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4.第二王子アニア①
しおりを挟むアッシュが自分のテントに戻ったのは、夜もだいぶ更けた頃だ。
足早にテントの奥に進むと、小さな盲目の老婆と、同じく小さな聾の老人がアッシュを出迎えた。
今回の戦争が始まった頃、兵士たちの遺体の前にずっと佇み、動こうとしなかった二人に、アッシュが声をかけたのが出会いだった。死んだ兵士の中に家族がいたのだろうと思ったアッシュは、二人を自分のテントに連れて行き、そのまま住まわせた。
老人はババといい、老婆はジジといった。ババは生まれながらの聾ではないので話ができるという。
アッシュは、二人と出会った当初は夫婦だと思ったが、そのうち双子ではないかと思うようになった。それくらいババとジジはよく似ていたのだ。
二人の年齢はいまだに分からない。ウトージャで宮廷専属になる以前は、市中でヒーラーとして多くの老人を見てきたアッシュだが、そのアッシュをしても、二人の年は分からなかった。当初、年を問うたアッシュに、ジジは「かわいい女性に年なんて聞くもんじゃないよ」と言われて聞くのを断念した。深く刻まれた皺から、90は超えているのではないかと当たりをつけているものの、時折、驚くほど俊敏な動きを見せられると、いやもしかして60代なのかと思ったりするアッシュだ。
いずれにせよ、それから二人はずっとアッシュといる。
「おまえさんに助けてもらった命だからね。おまえさんに仕えるさ」。
これがジジとババの口癖だ。
一緒に生活をしてみると、ババは優れた薬師で、ジジは香を自在に使うヒーラーだと分かり、アッシュを驚かせた。そこで彼はすぐさま将軍に二人を会わせ、その場で二人はアッシュと同様、国軍専属の身分を得た。
以来、ババの薬で多くの兵は命をつなぎ、ジジは戦地で発狂しそうな兵の興奮を抑え、不眠を癒すなど、二人の貢献は計り知れない。
「落ち着いとるよ。香を変えてウッドピアにしてみたんだ。それが効いたようだね」
「ありがとう、ジジ」
「落ち着いとるよ。ラタの芽を煎じて口から少しづつ飲ませた。それが効いたようだ」
「ありがとう、ババ」
「さあて、あたしらは眠る。あとは頼んだ」
「さあて、おれらは眠る。あとは頼んだ」
ババとジジが部屋から出ると、アッシュは寝台に近づき、そっと手を取る。大事な手。アッシュの命。この命あるかぎり、アッシュは生きていける。
「アニア、ただいま」
アッシュはウトージャの第二王子アニアに語りかける。
「今日も忙しかった。明後日にはジネアが処刑される。あなたを苦しめたジネアが…」
目覚めないアニアに、毎夜、アッシュは語り掛ける。アッシュは、もう半月、ベッドに寝ていない。アニアの横たわるベッドの脇の椅子がアッシュの定位置になっていた。それでもまったく辛くなかった。
アニアは優秀な王子だった。アニアこそが国王に相応しい器を持っていた。アニアしかいなかった。なのに側妃腹だというだけで、王妃から生まれた王太子と第三王子、そして王妃からも目の敵にされ、「愚王子」と喧伝されて、半ば幽閉されていた。
尊大で選民思想に凝り固まり、王家の血筋は神の血筋と本気で信じる誇大妄想に取りつかれた狂人4人が仕切るウトージャ王宮は、異常な世界だった。
王太子に色目を使ったとして、侍女は鞭打ち300回のうえ親を殺された。臆病な侍女で頭をあげるタイミングがずれて、王太子の顔を見ただけだったのに。
生真面目な侍従は、第三王子に狼藉を働いたとして、腕を切り落とされた。怠惰な第三王子に起床を促しただけだったのに。
宮廷専属ヒーラーになどなるんじゃなかった。そんなことを思っていた頃、王宮でアニアに会った。このころアニアにはまだ少し自由があったのだ。
その日、王妃の肌荒れの治癒という、バカげた理由で王宮に呼ばれたアッシュは、それを終えると、顔には出さすに嘆息した。
そのまま王宮近くに賜った自宅に戻ろうかと思ったが、気分を変えたくて庭園に足を向けた。この庭園だけが唯一、王宮内でアッシュが寛げる場所だ。良く晴れた日だった。ウトージャの夏の日差しは強く、夏の晴れた日は、王に王妃、そして二人の王子は日焼けを恐れて外に出ないことを知っているアッシュは、庭園端のガゼボを目指した。
心置きなく緑を堪能し、遠めにガゼボが見えた時、アッシュは足を止めた。
先客がいたのだ。侍従を連れていないので、王家の人間とは思えない。しかしこの王宮の奥まで近づける貴族がいるとも思えなかった。これは近づかぬ方が得策。そう頭ではアッシュは分かっていた。
しかし、遠くから見ても、ガゼボで本を読む若い男は美しく、目が離せない。第三王子のように華美で派手な美しさではない。内側からにじみ出るような温かさをもった上質な綿のよう。そのうえ、王太子のように傲慢さが顔に出ているわけではないのに、威風堂々とした佇まいがあった。
その男はアッシュを見ずに「とって食ったりしない」といった。アッシュがいることを分かっているのだ。アッシュが恐る恐る近づくと、男が顔をあげ、立ち上がった。
背はアッシュよりずっと高く、銀色の髪に碧眼だ。この碧眼は王家のものだ。男は「やっと会えた。そなたが専属ヒーラーのアッシュであろう」といった。
その瞬間、アッシュは彼こそがいまだ見えたことのない第二王子アニアだと知る。「愚王子」、「暗愚王子」と蔑まれているアニアは、その噂が瞬時にデマだと分かるほど、眼差しから聡明さが、五体からは心映えの良さがにじみ出ていた。そして優秀なアッシュは、「愚王子」という風評は、王妃と王太子たちが流したに違いないと察した。
「何を読んでおられるのか?」
思わずアッシュは聞いた。
「古の賢人、ロクスの政治論」
アニアは本を手にしてそう答えた。
「我が国の方針とはまるで逆の政治論」
これは皮肉だろう。
「座ろう」
アニアに勧められて、彼の向かい側の椅子に座った。治癒以外で、これほど王族に近づいたことはない。
「…いろいろと苦労をかけていると聞く」
我儘で自己主張の強い4人の王族の傍にはイエスマンしかいないと思ったが、存外にまともな人物がいるのか、そう思ったアッシュに「…自分を殺さなければ、ここでは生きられない。そういう者はどこかにはけ口を持つ。それは酒場であったり、娼館だったり。そういう場所で漏れる評価が真実なのだろう」と、アニアは言った。
まさかアニアが娼館に行くのかと目を見開くと、「私を慕う家臣は少なからずいる。もっとも私の傍にいるというだけで出世は見込めないが…。それでもいるんだ。彼らはいろいろな情報源を持っているからね」と、アッシュの思考の先を読んだ。
穏やかな声だった。
静かな男だった。
とても王太子や第三王子と血のつながりがあるとは思えない。
「母はガルシュの出で、とても美しくて頭の良い女性でね。…その頭の良さと容姿が仇となり、王に目を付けられ、無理やり側妃にさせられた。母は私を産んでから遠い離宮に一緒に暮らし、最低限の侍女と侍従しかいなくて、食事も質素だったが、あの時が一番幸せだった」
アニアは本の表紙を見ながら、独り言のようにいう。アッシュは黙っている。
「ある日、突然、王妃が離宮にやってきた。私は母から引き離され、そのまま王城に。それっきり母とは会っていない。おそらく…生きてはいないだろう」
悲しい出来事を感情を表に出さずに話す。これは訓練して習得したものだ。そうしなければ生きていけなかったのだろうと、アッシュは思った。
それから―。
二人は夏のよく晴れた日、燦燦と日差しが降る日中に庭園のガゼボで会うようになった。会うほどにアニアへの思慕は膨れ、これは恋だとアッシュが自覚したのは、初めて会ってから、それほど経ていない頃だ。
ウトージャの夏は晴れの日が多い。朝起きて、まず天気を確認するのがアッシュの日課になり、晴れだと分かると気分が上がるのがアッシュの日常になった。
夏が永遠に続けばいい。太陽がずっと出ていればいい。
そんなことを本気で夢想するほど、アッシュの恋心は募っていく。それが自分の一方的な思いでも良かった。同性愛者を嫌悪するこの国で、ましてやいくら人柄がよくとも、相手は王族。自分の思いをアニアに告げるなどという大それたことをアッシュは望んでいなかった。
孤児で親の顔を知らないアッシュは施生院で育った。生まれた時から何も持っていなかったアッシュが、初めて手にした生きる希望。自らの恋心よりも、アニアの方がはるかに大事。アニアがいればアッシュは生きていける。それは恋心より、もっと深くアッシュの心魂に刻まれた。
それで、少し浮かれていたのかもしれない。
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