでパンを買ったので」

 いつもランチは外に出ることが多いのだが、今日は移動販売のパン屋からパンを買い込んできた。そうしてまで昼休みに社内に残るのには、もちろん理由がある。
 人もまばらになったフロアのデスクで、小春はパンにかじりつきながら、バッグから自分のスマートフォンを取り出しネット検索を始めた。
 検索するワードは、もちろん『西大路悟』だ。
 今の時代、なんでもネットで情報が探せる。早速『西大路悟』で検索をしてみると、膨大な量の情報が引っかかった。
 西大路家というのは、大手デパートや銀行などを幅広く手がける大グループの創業者一族で、どうやら悟はその縁者らしい。一族の直系ではないようだが、それでも充分にすごい。


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