狼の憂鬱 With Trouble

鉾田 ほこ

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7章

1 放浪1

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 大学のベンチを後にしてから、シロウはあてもなくとぼとぼと街を彷徨っていた。
 こんなことになるとわかっていたら、自分の借りた部屋の鍵を持ってくるんだったと、ほぼ手ぶらで出てきたことを後悔する。

 気づけばいつのまにか大通りまで歩いてきていた。
 大学の敷地を出る頃に傾いていた夕陽はもうすっかり地平線近くまで落ちている。
 夕暮れの繁華街を行き交う人々は思い思いに楽しそうだ。シロウはその様子を少し羨ましげに眺めた。

 日が暮れると一層肌寒く感じる。だが、寒く感じるのは薄着のせいだけではないような気がした。
 朝まで一緒だったリアムの温もりが既に恋しい。
 自分は誰かに寄りそうような生き方をしてこなかったのに……。他人と線を引き、踏み込ませないように一人で生きてこられたではないか。
 仮初の優しさと温もりを未練がましく思っている自分に驚き、頭を振ってその考えを振り払おうとした。
 

──わからない。
 この感情は好きという心から生まれてきたものなのか……。メイトという本能から生まれたものなのか……。どこまでが自分の本当の気持ちなのかがシロウにもわからなかった。
 本当なら、なんてことのない、特に秀でたところがあるわけでも、容姿が格別にいいわけでもない凡庸な人になんて、リアムは気づきもしないし、振り向きもしないしはずだろうと思う。

 人狼はメイトを選べない。

 それはつまり、本当に好きじゃ無くても、抗えない本能が相手を好意的に魅せているだけの、まやかしの感情なんじゃないか。
 本来なら、リアムはもっと素敵な人を選べるのに、狼の本能がメイトという幻想の好意を抱かせているだけで、もっと彼に相応しい人がいるのではないかとシロウは思った。
 一人になって考えたいと目的もなく、ただ道なりに歩いていたが、結局いつまで経ってもリアムのことが頭から離れない。


──埒が開かないな……。

 堂々巡りの思考から少しでも気を逸らそうと街の様子に気を向けた瞬間、普段の何十倍もの街の喧騒が耳に聴こえ、思わず両手で耳を塞いだ。


──なにがおこった?!


 先程までいた、人もまばらで木々の匂いに溢れていた大学敷地内の静かさとは打って変わって、いつの間にか辿りついていた目貫通りには人々の往来が多くにぎわっていた。

 車のクラクションの音、行き交う人の話し声。

 街の中は音に溢れかえっている。周りから聴こえてくるさまざまな音が嵐のごとくシロウの鼓膜と脳を襲う。

 街の雑音と人熱に酔い、シロウは感覚のコントロールを失って最早パニック寸前だった。
 音の嵐に耳を塞ぎ、混乱に目を回していると、次は街のあちこちの臭いが気になって仕方がなくなる。
 通りすがりの女性の香水がきつすぎて、鼻が曲がりそうだ。そうかと思ったら、今度は隣のレストランの中から匂ってくる食べ物の匂いが鼻の真下に置かれているくらいに強く感じられた。

 街にあふれるいろいろな匂いがごちゃ混ぜになって、嗅覚に襲来する。そのあまりの気持ち悪さに眩暈がする。

(気持ち悪い……)

 片方の耳を手で塞ぎ、もう片方の手で鼻と口を覆う。
 だが、そんなものではまるで防げそうに無い。
 ふらふらと歩いていると前から歩いてきた人がどんとぶつかり、「前見て歩きやがれ!」と罵声を浴びせられた。

 常軌を逸した感度の嗅覚と聴覚は全くシロウの制御を受け付けず、それぞれの器官が猛烈な勢いでシロウへ襲い掛かる。
 シロウは完全にパニックへ陥った。

 よろけるように道の端へと移動するとそのまま蹲りそうになる。
 だが、こんな往来で蹲るわけにはいかないと必死に吐き気と眩暈を押し留めようとするが、コントロールを失った体はうまく言うことを聞かない。
 すると、今度は突然、視界がモノクロになり、街灯や店の光が目を刺した。

「うぁあ!」

 思わず漏れた大声に自分でも驚く。通り過ぎる人々が薬物中毒者でも見るかの如き目で怪訝そうに横目で眺めては、関わりたくないと避けるようにすれ違う。

 そんな周囲に気を取られる余裕もなく、目を瞬かせていると、今度は口の中がむずむずして、犬歯が少し、ずずっと伸びる。

 背中がぞわぞわする感覚にいよいよ何かがおかしいと大通りから、街灯の灯らない薄暗い小道へ駆け入るとシロウはとうとう蹲って立ち上がれ無くなった。


 どうしたらいいかわからない。
 暗く人気がない路地裏で目と耳は少し落ち着いたものの、饐えた匂いが鼻を刺す。
 目を開けると明かりのない暗い道がモノクロの視界ではっきりと輪郭が映し出される。

 
 恐怖と混乱でコントロールを失った身体はなぜか狼に変身しようとしていた。
 全身に熱を感じ、背骨が軋むのを感じる。 
 こんなところで狼に変身してしまったら、今以上に最悪な事態に陥ることは必至だと、頭では理解できたが、どしても自制を失った変化の兆しを自分で抑えることができない。

──駄目だ!駄目だ!!

 心の中で叫ぶがなす術なく、シロウの身体は少しずつ狼へと変わり始めていた。

「ぁ……あぁ……」

 絶望に小さく喘ぐと、背骨が音を立て、全身が軋み、次の瞬間にはシロウは狼へと変身してした。
 完全に狼に変身してしまったショックと混乱から、眩暈がしてくる。

 「くぅーん…」とひと鳴きして、シロウは意識を失った。


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